2008年11月27日木曜日

食べて


女になりたい
女に生まれたかった
昼のうちに掃除をすませ
皿を洗い夕げをつくり
洗濯物を取り込んで
あの人の帰りを待つ
ベッドではたくさん愛してあげるの
綺麗な身体で
疲れた今日一日を
私が慰めてあげるの

誰かの愛人になりたい
売春婦もいい
真っ赤なドレスを着て
シャネルの香水をつける
私はいるだけで
私を必要とする
身体があるだけで
私は必要される
絶望的なほど
人の目が欲しい
燃え上がるビロードよう
火がつくように欲望して
貴方のお好きなままに
泡のあふれたバスタブで
震える指先で月を蹴る
好きなだけ楽しんだら
捨てるように帰って

私は思った
私は何も欲しくない
みんなが私を欲しがれば
私は何も欲しくない

愛なんて知らない
貴方なんて知らない
私しかいらない

蟻のように働く時間があったら
蝶のように化粧をしていたい

蟻に食べられてしまうために

私なんて何百の蟻に
黒々とした鉄のようにたかられて
もがれ、焼かれて

いなくなってしまえばいいのに






2008年11月11日火曜日

死なないルーシー


私はアンドロイド。 23世紀のロシアで踊り子を務めている
私は月に一度のメンテナンスで半永久的に稼動することが出来る。 

死ぬことはない。
眠ることもない。 

その代償として、自分が本当に起きているのか、生きているのかもよくわからない。 
もっとも、ロボットが生きているかどうかを気にするなんて妙な話だ。 

それでも愛する人はいる。 
劇場の下働きの老人、イワンだ。 
イワンは月に一度、満月の夜、私を裸にしてメンテナンスをする。
油圧を下げ、しわだらけの手で、シリコンからにじんだオイルを丁寧に拭く。 
もうこんなことがかれこれ8年も続いている。 


私に見える世界は、現実と幻がごちゃごちゃだ。 
眠らないアンドロイドは起きながらにして夢を見るからだ。

時折、イワンと踊る幻を見る。
どうしてこんな夢をみるのだろう。
ポールに映る自分の姿はひどく歪んでいる。

劇場は、床も天井も全てが鏡ばり。
無限の私が、じっと私を見つめて、私の目を回す。
もう何が過去で、何が今なのかもわからなくなった。


ふと気づくと、イワンが身体を拭いている。
真っ白のつきひかりが、鉄格子の窓から差し込んでいる。

そうしてまた気を失った。









2008年10月30日木曜日

『東大を動物園にしろ』


三島の『東大を動物園にしろ』って文章が、とてもいいから、いくらか抜粋してメモ。


「ぼくは反革命なんだ、絶対に反革命で押し通すつもりだからね。見ておいでよ、いまに反革命が一番カッコよくなるから。反がつきゃ、なんでもカッコいいんだからいまファッションとして革命をえらんでいる連中、そのときになって先をこされたと口惜しがるだろうさ」

「だいたいいま革命だ革命だっていってる連中、命を懸けてないよ。新宿騒動のとき、ぼくは武器がどうエスカレートしているかを見に行ったんだ。エスカレートしてなかったね。竹槍すら出ていない。遠くから機動隊へ投石したり、電車のガラス割ったり、あんなことならおれにだってできる。あぶなくなったら逃げちまえばいいんだからね。何が革命だという感じだな。一種の自己欺瞞だよ。(中略)

命を賭けるなら一生に一度という古い考えがあるけれども、彼らのやってることと言えば、テントウムシの群のようにヘルメットの軍を集めてワイワイガヤガヤ、電車のガラスを割って『革命です、命賭けです』といったって誰が信じるものかね。革命は殺すか殺されるか、どちらかだよ。(中略)

要は度胸がねえんだよ。一人でやる度胸がねえんだ。」



「しかしきみ、革命っていうのは、今日よりも明日を優先させる考え方だろう。ぼくは未来とか明日とかいう考え、みんな嫌いなんだ。(中略)

未来社会を信ずるやつはみんなひとつの考えに陥る。未来のためなら現在の成熟は犠牲にしたっていい、いや、むしろそれが正義だ、という考えだ。(中略)

未来社会を信じないやつこそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないという生活をしているやつが何人いるか。現在ただいましかないというのが文化の本当の形で、そこにしか文化の最終的な形はないと思う。

小説家にとっては今日書く一行が、てめえの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして今日書く一行に力がこもるかね。(中略)未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。



三島のいうことには未来のイメージがないなんていわれる。
馬鹿言え、未来はおれに関係なくつくられてゆくさ。」





2008年10月8日水曜日

気が狂ってるか?狂ってるってどういうことか知ってるか?

なあおまえ、おまえはおれのことをキチガイだっていう。すぐに変態だとか頭がおかしいといっておれのやってることを賞賛する。そんなに変態がすきか。そんなにキチガイが嬉しいか。おまえには本当に、変態とか、頭がおかしいといわれる人種が、どういう人たちだかわかっているのか。変態が、格好いいとか、ロックスターだとかいう脳みそがタリン野郎はどこのどいつだ。おまえは、変態の何も見ていない。本当の変態がどんなものか何もわかっちゃいない。あたかも気が狂ったかのようにみせたり、変態のようにふるまった普通の人間を、なんだか流行かなにかのようにただ漫然と受け入れているだけだ。なあ、おまえ、そんなに変態だとか、キチガイが好きだって言うのなら、おまえに本物の変態がどういうものか教えてやるよ。おれの言うことは全部嘘さ。なぜかって?本当のことはゴミクズ同然で、これっぽっちも価値のないからだ。おれの本当なんて、本当にゴミクズほどの価値もないからだ。今、一度だけ本当のことを見せてやるよ。おまえは見なけりゃよかったと思うだろう。そうして作り物のキチガイで、興奮するままでよかったと思うだろう。しかしこれはおまえが望んだことじゃないか。どうだ、これがぼくの真実さ。勇気のあるやつだけが目をそむけるな。本当のことなんてこれっぽっちも価値がない。何もないのさ。何もない。本当のおまえなんてなにもない。本当のおれもなにもない。文学にもロックンロールにも何もない。おれが、今、一度だけ、本当のことを話してやる。おれという中心がこんなにくだらないものだったのかと、おまえは呆然とするだろう。変態とか、キチガイとか、頭がおかしいとか、そんなものおまえはわかったふりをしてるだけで



おめえには一生わかんねえよタコ

























ぼくは小学校のころ、いじめられっこでした。
幼稚園のころ、東京から静岡に引っ越してきて、いじめがはじまりました。一年生のころから、高学年になるまで、いじめはどんどんエスカレートし、教科書が捨てられたり、上履きはしょっちゅうなくなったし、机や持ち物は『バカ』や『くさい』、『(ぼくの名前)菌』など、ひどい落書きだらけでした。ぼくは最初、本当に悲しくていつも音楽室の前にある階段の下で隠れて泣いていました。

そのうち、ぼくはぼくをいじめる人たちを、なぜかだんだん崇拝するようになりました。多分そう思い込むしかなかったからなのだと思います。きっとあの人たちがぼくをいじめるのは、ぼくよりずっとえらいからなんだ、クラスメート全員、いや、みんなぼくよりずっと高貴で素晴らしい人に違いないんだと思うようになりました。そしてぼくは最低の蛆虫に違いないんだ、だからいじめられても仕方が無いんだと自分を納得させるようになりました。

高学年になるとぼくは、水泳の授業を仮病でよく休んで、女子更衣室に忍び込み、クラスの友達のパンツの匂いをかくようになりました。ぼくをいじめていた中心グループの子のパンツの匂いを初めてかいだときは本当に心臓が壊れるかとおもいました。あの、とても高貴な方のアソコの匂いを、蛆虫にも等しいぼくがかがせていただくだなんて、本当に恐れ多いことだと思いました。笑っちゃうような話ですが、そのときぼくはその子のパンツの匂いをかいで、ありがたさのあまりひとりで泣いてしまっていました。そして、排泄器官としてとらえるならばある意味人間の最も穢れた器官「性器」の汚れを、人間の最も清い飲食の器官、「くち」で嬉々として掃除している自分に、ものすごく興奮を覚えたんです。ぼくはクラスメートのパンツを舌で掃除しながら、漠然とクラスの女子全員の排泄器官としての性器を、くちで掃除したいなぁと思うようになりました。


そういう風に思うようになってから、ぼくが学校の女子トイレに侵入するようになるまで、大して時間はかかりませんでした。女子トイレに侵入すれば、思う存分にクラスメートたちが使った便器をなめて、女子の排泄物を口で掃除できるのです。運がいい日は、排泄物が流されてないまま放置されているのを発見することができました。そんなときは、こころから神様に感謝をして、全てを口ですすりとりました。大が放置されていることも似三度ありましたが、さすがにこれは一口しか食べれませんでした。せっかく女子の排泄物を食べることができるという大変ありがたいチャンスにもかかわらず、食べれなかったということが残してくれた女子に大変申し訳なかったと、ものすごく申し訳ない思いをしたのを覚えています。

この当時、ぼくには、朝はやく小学校にきて、女子トイレに侵入し、まずピンク色の便所サンダルの足があたる部分を綺麗になめ、つぎにサンダルの足の裏を綺麗に舌掃除し、次に洋式便器の便座の裏にこびりついた女子の尿をなめとり、便器の陶器のふちをなめ、次に和式便器のふちをなめとり、ゆかをなめ、おちてた陰毛を持ち主に感謝しながら食べ、最後に最も汚れている金隠しの裏の部分にこびりついた便器の黄ばみ、尿石を歯でこそげとって食べてから授業にでるのが日課になっていました。放課後には必ず下駄箱に行き、今日一日女子が履いた上履きの香りをできるかぎり全員分かぐようにしていました。(それは自分に課したノルマでした。)


このころになると、女子に対してはいじめられることがむしろ快感に感じられるようになり、学校に行くのも楽しくなってきていました。また、更衣室侵入も頻繁化し、(なぜバレなかったのか未だに不思議です、あるいはやはりばれていたのでしょうか)クラスの女子全員のパンツの匂いを一度はかいでおり、一部の女子のものは匂いと味だけで誰のパンツかを区別できるようにまでなっていました。(ちなみに、上履きはパンツよりはるかに誰のものかを判別するのは困難でした。)

それでも、やはりいじめはとてもつらいものだったので、ぼくは受験をして、東京の中学校に逃げることにしました。

東京の中学に入って、前ほどいじめられなくはなりましたが、ぼくの性癖は弱くなるどころかむしろ更に強くなりました。ただし、ぼくの入った東京の学校は男子校でした。そこで、ぼくは公衆トイレの女子便に侵入するようになりました。

とくにぼくのお気に入りの公衆トイレの女子便は、駅の女子便と駅ビルの、若者向け婦人服売り場の女子トイレでした。駅の女子便は、地元の駅の利用者はそんなに多くなくて侵入しやすく、本当に汚くて、とくに夏はものすごい悪臭を放っていたためお気に入りでした。また、駅ビルの女子便は、これもまた本館から少しはなれた場所にあって男子トイレの入口の真横が女子トイレの入口で、しかも入口が少し離れただけですぐに死角になるので大変侵入しやすく、しかもなぜかかなり利用のされ方も汚く、また、若い女性向けのフロアなので、若い女性ばかりが使用した便器をなめることができるという点でお気に入りでした。中学二年ごろまでぼくは女子トイレに何度も侵入しては便器をの汚れをなめとり、すぐドアの向こうで女子高生らしき声が談笑するのを聴きながらオナニーをして射精していました。なぜか見つかったことは一度もありませんでした。本当に不思議なことですが。。。

しかしながら、中三の最後あたりのころ、となりの個室のひとに怪しまれドアをどんどん叩かれるという大変やばい事件があり、それ以来急激に怖くなり女子トイレに侵入できなくなりました。しかしぼくにとって女子トイレで便器をなめるというのは、小学校からの日課ですから、本当に生活の一部になってしまっているし、簡単にやめられませんでした。それに、侵入しなくなって本当にびっくりしたことなのですが、1週間もすると、禁断症状のようなものがでてくるのです。本当に女子トイレのことしか考えることができなくなり、頭がくらくらする。小学校から日課のようにやってきたことですから、確かにそれもそうなのかもしれないのですが、どうやらぼくの身体がまるで排泄物を栄養素としてもとめているみたいなのです。ぼくの身体は、もうすでに女性の排泄物を最低1週間に一回は摂取しないと、体調がわるくなるほどになっていたのです。これはものすごくショックでしたが、同時に自分自身で、ものすごく興奮しました。もうぼくは一生女性の排泄物がないと生きていけない便所虫としていきていかなければならないんだと、ショックのあまり寝込みながら、狂ったようにオナニーをしていました。
そういえば、ぼくは普通の性欲の方も相当強いらしく、今でも休日は一日10回くらいはオナニーをしたりします。平日は3~4回で、よっぽどのことがない限り必ず
毎日しています。その点もぼくの異常さに拍車をかけていたのかもしれません。単にいじめられてマゾになったぐらいでは普通、ここまではならないように思います。


とにかく、簡単に女子トイレには侵入できなくなったので、そこでぼくは妥協案として男女共用便所をなめるようになりました。男性の排泄物をなめるのは本当にいやでしたが、禁断症状まで出ているのですから、本当に瀬に腹はかえられないという感じでした。できるだけ女性の尿があたる、洋式の手前のふちの部分のみをなめるようにしました。しかしそれは本当に嫌な気分のするものでした。

そこでぼくが発見したのが、女子トイレでよく見かけた汚物入れでした。汚物入れは、何が入っているのかは、なんとなく前々から察していましたが、ぼくの目当ては便器のよごれの方だし、とくにそこまで興味をもってはいませんでした。しかし今、女子トイレに入ることが出来ず純粋な女性の排泄物を楽しめなくなったぼくに、唯一手に入れることができる純粋な女性の塊は、使用済みの生理用品なのでした。そのことにきづいたぼくはすぐに汚物入れをあさり、使用済みのナプキンを開きました。中にはレバーのようになっただれのものかわからない女性の経血がどさっとついていて、ものすごい生臭さと、ずっしり重かったのをおぼえています。ぼくは興奮のあまり右手でオナニーをしつつ、必死で経血にむしゃぶりつきました。

それからというもの、ぼくは大喜びでコンビニやファーストフードの汚物入れをあさりまくりました。とくにファーストフードは、若い客が多いので、手に入れられる使用済み生理用品はぼくにとって大変上質なものでした。どこのどんな女性がつけていたのかわからない使用済みの生理用品をしゃぶり、匂うという最低の行為をしているという自覚に、ものすごく興奮させられました。ぼくはしばらくは使用済み生理用品に夢中になりました。色々な楽しみ方をしました、、お湯に2、3本タンポンを入れて真っ赤な経血ティーをつくって飲んだりもしました。(知らない女性三人の性器からでたカスを同時にミックスして飲んでいるのだから、ぼくにはものすごい贅沢です。)しかしやはりそのうち怖くなりました。世の中にはエイズや性病というものがあるのですから。便器をなめている分には腹を壊すだけですが、使用済み生理用品を舐めるのは命にかかわります。一時期の熱気がさめると、ぼくはすぐに誰のものかわからない場合は匂いをかぐだけにとどめるようになりました。

ぼくはまた、女性の排泄物を摂取することができなくなり、禁断症状がおそうようになりました。高校のころは、まるで禁煙でもするかのように、できるだけ回数を減らして女子トイレに忍び込む、共用便所をなめるようにする、使用済み生理用品のにおいだけにとどめておく、ということの繰り返しでした。


自分の性癖をかえるということも色々試みました。

例えば、身体中に卑猥な落書きをしてコートだけはおって綺麗な店員さんの本屋にいってみる、エロ本屋で700円で買ったローターを性器にガムテープで貼り付けて駅ビルの婦人服売り場をうろついてみる、綺麗な店員さんのいるコンビニでエロ本、こんにゃく、生理用品、コンドームをいっしょに買ってみる(そしてそのあとトイレをお借りしてオナニーをする)、アナルに色々つっこんでみる、知らない番号に電話をかけて女性がでたら自分の性癖を告白する(当時、PHSにかけると6割くらいの確立で女子高生らしき相手が電話をとった)など、、、


しかしやはり女子トイレの便器を超える興奮をえられるものは存在しなかったのでした。

実際この当時のぼくは女性の排泄物に相当飢えていました。友達と女子高の学園祭にいったときはふと友達とはぐれたタイミングで教室に入り、そこにあった黒ずんで汚れたゴミ箱(単なるゴミ箱です!汚物入れとかではありません!)をべろべろなめたりしていました。普段女子高生だけが使っているゴミ箱なら、ぜひともなめたいと思ったのです。そのときはゴミ箱の下にたまっていた、飲料や食べ物などがこぼれた生ゴミの汁も飲みほしました。

フラストレーションは溜まる一方でした。



ちなみに、ぼくは中高と男子校でしたが、おかげでめったに女性と話す機会がありませんでした。そのことが、ぼくの中で女性に対する神聖視をいっそう強めたのだと思います。もはやぼくにとって女性は神様と同等でした。

また、高校のころにはぼくはいじめられなくなっていました。身長も175センチ近くまで伸び、体格はスリムな方で、わりとおしゃれに気を使ったりして、また、音楽もギターをひいたりするようになっていたので、クラスではわりとそれなりの立場になっていました。
いじめで受けた心の傷は未だに消えませんし、未だにやつらを見返したい一心で毎日をがんばってるという側面はありますが、それにしても高校のころには、いじめのことはぼくのなかでは一応整理がついた問題でした。

そんな中で、ぼくは本当に半年に一回話すか話さないかの女性の相手の前ではちょっとクールなやつ、のような顔をしてものすごく格好をつけながら、一方ではこの女性にひれふして今すぐ顔を踏んでいただきたい、そして今までの日々の全てを告白してしまいたいと思うという日々を続けていました。

どうしても女性と話したかったぼくは、友達の合コンにつれていってもらったりしては、(と、いっても高校生同士の合コンですから、いっしょにカラオケいったりする程度なのですが、)かっこをつけていました。カラオケでは出来るだけクールそうに椅子にすわって足を組み、クールに吸えないタバコをふかす(今でも全然すえません。)、それで『あ、おれJ-POPとか全然わかんねぇから。』、というかんじです。そんなかんじですから、女の子のほうも声をかけづらいし、それにぼくは家の門限が早く、7時あたりには帰らなければならなくなり、結局合コンいつも、なんの進展もなくおわっていました。

