2008年5月17日土曜日

祟る神


出雲大社に行って来た。

なんでも六十年ぶりの遷宮だそうで急にまた親父が例の気まぐれを起こしたのだ。羽田からぷーんと飛行機に乗って出雲空港に到着したのが一昨日のこと。

今、なんだおまえ右翼の癖に出雲大社なんて行くのかなんて考えた人は勉強家である。(ぼくに勉強家だと言われて何の得があるのかは知らんが)その通り、はっきり言っちゃえば出雲は天皇の敵である。

簡単に日本史の復習をしよう。流石に今ではそんなことはないと思うが、最近までの日本の歴史教科書は唯物史観が主流であり(なにも非難しているのではない。確かに唯物史観が啓蒙したものも大きかっただろう)神話を教えないのが通常であったため、(教科書の最初がくにづくり神話でなくてアウストラロピテクス!)記紀(※古事記と日本書紀のこと)の内容もよく知らないという人が増えているようであるからだ。しかしながら神話こそは民族の歴史の深層心理であり、その民族性を規定すらしてしまうというのは、別にフロイトでなくとも今では誰もが当たり前のように言っていることであり、その意味において、神話こそは民族の大根本そのものである。

さて、記紀にはこうある。(※分かり易いように、かなり噛み砕いてあるから、そのせいで表現が適切でないところもあるかもしれない。)昔々この世界、即ち葦原中国(※あしはらのなかつくに。現代語風に言えば地上界と言ったところか。)の王は大国主命(おおくにぬしのみこと)であった。しかしある時、高天原(※たかあまはら。即ち天上界のことである)の女王、天照大神(あまてらすおおみかみ)が地上界の支配権を握ろうとした。(※どうして天照がそんなことを急に思い立ったのかは、記紀には記されていない。)そこで天照は地上界に使いをやって、大国主と交渉しようとした。ところが使いは、天照の命令を聞かずに、いつの間にか大国主の家来になってしまったのだろうか、いつまでも返事をよこさないまま、音信不通になってしまった。天照は困って、また別の使者を送った。ところがそれもまた連絡をよこさなくなってしまった。こんなことが何人も続いたので、天照は最後に建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)を送った。(※この建御雷というのはかつてイザナミが火の神を生んで死んでしまったときに、イザナギが怒ってその生まれたばかりの火の神の首を剣で切り落としたが、そのときに生まれた剣の神である。非常に怪力であり、剣の神であること、雷という名前などからも想像がつくように激烈な性格をもった人間がモデルになっていると考えられる。)建御雷らの交渉によって、大国主は国を譲ることを承服した。こうして、地上界は天上界の神々が支配するようになった。

ご存知の通り、天照の末裔がそのまま天皇となる。天皇が現人神であるとされる所以である。

さて一方、大国主命である。大国主は天照たちに国を譲る際に、このような注文をつけたという。即ち、隠居する代わりに、私のために天上界に届くような巨大な宮殿を造っていただきたい。そうしたら私は、あなた方に顕の世界の支配権を譲り、自らは幽の世界の支配者になろう。(※ものすごく乱暴な言い方をすれば、顕とは目に見えることであり、幽とは目に見えないことである。世俗権力と宗教権威、生の世界と死の世界ととるのは明らかな行き過ぎであるが、よくわからなかったらそれっぽいことと理解してもいいかもしれない。これゆえ大国主は目に見えない、人間の「縁」を司る神とされる。)

こうして造られたのが出雲大社である。(※地上界を意味する葦原中国が、出雲を中心とする中国地方と、「中国」という名前において同じであるのは必ずしも偶然ではあるまい。当然の事ながら、古代においては中国は現在の支那大陸東中央部を意味しない。あそこは漢である。) 

現存する出雲大社の本殿はそんなに大きくはないのだが、もともとの出雲大社は、大国主の注文にしたがって、本当に馬鹿でかかったといわれる。平安時代の貴族の子供たちの教科書、『口遊(くちずさみ)』によれば、日本ででかい建物トップ3に「雲太(出雲大社が一番)、和二(東大寺大仏殿が二番目)、京三(平安京大極殿が三番目)」とあって、その大きさは東大寺大仏殿を越えていたと記されている。東大寺大仏殿の高さは45メートルであるから、それよりでかかったということになり、そんなものは事実上当時の建築技術では製作不可能とされていたのだが、平成十二年に幅1メートル超の杉を三本も束ねたばかみたいに太い柱が出雲大社の地下から出てきてしまった。この尋常ならざる巨大柱は日本の古代史学に衝撃を与えた。もちろんこんなバカみたいな超巨大木造建築は、世界中類をみない。

