2009年3月1日日曜日

泥棒

無機質な蛍光灯が、ちりちりと音をたてる部屋に男が二人座っている。ひとりは警察官。もうひとりは線の細い、いやに白い男。


「たかがパンひとつ、ここまでねばるとは思わなかったがね。」

「たかがパンひとつ、そう思うならもういいじゃないですかね。」

「そうはいかない、パンひとつでも盗みは盗み、事情を聞くのが俺の仕事だ。」

「そうだ、たかがパンひとつでも盗みは盗み。おれは確かにやってのけたのだ。」

「やってのけたと言ったな。初犯か。」

「そうだ。これが始まりなのだ。」

「始まりか。いったい何が始まるというのだ。」

「人生さ。」

「終わりの間違えじゃないのか。」

「いいや、確かに始まったんだ。刑事さん、あんたは人生を始めてすらいないんだぞ。」

「どこの刑事が万引きの聴取なんてするもんか。おれはヒラ巡査だ。」


立ち上がった巡査が窓の外を見る。激しい雨で、滲んだ信号の光がガラスに映る。しばし動かず。やがてブラインドを閉じる。男が口を開く。


「巡査は、給料はいいのか。」

「なんだ、巡査になりたいのか。」


男、だまって笑っている。


「普通だよ。サラリーマンさ。」

「なんのために働く。」

「家族のためさ。」

「子供がいるのか。」

「そうだ。子がパンを盗まぬように、おれが働くのだ。」

「金があっても盗みはするぞ。金があるからおれは盗んだのだ。」


しばし無言。

降りしきる雨の音の中、ゆっくりと男が話し始める。巡査、調書に書き取りを始める。


「働いてお金をもらう、そんな当たり前のことがどうしても嫌で仕方がないのだ。こんなことを言えば、人は腹をかかえて笑うだろう。笑ってくれてかまわない。それでもやっぱり、働いて金をもらうというのは、どうしても嫌な気持ちがするのだ。
おれは生まれて初めて人からうん十万の給料というものをもらい、なんだか頭を金槌で殴られたような気がしたよ。だいたい、こんなに金をもらって、いったい何をするというのだ。月曜から金曜まで、奴隷のように働いて、その見返りがこれか。この金を、土日で馬鹿みたいに使って、そうしてまた奴隷に戻れということか。

給料をもらってすぐ、同僚が、遊びに行こうとおれを誘った。土曜の街をぶらつきながら、阿呆みたいに服を買い、クッションを買い、グラスを買い、漫画を買い、インテリアを買う。同じようにしろというから、彼を習っておれも阿呆のように金を使った。そうして、一日の締めとして、女と遊ぼうという。『風俗か。』『ばかめ、女は街でつかまえるんだ。』そう言うが早いか、彼はもう二人組みの女に声をかけていた。

女におごってやり、いい気分にさせる。頬を赤くそめて、ネコのようになった女たちを尻目に、同僚がおれに囁く。 『女なんてのはな、一杯おごってやればまず誰でもやれるんだよ。』女たちは嬉しそうにきゃっきゃと騒ぎまわっている。『こないだね、私渋谷でマキシマムザホルモンとすれちがったんだよ』『えー!ほんとほんと!?いいなぁー!』彼もすかさず話題に滑り込む。『マジ!?それチョーヤバくね?りょっくん超すきなんだけど』

吉祥寺のホテル街を、男女四人で歩く。 『歩けなぁい』『ねーむーいー』女がしなをつくり、おれに寄りかかってくる。同僚の無遠慮な笑い声が、夜の街に響く。 

『な、こいつ面白いだろ?』
『うんー、私この人のことちょっと好きになっちゃったかもー、うふー』
『うは、ゆみ惚れやすすぎでしょ』
『ちょっとちょっとおまえきたんじゃねーのコレ?』 

同僚が肩をバンバンと叩く。おれは何を思ってたかって?気持ち悪くて仕方ないんだよ。少しおごっただけで簡単に股を開くクソ女ども。汚くて絶対にさわられたくないのに、女は酔ってなおさらしなだれかかってくる。

イライライライラと唇をかみながら、下をうつむいて歩く。


しかしおれは悟ったね。なるほど世の中というのは、そういう風にできていたのか。月曜から金曜まで、奴隷のように働くと、土曜と日曜に、甘くて美味しいお菓子が待っている。そいつを舐めたらまた月曜から奴隷の生活だ。金さえあれば、服も酒もマンガもゲームも、およそこの世界にあるものはなんだって買える。女の心だって買えるんだ。いったいこれは何のパロディなのだろうね。ぼくらはなんのために生きているんだろう。金があれば女とやれる、金がなければ女とやれない。ぼくの頭は憎悪と汚いものへの嫌悪感でいっぱいだ。5日奴隷になって、その対価として、2日酒と女がやってくる。で、酒と女をくれてやるから、きっちり奴隷になりなさいって言うのか。いったい誰がおれを奴隷にしてるんだ。金はなんのためにある?金は女を買うためじゃない。金はパンを買うためにあるのさ。

おれはいきなりぴたりと立ち止まって、びっくりした顔をしている女をつきとばした。そのまま一瞥もせずにバックれて、帰り道のコンビニでジャムパンを盗んでつかまり、そうして今ここにいるってわけさ。」


巡査、筆を止め腕を組み天井を仰ぐ。何かを考えている。


「はは、まだやっぱりよくわかんないみたいだな。いいかいおまわりさん、全部欺瞞なんだ。どいつもこいつもまったく嘘なんだ。あの女がおれを好いたのはなぜだ?おれが金をもっていたからか。おれが飯をおごったからか。毎日飯をおごってやれば、毎日やれるのか。そういうことを、結婚というのか。つまるところ、女って「もの」なのか?女ってのは男を奴隷にして死ぬまで働かせるために、この世界が造った愛玩人形なのか。そうしてその愛玩人形でオナニーをするためには、月曜から金曜まで、奴隷になるしかないってわけだ。この世界はおれたちに、「奴隷になったら、褒美に女をくれてやるぞ」と、そういう風にいってるんだ。世間の人々そんなことを指してやれ真実の愛だとか、やれ愛こそ全てだとか、欺瞞に満ちたことばかり言っている。おれはそんなもの願い下げだと、あのときはっきり思ったんだ。この世界の奴隷になったご褒美に、愛玩人形でオナニーするくらいだったら、真実の愛を求めて男と抱き合ったほうが百倍マシだろうってね。おれは人形を抱く趣味をもたない。おれは人間を好む。おれはパンのために働いたはずだった。そして同じ人間と、一緒に楽しく食いたかったんだ。それがなんだ。いつの間にかパンだけじゃ生活できないこの世界だ。誰のせいだ?誰がやってるんだ?おれにパンと、真実の愛をよこせ。綺麗な服も、うまい酒も、おもしろいインテリアも、愛玩人形も、文学も芸術も宗教も全部いらん。パンと、愛だけよこせ。なければ奪う。」


しばし無言。男、目がらんらんとしている。

巡査。


「しかしいくらおまえがいらんと言っても、女はおまえを好きになるぞ。おまえが嫌悪する女は、そういうおまえを、真実の愛で包むだろう。それでもおまえはまるで気づかず、ずっと愛に飢えるんじゃないのか。盗んだパンに愛はあったか。おまえの心は砂漠のようだが、女の心は澄んだ水だ。何もない人形ではない。」

男、巡査の話に耳を傾けず、興奮さめやらぬ様子。

いつの間にか雨は上がっている。




巡査、取調べの調書に「飢えのため」と書き込む。





(幕)