そのうち合コンを主催していた友人達は、彼女をつくりはじめ、童貞をすてたものもちらほら出てくるようになり、ぼくはあせるようになりました。なんで彼らと同じようにしてるのに、おれだけ童貞なんだ?今から考えれば、セックスというのは、自分が一人の女性を愛した、ただの結果にしか過ぎないなんてことは完全にわかりきっていることなのですが、当時のぼくはまだ愛するということをまるで分かっておらず、単に童貞を捨てたやつはえらい、それだけしか思っていませんでした。

女子トイレのことも含め、ぼくはきっと女性のことを人間と思っていなかったのだと思います。神か何かだと、思っていたんだと思います。

本当は女性だって、人間なのに。。
人間だから、愛せるのに。。
そのことがわかるまで、ぼくにはまだしばらく時間がかかりました。


ともあれ、童貞をなかなか捨てられなかったぼくは、だんだんと童貞であることにコンプレックスを感じるようになっていきました。




大学に入ると、門限はなくなり、また、うちの大学は女子の比率が非常に高く、すぐに女友達がたくさん出来ました。最初は話すのすらかなり緊張しましたが、すぐになれるようになりました。また、大学のトイレは警備が非常にゆるく、また日常的に女子トイレに侵入し、(それも自分の友達をふくむ女子大生だけが使用するという、ぼくにとっては大変好条件のトイレです)便器をなめることができるようになりました。


ただ、童貞だけはまだ捨てることは出来ずいました。

インターネットのエロサイトやAVには、毎日のように違う女性とセックスをしまくる男性が出てきます。それを毎日のように見ていると、だんだん感覚が麻痺してきて、未だに童貞でいる自分が劣った人間であるかのように思えてきます。

ぼくはそのうち、羨ましいという思いを超えて、色んな女性とセックスをしまくる男性のペニスを崇拝するようになりました。

そして、たくましい、何十人、百人もの女性を快楽に導いた男性のペニスをしゃぶらせていただきたい、と思うようになりました。


そのうちぼくはインターネットのゲイサイトで男性のペニスをしゃぶり、少しのお小遣いをもらうようになりました。募集を掲示板にのせると、すぐにお客さんがついて、週2くらいで色々な男性のペニスをしゃぶることができるようになりました。ぼくは固定客ではなく、できるだけいろいろな男性のペニスをしゃぶらせてもらおうと思いました。現在までで、50人くらいのペニスをしゃぶったと思います。

お金を払っているという気持ちがそうさせるのか、ぼくのことをまるでトイレのように使う男性は少なくありませんでした。ゲイの男性はそういう人が多いのかわかりませんが、ほとんどの方がペニスを洗わずに臭いのするペニスをぼくにしゃぶらせました。一目見て分かるほどのカスがついているひともいました。いつも口の中にはすっぱい味と香りが広がりました。

そのうち、ぼくもそれが好きになり、今ではぼくにとって男性のペニスの恥垢や精液も、女性の排泄物と同様、しばらく摂取しないと禁断症状がでるほどのものになりました。


ぼくが男性のペニスをしゃぶってもらったお金で、インターネットのサイトで女性を募集し、尿やツバを飲ませてもらうようになるのには、そんなに時間はかかりませんでした。これは画期的なアイディアでした。男性のペニスをしゃぶってもらったお金で女性の尿を飲ませてもらえるのです。

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大学四年のころね、ぼくを飼っていた女王様が、ぼくにいったんだ。
「キミはマイケルジャクソンみたいになるしかないじゃない。キミはねえ、ロックスターにならなかったら、誰も認めてくれないわよ。誰もこんな気持ち悪い人間、相手にするわけないでしょう。あなたは一人ぼっちよ。あなたは孤独の中で死んでいくの。だからキミはどんな思いをしたって、絶対にロックスターになりなさい。生きなさい。そうして、生きられなかった人を救いなさい。さあ、私のもとから飛び去って、思う存分に飛びなさい。」そういって彼女は悲しそうに笑った。

そうしてぼくは彼女はいなくなった。

ぼくはマイケルジャクソンになりたい。なにがなんでもマイケルジャクソンになりたい。どうしてもロックスターになりたい。変態なんかになりたくない。ぼくは変態じゃない。キチガイじゃない。ぼくは普通の人間だ。ぼくはここに生きているんだ。彼女も普通の人間だ。彼女はあそこに生きているんだ。頭がおかしいんじゃない。なんで腕をきらなきゃいけないんだ。なんで睡眠薬をのまなくちゃならかなかったんだ。なんであんなにつらい思いをしなければならないんだ。ぼくは彼女を救うんだ。ぼくは世界を救うんだ。みんなぼくを馬鹿にするだろう。それでもぼくは世界を救うんだ。この世界は、天国にならなくちゃならないんだ。悲しいことも苦しいことも、貴族も乞食も労働者も資本家も、キリスト教徒もイスラム教徒もテロリストもこの世界の支配者も、みんな手をつないでハッピーエンドをむかえなくちゃならないんだ。だれがおかしいなんてことはない。彼女は頭がおかしいんじゃない。


おいMおまえ、言ってみろ、おれはカルトスターかそれともロックスターか?おれはカルトスターかロックスターなのか?おれはキチガイか?変態か?おれは人間じゃないのか?おまえは永遠に過去に負けつづけるのか?おれはマイケルジャクソンになりたい。マイケルジャクソンになれば、顔を上げて道を歩くことができる。

おいK、言ってみろおまえ、キリストはおれたちを笑ってんのか?それとも本当に世界を救うつもりなのか?あいつらは馬鹿なのか?それともおれたちよりずっと大人な連中なのか??おい、おまえはアイドルか?アイドルになって百人を殺すのか?百人を愛するのか?そうしておまえは最期に笑うのか?やっぱり愛だったって言って笑うのか???


おいS、おまえは死神か?おれがひとりで殺しあってるのをみて感じてるのか?いつかおれがぼろぼろになって倒れたとき、最期に首をしめて息の根をとめるのは笑い顔のおまえか?そうしておれの死体とセックスして、完全になろうって言うのか?おれはピエロか。おまえは死神か。世界は天国か。それとも人の国か。どうしておれはあいつとわかれなければならなかった?どうしておまえはあいつと別れなければならなかった?どうして人は別れ続けなければならないんだ?どうしてみんな仲良く手をつなぐことができないんだ?どうしてみんなみんな幸せに、ハッピーエンドを迎えることができないんだ?


ぼくは弱くない。ぼくは強い。ぼくはだれよりも強い。ぼくは弱さがきらいだ。何よりもきらいだ。ぼくは強かったら彼女とも彼とも別れないですんだ。もし彼が強かったら?神さまより強かったら?おい町田、誰より愛すべき友達よ。おまえが神さまよりも強かったら?おまえに力がありさえすれば?天国もこの世界も未来も塗り替える力があったとしたら?おい江戸原、おまえは苦悩だけが人生を燃やすガソリンだといったな?おまえのガソリンはそれっぽっちなのか?おまえのカルマはそれでおしまいか?おれはいつまでたっても燃え尽きないぞ。おれは絶対に燃え尽きない。おれは死んでも燃え尽きないぞ。百年後も二百年後も、消し忘れた仏壇の蝋燭みたいに燃え続けてやる。

H、おまえの血は自分の悲鳴を殺すのか?おれがおれのおれにおまえのおまえをおまえだらけにして血まみれじゃないかいつだって。誰かおれを止めろ誰かおれを殺せ誰か世界が終わりに近づいてるぞおまえの世界がおわりになるぞ

おい誰でもいいから答えろ、おれはロックスターか?それともカルトスターか?それともただの変態か?

高校のころ、ぼくはギターもひけないし歌もへたくそで、誰もバンドを組んでくれなかった。ぼくは一度だって自分のストーリーの主人公になったことはなかった。ぼくのお話にはいつだって父さんが大きな影をひそめていて、、、、父さんは怖かった。ぼくは父さんに一度でも認めてもらえたら、すぐにだって悲鳴をやめたっていいと思ってる。ぼくは過去を殺したくて殺したくてギターを叩きつけるのだけれど、過去はぼくを縛り付けるばかりで一度だってぼくを自由にしない。自由は一番ほしいものだけど、それを手にするには力が要る。力は求めたものだけに与えられる。真実なんてどうでもいい。ぼくは力がほしい。ぼくは誰よりも強くなりたい。神さまよりも強くなりたい。そうして、今日からはみな自由だと叫ぶのだ!

何もない何もない何もないぼくには何もない力も時間も勇気も愛も。

だからぼくは作ろう。自分を、何もない世界に。ひとりで作ろう。貴方を作ろう。神さまをつくろう。つくられた神はぼくを許すだろう。つくられた天国はぼくを救うだろう。


おいN、たった一度でいいから答えろ。革命は世界を救うのか。それともおまえを救うのか?答えろ。人の力は世界を変えるのか?おれは太陽に飲み込まれた人間の、何もない何もない何もないこの世界に、神さまと自分がたったふたりの、愛も悲しみもないこの世界に、なんのために生まれてきた?おまえはなんのために生まれてきた?世界がかわったら、人間は救われるのか?答えろ中尾、おまえは一番頭のいい人間だろう、なあ頼むから答えてくれ、答えろよ、人は人を変えることができるのか?答えろったら。




おい神さま、答えろ、たった一度でいいから。貴方はぼくを許しますか。許しますかってきいてるんだよ。何百人もの人を痛み、傷つけ、殺して生きているぼくに、生きる資格はあるのか。あるのかよ。ぼくは傷つけ、殺したものと共に滅び行くことが正しいのか。これはぼくの罪に貴方が与えた罰だろうか。



真っ赤な薔薇を彼女にあげた。花はなぐさめだろうか。気休めみたいなものだろうか。ぼくの血はこのくらいに赤いだろうか。ぼくの血は、あなたの中をかけめぐるのか。貴方はぼくが生きてると認めてくれるだろうか。ぼくの血は、永遠に生き続けることができるのだろうか。なあおまえ、ぼくは冗談で書いてるんじゃないんだ。書かなきゃマジで死んじまうから書いてるんだよ。ぼくは愛してるよ君の事を。数百人がみてるけどぼくは全然恥ずかしくない。初めてあったとき、君はぼくに鎮魂歌をきかせた。やっぱり君は死神か。ぼくはやがていずれ誰かに殺されるだろうか。それでもぼくの歌は、せめて歌だけは、誰かの慰めになるのだろうか。それならぼくは本望だ。花は慰め?それでも嘘じゃない。絶対に嘘じゃない。あの美しさだけは嘘じゃない。この愛が嘘だとしてもそれだけは絶対に嘘じゃない。おい町田、羽根なんてなくていいじゃないか。負けと決まった人生だ。サヨナラなんて覚悟の上さ。愛か?おまえの色でこの世界をバラ色に染めろよ。おい松本、おまえは本当に、知らないといわれても、誰も恨まないのか。おい、悪いけどおまえ絶対に神に許されねえぞ。キリストはおまえのことを許さないぞ。おまえがどれだけ世界を愛すといったって、世界は絶対におまえのことを、やがて殺すのさ。でも、そこまでしても、ぼくはこの世界に残りたかった。おまえは生きていくのか。この、神のものでもなく人のものでもない世界に。

こんなにも強く、弱いものを許さないぼくが、はじめて君の胸にふれたとき、はじめて世界は展開して美しい星を見せた。太陽の下で眠れ、神の元で眠れ、正義の元で眠れ、罪と憎悪と絶望のもとで眠れ、それでもぼくは手を握る、足を曲げる、目を動かす、希望の歌を歌う、ロックスター、ロックスター、ロックスター、ぼくはロックスター、やがてロックスター、死ぬまでロックスター、死んでもロックスター、ぼくはヒーロー、世界を救うヒーロー、神さまを倒してみんなを救うヒーロー、答えろヒーロー、答えろロックスター、おれはロックスター、王国をつくるロックスター、天国はロックスター、ぼくはロックスター、君もロックスター、ロックスター、ロックスター、ロックスター、ロックスター、ロックスター、ロックスター、 生きろこの世界 、夢はこの世界 、絶望もこの世界 、愛もこの世界 、
おれは正気じゃないのというのか 、いいやおまえが笑いかけたからだ 、なああんた、あんたに聞いている。名指しじゃなくて今この日記を読んでいるあなただよ。貴方が一瞬でも信じるなら、ぼくは貴方のために死ぬまで歌い続けよう。これが何もない世界、愛のない世界、ロックスターのいない世界、でも、なぜだか絶望だけじゃない世界 、









2008年10月1日水曜日


ああどうしてぼくは嘘ばかり書いてしまうんだろう。ぼくは天才でも変態でもなんでもないし、ぼくは自分で言うほどダメな人間でもなんでもないのだ。ぼくは普通の人間だ。何のおもしろみもない、ごく普通の、平平凡凡な人間だ。それなのにぼくは、ロックスターやら大文豪やらにあこがれて、涙目になって彼らの真似をしてみせるのだ。ぼくはお酒なんて飲みたくない。ぼくはもっと平凡な人間だ。ぼくはきっとロックスターになんてなれっこないのだ。デビットボウイみたいな顔もしてなければ、太宰のような文才もない。それでもぼくは、滑稽な化粧をしてへたくそな小説を書き、必死に自分では稼ぐまいとし、必死に酒を飲んで、やりたくもない女たちとセックスをして、どうだぼくはロックスターだと、血を吐き涙を流して言ってみせるのだ。魂が泣いてるんだよ。全部嘘さ。全部本当だ。それでもぼくは、どれだけ惨めな思いをしても、どうしてもロックスターになりたかった。でも本当は、ぼくは天才でもロックスターでもなんでもなくて、ただの気が弱いいじめられっ子だ。寂しがりやのいじめられっ子は、みんなの気が引きたくて、でも引きかたがわかんなくて、だからぼくは壊すしかないのだ。死神がぼくの右肩にその手をかけている。ぼくは魂を失う代償に、この世界と愛を与えてもらった。ぼくなんていない。どこにもいない。ぼくは愛だ。全部だ。そして全部嘘だ。ぼくは寂しい。男女構わず何十人とセックスしても、さみしい。ぼくは君に触れたい。でもぼくはどうしてもその一言が言えないのだ。恥ずかしくて、たまらないのだ。それに君はぼくのことなんて…

ぼくは有名になりたい。有名になって、誰からも赦されたい。でなければ、ぼくは恥ずかしくて道も歩けないくらいだ。みんなぼくに怒っている。ぼくはどうしたらいい?赦されるには?有名になったら、きっとみんなわかってくれるだろう。ぼくを友達にしてくれるかもしれない。ぼくはみんなと友達になりたかった。でも、どうしたらいいのだろう。足を舐めればいいの?犬のふりをすればいい?ぼくは自分の顔が嫌いだ。いつも怯えた目をしてる。いつ怒られるんだろうと、ずっとびくびくしている。人を不快にさせまいと、いつも精一杯に笑っている。みんなぼくを必要としない。ぼくはひとりだ。なんでぼくは悲しくて仕方がないのだろう。ぼくはみんなと仲良くしたいのに、どうして人を差別するやつの方は何も苦しまずに、ぼくはこんなに悲しいのだろう。どうしてみんなみんな仲良く手を繋ぎたいと思う人ばかりが、いつも苦しくて仕方がないんだろう。みんな仲良くしたいのに、そうしてこの世界のみんなみんなが、全員幸せになるハッピーエンドがやってきたらいいのに。魂が血をこぼしているんだ。ぼくはロックスターになるんだ。ロックスターになったらきっと、ぼくはみんなみんなと仲良くできるんだ。だってぼくはロックスターなんだから!ぼくは歓喜と溢れんばかりの愛の中で大いなる大地にキスをする。神よ、貴方に魂を捧げます、その代償として、どうかぼくを赦してください。どうかぼくを叱らないでください。出ていけって言わないでください。ここにいても良いと言ってください。ぼくは普通だし、天才でもロックスターでもないけど、けれどもぼくは自分が罪人であり、許されない存在だということだけはよくわかっているつもりなのです。貴方がぼくを赦してくださらなかったら、ぼくは一生顔を上げて町を歩けないでしょう。みなぼくに石を投げるに違いないのです。ああ神よ、ぼくはぼくのことを忘れた人をゆるします。ぼくはぼくを裏切る人を許します。ぼくもぼくが愛する人もやがては死に、この世界からいなくなって、永遠に人々の記憶から忘れさられてしまうことを受け入れます。ああ神よ、貴方が許してくれるなら、ぼくはそれでも生きます。死ぬまで真面目に精一杯に生きます。ぼくはこの愛が、例え嘘でも、やがて跡形もなく消え去ってしまうものだとしても構いません。孤独よ、絶望よ、この世で最も高貴なる魂よ、ぼくを天国に連れ去ってくれ。ぼくは何も出来ない、歌うことも話すことも伝えることも、歩くことも描くことも笑うことも、憎しむことも夢見ることも愛することすらも、だからぼくは天国にいきたい。そうして君に赦しを乞うのだ。


「泣いてもいいかい?」
「なぜ泣くの」
「あまりに多くのことを忘れてしまったから」



そうしてぼくは、世の中全部全部の、忘れられてしまったもののために泣こうと思う。人間はやがてみな、忘れ去られるのだ。








2008年7月29日火曜日

友達の話


こんな男がいた。こんな男がいた、というのはフィクションだと思ってくれても、現実にいるのだと思ってくれても構わない。

ぼくの心のうちにいる彼の名前、仮にその名前をAとしよう。Aはぼくと同い年のバンドマンで、大学生である。大学生のバンドマンにありがちなことであるが、学校での成績は決して褒められたものではなく、何度か留年もして今もまだ大学に在籍している。顔立ちは大してよくもなく、性格は一言で言えばガサツである。付け加えて言えば鼻下からは常時二、三本の鼻毛がのぞいている。それから彼は生来のインドア派である。インドア派というのは、ひきこもりの極めて穏当な言い回しのことであった。彼はオタクで、とくにガンダム、エヴァンゲリオンを中心に日本アニメを深く愛しており、例えばフランス文学に幼いときから親しんできたとか、ボサノバとラテン音楽についていくらかの知識を擁しておるとか、そういう、いわゆる世間的に「好ましい」趣味とは程遠い文化に囲まれて青春時代を過ごしてきたように見える。で、そんなわけで彼は酔っ払うと、いくらバンドをやっていたとしたって、どうあっても自分はモテるようなタイプではないと、弁舌たくましく語りだすのであった。 

しかしAというのは本当にがさつでオタクで成績も悪く、本当にどうしようもない類の人間なのであるが、ぼくは彼のことが本当に好きであった。どうしてかと言うと、彼が心底孤独な人間だったからである。 