この巨大な宮殿の神殿の祭神はもちろん大国主命であるが、その宮司は、代々、国造(くにのみやつこ)と呼ばれる祭司が務めてきた。国造の祖先はかつて天照が天上界から使わされた地上界への使者のひとり、天穂日命(あめのほひのみこと)である。天穂日は先述の通り、大国主に国を譲らせるつもりが、いつのまにか地上界に同化してしまい、天上界に復命しなかった。ちなみに天穂日は神であるので、出雲大社の祭官、国造もまた天皇と同じく現人神である。驚くべきことに現人神は天皇だけではなかったのだ!(※想像もつくとは思うが、要は明治維新のアレのアレがアレによって、天皇ただひとりが現人神であらせられるとされちゃっただけの話である。)

ところで出雲大社が建造されたあたりから、急に(神話でなくて)現実の出雲も没落を始める。土器や金属器などの出土量もこの時期を境に次第に減っていき、そのままなくなってしまう。それからなんだか出雲自身が、非常に変な態度をとり始めるのである。どこかひねくれたというべきか、例えば古墳時代に入り、日本中に前方後円墳が造られる中、なぜか出雲だけは前方後方墳にこだわり続けるなんていうのもそれである。

それどころか、今に至るまで、出雲というのは本当にすべてがひねくれている。例えば伊勢神宮をはじめとする普通の神社郡とは注連縄のよい方が逆。参拝の礼法も、二礼二拍一礼ではなく二礼四拍一拝。日本中が十月を神無月とよぶのに対し出雲は神在月。(※これは十月に出雲に日本中の神々が集まるからである。) 

はっきりいってしまえば、古事記や日本書紀においては「国譲り」という婉曲な表現で記されているが、大国主命は天照大神に天上界から侵略を受け、地上界の王の座をおりることを強要されたととるほかない。そうでなければこの出雲のひねくれ具合は説明がつかない。今回出雲大社に行って実感したのだが、出雲大社は本当にひねくれている。妙に卑屈なのだ。例えば三時半に締め切りといったら、三時三十二分に到着した脚の悪いおばあちゃんまでも、絶対に拝宮の行列に並ばせない。直接目の前で目撃したのだが、車椅子をおす娘とふたりで、わざわざ今日のために東京から来たのでどうしても、死ぬ前に一度だけでもというのだが、絶対に許可しないのである。他にもジーンズやミュールでは絶対に本殿に立ち入らせない。帰らせる。遷宮中で本殿に大国主命がいないにもかかわらずである。こんな話は明治神宮でも氷川神社でも伊勢神宮でも聞かない。ましてや祭神自身がいないのに!そのくせ妙に卑屈な笑いを、全く予期せぬところで受けたりもする。

天照を祖先とする天皇側も、自分たちが大国主の地上界を侵略して、国を奪ったということにかなり後ろめたさを感じているようである。その証拠に、朝廷で出雲神が祟るというのはよくある話で、例えば第十代祟神天皇(※実在するとされる最初の天皇、なぜ祟る神という名前であるのかも大変興味深い)の時代には天候不順と疫病の蔓延に苦しめられたが、これは出雲神の祟りであるということがわかり、大物主神(おおものぬしのかみ)(※大国主命の穏やかな心が顕現したもの)を祀ってみると無事に世は平穏を取り戻したという話がある。それから第十一代垂仁天皇の皇子は所謂「おし」であったが、これも出雲神の祟りであった。他にも初期の天皇はいずれも出雲から妻を娶る場合が非常に多いなど、状況証拠は枚挙に暇がない。そもそも大国主命の皇子であるぬ事代主神(ことしろしのかみ)は天上界と地上界の間で板ばさみの立場になり、海の底へ消えていったといわれていて、要は大国主の子供が自殺する状況にまで追い込まれてるんだから、大国主命が天皇家に呪いをかけたとしても不思議ではない。記紀は朝廷側が記したものであるから、天皇に都合の悪い点はすべて排除されているわけで、あえて冒険的な言葉を用いるならば、書かれていないだけで、天皇家はかつて日本を支配していた大国主命と出雲をなんらかの後ろめたい方法で抹殺し、その場に居座ったのかもしれない。こう考えるとどうして出雲大社があんなにも巨大なかということもわかってくる。本来地元の信仰も(古代日本の王であったくらいなのだから)強力だったのに加え、朝廷が大国主命の呪いを恐れ、沈めるために、あれだけ大きく、高いものをつくらせたのである(本来的に神社とは荒ぶる神を押さえ込むために作られる施設である) 。

伊勢神宮・天皇・天照大神・高天原(天上界)と、出雲大社・国造・大国主命・葦原中国(地上界)は日本の対照をなしている。注連縄のよい方のみならず、儀式もまた逆である。天皇が日継ぎの儀式をするのに対し(大嘗祭)、国造は火継ぎの儀式をする。日が昼の象徴であるならば火は夜の象徴である。その手順は非常に似通っていて、天皇家が神聖な井戸「童女井」の神水と神火を用いた神饌を神に献じて自らも食すのに対し、国造は火鑽臼と火鑽杵で神火を起こし、神聖な井戸水を使い神饌を造って神に供え、自らも食す。正に大国主命が言われたように、天皇が顕ならば出雲は幽である。