ある日、いくらか酔いのまわったAが二人きりの時に、突然こんな話をしたことがあった。
「なあ龍郎、おまえ、こりゃ実際本当に馬鹿みたいな話だが、どうかそう馬鹿にせず聞いてくれ。いや何、おまえそう姿勢を正して聞くような、大した話じゃない。実に皆目くだらない話さ。ああそうそうおまえ、よくありがちな、タブロイド誌の三文小説さ。その三文小説は、こういう月並みな書き出しで始まるんだ。昔々、あるところにひとりぼっちの少年がいました。どうだ、なかなか月並みなもんだろう。でな、この少年は、とあるクラスの女の子のことが好きだったんだ。この女の子は、そんなに美人てわけじゃないんだが、笑うと頬にえくぼができる、白くてちっちゃなとてもかわいらしい子で、少年はこのえくぼがたまらなく好きだった。教室ではいつも目立たず、ひとりでいることが多かった。かといってまるで友達がいないってわけでもなく、いつも何人かのグループを構成して、お弁当を一緒に食べていた。少年にとって、女の子は『心のお姫様』ってやつだった。 

で、少年はこのお姫様に気に入られようと、色々なことをする。でも少年は、大して顔もいいわけじゃないし、体操だってクラスのガキ大将の連中のように自由自在、ってわけでもないから、うまく女の子に自分のことをアピールできないんだな。ま、思春期の中学生にありがちなことだがな。それにしたってこの少年は人間関係の全てにおいてあまりに不器用で、人に自分の感情を表すのが滅法苦手と来てる。で、あんまり苦手だからうちにこもって朝方までどうしようもない深夜アニメばっかり見てる。あるいはもう大分前に兄貴が使わなくなったクラシックギターを、よくわけもわからないのにぽろぽろと自己流で弾いて、なんとか精神の安定を保ってる。都会から遥か離れた人口二、三百のさびれた田舎町で、ザーメン臭い童貞中学生が、今にもパンク寸前てわけだ。ははあやっぱり、どこまで言っても三文小説だな。だがな、月並みもここまで来ると、どれだけ才能のない作家か、試してみたくもなるってもんじゃないか。 

でな、この三文小説家はやっぱりここから、その月並みな伝統手法をしっかり守って、急展開を始めるんだ。なんてったってびっくりすることだがな、この少年が甘酸っぱい恋心を寄せているこのお姫様が、不治の病で突然入院しちまうっていう展開さ。な、本当に安っぽい、今時ありがちの、高校生が書いたケータイ小説みたいな話だろう?なあ龍郎、そんなにつまらなそうな顔をすることはないんだ。もう少しおれの話をきけよ。 

少年はな、 恥ずかしくて恥ずかしくてたまらんかったのだが、勇気を出してお見舞いに行くんだ。何をお土産にもっていくべきか大層迷ったんだがな、そりゃメロンでもなんでも、お見舞いにはお見舞いらしいものってのがあるもんだ。ところがこの少年ときたら(なあ龍郎、人間てのはときに、究極的に恥ずかしくて何がなんだかわからないくらいになっていると、あえて最も恥ずかしいと思われる選択肢を、わざわざ自分からとりにいくっていうことが、間違いなくあるものなんだぞ。)何を血迷ったか、さんざん悩みあぐねた挙句、真っ赤な薔薇を一輪だけ、駅前の花屋で購入したっていうじゃないか。看護婦にも、学ランを着たニキビだらけの中学生が、真っ赤な薔薇を一輪だけ持って、えらく緊張した面持ちで、がくがく震えながら真っ赤な顔をして汗だくでやってきたってもんだから、人目もはばからずにくすくす笑われるって始末さ。もう、少年は恥ずかしさのあまり、今にも薔薇を投げ飛ばして、ワッと逃げ出したいってくらいなものなんだ。少年にだって、アニメオタクでひきこもりの自分が、薔薇の花の一輪もって歩く姿の、まるでさまにならないことぐらいはよくよく自分で承知していたんだからな。でもなあ、そう簡単に逃げるわけにもいかないんだよ。なんたって、彼のたったひとりの大切なお姫様が、この城のどこかにとらわれたまま、たったひとりで不治の病と闘い続けているっていうんだからな。それに比べたらこの少年のかく恥なんて……そう思えば文句ひとつ言えるわけもないってわけなのさ。なにはともあれそんなわけで、彼は真っ青になって震えながら、看護婦どもにげらげらと笑われて、病室への階段を上っていったって言うのさ。 

しかしな、彼の大切なお姫様はこんな恥ずかしい少年のプレゼントにも、思いのほか並々ならぬ好意を示してくれたらしい。実のところ少年とお姫様は今まで学校でほとんど口をきいたことすらなかったというんだが、(少年は極度の恥ずかしがりやだったから、直接的なアプローチはほとんどできずにいたんだな)まあお姫様の方も、何がなんだかわからないうちに突然意味わかんない不治の病なんかに犯されちまって、大分心細くなってたんだろうよ。それに、全くひどい話だが、彼女が病気になって、そりゃあ最初はたくさんの同級生やら学校のお友達やらがお見舞いに来てくれていたんだが、一月、二月とたつごとに、来客の数も減っていって、今では彼女に見舞いに来る奴なんて、家族のほかに、ほとんど誰もいなくなっちまっていたっていうんだ。信じられるかい?突然意味のわからない不治の病なんかに犯されて、それでひとりひとり友達は減っていき、最期にはたったひとりで、誰にも知られずにさびれた病室の片隅でこっそりと死んでいくなんてことが。でも、このなにもしらないかわいいお姫様には、本当にそんなことがおこったって言うのさ! 

それで、この奇妙な来客にも、彼女は替えようもない大きな安心感をもらったんだな。で、なんとも嬉しそうに、その真っ赤な薔薇をグラスに挿したり、それから少年が果物ナイフを取り出して、丁寧に冷蔵庫に転がってた青りんごをむいてあげたりなんてことをしているうちに、ふたりの間には真正なる友情が芽生え始めることができて、やがて仕舞いには、また明日も必ず来るって、固い約束を交わしたくらいだった。かわいらしくゆびきりなんか交わしちゃってな。それも三度もだぞ。 

で、それから毎日のようにお姫様のところに、少年はお見舞いに行くようになったんだ。真っ赤な薔薇は馬鹿みたいだからやめたらしいんだが、それでもメロンを買うような余裕は中学生の彼にはどこにもなかったから、土産には道端に生えていたタンポポをひっこぬいたり、妹の育てていた牡丹を秘密で拝借してきたりしてな。時にはお隣さんの百合を黙って切ってきちゃったりしたこともあったりしたらしいが、そのたびに彼のお姫様は大喜びで、枯れちゃったやつも決して捨てようとはしないで、綺麗にゴムで束ね、病室の窓際の壁に画鋲でとめて次々とドライフラワーにしていったんだという。これがまたとても華やかで、医者や看護婦たちも大変おもしろがり、しばらくの間病院中で、ドライフラワーが大いにはやったという小噺つきさ。 

そんなわけで、毎日毎日違う花を一輪ずつ持ってくる変わった中学生くんは、病院でも今やちょっとした有名人になっていた。初めは彼のことを笑っていた看護婦たちも、次第にこの熱心な中学生に敬意に似た関心を図るようになってきて、時には『これをふたりでお食べなさい』なんて言って、缶コーヒーやらバームクーヘンやら(ナースステーションてのは大概そんなものが有り余ってるんだよ)をよこしてきたりしたんだという。中学生の方も礼儀正しく『ありがとうございます』って馬鹿丁寧にお辞儀するもんだから、あらま、なんていい子なのかしらってなわけで、やがて中学生くんはこの病院の名物見舞い人になっていったのさ。 

ところがある晩、いつものように少年が花を一輪握り締めて病室に行くと、今日はお姫様の様子がおかしい。なんだか白い顔をして、いくらおもしろい話をしてやろうとしても、無理に笑っているように見える。少年は不思議に思ったんだが、まあなんだか長い病院生活の中には、いくらかおもしろくないこともあるに違いあるまいなどと思って、そんなに深く気にもとめなかった。まあ、この少年もなんだか油断してたんだろうな。本当のことを言えば、今だっていつだって彼女はたった一人で不治の病と闘っているんだって言うのに、彼女はそんな様子はおくびにも出そうとしなかったし、いつも高らかなかわいた笑い声を、小さな花だらけの病室にころころ響かせていたって言うんだからね、だからこの少年が、いつ死ぬともしれない重病人を目の前にして、こんな鈍感な反応しか示せなかったというのも、つくづく馬鹿みたいな話なんだけど、それでも決して現実味のない話ってわけでもないんだよ。少年はなんだか、この楽しくて幸せな日々が、わけなくすいすいと、永遠に続くような気がしてたんだな。いや、どう考えたってそんなわけがなくて、こいつは正真正銘の大馬鹿なんだがね。いや龍郎、この少年は本当にどうしようもない、馬鹿も馬鹿の大馬鹿だったんだよ。 

少年は何も考えずに帰ろうとした。じゃあ、といって席をたち、引き戸をあけようとしたときに、お姫様が『あ。』と言った。少年は笑いながら上機嫌な顔で振り返った。するとお姫様が顔をひきつらせながら笑っている。でも少年はどうしようもない馬鹿だからそのことにすら気づかない。不思議そうに『どうした?』と聞くだけだ。少しの沈黙があってから、お姫様は真っ青な顔で、『さみしい。』と言った。少年は少しだけ動揺したが、こんなことは前にも何度かあったので、また来るよ、と言って優しく微笑んだだけだった。そうして、彼女が震えながらこくり、こくりと二度頷いたのを見届けてから、きっと明日ね、といって静かに扉を閉じた。 

結局その晩にお姫様はころっと死んじまった。赤、黄、紫、少年が持ち込んだ、幾百もの色鮮やかな花々に囲まれていた。 

何はともあれ、町にひとつしかない、小さな葬儀場で、式は粛々と行われた。少年には彼女が死んじまったこと自体がまるで理解すらできなくって、雲ひとつない真夏の空の下で、ただぽけーっとして列に並んでいた。セーラー服に黒い腕章を着けた同級生の少女たちが、隣でぺちゃくちゃとおしゃべりを続けていた。やがて悲しくなったのだろうか、おしゃべりはやみ、彼女たちは人目も憚らずに大きな声を出して泣き始めた。途端に少年には、自分がここにいることが、大変場違いなように感じられてきた。そうして、なんだか今すぐにでもここから逃げ出したいというように思った。 

でも、それってなんだかおかしな話じゃないか。それってなんだかおかしな話だよ。だって、どうして少年の方が葬式から逃げ出さなくちゃいけないんだ?毎日彼女のお見舞いに行っていたのは、彼女たちではなく、少年の方なんだぜ。一度もお見舞いにすら来ようともせず、平気な顔をして葬列に並んでるのは連中の方なんじゃないか。なあ、おまえは、そう思わないか。だからやっぱり、これはおかしな話なんじゃないか。 

少年は、なんだか、自分と彼女が、この世界にたったふたりっきりで取り残されてしまったような気がした。世界中の全てのひとたちと、自分たちふたりが、どうやったって永遠に理解しあえないような気がして、そうして、永遠にふたりでおいてけぼりにされてしまったような気持ちがして、とてもとても悲しくなったんだ。 

少年は、この場所にいることが、最早一秒ですら、どうしても耐えられなくなってしまった。それでタイミングを見計らって、こっそりと棺に近づいて、人形みたいになった彼女の顔をのぞきこみ、やさしくその冷たい頬にふれた。それから、ポケットから枯れた薔薇の花びらを何枚か取り出し、静かにそれを差し込んで、彼女に別れをつげたんだ。少年は、式場の外に出て、駅に向かって駆け出した。そうして、たった七百円の持ち金で、電車にとびのったんだ。どこに行くかなんてこれっぽっちも決まっちゃいないが、それでも少年は、なんてったって絶体絶命に、誰も知らないどこか遠くにいかなくちゃあならなかったんだからな。そうさ、それだけは決まってた。夕焼けの赤が、車内を鮮やかに染めていた。ごとごとごとごととゆられながら、少年は腕組みをして、支離滅裂なことばかりを考え続けていた。どうして自分が生きているのか、どうして彼女はいなくなってしまったのか、どうして自分はここにいるのか、どうして自分はこんなにばかなのか。ぐるぐるぐるぐると、いくつもの考えは浮かんではあざ笑い、そうしてまたすぐに消えた。車窓から眺めるビルや家は、赤々とした光にいまにも溶け出してしまいそうで、少年はどうして世界は溶け出さずにいるのだろうと考えた。 

少年は完全に陽が落ちたのを確認すると、その次の駅で、全く無計画に電車をおりた。なあ、東京育ちのおまえにはわからんかもしれんが、さびれた田舎の星ってのはやたらに綺麗だ。明るくって、夜道を煌々と照らすくらいだ。少年はあたりに誰もいないのを確認すると、何食わぬ顔で柵をとびこえ、ひらけた外にでた。少年の耳元を生暖かい潮風が吹いた。海沿いの小さな町であった。道なりの遥か下の方に見える黒々とした海に向かって、少年はてくてくと機械的に歩いていった。海にはつき光が落ち、光の滴が楽しげに踊り続けていた。少年には何のあてもなかったが、少年には自由があった。」 

Aはつまらなそうな顔をして、静かにタバコを揉み消した。ぼくはあっけにとられて、口をあけたまま彼の話に聞き入っていた。窓の向こうでヤンキーのバイクが、けたたましく彼方へ走り去っていった。 

「まあ、なんだかんだいって所詮中坊の家出だからな。ひとりで子供が夜中にふらふらしてんのを黙ってみてる警察なんていないわけで、あっという間に家に連れ戻されちまったよ。そんなわけで二日家を空けた少年はうまれて始めて親父に本気で殴られたわけだ。けれど少年は思うんだよ。今までの何もなく平和な日々が本当だったのか、今日から生きていく自分が本当のことなのか、生きるっつうのは当たり前だが痛いんだからな。そうだ少年はその日からこの世界相手に、たったひとりで戦争を始めたんだ。世界の終わりさ。最終戦争さ。物語の終わりは、少年の壮絶なる戦死で初めから決まってる。でもねえ、これって変な話だよな。まったく変な話なんだけどさ。でも、やっぱり、彼女が死んだから少年は生きることができたのさ。だって、誰も死ななかったとするならば、やっぱりそれは……みんな死んでるのとまるで同じことじゃないか! 

しばらくして少年は、人からのまた聞きで、生前お姫様が、少年がギター弾いている姿が格好いいとか友達に言っていたらしいということを知る。そう言えば少年は確かに、一度みんなの前で、へたくそな歌とギター演奏を披露したことがあったのだった。果たしてこの話が本当であるかに関しては、まるで確証がなかったのであるが、やがて少年は何かに取り憑かれたように、昼も夜もなく、指先を血豆だらけにしてギターを弾きまくるようになる。彼女に憑かれてたのか、自分に憑かれてたのか、はたまた生きるということに憑かれてたんだか、それはわからないのだがな、しかしな、龍郎よ」 

突然Aが顔を上げた。「なあに、三文小説さ。だけどな、この小説はこう締めくくられるんだ。『少年は、あのとき、世界中のどんな連中よりも、自分と彼女の方が絶対に正しかったんだってことを証明するためだけに、今もギターを持って歌ってる』ってな。なあ、ろくな小説じゃなかっただろう?」Aは真っ青な面をして、ぼくの目を真正面から直視した。その目は烈火のごとく燃え上がり、今までぼくが見たどんな眼よりも強く、激しい情念を宿していた。 

この話を聞いて以来、尚更ぼくは彼のことが大の大好きになった。








2008年7月4日金曜日

流れ出す血液


「目に見える世界の直下で得体の知れないものの巨大な動きがはじまった。それは、予想もつかぬ圧力と緊張のエネルギーをみなぎらせ、満ち干を繰り返す、灼熱した液体をなみなみとたたえた海であった。」(W.Erbt)

「打ちつける怒涛のように煙が噴出してきた。真っ黒い泥濘と泡と飛び散る土くれ、石や氷の塊からなる涙。うなりをあげて跳ぶ飛沫と、轟々たる爆発物のガスからなる竜巻と共に五重の死がやってくる。彼の目は大きく見開かれ、心臓は一斉に広がり、再び燃えながらはじけて縮み上がる。……神代、大地は融けてはじける泡の立つ粥かぬかるみに姿を変えてしまったのだろうか。爆発したガスと圧力と内部の溶岩流によって垂直に宙へと吹き上げられているのだろうか。それは汚物と吐瀉物からなる大洪水なのだろうか。」
(F.Schauwecker)

私たちは放出を必要とした。流れるもの、私の中に流れる熱を帯びたどろどろの粥状の血液が沸騰し、射出する先を求めて体内を循環した。身体から流れ出るとは、一体何が流れ出るのだろう。我々の身体には、一体何が流れているというのだろう。涎、涙、血液、精液、吐瀉物、糞便、これらを沸騰させ、流れ出すことを必要とする火鍋とは一体何なのだろうか。確かに、精液は射出されるべき粥状の血液そのものであった。ペニスというリボルバーから撃ちだされた沸騰する血液は、必ずや敵を見つけ出し殺戮することで満足する必要があった。どうしても敵がなければ自らを殺戮する。こうしてオナニズム(ナルシズム)とマゾヒズムの連帯が、自明のものとしてしてそこに生まれる。 

人間の身体に、ナイフを突き刺す時に得られる興奮と、同じくペニスを突き刺す時に得られる興奮は、言うまでもなく同様のものである。拷問や剣闘士の闘いは、常に上流貴族にとって最上級のポルノグラフィであった。そうして、恐らく他の生物種に見られぬ人という種のだけの異常な偏執狂的な行動の本源は全てこれだ。流れ出し、溶解させ、破滅する。(させる。)敵が、敵が必要だ。敵だけが私たちの血液を受け入れてくれるからだ。戦争と革命、これらは全て射精のためのものだ。流出する血液をこぼす受け皿だ。それらは全て、平和だの正義だのというよくわからぬ大義名分のために行われたのであるが、本当のところは射精がしたかっただけのことであった。平和だの正義だのというのは堂々たる射精の大義名分に過ぎぬ。平和な世界に住む私たちには射精の大義がない。敵を見つけることすらできなかった私たちは、オナニズムそしてマゾヒズムにだけ逃げ場を求めた。繰り返し行われる自らの手による血液の流出。行き場をなくして沸騰したそれは、自らに銃口を向けてまでも流出を求めたのだ。性器的な快楽と性的な快楽は異なるが、性的な快楽におけるオナニズム・マゾヒズムは、恐らく本来的なオナニズム・マゾヒズムのひとつの(最も手軽な)回路に過ぎない。オナニズム・マゾヒズムの本性は、性的な回路という目に見える氷山の下に、巨大な抑圧回路を持って潜んでいる。自らのオナニズムを笑うな。私たちの中に流れるどろどろの血液は、外から強くぎゅうとおされることで、圧力鍋の中の粥のように沸騰し、煮えたぎり、やがて爆発と放出を求めていた。貴方はそれを直視することを恐れた。直視すればすなわち、たちまちにして貴方の血液は身体中の穴と言う穴からあふれ流れ出し、貴方は溶解し、世界と同じになり、消えてなくなってしまうに違いないからだ。あなたはそれを恐れるがゆえに笑った。青ざめたまま、笑ってそれに蓋をした。 

かつて性が性器的なものにすぎなかった時代、性はタブーではなかったのだが、しかしやがて性が私たちの身体の中に流れる血液と結びつき始めたとき、性は恐るべき人間世界の自滅と崩壊への可能性として忌避されるに至ったのだ。しかしながらそれは、決してなくなったわけがないのであって、実際に沸騰し、流出する先を求めて荒れ狂うように体内を循環し始めた血液は誰にも止めることはできないのだ。そうして、二十世紀は戦争と革命の世紀であった。人々は流れ出すために、戦争し、革命したのだった。 

私の血液は、私の外に出ることを求める。私の魂は、私の外に出ることを求める。私は、私の外に出ることを求める。それは死ぬということだろうか。それとも、人ならぬ神類の誕生だろうか。






2008年6月10日火曜日

ゾロアスターはかく語りき


ゾロアスターはこう尋ねた。

『人間という生き物のは楽に生きようと思えばどこまでも気楽に生きられるものだ。けれど思いつめようと思えばまた同様に、どこにでも不幸は見つけることが出来る。つまるところ宗教は、どこまで思いつめられるかに違いない。神を殺した人間が産み出した三つの宗教ごっこ、これらも皆同じである。即ち、芸術、イデオロギー、SMをもってこれを言う。神を信じる命は、これが受け入れられなければ、死ぬ。と、こう、ここまで思い詰められるか、どうかにかかっている。だが花子、お前は、果たしてそれを叶えているだろうか。神を目指している限りにおいて怖くて堪らないということがなかったら、絶対に嘘だ。もしこの作品が認められなかったら、自分は今すぐピストルで頭を撃ちぬかなきゃあならない。なぜって、もし、このたった一作品が認められなかったら、花子よ、おまえはまたこの世界に永遠にひとりぼっちだからだ。金輪際、永遠に誰も相手にしてくれないということを、明言されたようなものであるからだ。花子よ、おまえはかつて自ら友の交わりを断って、この荘厳な岩の内へと籠った。それでも、おまえに力があれば人は集まるに違いない。そう、100対1とも、1000対1とも、決して敗れさることのない圧倒的な力である。そうしておまえはまた、集まってきた新しき友を全て拒み、再びこの世界を拒否しつづけるのだ。

だが花子よ、おまえは一体何のためにそれをやるのだ。おまえはいつも世界平和のためだとか、本当の自分を求めてだとか、にやにやとバツの悪い顔をみせてははぐらかしてすますばかりである。だが花子よ、果たして本当におまえの先に世界平和はあるのか。本当の自分などいったものがあるのか。おまえは、神の国を探すといって、かつて地上の国を旅立った。しかしおまえと言ったらここでもないそこでもないと拒み続けるばかりで、延々と安息する気配はない。しかし地上の、かつての友を見よ。おまえよりずっと豊かな心の安息を得て、幸せそうではないか。おまえは果てるかな本当に、約束の地を探しているのか。

だが花子よ、地上の国のかつての友が、なおさらおまえの旅を続けさせる。今さら辞めたら面目も立たないし、こんなに苦しんだにも関わらず、結局地上の国と同じ程度の祝福しか得られなかったことがおまえにはどうしてもわからない。高貴な生き方をしたはずが、低劣な人間と同じしか得ないのだ。おまえにはこれが不公平に見える。もう少しだけいけば、もしかしてユートピアが見えるはずだ。そうやっておまえは旅をやめることが出来ない。

そして花子よ、やがておまえの周りからは誰もいなくなることだろう。ここは宇宙である。おまえは遥かなる高みに達したのだ。ここには、誰の声も届かないし、おまえは誰に煩わされることもない。ここはおまえ一人だ。もちろんおまえは、自力で上ったのであるから、いつでも望むときに地上の国に帰ることが出来る。けれどもおまえはそれをしないだろう。地の汚れに穢れることを恐れるためだ。

しかしながら花子よ、おまえは決して神ではないのだ。人の子として生まれたのだ。だから花子よ、やがておまえの足は腐りはじめ、ぼろぼろと崩れおちていくことだろう。その時に死にたくないと叫んでも、全ては後の祭りである。神は挑戦するものに、慈悲深き死をお与えになる。

しかし花子よ。地の国にはかつて、おまえを深く愛した女がいた。おまえは地の国を離れ女からも逃れようとした。おまえは女のことなど少しも愛していなかったのだ。しかし女は、それでもおまえを許した。おまえは宇宙へと至る道であの恐るべき悪魔と次々と淫らな情交を重ねたが、それすら女は許した。おまえは知っていた、女が許すということを。しかし女は、更にそれすらも許したのだ!

女は知っていた、おまえが悪魔にすら何も感じないということを。それどころかおまえは、神のことすらどうとも思ってはいないのだ。おまえは、神を殺してその玉座を奪うつもりであった。おまえは愛するということを知らない。しかし女は愛し続けた。おまえが宇宙に上る間、千年もの間である。

やがておまえは砕けちった。宇宙の果てで、ひとりぼっちだった。地の国のものはおまえのことなどとうに忘れていた。ただ、女だけが、後を追うようにひっそりと入水した。そうしておまえは、今度こそ永遠のひとりぼっちである。

おまえは確かに誰より高くのぼった。遥か宇宙まで飛び跳ねた。だが花子よ、神の前ではおまえは敗者である。おまえは負け犬だ。負け犬だから宇宙まで逃げたのだ。宇宙は、怖いか。寂しいか。だが花子よ、誰もおまえのことなど愛さないし気にもとめない。なぜならおまえが誰も愛さなかったからだ。おまえは悪魔すら愛さなかった。それどころか無償の愛すらも否定した。それはおまえにとって、真実のユートピアではなかったのだ。
おまえは恐ろしかった。戦うことを止めたら自分に何ができるのかわからなかったのだ。だからおまえは、目の前の神の国を台無しにした。おまえは確かに強い。今のおまえには1000人の屈強な戦士もまるで相手にならないだろう。だがおまえは臆病者だ。武器ひとつもたない少女たった一つの無償の愛にすら、尻尾を巻き、恐れをなして逃げ出したのだから。
花子よ、好きにするがいいさ。土台無理な話なのだから。そうして、どっちにしたって、女はおまえを許すだろう。』


そういってゾロアスターは、ひとりひっそりと太陽の影へ消えた。





2008年5月17日土曜日

祟る神


出雲大社に行って来た。

なんでも六十年ぶりの遷宮だそうで急にまた親父が例の気まぐれを起こしたのだ。羽田からぷーんと飛行機に乗って出雲空港に到着したのが一昨日のこと。

今、なんだおまえ右翼の癖に出雲大社なんて行くのかなんて考えた人は勉強家である。(ぼくに勉強家だと言われて何の得があるのかは知らんが)その通り、はっきり言っちゃえば出雲は天皇の敵である。

簡単に日本史の復習をしよう。流石に今ではそんなことはないと思うが、最近までの日本の歴史教科書は唯物史観が主流であり(なにも非難しているのではない。確かに唯物史観が啓蒙したものも大きかっただろう)神話を教えないのが通常であったため、(教科書の最初がくにづくり神話でなくてアウストラロピテクス!)記紀(※古事記と日本書紀のこと)の内容もよく知らないという人が増えているようであるからだ。しかしながら神話こそは民族の歴史の深層心理であり、その民族性を規定すらしてしまうというのは、別にフロイトでなくとも今では誰もが当たり前のように言っていることであり、その意味において、神話こそは民族の大根本そのものである。

さて、記紀にはこうある。(※分かり易いように、かなり噛み砕いてあるから、そのせいで表現が適切でないところもあるかもしれない。)昔々この世界、即ち葦原中国(※あしはらのなかつくに。現代語風に言えば地上界と言ったところか。)の王は大国主命(おおくにぬしのみこと)であった。しかしある時、高天原(※たかあまはら。即ち天上界のことである)の女王、天照大神(あまてらすおおみかみ)が地上界の支配権を握ろうとした。(※どうして天照がそんなことを急に思い立ったのかは、記紀には記されていない。)そこで天照は地上界に使いをやって、大国主と交渉しようとした。ところが使いは、天照の命令を聞かずに、いつの間にか大国主の家来になってしまったのだろうか、いつまでも返事をよこさないまま、音信不通になってしまった。天照は困って、また別の使者を送った。ところがそれもまた連絡をよこさなくなってしまった。こんなことが何人も続いたので、天照は最後に建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)を送った。(※この建御雷というのはかつてイザナミが火の神を生んで死んでしまったときに、イザナギが怒ってその生まれたばかりの火の神の首を剣で切り落としたが、そのときに生まれた剣の神である。非常に怪力であり、剣の神であること、雷という名前などからも想像がつくように激烈な性格をもった人間がモデルになっていると考えられる。)建御雷らの交渉によって、大国主は国を譲ることを承服した。こうして、地上界は天上界の神々が支配するようになった。

ご存知の通り、天照の末裔がそのまま天皇となる。天皇が現人神であるとされる所以である。

さて一方、大国主命である。大国主は天照たちに国を譲る際に、このような注文をつけたという。即ち、隠居する代わりに、私のために天上界に届くような巨大な宮殿を造っていただきたい。そうしたら私は、あなた方に顕の世界の支配権を譲り、自らは幽の世界の支配者になろう。(※ものすごく乱暴な言い方をすれば、顕とは目に見えることであり、幽とは目に見えないことである。世俗権力と宗教権威、生の世界と死の世界ととるのは明らかな行き過ぎであるが、よくわからなかったらそれっぽいことと理解してもいいかもしれない。これゆえ大国主は目に見えない、人間の「縁」を司る神とされる。)

こうして造られたのが出雲大社である。(※地上界を意味する葦原中国が、出雲を中心とする中国地方と、「中国」という名前において同じであるのは必ずしも偶然ではあるまい。当然の事ながら、古代においては中国は現在の支那大陸東中央部を意味しない。あそこは漢である。) 

現存する出雲大社の本殿はそんなに大きくはないのだが、もともとの出雲大社は、大国主の注文にしたがって、本当に馬鹿でかかったといわれる。平安時代の貴族の子供たちの教科書、『口遊(くちずさみ)』によれば、日本ででかい建物トップ3に「雲太(出雲大社が一番)、和二(東大寺大仏殿が二番目)、京三(平安京大極殿が三番目)」とあって、その大きさは東大寺大仏殿を越えていたと記されている。東大寺大仏殿の高さは45メートルであるから、それよりでかかったということになり、そんなものは事実上当時の建築技術では製作不可能とされていたのだが、平成十二年に幅1メートル超の杉を三本も束ねたばかみたいに太い柱が出雲大社の地下から出てきてしまった。この尋常ならざる巨大柱は日本の古代史学に衝撃を与えた。もちろんこんなバカみたいな超巨大木造建築は、世界中類をみない。

この巨大な宮殿の神殿の祭神はもちろん大国主命であるが、その宮司は、代々、国造(くにのみやつこ)と呼ばれる祭司が務めてきた。国造の祖先はかつて天照が天上界から使わされた地上界への使者のひとり、天穂日命(あめのほひのみこと)である。天穂日は先述の通り、大国主に国を譲らせるつもりが、いつのまにか地上界に同化してしまい、天上界に復命しなかった。ちなみに天穂日は神であるので、出雲大社の祭官、国造もまた天皇と同じく現人神である。驚くべきことに現人神は天皇だけではなかったのだ!(※想像もつくとは思うが、要は明治維新のアレのアレがアレによって、天皇ただひとりが現人神であらせられるとされちゃっただけの話である。)

ところで出雲大社が建造されたあたりから、急に(神話でなくて)現実の出雲も没落を始める。土器や金属器などの出土量もこの時期を境に次第に減っていき、そのままなくなってしまう。それからなんだか出雲自身が、非常に変な態度をとり始めるのである。どこかひねくれたというべきか、例えば古墳時代に入り、日本中に前方後円墳が造られる中、なぜか出雲だけは前方後方墳にこだわり続けるなんていうのもそれである。

それどころか、今に至るまで、出雲というのは本当にすべてがひねくれている。例えば伊勢神宮をはじめとする普通の神社郡とは注連縄のよい方が逆。参拝の礼法も、二礼二拍一礼ではなく二礼四拍一拝。日本中が十月を神無月とよぶのに対し出雲は神在月。(※これは十月に出雲に日本中の神々が集まるからである。) 

はっきりいってしまえば、古事記や日本書紀においては「国譲り」という婉曲な表現で記されているが、大国主命は天照大神に天上界から侵略を受け、地上界の王の座をおりることを強要されたととるほかない。そうでなければこの出雲のひねくれ具合は説明がつかない。今回出雲大社に行って実感したのだが、出雲大社は本当にひねくれている。妙に卑屈なのだ。例えば三時半に締め切りといったら、三時三十二分に到着した脚の悪いおばあちゃんまでも、絶対に拝宮の行列に並ばせない。直接目の前で目撃したのだが、車椅子をおす娘とふたりで、わざわざ今日のために東京から来たのでどうしても、死ぬ前に一度だけでもというのだが、絶対に許可しないのである。他にもジーンズやミュールでは絶対に本殿に立ち入らせない。帰らせる。遷宮中で本殿に大国主命がいないにもかかわらずである。こんな話は明治神宮でも氷川神社でも伊勢神宮でも聞かない。ましてや祭神自身がいないのに!そのくせ妙に卑屈な笑いを、全く予期せぬところで受けたりもする。

天照を祖先とする天皇側も、自分たちが大国主の地上界を侵略して、国を奪ったということにかなり後ろめたさを感じているようである。その証拠に、朝廷で出雲神が祟るというのはよくある話で、例えば第十代祟神天皇(※実在するとされる最初の天皇、なぜ祟る神という名前であるのかも大変興味深い)の時代には天候不順と疫病の蔓延に苦しめられたが、これは出雲神の祟りであるということがわかり、大物主神(おおものぬしのかみ)(※大国主命の穏やかな心が顕現したもの)を祀ってみると無事に世は平穏を取り戻したという話がある。それから第十一代垂仁天皇の皇子は所謂「おし」であったが、これも出雲神の祟りであった。他にも初期の天皇はいずれも出雲から妻を娶る場合が非常に多いなど、状況証拠は枚挙に暇がない。そもそも大国主命の皇子であるぬ事代主神(ことしろしのかみ)は天上界と地上界の間で板ばさみの立場になり、海の底へ消えていったといわれていて、要は大国主の子供が自殺する状況にまで追い込まれてるんだから、大国主命が天皇家に呪いをかけたとしても不思議ではない。記紀は朝廷側が記したものであるから、天皇に都合の悪い点はすべて排除されているわけで、あえて冒険的な言葉を用いるならば、書かれていないだけで、天皇家はかつて日本を支配していた大国主命と出雲をなんらかの後ろめたい方法で抹殺し、その場に居座ったのかもしれない。こう考えるとどうして出雲大社があんなにも巨大なかということもわかってくる。本来地元の信仰も(古代日本の王であったくらいなのだから)強力だったのに加え、朝廷が大国主命の呪いを恐れ、沈めるために、あれだけ大きく、高いものをつくらせたのである(本来的に神社とは荒ぶる神を押さえ込むために作られる施設である) 。

伊勢神宮・天皇・天照大神・高天原(天上界)と、出雲大社・国造・大国主命・葦原中国(地上界)は日本の対照をなしている。注連縄のよい方のみならず、儀式もまた逆である。天皇が日継ぎの儀式をするのに対し(大嘗祭)、国造は火継ぎの儀式をする。日が昼の象徴であるならば火は夜の象徴である。その手順は非常に似通っていて、天皇家が神聖な井戸「童女井」の神水と神火を用いた神饌を神に献じて自らも食すのに対し、国造は火鑽臼と火鑽杵で神火を起こし、神聖な井戸水を使い神饌を造って神に供え、自らも食す。正に大国主命が言われたように、天皇が顕ならば出雲は幽である。

更に冒険的なことを考えてみる。ここからは完全な仮説に過ぎないが(というか今日の話はすべて仮説に過ぎないんだけど)、天上界、すなわち高天原とは、朝鮮半島、あるいは大陸のことではなかろうか。もともと日本では荒ぶる神々(=豪族)を押さえ、大国主命という王が支配していたが、朝鮮半島から強力な鉄器をもった渡来人がわたってきて、(あるいはその出先機関としての北九州も含めて)大国主に軍門に下るよう使者を使って何度も命じたが、なかなかそうならず、結局何らかの後ろめたい方法で大国主命を殺害し、その場に居座った。もともと北九州の出先機関はヤマタイ国といったが、大国主命を倒すことで近畿地方に移り、同じ名前のヤマト国を名乗った。

時代は下りやがて天皇家を祀る伊勢神宮が作られたが、この祭神は知っての通り天照大神と豊受大神(とようけのおおかみ)である。天照大神は大日孁貴(おおひるめのむち)とも呼ばれ、孁は巫女の意味であり、つまり日孁とは日巫女(ひのみこ)のことである。また「ひのみこ」と「とようけ」が卑弥呼と台与(とよ。壱与「いよ」とも呼ばれる)を意味するのではないかというのはしばしば言われることである。

で、未だに天皇家は大国主命(出雲大社)に呪われている、と。
ちなみに、出雲大社に昭和天皇が来た際も、本殿への昇殿はなされなかった。出雲大社側が許さなかったのか、天皇側が遠慮したのか、それは知らない。

さて、大分脱線したおまけとして、最後に更にとんでもない脱線話がある。

出雲大社に到着したぼくらは、なんと三時間もならんで、やっと本殿を拝殿することが出来た。もちろん、昭和天皇がだめだったくらいだから、当然昇殿は不可であり、周りから覗き込むだけである。