更に冒険的なことを考えてみる。ここからは完全な仮説に過ぎないが(というか今日の話はすべて仮説に過ぎないんだけど)、天上界、すなわち高天原とは、朝鮮半島、あるいは大陸のことではなかろうか。もともと日本では荒ぶる神々(=豪族)を押さえ、大国主命という王が支配していたが、朝鮮半島から強力な鉄器をもった渡来人がわたってきて、(あるいはその出先機関としての北九州も含めて)大国主に軍門に下るよう使者を使って何度も命じたが、なかなかそうならず、結局何らかの後ろめたい方法で大国主命を殺害し、その場に居座った。もともと北九州の出先機関はヤマタイ国といったが、大国主命を倒すことで近畿地方に移り、同じ名前のヤマト国を名乗った。

時代は下りやがて天皇家を祀る伊勢神宮が作られたが、この祭神は知っての通り天照大神と豊受大神(とようけのおおかみ)である。天照大神は大日孁貴(おおひるめのむち)とも呼ばれ、孁は巫女の意味であり、つまり日孁とは日巫女(ひのみこ)のことである。また「ひのみこ」と「とようけ」が卑弥呼と台与(とよ。壱与「いよ」とも呼ばれる)を意味するのではないかというのはしばしば言われることである。

で、未だに天皇家は大国主命(出雲大社)に呪われている、と。
ちなみに、出雲大社に昭和天皇が来た際も、本殿への昇殿はなされなかった。出雲大社側が許さなかったのか、天皇側が遠慮したのか、それは知らない。

さて、大分脱線したおまけとして、最後に更にとんでもない脱線話がある。

出雲大社に到着したぼくらは、なんと三時間もならんで、やっと本殿を拝殿することが出来た。もちろん、昭和天皇がだめだったくらいだから、当然昇殿は不可であり、周りから覗き込むだけである。

本殿の天井には、色鮮やかな雲が描かれていた。普段大国主命の魂が鎮座しているといわれる場所は、ちょうど死角になっており、見えない。(※驚くべきことであるが、出雲大社はあれだけ巨大な神殿でありながら、左右非対称である。そうして、正門側からみて右奥の部屋が、大国主命の魂が座る部屋となる。こんな巨大建築、本当にどこでもみたことがない!神様の宮殿なのに、左右非対称なのだ!伊勢神宮も、明治神宮も、すべて左右対称である。)しかし三時間並んだわりには、大したことないものであるというのが、全体的な印象であった。退屈した親父が、突然近くにいた出雲大社の警備員に質問を始めた。 

「あの、この殿内というのは、だれが掃除するんですかねえ、宮司さん(国造)ですか?」
「いえ、宮司はそういうことはいたしません。」
「じゃあ、他の人?でも、昭和天皇でも入らなかったくらいでしょう?」
「ええ、そうです。本殿には誰も入れないんです。」
「じゃあ、掃除は誰が?」 

急に警備員が顔色を曇らせた。そうして、かなり戸惑い気味で、「それは、下の人たちが、」と付け加えた。 

「下の人たちって、それは、あれですかね、ええと、例えば非人の方とか?」 

がしゃんという大きな音がなる。警備員が真っ青になってトランシーバーを落っことしたのだ。母さんが大慌てで親父にやめなさい!と騒いでいる。ぼくは仰天した。多分それが図星だということにである。

母さんが謝ってあわてて親父を引きずり出して、事態は何事もなくすんだ。

しかし、なるほどこれは恐るべき話である。天皇は入れなくても、非人は中にはいれるという。これは恨みがどうのこうのいう話でもあるまい。網野善彦は『異形の王権』の中で、天皇と非人の深いつながりを指摘したが、聖と穢というのは、どこまでもコインの裏表なのかもしれない。

で、これは間違っても聖と穢ではないが、日と火(昼と夜)、天原と葦原(天上と地上)、伊勢と出雲(天皇と国造)、顕と幽(生と死)、すべてはコインである。出雲は天皇を呪い続け、天皇は出雲に許しを乞い続ける。この世界のすべてを認め、愛し鎮める太陽神と、この世界のすべてを認めずに荒ぶり復讐する祟り神。出雲は天皇(日本)の原罪である。でもいつの間にかそんなことは忘れてしまった。長い年月をかけて、日本の神(現人神)は天皇だけ、ということになってしまった。なにもそうなってしまったのが明治維新からであると結論付けて、そのまま安易な近代批判に結び付けようとしているのではない。あくまでも長い日本の歴史の中において、ということである。けれども我々が呪いと罪を忘れて愛と認めることだけに傾倒しがちなのは、いつの間にか出雲と幽の世界を忘れ、天皇と顕の世界だけになってしまったことと、必ずしも無関係ではないかもしれない。だってもうおれたち肉食ってんだから。否応なしに人傷つけちゃうんだから。どんなにコソコソ生きてても息すってたら空気汚しちゃってんだから。見ないふりしようたって無理なんだから。 



罪。祟り。呪い。これは出雲を忘れ、天皇だけをみて完璧な世界だと思い込もうとしたぼくたちへの、大国主命からの復讐だろうか。