本殿の天井には、色鮮やかな雲が描かれていた。普段大国主命の魂が鎮座しているといわれる場所は、ちょうど死角になっており、見えない。(※驚くべきことであるが、出雲大社はあれだけ巨大な神殿でありながら、左右非対称である。そうして、正門側からみて右奥の部屋が、大国主命の魂が座る部屋となる。こんな巨大建築、本当にどこでもみたことがない!神様の宮殿なのに、左右非対称なのだ!伊勢神宮も、明治神宮も、すべて左右対称である。)しかし三時間並んだわりには、大したことないものであるというのが、全体的な印象であった。退屈した親父が、突然近くにいた出雲大社の警備員に質問を始めた。 

「あの、この殿内というのは、だれが掃除するんですかねえ、宮司さん(国造)ですか?」
「いえ、宮司はそういうことはいたしません。」
「じゃあ、他の人?でも、昭和天皇でも入らなかったくらいでしょう?」
「ええ、そうです。本殿には誰も入れないんです。」
「じゃあ、掃除は誰が?」 

急に警備員が顔色を曇らせた。そうして、かなり戸惑い気味で、「それは、下の人たちが、」と付け加えた。 

「下の人たちって、それは、あれですかね、ええと、例えば非人の方とか?」 

がしゃんという大きな音がなる。警備員が真っ青になってトランシーバーを落っことしたのだ。母さんが大慌てで親父にやめなさい!と騒いでいる。ぼくは仰天した。多分それが図星だということにである。

母さんが謝ってあわてて親父を引きずり出して、事態は何事もなくすんだ。

しかし、なるほどこれは恐るべき話である。天皇は入れなくても、非人は中にはいれるという。これは恨みがどうのこうのいう話でもあるまい。網野善彦は『異形の王権』の中で、天皇と非人の深いつながりを指摘したが、聖と穢というのは、どこまでもコインの裏表なのかもしれない。

で、これは間違っても聖と穢ではないが、日と火(昼と夜)、天原と葦原(天上と地上)、伊勢と出雲(天皇と国造)、顕と幽(生と死)、すべてはコインである。出雲は天皇を呪い続け、天皇は出雲に許しを乞い続ける。この世界のすべてを認め、愛し鎮める太陽神と、この世界のすべてを認めずに荒ぶり復讐する祟り神。出雲は天皇(日本)の原罪である。でもいつの間にかそんなことは忘れてしまった。長い年月をかけて、日本の神(現人神)は天皇だけ、ということになってしまった。なにもそうなってしまったのが明治維新からであると結論付けて、そのまま安易な近代批判に結び付けようとしているのではない。あくまでも長い日本の歴史の中において、ということである。けれども我々が呪いと罪を忘れて愛と認めることだけに傾倒しがちなのは、いつの間にか出雲と幽の世界を忘れ、天皇と顕の世界だけになってしまったことと、必ずしも無関係ではないかもしれない。だってもうおれたち肉食ってんだから。否応なしに人傷つけちゃうんだから。どんなにコソコソ生きてても息すってたら空気汚しちゃってんだから。見ないふりしようたって無理なんだから。 



罪。祟り。呪い。これは出雲を忘れ、天皇だけをみて完璧な世界だと思い込もうとしたぼくたちへの、大国主命からの復讐だろうか。








2008年5月9日金曜日

無政府主義者のたわごと


もしもぼくひとりが死ぬことでこの世界が救われるなら
もうぼくは喜んで地獄の業火にだって太陽にだって、それはもう喜んで飛び込むことだろう
この気持ちはきっと決してウソじゃない、ぼくは小学校のころ初めて特攻隊の話をきいたときからゼロ戦にのってみんなに惜しまれながら死地へと旅立つ自分のことを何回も何回も思ってたんだ
たった一人の英雄の死をもってこの世界に平和と幸福がやってくる、
ぼくはその瞬間を昔からずっとずっと待ち焦がれていたんだ

けれどももしも、もしもだ
誰一人の犠牲もなく、もちろんぼくもただのひとりの人間としてそこに参加することができるのなら

もしなにか、キリストが復活するかなにかすばらしいことがおこったとして
この世界に福音がもたらされ、罪も苦しみもない、永遠に幸福な楽園が現実に現れるとするなら
神の国がこの現実に突然本物として現れるなら

ぼくは決してそんな世界に参加したくない。みんなが手をつないで拍手をして大喜びをしているところで、ぼくはたったひとりこの町をでていって、ひっそりとそこで新しい国をつくるのさ 王国をつくるんだ

ぼくはどうしても許すことができないんだよ この罪にまみれた世界を人間の罪を、だってぼくはこの世界のすべてに罪を背負っているんだから

君は本当に良心の呵責をぬきにして、福音とその大団円の中に参加できますか?ホントに?本当か?


それは暗くてじめじめした、小学校のときの記憶。花子の学校では、月曜日から金曜日までは給食がでるのですが、土曜日は半日教室といって、お弁当を家から持ってくることになっていました。給食のときは班ごとに机をくっつけてみんなでごはんを食べるのですが、土曜日の半日教室では、みんなが校庭で、好きなように好きな友達とお弁当を食べていました。花子はこの半日教室が大嫌いでした。もちろん、だれも一緒にお弁当を食べる相手がいなかったからです。花子は小学校で仲間はずれでした。それは花子が「変なやつ」で、「キモチワルイ」からに違いありませんでした。仕方なしに、花子はみんなに隠れてトイレの個室でひとりでお弁当を食べていました。もちろん、あんなところでひとりでお弁当を食べるというのは、まるでおいしいものではありません。花子はひとりで全部を食べきれずに、お弁当をトイレに捨ててしまっていました。でも、一度いつもどおりに捨てようとしたときに、急に今朝、母さんが一所懸命にウィンナーソーセージをお弁当に入れていてくれたことを思い出して、とても悲しくなってしまいました。「お母さん、ごめんなさい。」小さくつぶやいてから花子はそっとお弁当を流しました。さらさらさらと、ウィンナーソーセージが便器の中にすいこまれていって、それを見ていたら自然に涙があふれだしてきてしまって、花子はトイレの床にしゃがみこんでしまいました。外では友達がわーわーいいながらおしっこをしている音が聞こえてきて、花子は泣いているのがばれないように必死で嗚咽をかみ殺しました。結局そのまま、泣いていたのがバレたら恥ずかしいからという理由で、お昼休み中花子はトイレにこもっていたのでした。


君は花子の思いを知ってしまった。さて、それで本当に、本心からこの福音を、歓喜と敬愛の念をもってむかえることができるだろうか、できるのですか。ぼくはぼくは、本当に福音が欲しい。神の国にいきたい。花子のこともこの世にあふれるあらゆる罪や苦しみや憎悪や復讐も、全部過去のことにして、なかったことにして、忘れ去ってこの世界と一緒になって、愛と幸福と平和の名の下にキリストの降臨を待ち求め、そこにひれふし、すべては許され、この世界には春がきたりて花がひらき、鳥がささやき、そうこの世界とひとつになるということ

でもぼくは!ぼくは!決して花子のことを忘れられないのだ!だから福音は!決して許されない!この世界とひとつになるなんて花子のためにも絶対に許されないことなのだ!!!

きっと花子は、この世界に参加できずに、どこかで泣いたまま、この世界からさっていったんだ。それでみんなそのことも忘れてすっかり福音に酔いしれて、花子の人生って一体なんだったんだ!ぼくにはそんな福音絶対みとめられない!みんなで幸福になる前に花子に愛と平和を返せ!何が平和だ!何が人権だ!何が民主主義だ!何が天皇だ!花子を帰せ!花子の人生を帰せ!それ以上は何も求めないぼくは!花子を!さあ花子を帰せ!!

だから絶対にぼくは何も信じない、平和も人権も、愛も福音も、幸福も神も、人間は決してセックスなどできるわけがないのだ。誰にも認められなかった人間と過去をさしおいて、誰かとひとつになろうなどと差し出がましいにもほどがあるのだ。すべては許されない。許されるのは贖罪と復讐だけである。


地下室にこもる男の手記(ははあ!冗談よせよ!ドストエフスキーもこんな冗談言うものか!)


ぼくのもっとも古い記憶は、幼稚園の光景です。ぼくは大きな恐竜の遊具の下で、ぼんやりと立っていました。恐竜の背中ではみなが楽しそうにきゃあきゃあ騒いでいて、ぼくは一緒に遊びたくて、おもむろにはしごを上り始めました。すると突然、はしごの上から誰かが叫びました。「降りろよ!」ぼくはびくっとして、はしごに手をかけたまま、ゆっくり天を仰ぎました。逆光の中でまっくろな影が、じっとこっちをにらんでいます。ひまわり組のリーダーのようでした。彼はしばらくこっちの様子をうかがっていましたが、ぼくが手を離さずにいると、もう一度「降りろよ!」と、はっきりと言いました。ぼくはまたびくっとします。それでもまだ手を離せずにいると、上からボールがとんできました。ぼくは逃げるように手を離し、そのまま地面に沈んでゆきました。そこで記憶は止まっています。 

次に古い記憶は、父さんの記憶です。ぼくらが新宿の、小さなアパートに住んでいたころのことです。がちゃん、という玄関の鍵の開く音がして、ぼくはびくっとなりました。父さんは昼になると、家にごはんを食べに帰ってきていたのですが、ぼくにはそれがとてつもなく怖かったのです。とにかく父さんは怖かった。とくにお昼はお腹がすいているのかいつも不機嫌で、近所に聞こえていようがなんだろうがなりふりかまわず怒鳴りちらしました。その日はクレヨンでお絵かきをしておったのですが、がちゃんと言う音が鳴って、ぼくはあわててそれをしまいました。父さんは家にはいるとぎろりと一にらみして、「帰ったぞ」といいました。ぼくは笑顔でおかえりなさいといいました。本当は父さんなんて永遠に帰ってこなければいいと思っていたのだけれども。 

父さんは黙って手をあらって、仕事の愚痴をぶつぶつ言い始めました。ぼくはびくびくしながら席について、おとなしくアジの開きが運ばれてくるのを待っていました。やがて料理が出揃い、三人でいただきますをしてから、ぼくは緊張してアジの開きをつつき始めました。父さんはその間も、ずっとぶつぶつ文句を言ったり、椅子にのぼってきた猫を新聞で叩いたり、テレビを見てはひとりで怒鳴り散らしたりしていました。
しばらくすると、ぼくは突然父さんに怒られました。 

「おい!おまえアジばっかり食ってんじゃないよ!」 

確かにぼくはただアジばっかりつついて、味噌汁にもごはんにも全く手をつけていませんでした。ぼくはあわててごはんをかきこみました。父さんは黙ったまましばらくじっとにらんでいましたが、やがてぶつぶつ言いながら、ぼくのことに関心を失ったようでした。ぼくはほっとしました。そしてやはりそこで記憶はなくなっています。


ぼくの父さんは二・二六事件があった年の七月に、とても貧しい家の長男として生まれました。ぼくが父さんの生まれた家のことを「とても貧しい家」としか形容できないのは、実際のところ、ぼくの祖父が何をやっていたのか父もほとんど知らなかったことによります。主な収入は、すし屋や料亭の看板の字を書いて得ていたということらしいのですが、それ以外はある日ふらあと家を出て数ヵ月後にいくらかの銭とともにふらあと帰ってくる、そんなフーテンの繰り返しのようでした。おかげで父は、学費を家にたよることができず、中学のころから新聞配達をして学費は自分で稼ぐようになりました。授業には半分もでれなかったといいます。その上さらに不幸なことに、父は生まれつき耳が不自由というハンディキャップを背負っていました。とくに高音に関してはかなり重度の難聴で、携帯電話の着信音のようなかなり大きめの音もまるで聞こえないとのでした。そんな調子ですから、たまに出れたとしても授業の内容はほとんど聞こえません。中学の成績は散々でしたが、それでも父は死ぬ気で勉強をしました。やがて見かねた先生が、父さんを家に呼び、直接勉強を教えるようになりました。すると成績は見る見る間に伸び、あっという間にクラスで一、二を争うようになりました。父は得意の絵の技量を生かして、早稲田大学の建築設計科に進学を決めました。 

このころから激烈な性格は更に拍車をかけ、友人たちから父は「瞬間湯沸かし器」というあだ名で呼ばれるようになりました。もう七十になるのだけれども、この性格はまるで変わる様子がありません。
思うに父がいつも怒鳴り散らしていたのは、耳が聞こえないゆえの恐怖感や、人が話していることを理解できない、仲間に入れない悲しみや理不尽さ、やりきれなさを力づくでなぎ払おうとしていたのだと思います。父は生まれてからずっと、その苦痛をひとりで背負って生きてきたのでしょう。その上父の青春時代は激動の時代でしたから、父は生きていくために強くなるしかなかったのだと思います。けれども子供だったぼくはまるでそのことを理解せずに、父の怒鳴り声を心から憎みました。父の叫びは、父の防衛本能だったにちがいないのですが、そのころのぼくにとっては、恐怖と崇拝の対象でしかなかったんです。 

その後父は外資系貿易会社の社長秘書と結婚し、母はひとりだけ子供を生みました。

父はいつだってえばり散らしているくせに、その割りにとても弱いところがありました。風邪をひいたりするともうだめで、ぱたりと倒れこんでしまい、「もう俺はだめだ、俺はもう死ぬ」とうわごとのように繰り返すのです。結局父は、どれだけ怒鳴り散らしても母さんがいなければ何もできないのでした。「おれはもうだめだ、」そう言うときに父は自分の人生のことを一体どんな風に思っていたのでしょうか。どれだけ勉強をしたくてもどうしても時間をつくれなかった少年時代、耳が聞こえなくて、どれだけ叫んでもだれもこっちを向いてくれなくて、世界からたったひとりで取り残されて、それでも必死の苦学の末に、早稲田でも主席で卒業した父さん。父さんにとって建築とは何なのでしょう。父さんは建築をしている限り無敵でした。この、無敵感。だけどその無敵感の裏には、いつでもあの貧乏と仲間はずれの世界が、うすっぺらなシールのように、ぺったりと張り付いていたのかもしれません。 

それにしても、あの激烈な性格。父さんの怒鳴ったときの迫力といったら、それはそれはすごかった。父さんの怒鳴り声に、ぼくは心底おびえていました。あまりの剣幕に、一度近所のひとに通報されたことがあるくらいです。それは確か、お味噌汁の具にレタスが入っていたかどうか程度のことだったんだけれども、よりによって父さんの怒り方はものすごくて、あとで聞いたら、本当に殺し合いが行われているんじゃないかと思って、通報してしまったとのことでした。警察が来たときには、ぼくは部屋の隅でわんわん泣いていたものだから、父さんは警察に連行されていってしまいました。(二三時間すると、しょぼくれた調子で帰ってきました。) 

そうは言っても、ぼくは父さんのことを決して嫌いなわけではありませんでした。夜ごはんを食べて晩酌をするときまって父さんは上機嫌で、そんなときはぼくに宇宙の仕組みやこの世界のこと、人間のこと、哲学のことなど饒舌に話してくれるのでした。そんなときの父さんの目は本当に少年のようにきらきらしていて、ぼくはそんな父さんが大好きでした。父さんがもっとたくさん話してくれるように、ぼくは一所懸命に相槌を打ちました。本当に話をわかっていたかといえばわかりません。でも、そうやってぼくに話をしてくれる父さんが好きだったのです。

ある日母さんが風邪で床に臥してしまって、ぼくは父さんとふたりで買い物に行くことになりました。ぼくは父さんといっしょに買い物に行くのがたまらなく嫌でした。なぜなら父が、店の中だろうがなんだろうが平気で怒鳴るからです。ぼくがおもちゃやお菓子に気を取られて立ち止まったりすると、大声で「早く来い」と怒鳴る。みんながぼくに注目する。もちろん父は、ただ単にぼくを呼んでいるだけで、怒ってはいないのです。けれどもあんなにでかい怒鳴り声を出されたら、だれだって父親が悪いことをした子供をしかっていると理解するでしょう。ぼくはすごく恥ずかしかった。うつむいたまま、ささっと父さんの足元によった。すると父は満足げな様子でまた普通に歩きだすのです。 

その日も、案の定父は店員さんにも平気で怒鳴り声をあげました。牛乳はどこだ!タイムサービスはまだか!なんでリンスにコンディショナーなんて書くんだ!もちろん父は怒ってはいないのです。自分は丁寧に店員さんに質問しているつもりなのです。はは、どうです、笑えるでしょう?いくらなんでも「タイムサービスはまだか、」って。そう、たくさんの人が父さんをみてクスクス笑いました。耳が聞こえていない父さんは、そんなことまるで気づきもしませんでした。でも耳が聞こえるぼくは父さんの横で、ずっと恥辱にたえていました。 

普通のひとだったら、牛乳がみつからなかったら、多少は自分で見つける努力をします。そんなことで忙しいだろう店員さんに迷惑をかけるのも悪いし、それに人に声をかけるという作業自体が、なんだかおっくうだからです。話すこと自体が面倒くさいではありませんか。人によっては、人に声をかけること自体が非常に恥ずかしいと考えるでしょう。もし自分の方が間違っていたらどうしよう。もし自分が見逃しているだけで、誰にでも分かるところに牛乳があったらどうしよう。恥をかくだけだ。恥をかくくらいならば自分で歩き回ったほうがいい。日本人は、自分から進んで挙手することが苦手な民族です。よっぽど自分の意見に自身がなければ、手をあげることはない。ところがぼくの父さんは、その聞こえない耳と、生まれもった激烈な性格のおかげで根拠も自信もまるでなくても、次々に質問をしに挙手をしてしまうような人物でした。 

ぼくもまた父さんのおかげで、授業中は自分から手をあげる子供でした。それから朝には大きな声で、みんなに挨拶する子供でした。こういう子供は、先生には好かれること(便利がられること)も少なくないようです。
しかしながら現実の世界は必ずしもそうとはいえません。ぼくは大きな声で挨拶をする度に、周りから呆れ顔で見られているということに気づきました。 

率直な感想ですが、この国では、多くの場合大きな声で挨拶をするやつは仲間内から追い出されるのではないかと思います。小学校では朝一番で登校したぼくが大きな声で挨拶をしても、みんな変な顔をして、誰一人返事を返すやつはいませんでした。ぼくは不思議に思いました。家では朝起きると、父さんも母さんも大きな声で元気におはよう、といったものだったからです。ぼくは素直によくわからなかったものだから、先生に「なんでみんな挨拶をしないのですか?」と聞いてみました。先生は驚いて、次の週から小学校あげての挨拶運動が始まりました。思えばそのころから、ぼくのうわばきはなくなるようになりました。

中学校にはいるころには、ぼくはできるだけ小さな声で、できるだけ挨拶をしないですますようになりました。それから、授業中はどんなに得意な問題でも、手をあげるのを我慢するようになりました。それから、いつもできるだけつまらなそうに、ポケットに手をつっこんで、まるで勉強なんてさっぱりわからないような顔をして、窓の外ばかりみているようになりました。結局これが一番、ウケがいいのです。本当は先生の言っていることはおもしろくて仕方がありませんでした。ぼくは本当は聞きたいことがたくさんありました。「先生、ぼくは平家ばかりが悪いとは思いません」「先生、じゃあもし二酸化炭素がなかったら、どうなってしまうのですか」「先生、数学なんて勉強して何になるの」先生、先生、口には絶対だせない、先生に教わりたいたくさんのことが、頭の中をぐるぐるして、なにがなんだかわけがわからなくて苦しくてじれったくて仕方がない日々でした。 

現実の世界と父さんが教えてくれたもうひとつの世界とが、ぼくの中でお互いを否定しあっていました。ぼくには何がなんだか、大きな声で挨拶すべきなんだかしないべきなんだか、したい質問があったらすべきなんだかしないべきなんだか、まわりに合わせることはいいことなんだか悪いことなんだか、そして、本当のぼくって父さん風にやることなのかみんな風にやることなのか、そんなことばかり考えてしまってとても勉強どころではありませんでした。おかげで成績はいつも下の下。貧乏と耳が聞こえなくて勉強ができなかった父さんとは比べる瀬もありません。ぼくは深く恥じ入りました。

そういえば一度、ぼくは父さんにひどいことを言ったことがありました。「父さんといると恥ずかしい。」って。父さんはがはははは、と豪快に笑って見せましたが、その一瞬、とても寂しげな表情を見せたのです。
ぼくはあの父さんの顔が忘れられない。死ぬまで誰にも、ぼくにすら理解されない父さん。ああ、なんてかわいそう。



こんな父に育てられた結果か、ぼくはいつでも何かにビクついるような人間でした。父さんに、友達に、先生に、女の子に。ぼくは悪さと言うことを、小さいときからほとんどできた試しがありませんでした。落書きもできない、万引きもできない、学校もさぼれない、子供料金で電車に乗れない、落ちてた財布を拾って自分のものにできない、宿題をやってこずに適当なことを言ってごまかすことができない、、これらはすべて、ぼくが悪いことを一切しないような極め付きに善なる心をもっていたからがゆえのことではありません。これらはすべて、ぼくが極度の臆病者だったことによるものの結果でした。ぼくの一番苦手なこと?女の子。女の子と、ああいうことをすることほど苦手なことはありません。例えば女の子の部屋にあがる、ふたりきりでいい感じになる、タイミングを見極めてキスをする、お互いぼうっとする感じになったら優しく胸に手をあてて、、、ぼくには到底そんなことはできそうにありませんでした。だって、胸に手をあてようとして、「いや」なんて言われた日にはぼくはどうしたらいいでしょう。ああぼくにはあなた方が呆れ顔で「そんなの形だけだから、とりあえず押し倒しとけよ」と言っているのがほとんど目に浮かぶようです。しかしながらそれに関してはぼくはそんなこと恐ろしくて出来やしないというほかありません。いやなのです。怖いのです。拒否されたらどうしよう。きっとぼくは女の子に拒否されたら、絶望と苦しみのあまり彼女の部屋の窓から身投げするかもしれません。それでジ・エンド。だって世界から拒絶されたら、人間はもう自殺するほかないではありませんか。


それでもどうしてもふと人恋しくてたまらなくなることがあるのです。これは人間の本能だから、もう仕方のないことです。それで高校生のとき、必死でお小遣いをためて初めて女性を買いました。それはぼくにとって本当に幸せな瞬間でした。まるで神の国が、そのままぼくのもとにやってきたかというような思いでした。自分と世界がひとつになり、心と身体がひとつになり、いかなる罪も苦しみもなく、永遠に生きられるということはこのことかと思いました。その瞬間、ぼくは本当に救われたのです。それはたった三十分に一万円という高校生にとってとてつもない大金を払う代償としてでも、十分におつりのくるものだったのです。けれども一方で、行為が終わって呆然としているとき、ぼくの頭にこの考えがふと浮かびました。「この遊びは到底長続きしえない」。だってそんなお金、どっからもってくるというのですか?人が恐ろしくて盗みもできないぼくが、どこからそんな大金をもってくるというのですか?その考えに取り付かれると、途端にぼくの頭からはその問題がぐるぐると回りはじめ、他のことを一切思い浮かぶことができなくなってしまうのでした。[ついさっきまで味わった至福の瞬間。でもあの瞬間は、もう二度とやってこない。少なくとも、正当な方法でお金を貯めた結果としては、最低あと二ヶ月間はやってこない。]そう考えると、もうつらくてつらくて、ぼくは誰でもいいから抱きしめたくて、涙がとめどなくながれてくるのですが、どうすることもできないのです。だって突然道端の高校生が抱きついてきたら、だれだってびっくりするでしょう。それどころか通報するでしょう。ぼくは翌日から犯罪者です。父さんにも先生にもめちゃくちゃに叱られることでしょう。ぼくにできることは単に泣くことだけでした。いえ、それすら満足にすることはできないのです。だって、道端で誰かが泣いてたら、みんなびっくりするでしょう。きっと変な目でみるにちがいありません。それでぼくは人目を忍んで嗚咽をかみ殺し、下をずっとうつむきながら歩いたのです。ぼくの初めて女の人を買った日は、悲しみと苦しみにまみれ、ずっと泣きはらしていたのでした。 

ところが、そんなぼくの目の前に、驚くべき光景がとびこんできたんです。駅前で数人の若者たちが「FREE HUG(抱きつき無料)」という札を掲げて突っ立っていたのでした。ぼくはびっくりしました。そうしてすごく嬉しく思いました。彼らにぜひとも抱きついて、少しなりとも慰めてもらおうと思いました。 

でも、だめなのです。ぼくの頭の中に、あのぐるぐる回る恐ろしい悪魔の考えがまた現れてしまったのです。もしも、もしもだ、彼らだって人間的な好みがあるのだろうし、たとえ好きでやってるとしてもだ、ぼくに抱きつかれることは嫌だと思っているなら?自分で言うのもなんですが、ぼくはそんなに見てくれも悪くないはずです。清潔感のある格好もつねに心がけていたし、顔だってそんなに悪くはないはずでした。でも、ぼくには動きがぎこちないところがあるのです。ぼくはみんなのように自然に動くことができないところがありました。どうしてもスムーズでない動きになってしまって、自分でそのことを知っているから余計に動きがおかしくなってしまうのです。例えば椅子ひとつこしかけるとしても、スマートにことをこなせる連中ならまず、尻を席の先っちょに、ほとんどよっかかるかなにかのように浅あく腰掛けるのに、ぼくときたら少しでも油断するとつい深く腰をかけてその上ピンと背筋を伸ばしてしまって、格好悪いたらありゃしないのです。きっとぼくのそんな座り方をみたらやつらは「何をそんなに気取ってるんだい」といって大笑いしたに違いないでしょう。スマートに椅子に座るには出来るだけ、けだるそうに、つまらなそうに浅く座ることが必要でした。けれどもぼくときたら何をやるにしても必死な感じで、滑稽もここにきわまれり、といった感じなのです。


そんな動きをするぼくは、周りからみたら間違いなく「変なやつ」のはずでした。だれだって「変なやつ」に抱きつかれるのは、そんなにいい気がするはずもありません。そう考えると、ぼくはもう彼らに抱きつくなんてことは到底恐ろしくてできそうにありませんでした。それでもぼくは勇気をふりしぼり、彼らのほうへと足を向けたのです。 

ああ、ぼくは臆病者です。この世界でもっとも最低で醜悪な、臆病者なのです。そう、ぼくは内心彼らと抱きしめあい、涙を流して分かち合いたいと願っていながら、その実全く無表情で、本当になにごともなかったのかのように彼らの前を通り過ぎてしまったのです!ああ、この意気地なし。本当にぼくなんて死んだ方がいいに違いがありません。しかも、しかもです、ぼくはそれでいて諦めすらつけることができず、結局彼らの前をそのあと五回も通り過ぎたんです。もし、何か奇跡のようなことが起こって彼らのひとりが「お兄さん、よかったらハグしませんか」といってくれることを期待して、まるでハイエナのような畢竟卑しい、全く実に卑しい心で、その上ぼくはもし彼らが声をかけてくれたとしても、全く動揺する表情もみせずに、「いいえ間に合ってます」などと答えて颯爽とその場を去っていた可能性すらあるのですから!一体だれがそんな卑しい心の持ち主とハグをしてくれるというのでしょうか。ぼくは絶望しました。それでもぼくは誰かと抱き合いたいのです。本当にだれでもいいのです。ぼくを受け入れてくれる人ならば、俗な連中が話すこだわりや好みなんてものにはぼくはこれっぽっちも関心がないのです。意気地なし。触れたい、抱きしめたい、キスがしたい、セックスがしたい、でも意気地なし。 

だめです。ぼくは本当にだめです。 

「そりゃあおまえいくらなんでも卑屈すぎるよ。だっておまえ、ぶくぶく太っていつもはぁはぁ言ってるニキビ面ってわけじゃないし、清潔感もあって、ちゃんとした紳士なんだろう?おまえは他人のこと、、、、とりわけ女のことをえらく自分より上のものとでも考えているようだが、そんなことこれっぽっちもなくって、女なんてのは男以上に卑屈で、自分に価値がないと思ってるものなんだよ。そう、ちょうどおまえと同じようなもので、」 

そう、そういう考えが決してわからないわけでもないのです。そこまで想像することができても、それでもやっぱりぼくは始終びくびくしていることをやめられないのです。だって相手のことなんて、どうしてわかることができるというのです?どうして本気で拒絶してるわけではないなんて、断言できるのでしょう。きっとぼくなんかは、女の子とどれだけいい感じになっても、セックスする直前に相手に「セックスしていいですか?」なんて間抜け面で聞くんだろう。それで女の子に「はぁ?」なんていわれて、全部ぶち壊しになるに違いないのです。






死ね!死んでしまえ!花子の憎悪と悪夢とともに!おまえなんか永遠にこの世界から消え去ってしまえ!


そう、人間は決してこの罪と憎悪からは許されない。人に受け入れられることなんて、奇跡でも起こらない限りありえあるわけがないのだ!それでどうする?涙ながらに「さみしいよう」なんて手当たり次第にメールしてみるか?美人の知り合いなら何人だっている、彼女たちがぼくを救ってくれるか?お情けでセックスでもさせてくれるっていうのか?あっはははははははははははは本当にぼくは今笑いが止まらない。実に愉快だ!愉快だよ花子!!!彼女たちが、彼女たちが!ぼくの罪をゆるしてくれるんだっていうんだ!彼女が!花子をか!花子の罪をぬぐうというのか!すべて許すというのか!

なあにここに書いてることなんて全部冗談さ。どうせ明日になったら綺麗に全部消してるよ。恥ずかしくってたまらないものねえこんなもの。お酒の力も借りないと一言すら自分の言葉もかけない人形が、よくもよくもまあこんなにでかい顔してみんなの前で笑顔でさわやかに!そう、こんなにもさわやかに!こんなにも大きな罪を背負いながら!!!!!


「おはようございますー!悲鳴のガンディっす!今日はどうぞよろしくおねがいしまっす!みんな大好きっす!大好きっす!愛してるッス!もう超がんばるっすよ!!ラブ。みんな愛してるよ!」


ラブ。よくぞいえたものだその言葉ラブ。ラブ。よっぽどのバカかよっぽど苦しみぬいた人間でなければいえない言葉だろうよラーヴ。おれはもうこの言葉を見ただけで涙がじゃあじゃあ止まらないんだよ。

人はもっとわけへだけなく音楽をきくべきだもっとわけへだてなく文学をよむべきだという 「偏見なく色んな人の音楽や文学を読むべきだよ」

けれど花子は!花子はどうなるんだ!そこで彼が、素晴らしい音楽をかなでて聞かせるメロディーや、すばらしい文章で人を酔わせたとして、そうしてなんだか幸福な、救われた気分がしたとしてだ、花子は!花子はどうなるんだ!ぼくは花子のことを思ったら!絶対に音楽なんてきけやしないんだ!ライブハウスに人の音楽を聞きに行くなんて!クラブで大音量のダンスミュージックに酔うなんて!花子はそれすらかなわなかったんだぞ、あの子は、あの子は誰にも認められず許されずにただひとりひっそりと、黙って生きて死んでいったんだくああ!誰が彼女のことを一瞬でも忘れる権利があるというのだ、ああ!

ああみんな今頃大笑いしていることだろう、それどころか、ここまで読み進むなんてこともなく、あっというまに他のページにうつっていってしまっているにちがいない!ぼくが道化のふりをして!人の気を引こうとしているって!そう!そうだよどうせぼくはこれをネタに!花子をネタに!みんなの気をひいてぼくはなんて立派な人かと大いに主張して大喜びしてあわよくば綺麗な女の子から信頼を勝ち得ようとかそんなことばっかり考えているに違いないんだ、そう、罪にまみれた絶対に天国にいけない人間さ。だけど冗談じゃなくいま、涙でもう全然ディスプレイが見えないんだよだれかさみしいっていうんじゃない、ぼくなんていいから、本当にぼくなんて地獄にでも太陽にでもなんでも飛び込むから花子を!頼む花子を!



どうかその輪の中にいれてやってほしいんだよ。彼女はみんなといっしょに縄跳びをしたいだけなんだよ。どうして?どうしてたったそれだけのことがかなわない!?みんな一瞬だけでも、彼女をみてやるだけですむことじゃないか、彼女が一体なにをしたっていうんだ、彼女はただ、ただみんなと笑いながら縄跳びをすることを望んだだけじゃないか!


ぼくは天国なんてきらいだ。絶対に天国なんていってやんない。頼まれてもいってやんない。なぜならぼくが本質的に君を憎んでいるからだ。心の底から欲して、望んでいても、絶対に許さない。許されない。ぼくがこの世界と引き換えに地獄におちて、それからみんな泣いて悔い入れ。

それでもぼくは花子を断罪したおまえを、絶対に許さない。絶対に。
さあみんなで大いに福音をすればいい。ぼくは迫害された者とともに約束の地へと帰ろう。約束の地に。花子を葬る、その瞬間に。

















2008年3月28日金曜日

卒業式であった



大学の卒業式であった。出てる最中にだんだんうんざりして来て、式辞の最中に座ってしまう。そんなぼくの様子をみて、同級生の女子がクスリと笑う。ぼんやりしながら、ああ、あんまりこの学校も好きになれなかつたなあと思う。要は学校が嫌いなんだろう。卒業証書を奪いとるようにして、ひとりでこそこそ逃げ帰る。二度とこの学校に関わらないでよいという嬉しさより、ひとり逃げ帰る惨めさが勝る。無論卒業の喜びなどは、ない。

結局、どんな場所も都にはならないのだ、神を望むならばそうなのだ。ひとりでやろうというのは、どんな集団も居心地悪く感じるものだ、英雄ぶっているのでもニヒリズムでもなく、ただ単純に、そういうことだ。現実の世界に、神の国などあろう筈がないではないか。


会場を背にラジオの収録に小田原に向かう。


ホストがsunエドくんともうひとり、ナリくんと言う方。ゲストがおれとノーベンバース松本健吾。一時間の番組を二本収録。気のおけないやつらとは言え、ぼくは結局友達すら怖くてお道化てみせずにはいられない。ほら阿呆でズッコケのガンディだよと、ところがエドくんは梅酒をぐいとやって直視し、ガンディくん、おれらの前ではそれはよせという。ケンゴがニヤリとしながら頷く。こんなことを言うやつはいない。ぼくは素直に嬉しかったのだ。とっとと卒業式を逃げてきたかいはある。酒が進む。


ラジオでは、ポップとは何かということと、北村透谷を話した。

血走った目で、エドくんが聞く。ガンディくんはなぜ売れる音楽をやらぬ?と。

答じて、ぼく自身はポップを愛すのだが、下手すぎてどう頑張ってもノイズになってしまうのだよ、と。
それはなぜだい?

身体が思い通りに動かんのさ。

どうして?

ぼくは身体を呪ってるのさ。精神の身体に対する復讐さ。

だから君はセックスに行き着かないの?

身体と精神が分裂してるんだ。言うことをきかないんだよ。

君は化粧をするのは?

ぼくの男女が分裂するからさ。

女は?

身体。





総じてこんな話であったように思う。音声編集のひとが、一所懸命手慣れた様子で編集をしている。みんな普通の調子だ。ぼくはラジオでこんな話をさせてもらえていることに心底びっくりしているというのに。


今一度、エドが問う。


今流れてるのは町田町蔵だけど…ガンディくん、町田康は読むの?

いや。

どんなの読むの。

今は北村透谷にはまってるよ。

どうして?

政治と文学が直結してる。

どういうこと?

二葉亭四迷にしろ透谷にしろ、大宰なんかもそうだしあげれば本当にきりがないが、昔の物書きはみんな政治運動をやっていた。それが文学にはっきりと出るのだ。自分の苦悶と同じだ。安吾にしたって漱石にしたって谷崎にしたってみんな日本について論じる。三島は言うまでもない。ところが今の文学はその苦悶がない。恐らく1968年あたりがターニングポイントだったのではないか。松本健一が言うが、それまでの、日本人の欧米に対するコンプレックスが消えはじめたのは1945年ではなく、高度経済成長を遂げ東京オリンピックを成功させた1968年あたりだ。そのあたりを境に学生運動もなくなり文学から政治は消えた。恐らくその最後が三島だ。なるほど確かに文学から大言壮語を唱う輩は消えた、しかしずいぶんとスケールは小さくなり、ぼくはそのような文学に何の興奮も感じえないのだ、と。

簡単なことだ、芥川に勝てる芥川賞作家がただひとりでもいるのなら、ぜひ引っ張ってきて頂きたい。


そんな話をした。しかしそこで時間が来てしまった。

再びエド。

ガンディくん、最後に、悲鳴誰に一番聴いてもらいたい?

死にたい高校生。

なんで?

死にたい高校生だったから。

じゃあ一言。

死ぬなよ。


我ながら物凄く恥ずかしい台詞を言ってしまった。赤くなる。恥ずかしさのあまり音が割れるほどデカイ声でいってしまった。余計恥ずかしい。エドのやつが追い詰めるからだ。そうこうしていると突然、ケンゴマツモトが「死ねえ~」と奇声をあげた。そこでエンディング。

最低の終わり方だ(笑)


それにしても、本当にこんな話をしていいのか。視聴率は大丈夫か。心配になる。だがもし、評判が決して悪くなかったなら是非またお願いしたいものだ。とても楽しかったのだから。



帰りの東海道線の中で、腕組みして考える。ぼくには何が正しくて、何が間違っているかなんてひとつもわからない。どうして人を殺してはいけないのかも知らない。末期ガンで苦しんでる人を殺しちゃいけないのか、悲しむ人が誰ひとりいなくて自分も死にたいという人を殺しちゃいけないのか、わからない。

ぼくにはわからない。何が正しくて何が間違っているかなんてわからない。こんな大学に来てしまったことが果たして正しかったのか、間違っていたのか、全然わからない。あの時、このつまらない大学に来ることを選択したのは、間違った選択だったのか、わからない。

けれども、例えどれだけぼくがこの大学を憎んだとしても、この大学に来てしまった事実だけは消せないのだ。


だから、ぼくはその過去を受け入れよう。ぼくには何が正しくて、何が間違っているのかなんてわからないから、自分のやってきたことを信じよう。カルマのように、過去の自分に突き動かされる自分を信じよう。


ぼくにはわからない、正しいことと間違っていることが。だからきっと、ぼくは自分の過去に照らしあわせて、その都度、正しいと思う方を選択してきたのだ。人は神ではないから、人は何が正しくて何が間違っているかなんてわからないから、過去に縛られ生きていく。それは全知全能の絶対間違わない神を捨て、自分のみを信じて生きる、今まで生きてきた自分のみを神とするということである。


そうして、その自分の過去を愛するにせよ憎むにせよ、人は「かつてその過去を生きた」という事実だけは決して消すことはできない。人は永遠に自分の過去に呪縛され続ける。そうしてもし、自分に理想的な自分を望むならば、愛するためのハードルは高くなっていく。まして完全(神の国)を望むのならば、どんな世界も拒否せざるを得ないだろう。



今日も月が綺麗だね。
東海道線から。














2008年3月12日水曜日

殺し合いの作法


父も母も戦中派である。もっとも、母は昭和19年生まれであるから、全く記憶はないという。父は昭和13年であり、空襲にあった記憶もある。この父の戦争の記憶が面白い。例えば戦中と言えば食糧難ということがよく言われるが、ははぁ、食糧難と言うのは実に相対的なもので、要は気持ちの問題だよ、父は言う。つまり確かに米はない。しかし米がなければ芋を食えばよい話で、芋がなければ虫を食えば済む話である。そうして、さすがに虫がないということはなかったということである。ちなみに親父に言わせると本当に食料がなかったのは終戦直後で、GHQが交通を遮断してしまったので、東京からは虫すらなくなったという。

バッタやコオロギは炒めるとなかなかうまいんだ、楊枝で歯をしーしーしながら、太鼓腹をぽんと叩いて父は言う。ときどきカマキリが混ざっており、これは硬くて食いづらい。しかし食えないものでもない。ゲンゴロウや大体の幼虫などもいけるという。フライパンについそこでとってきた虫をざあっと入れてね、ばん、と蓋をする。しばらく中でばたばたしている。静かになったらもう食いごろだよ。小さいころから食卓でよく聞かされた話である。なにも食卓で話さなくてもよかろうに。

原っぱで野草をとってざるに入れていると、ずっと向こうからアメリカ軍の戦闘機がぷーんと音をたててやってくる。それでタイミングを見計らって、そろそろ来るかな、というころになったら橋の下に避難する。そうすると、その上を、ダダダダダ、と機関掃射してゆく。それでまたのそのそ出て行って、野草をとっている。しばらくすると、またやってくる。一度やってきた戦闘機は、必ず帰ってくるのだという。それでまた橋の下に非難する。このタイミングが難しい。いちいちあまり早く逃げ込んでては仕事にならないし、遅ければこの世とおさらばだ。慣れてくれば見ないでも音だけでタイミングがわかるようになる。それで橋の下でしゃがんでいると、またダダダ、とその上を機関掃射してゆく。橋の下から這い出てくると、パイロットがこっちに向かって笑いながら手を振っている。表情がわかるくらい低空で飛んでいるのだ。それでこっちも手を降り返す。そうしているうちに飛行機は行ってしまう。それでまた野草をとる。まあもちろん、運が悪かった場合は死ぬ。友達も何人も死んだ。


このような話は、戦後民主主義の何でもかんでも戦争は悪だ、空襲は恐ろしいというお決まりの言説に隠されてしまって、めったに聞くことができない。


もうひとつ、よく心に残ったエピソードを話そう。ある空襲の夜のこと、高射砲が爆撃機を一機撃墜した。アメリカ軍のパイロットが、落下傘で降りてくる。で、市街地でこういった状態になった場合はほとんど、下からの機関射撃で空中で撃たれて死ぬことになる。ところがこのパイロットは完全にラッキーで、運良く撃たれずに地面までおりることができた。そうして、地上におりて、日本人の民衆がわーっと彼に駆け寄っていこうとした瞬間、空に零戦が現れたという。父は、即座に、あ、撃たれる、と思ったのだそうだ。ところが零戦のパイロットは、コックピットから、ただ、だまって地上でよろめく彼に敬礼をしたのだという。そして、米兵の方も、ただ黙って背筋を伸ばし、零戦に向かって敬礼をしたのだという。




その後のことは記憶がない。




このような話を聞くとき、ぼくはいつも、不思議でありながらどこか納得してしまうのである。テレビやメディアが、絶対に言わない戦争の真実を、どこかで垣間見てしまうのである。


バトルロワイヤルやリアル鬼ごっこ、ソウ、キューブといった気持ちの悪い映画作品が繰り返し作られている。これらの作品群はただ理不尽なシチュエーションの元で登場人物に殺し合いをさせる。どうしてこれほど理不尽な状況に追い込まれていかざるを得なかったのかについては一行たりとも説明がない。これらの作品は芸術作品ではなく、ただ観客の性欲を満足させるだけのポルノである。

ただ、戦争はポルノではない。戦後常に悪魔のようにしてしか描かれてこなかった軍首脳、傲慢なる憲兵、そして常に神であった天皇にすら、ギリギリの状況の中でギリギリの判断があったはずだ。零戦のパイロットと、B29のパイロットが、ほんの一瞬に交わした敬礼─いわば殺し合いの作法とも言うべきものが、戦争にはある。


異常犯罪者と言われる人間が、最早異常とはいえないほど次から次へと現れてくる。綺麗な女の子の首をのこぎりで切ったらどれほど楽しいだろうなあ、というのは正直よくわかる。上記の作品群─バトルロワイヤルやリアル鬼ごっこ─がポルノ作品として大ヒットしているところを見ると、そう思ってるのはどうやらぼくだけではないだろう。ぼくらは闇との付き合い方を知らない。そう、ぼくらの世界には生まれたときから闇はなかった。少年Aの生まれた街、須磨ニュータウンにはパチンコや風俗といった猥雑の臭いが全くない。親父はこの街に仕事で何度もいっているのだというのだが、印象としてはとにかくまぶしいのだという。そうして、このまぶしい街の中で唯一薄暗い場所が、タンク山だというのは、出来すぎた話だろうか。

人間の心理は膨大な無意識という闇と、その上に乗ったごく小さな意識から出来ている。それはまるで、巨大な森を開拓し、小さな都市を作り上げていった人類の歴史のうつしのようでもある。我々は、木を切り倒し、森と都市の境界に結界を張った。神社である。人間は常に神社を通して、都市の外を畏れた、カミゞの世界を。それは他者の世界である。都市を勝手のわかる自己の世界だとするならば、その外は手探りの闇である。

ところが、都市に生まれた我々は、生まれつき闇を知らない。この都市の外が、巨大な森であることをしらない。闇との付き合い方を知らない。闇との付き合い方とを知らないということは、カミゞ、即ち他者との付き合い方をしらないということである。ぼくは、君が、ぼくのことを馬鹿にしているんじゃないかと思って、いつだって怖くていてもたってもいられない。しょうがないから昼間からエビスあおって君と話すよ。ごめんね。君はそんな人じゃないのに。それでも怖くてたまらないから、ぼくは自分の殻に閉じこもるんだ。ここだけがぼくの居場所だ。仕方がないじゃないか。闇となんて一度も話したことがなかったんだから。今まで誰も教えてくれなかったんだから。先生も教科書もみんな、つじつまが合うように、この世界の全てはまるで何でもわかっているかのように書いてあったんだ。ぼくはそれを真面目に勉強していただけだよ。今更ぼくの中に入ってこないで!ぼくは頑張ったんだから、これでいいんだ。セックスなんてしたくない。君のことが怖いもの。この世界から引きずり出さないで。どうせ君も最後にはぼくのことを裏切るのさ。だからさあさっさとどこかに消えてよ。現実なんていらないの。そうして私なんてどこかでのたれ死ぬがいい。


ところが、無意識を抑圧すれば、その軋轢は必ずどこかに現れると言う。まあだから、それがバトルロワイヤルみたいなポルノだったり、異常犯罪だったりする。それがぼくらの現実の限界だ。


戦争賛美?もってのほかだよ。あんなこと、二度とおきちゃいけないって心から思っているんだ。けれど、ぼくはいつも思うのだ。悪魔のような軍部。傲慢な憲兵。罪のない民衆。全部嘘だろう?そんなことばかり言って、しまいには主人公に「生きろ!」なんて叫ばせるから、ぼくにはますますこの世界が虚構にみえてくる。この世界から闇を隠蔽しているのは誰だ。あの零戦のパイロットと、B29のパイロットの敬礼に気づかれると都合の悪いやつはどこにいる?このうすっぺらな世界を八つ裂きにしようとすることで右翼と呼ばれるなら大歓迎である。そんなものよりぼくは殺し合いの作法に興味がある。あの闇への敬礼に興味がある。






セックスなんてしたくない。君のことが怖いもの。


嘘つき。本当は私とセックスしたいくせに。私と消えてなくなりたいと思っているんでしょう?

残念ね。私は貴方じゃないわ。だからひとりで死になさい。















2008年3月10日月曜日

闇とセックス


烏丸の方からずっと歩いてきて、四条大橋を越えると漬物屋や茶碗屋などがふえ、次第に観光客でにぎわってくる。人ごみの中を、もみくちゃになりながら先へ進むと突き当たりに八坂神社がでんと構えている。春は桜が見事だそうだが、残念なことにその季節はまだだ。しかし森の緑は深い。

この八坂神社を右折すると、途端に土産屋が消え、風情のない車中心の道になる。東大路である。ところが、人はこのくらいの方がよく喋る。あまりに物が多いと、人間はだんまりになる。ものがないから、どこからかおもしろいものを見つけてはぎゃあぎゃあ騒いでいる。コンクリートミキサー車があった。右から左に向かって横書きに記された「生コンクリート」という文字が、物陰に隠れる「リート」によってクンコ生もといウンコ生、生ウンコにしか見えない、そうしてあれは生ウンコを今から工事現場に流し込むところであるのだなどと言って、あやちゃんが一人でケタケタ笑っている。初めは相手にしないのだが、ずっと笑っているのでそのうち男たちも調子に乗り始め、焼きウンコならいいのか、そもそも何のために焼くのかなどと言ってつきあってやる。そうすると、あやちゃんはまた腹をよじって笑う。そうこうしているうちに道端の料亭に「雲古てんぷら」などとあったものだからたまらない。皆、大いに苦しむ。

ウンコウンコなどと騒いでいるうちに、突然左手に、三重塔が見える路地がある。このせまい小道を、てくてく上っていく。思ったより急だ。今度は皆無言である。左右には小さな店がいくつも並び、八つ橋やら飴玉やらを売っている。時折若い舞妓さんなども歩いていて、外人が奇声をあげながら勝手に撮影している。それらを無視してひたすら上った先が清水寺である。

清水寺はその外観はもちろん、その舞台から見る光景が美しい。数ある日本の絶景の中でも、最も美しいもののひとつに数え上げられるだろう。日が落ちるころに上れば、京都の町の向こうに夕日が沈んでいくのを見物することができる。ただ、手前には不恰好な京都タワーがひとつ、蝋燭のような姿でまぬけに建っていてそれだけが不愉快だ。

けれどもそれさえ無視すれば、こんなに美しい情景も他にあるまい。京都には高層ビルがない。みな、地面が見える高さである。人間にとって無理のない高さだ。平屋も多い。これらが整然とならんでいる。そして逆光で真っ黒である。その果てには嵐山がある。こちらも真っ黒である。そうしてその先には黄金色の太陽のほかない。

清水の舞台に立って町の方を見下ろせば、王になった気分になれる。吾が眼下に広がるこの国は、誰のものかと問いたくもなる。自分しかあるまい。ここに上るものは誰もが王だ。ひとり胸をはって腕組みをし、にやにやするものが後を絶たないという。ありそうなことだ。

一方、背後に広がるのは急峻な杉山だ。目の前に迫ってきて、今にもこちらに落っこちてきそうである。杉は枝落としをするから、幹のはらには枝がない。そうしてできた山の口は、真っ暗で底がなく、どこまでも吸い込まれていきそうである。山はぽっかりと口をあけて、今にも我らを飲みこまんと欲す。せっかく王の気分に浸っても、こうして後ろを振り向けばあっという間におしまいである。


清水寺の舞台は本堂を背に、左手に山、右手に街を臨む。その建築的役割は寺というよりもむしろ神社である。考え方は延暦寺に近い。寺はそもそも街の中にあるものだが、僧侶が世俗権力と結びつくようになってからは、市街地からは排除された。結果として寺は山に建立されるようになり、まるで神社のような役割を果たし始めた。つまり、鳥居がカミの世界への象徴的な門であり、参拝者は御神体を祈らず(そもそも神社にそんなものは存在しない)森と山に潜むカミゞを祈るように、寺もまた山におはす仏をまつるようになったのだ。これらは空海・最澄らがそれまでの教義中心の仏教に密教と禅を持ち込んだことと深く関わっている。空海は行によって大日如来と一体化することができると訴えた。大日如来とは一切の如来・菩薩・カミゞを包摂するいのちの根源である。こうしたカミゞが住むのは当然街ではない。山である。

清水寺はこうした、カミゞの世界と俗界を区別する境界として今も街の外れにちゃんと存在している。カミゞを鎮め、京の街に怒りと呪いが降りかからないように、そうして建っている。そう考えると、この剛健な建築も、荒らぶるカミゞの前ではあまりに心細いようにすら思う。人はどこかで後ろめたく感じる。我々はカミを犠牲にしてこの繁栄を成し遂げたのだと。しかし人はカミに何を託す?人は何を犠牲にしたのだろうか。人は、あの、杉山の飲み込まれるような闇の、一体何を恐れているのか。

山が、真っ黒な口をぽっかりあけて、今にもこちらを飲み込もうとしている。闇とは何か。光が正義で、闇が悪だなどというのは大変な間違いだ。闇には正義も悪もない。正義と悪は、光に照らされて、初めて明らかにしたものである。それはいわば秩序である。我々は正義が正義である理由をてんで知らぬ。二十一世紀になっても、殺人が悪い理由も、窃盗がよろしくない理由も、とんと説明できぬ。我々は殺人が悪い、ということにしている。それは闇が恐ろしいためだ。秩序にならないものが恐ろしいからだ。

真の闇を見たことがあるか。自分の身体すら、どこからどこまでだがまるでわからなくなってしまう。闇の中に、身体は溶けて、ついにはどこにもいなくなってしまう。死か?セックスに似ているかもしれない。

つまるところ、人間がセックスを忌避する理由はこれだ。セックスは人間の身体も心も溶かして、人はそのまま消えていなくなってしまう。セックスは極めて反社会的行動である。セックスは、闇を恐れ、忌避してきた人間への呪いだ。人間はセックスを犯罪にすることができない。人間が存在することができなくなってしまうからだ。だからできるだけ目に付かないところに追いやることにしたのだ。しかし、人間はそもそも闇のカオスシステムから現れてきたのだという事実を、我々は無視することができない。

そもそも個体生物学における寿命が、生殖と同時に誕生したのだとしたら、マスターベーションは自殺であるというバタイユの考え方を否定し、セックスこそが自殺なのだと、我々は理解しなければならない。生殖を終えれば、人間に生物学的な存在理由はもうない。寿命は遺伝子の自殺システムだ。我々はただ、後はその時を待つのみである。


人間が忌避するそれを、ぼくは愛す。闇。呪いとセックスに溺れて、血まみれになるがいい。心の壁なんていらないの。みんなセックスして闇に還ればいいわ。こわいの?でも、貴方は私から生まれたもの。私の子宮から、血まみれで生まれてきたのよ。それは死?それとも永遠?あの空海が見ていたものよ。この世界が太陽を作ろうとするならば、ぼくは月になろう。月はいつまでも太陽に憧れながら、いつも地球の反対側をおいかけっこしてる。そうして、いつまでたったって追いつきはしないのだ。

本堂をさらに進むと、もうひとつ小さめの舞台がある。奥の院という。ここからは、山を背にして本堂の舞台と京都の街を同時に臨むことができる。きっと、舞台と街を同時に見れたら、どれだけ美しいだろうかと思って作ったに違いない。ここからはあの人を食うような杉山は全く見えない。美を、宗教心と切り離したという点においては、この場所を日本人の近代的美意識の目覚めととることもできる。しかし当然そこには、カミゞを畏れる心は不在である。もはや人は闇を見ていない。人は太陽を作り出したのだ。


あのぽっかり開いた山の口。子宮だろうか。闇。人間は子宮が怖いのか。ぼくは本堂に戻り、この闇をしかとにらみつける。反対側には、灼きつくような黄金の夕日が、今にも京の街を飲み込まんとしている。ははぁ、とどのつまり、どっちを向いたって同じなのだ。だから人間よ、やがてこの真っ白な光の中に飲み込まれるがいい。自らが作り上げた太陽の、真っ白な闇の中に。





2008年1月1日火曜日

X嬢に告ぐ


久々に大学を歩いていたら、教室に一冊、ノートが落ちていた。ぺらぺらと開いてみると、丁寧な字で日記らしきものが記してある。悪いかとは思ったのだが、読んで見ればあまりに滑稽で、阿呆らしく、抱腹絶倒、腹がよじれて涙もとまらないといった調子であった。あまりにおもしろいのでここに転載する。読む阿呆に書く阿呆。諸君らも、大笑いすること請け合い。暇つぶしくらいにゃなるだろう。 

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ぼくは嘘ばかりついてきた。父さんにも母さんにも、友達にも、最愛の人にすらも。怖かったのだ。本当のことを言えば、誰もぼくのことなど許してくれるわけがないと思っていたのだ。ぼくは大げさな人間だ。大げさにしなきゃ、誰もぼくのことなど見てくれないと思っているのだ。人よりずっとすごくなくちゃ、誰ひとりふりむいてくれるわけがないと思っているのだ。だから嘘をついてでも、人の気をひくのだ。みんな簡単にだまされた。ぼくが愛しているというと、みんなぼくが愛しているのだと思った。ぼくが苦しいというと、みんなぼくが苦しいのだと思った。ぼくが笑顔でいると、みんな安心してよりそってきた。人をだますのなんて簡単なのだ。真面目な顔つきで真剣に話せば、どんな嘘でも本当に聞こえる。ぼくは人間なんて、なんて簡単なんだと思った。人間なんて、その程度の、くだらないものなのだと思った。小さい頃から、ぼくには、自分以外の全ての人間をくだらないものと見下すくせがついていた。どうしてこんなに簡単に、みんなぼくの思い通りになるのだろう。ぼくはそのうち思うようになった。ぼくは神様にえらばれた人間で、神様になんらかの理由でこの地球に送り込まれたのに違いない。そうして、このえらく愚鈍な、羊の群れたちを導くことがきっとぼくの使命なのだと。ぼくは神様のことばかり考えるようになった。そうして、どうしたらこの世界を救えるかばかりを考えていた。 

大学生になって、女がぼくに言い寄ってきた。大して美人というわけでもなければ、何か取り柄があるというわけでもない。地味で、何も知らない、やたら髪の長い、あどけない顔をした女だった。色は白く、笑うと頬はリンゴのように赤くなった。女はぼくについてまわった。どうやら、ぼくのことをいい人だと思い込んだらしい。そう、この女もほかのみなと同じだった。ぼくの嘘に簡単にだまされたくだらない人間だった。話にもならない。ぼくは鼻でわらった。ぼくはどうせ女と付き合うなら、ものすごい美人とつきあおうと思っていた。それも、ただ単純に、悪魔のようなセックスをする、ただそれだけのために。こんな女、神様に選ばれた自分とまるでつりあうわけもなかった。 

ただ、ふと思いついた。こんな女でも、もしかしたら、ぼくが未来にぼくとつりあうくらいの美人を口説き落とすときのための、嘘を磨くための練習台としてはいくらばかりか役に立つかもしれない。ぼくは女をからかうつもりすらなかった。ただ、練習台にちょうどいいと思った。それに、女も神様に選ばれた人間と付き合えるなら、練習台にされたって幸せだろうと思ったのだ。 

すぐさま彼女の目を真剣にみつめながら、君の目は素敵だから、好きになってしまったと伝えた。女は狂喜して喜んだ。まるで子供のようにその赤い頬をなおさら赤くさせてきゃっきゃきゃっきゃと跳ねていた。ぼくは思わず笑みがこぼれてしまった。かわいいと思ったからではない。本当にばかすぎて笑ってしまったのだ。なるほどやっぱり世界なんてこの程度のものらしい。全てはぼくの思い通りで、どうにでもなるんだから。 

せっかく女とつきあったのだし、性欲もたまっていたから、女とセックスでもしようかと思った。ぼくは世界の救世主なのだから、もうしばらくしたらすごく有名になるに決まっているのだし、そうしたらこの女をすてて、毎日とっかえひっかえ色んな美人とセックスでもしよう、それまではとりあえずこの練習台で我慢しとこうと考えた。女は簡単にぼくと寝た。結ばれるときには女の名前と、優しい言葉をたくさん耳元で言ってあげた。それから終わったあとは、やさしく頭をなぜながら、腕枕をして一緒に眠ってあげた。練習台にしちゃかわいがるじゃないかというかもしれないが、終わった後に急に態度を変えるなんていうのは、ぼくから言わせれば嘘の二流か三流もいいところで、そういうところがぼく以外の人間の愚鈍も愚鈍たる由縁である。次から練習台が練習台として使えなくなってしまうではないか。練習台にもケアが必要である。もちろん棄てるときも美しい言葉をふんだんにちりばめて、後の自分の輝かしい名誉を汚さぬように気をつけるべきだ。一日に一度は「愛してる」といって安心させてやるべきだろう。二週間に一度は花をプレゼントしてやった。五百円のやつでも、道端で拾ったタンポポでも、なんでもいいのだ。たったそれだけの努力で女はまた頬をリンゴのように赤らめて、練習台としての役割をちゃんと果たしてくれる。 

女はいつでもにこにこしていた。こっちが嘘をついているとも知らずに、あんまりにこにこしているから、ばかなのじゃないかと思った。女はまるでぼくを疑わなかった。確かにぼくの嘘は完璧だったから、普通の人間には見抜けるはずもなかったが、それにしたって女があんまりぼくを疑わないで、いつもきゃっきゃと歓び、鳥のようにぱたぱたしているものだから、ぼくは更に実験をしてみることにした。どれだけひどいことをしてやればこの女は傷つくのかということである。ぼくはベッドの上で女の頬をひっぱたいたり、けっとばしてやったり、最中にひどいことをささやいてやったりしてやった。女はとうとう泣きそうな顔をした。ぼくはしてやったりと思った。ただ、それでも女は言うのだ。あなたにはどうしても嫌われたくないのだ。あなたがこんなことをするのは、私が至らないからだ。ぼくは、なんだかわけのわからない顔をして、歯を食いしばりながら、ほかの男としてこいといった。女はどんな命令にもしたがったが、これだけはしたがわなかった。 

ぼくは次第に胸が苦しくなった。ぼくはふさぎこむようになってしまった。もしかしてこの女は、ぼくに何の取り柄がなかったとしても、ぼくのことを愛すのではないのかと思った。すごくならなければ誰もふりむいてくれない、愛してくれないと思って、たくさんのとても難しい本を読み、かっこいいバンドを作って狂人を装い(それが計算づくであったにせよのことである)、人には気を使い優しく(それが嘘であったにしろのことである)、人前ではいつでも機嫌よくさわやかに挨拶をして社交的で快活な人間を装い、(たとえ舞台裏で舌をだしていたにしろのことである)、そうして練習台の女にはたくさん花をくれてやった。ぼくにはもう、自分が、人にふりむいてもらいたくて嘘をついているのか、それとも人をばかにして嘘をついているのか、わからなくなってしまった。ぼくにはわからない、ぼくから大量の思想の知識や、かっこいいバンドや、人に気を使うことや、社交的な性格や、女にくれてやる花をのぞいたら、一体このぼくに何が残るというのだろう。神にえらばれなかったぼくなんて、本当にだれも相手にしてくれなくなるだろう。そうしてぼくはまたひとりぼっちだ。またぼくはひとりで、トイレの個室でお弁当を食べたり、名前にマジックでばってんをつけられた上履きを母さんにみつからないように、隠さなければならなくなることだろう。ぼくには何もない。びっくりするくらいに何もない。あるのは星の数ほどもある、無数の嘘だけ。この嘘で、ぼくは人をばかにし、人をふりむかせようとして、人がふりむいたら、またばかにするのだ。「今までたった一度ですら、ぼくの方をふりむこうとすらしなかったくせに、」そうして復讐しようとして、いっそこの世界をほろぼしてしまおうと、ギターをふりまわして大暴れするのだ。そうして、その大暴れすら、全部うそなのだ。ぼくが大暴れするさまを見て、涙を流したり、手を叩いてよかったといってくるやつがいたら、ばかなやつだと笑ってやろうと、いつでも待ち構えていたのだ。ぼくはいつだって神に手をかざしつけながら、殺してやる、殺してやるとうわごとのようにつぶやいていた。でも、それなら、世界を救うはずのぼくは一体何のために生きているのだろう。ぼくは神に選ばれたから、かろうじて人と対等につきあうことができるのだ。そうじゃなかったら、人とまともに目を合わせることすらできやしない。ぼくはみんなの前で土下座しなければならない、そうして、どうか仲間にいれてくださいと絶叫しなければならない。それでも相手にするものなんているものか。ツバをはきかけ、みなぼくのもとから去っていくことだろう。ぼくのことなんてしらないっていうだろう。 

ぼくは女をほうって、違う女のところへ行った。(女のことが、なんだか怖かったのだ。)そうして違う女に、頭をふんづけ、「許してもらいたかったら土下座しろ」と言ってくれるように言った。違う女はその通りにした。色々な違う女のところで頭をふんづけてもらった。色々な違う女の前で、色々なばかな歌を歌った。 



唾液をください それからぼくを踏んで 

もしも許されるならば その手で首をしめて 

息がしなくなるまで 太陽が見えなくなったら 

ぼくもみんなのところへ 行けるだろうか? 

明日が見えなくなったなら もうみんなは笑わないだろうか? 



違う女はみな大笑いしてぼくを鞭打った。ぼくは涙ながらに許しをこうた。ぼくがばたばたするのがおもしろいらしく、違う女はなおさらぼくを打って踊らせた。実にぼくは何度も何度も悪魔と踊ったのだ。 

ぼくは酒におぼれることが多くなった。毎日のように朝から浴びるように飲み、気づくと路上で寝ていた。吐いても吐いても飲むことをやめることができないのだ。断言して言うが、酒なんてこれっぽっちものみたくなかったのだ。けれども浴びるように飲むと、一瞬だけ、本当の心を出せる瞬間があるような気がするのだ。そんなときは路上でもなんでもおかまいなしだった。ぼくはその瞬間に、息も絶え絶えにして止め様のない涙をこぼし、月に祈りながら道路にひざまずき、この世界を許しをこうて大地にキスをした。すると女がやってきて、酔い倒れていたぼくの肩を抱き上げた。その顔は実に優しい、本物の天使のようであった!ぼくはぼくの神をみつけたのかもしれなかった。もうこれ以上戦わなくても、愛してくれる人をみつけたのかもしれなかった。女は涙と鼻水と吐瀉物でぐしゃぐしゃのぼくの顔を、不思議そうに笑いながらハンカチでふいてくれた。 

しかしぼくは怖かったのだ。もしかして、ぼくは神様に見放されたのではないかと思ったのだ。群れる羊を神は愛さない。神が愛するのは孤高の人だけである。女なしでは生きられなくなってしまったぼくを、神は堕落したとして見切り普通の人間に落としたのではないかと考えた。ぼくはそれが怖かった。神に見捨てられ全てを失ったぼくを、女が愛してくれないかもしれないと思った。 

そうして、それよりもっと恐ろしかったのは、ぼくがこの女を不幸にしてしまうかもしれないということだった。ぼくはこの女が大切になってしまった。ぼくは生まれてはじめて人の幸福を願った。嘘も打算も全部さしひいて、蚤ほどの大きさもないぼくのちっぽけな精神が、はじめて裸で、神様に人の幸福を願った。力強い自分は、そんな自分をせせら笑った。しかしそれでもまるでかまわなかった。この女は、ぼくのような人間ではなく、本当にこの女を心から愛してくれる人と幸せになるべきだと考えた。そうしてぼくは女に別れを切り出した。 

女はばかのように泣いた。路上でも人前でもおかまいなしだった。絶対に嫌だ、そんなことするなら死んでやるといった。そうしてしまいには、どれだけ私が悩んだと思っているのだ、どうしてこんな人を好きになってしまったのだろうと、どれだけ苦しんだと思っているのだ、心から愛してくれる人と幸せになれなんて、そんなこと言うなんて失礼だ、などと言ってぼくをののしりだした。ぼくの胸もはりさけんばかりであったが、ニ、三時間かけて再三決意は変わらぬことを伝えると、涙ながらに了解した。 

そうして、女を駅のプラットホームまで送っていった。そうすると、健気にもぼくの手をぎゅうと握るのである。ぼくは何度神様を裏切ろうと思ったかしれぬ。けれどぼくでは彼女を幸せにできぬのだ。ぼくは唇を噛んで電車をまった。 

窓の向こうから、涙をこぼしながらこっちの方をみている女をみていると、胸がじりじりと痛んだ。そうして、やけっぱちになって町をうろつき、ビールを飲むと、たまらなく涙がこぼれでてきてもう前も見えないのだった。何杯も何杯ものんで泥酔したが、ぼくにはやはりわからなかった。これほどまでに神と真理を渇望して、一体その先に何があるというのだろう。いいや、ぼくは君の説教など聴きたくはない。「目の前の女を泣かして、何が神だ真理だ」などという説教は、絶対に聴きたくない。そういう人間は、はじめから幸せなのだ。自分が目の前にぽんと投げ出された幸せを、当然のように受け入れる権利があると考える、とてつもなく能天気な人種なのだ。ぼくはひょっとすると、君の方がぼくよりよっぽど傲慢なのではないのかと思うくらいだ。自分には幸福になる権利がある、だって自分は何も悪いことしてないもの。ああ、鳥肌が立つ!君はぼくよりずっと嘘つきか、よっぽどの愚鈍に違いないのだ! 

ああ、それでもぼくは、五杯目のビールを飲み干したときに、とうとう神様を裏切ってしまった!ぼくは駆け出し、終電にとびのって彼女の家まで電車で二時間、ごとごとごとごとと揺られていったのである。そうして、彼女の家の住所もよくわからぬのに、海の近くにあったはずだという記憶だけをたよりに、ひたすらにただただ駆け回り、とうとう一度だけ行った記憶がある家を見つけ出して、深夜に彼女をたたき起こした。彼女はあわてて飛び出してきて、大粒の涙をぼたぼたとこぼしながら、ぼくのことをぎゅうと抱きしめ、もう二度とあんなこと行ったら許さないといって、すぐさま許してくれた。ぼくはもう二度とこの女を離すまいと誓った。ぼくが悪かったのだ。ああ、ぼくは彼女に幾たびも幾たびもひどいことをした。許されるわけもない。神様は許してくれない。ああ、もう神様なんて知るものか。ぼくの罪も知るものか。許してもらう気などさらさらない、ぼくが嘘をつき、だまくらした人たちも、ぼくが傷つけ、いまだに苦しむ人たちも、ぼくが殺し、食べてしまった牛も豚も鶏も、みんな知らない!彼女とふたりならば、地獄におちたってかまわない!彼女が許してくれるなら、神様なんていなくてかまわない!とうとうぼくは彼女のおかげで、ぼくの中に、もうひとりのぼくを見つけたのだった。それは、ぼくが今まで野鼠のように嫌い、けなし、ばかにして、さげすんでいた、力もなく能力もないぼくである。そのぼくは神ではなく愚鈍な人だった。しかしながらぼくはこの愚鈍な人となり、再び一から神へと向かうのだ。この世界の全てが、どれだけ穢れて愚鈍でありながらも神をたたえ、許しあい、真理を愛すれば、きっと最後の日には神が全てを許されるに違いなかった。だから、ぼくはもう一度信じてみようと思った。全てをだ。全てを許さないのではなく、全てを信じるのだ。信じられない、信じられるではなく、信じるのだ。これはもう、神がいるかいないかなんてわかりっこないとか、科学がそのうち全部教えてくれるとか、そう言う問題では全くないのだ。信じるのだ。ただ愚鈍に信じるのだ。ぼくが殺した山のような屍の上に、ぼくらが抱きしめあう以上、きっとそうしなきゃいけないに決まってる!ぼくは有頂天になった。二十年以上も考えてずっとわからなかったことが、彼女のおかげで、やっとわかったのだ。都心から一時間もはなれた、海辺の彼女が住んでいた町は、空気が綺麗で、満天の星空が夜空にきらきらと輝いていた。いつしか、彼女と付き合いはじめて、五年もの月日がたっていた。 

そうしてしばらくのこと、幸せな日々が続いた。今までできなかったことを、取り戻すかのようであった。ふたりでディズニーランドに行ったり、ごはんを食べたりした。ぼくは間違いなく、彼女を愛していた。嬉しくて嬉しくて、夜ひとりで寝ていると、いつの間にか枕に嬉し涙がこぼれた。 

しかし、やがて彼女は引っ越しをせねばならなくなった。遠い町に、働き口をみつけたのだ。ぼくは、三十になったら、君もこっちに帰ってこれるし、ぼくも必ず君を食わせられるようになるから、そうしたら結婚しようといった。彼女はあのリンゴのような頬を赤らめて、満面の笑みで頷いた。そうしてきゃっきゃと、ウサギのように飛び跳ねた。五年前と何も変わらなかった。 

彼女は、ぼくの知らない町に引っ越していった。 

さらにしばらくがたち、彼女から電話で、突然別れたいと告げられた。ぼくは初め呆然とした。そうして、誰かそっちで好きなひとができたのだろうか、とたずねた。すると彼女は、今はわからないと答えた。今はわからないということは、いるということだろう。ぼくは打ちのめされたようだった。ぐうの音もでないとはこのことだった。でも、ぼくはなんだか、わかっていたのだ。昔のぼくだったら、彼女のことを、決して許さなかっただろう。やっぱりみな、ぼくのことを裏切るのだと思って、世界を恨み、悪魔になることを誓っただろう。いつしかナイフでももって街中にあらわれたかもしれない。許さない、ぼくを裏切ったことを許さない。けれども、ぼくは全然そう思わなかったのだ。愛してくれたからだ。彼女が一点の曇りもなく、ぼくのことを愛してくれたということを知っていたからだ。そこには何の疑いを挟む余地がないのだ。だからぼくはどうしても、彼女を許してやらなくちゃならなかった。それは決して、今までぼくが彼女に対して犯してきた罪にかんがみて、というわけじゃない。そうではなくて、全ての人間は罪人なのだ。あの、天使のような笑顔がにじむ、あの彼女ですらそうなのだから!人間はもろく、弱く、永遠もない。生きる場所も変われば、心だって変わってしまう。けれど、絶対に、その全ては許されるべきなのだ。だって、彼女はこんなにもぼくを愛してくれたのだから。そう、ぼくは知っていた。かつてあのお方が言われたことだ。「私は貴方が知らないと言うことをしっていた」。それは全く、恨みでも憎悪でも諦めでも、全くないのだ。そうして、それでも許すのだ。ぼくのことを誰もみてくれなかった、ぼくのことを馬鹿にした、ぼくのことを侮辱した、ぼくのことをじゃけんにした。画鋲が入った弁当をたべなければならなかった。ジャージがびりびりに破られていた。教科書に落書きがされていた。父さんのことを侮辱された。愛してないといわれた。ぼくの気持ちを裏切った。 

しかし全てが、きっと許されるのだ。だってこんなにも彼女はぼくを愛したのだし、ぼくは彼女を愛したのだから! 

ぼくは彼女に、最後のお願いとして、必ず、本当に君のことを愛してくれる人と、必ず幸せになりなさいと告げた。そうして、君のおかげでぼくは人間になれたんだと告げた。 

「ありがとう。本当にありがとう。」 

ぼくも泣いていた。彼女も泣いていた。でもそれは決して不幸と憎悪の涙ではない。 



それは神の祝福と、愛の賛歌に違いないのだった。