2009年6月2日火曜日

黒い自由


シンガポール人華僑のイェンおじさんは、いつも突然ふらふらと我が家に出入りしては哲学や政治の談義をして、ときどき飴玉をくれ、朝方ふらりと帰っていったものだった。


ぼくの父は早稲田で建築を学んでいた頃、華僑らの住むアパートに転がり込んで暮らしていたらしい。耳が聞こえない父にはデカイ声で話す中国人との生活が居心地がいいのだ。なにより親父にとって嬉しいのは、彼らは気を使わなかったということだ。いったいどれくらい気を使わないのかと言うと、このアパートの家賃を誰が払っているのかわからないくらいである。金があるやつが払う、ないやつは払わない、それが彼らの流儀だった。(※こういう中国人が、共産主義を選択したというのはすこぶる興味深い話である。日本人に共産主義は無理だ。日本人は気を遣いすぎる。)

日本人は無意識のうちに、相手に自分と同等の気遣いを求めるが、実は耳の聞こえない人間にとってこれはかなり困難な要求である。気遣いは世界一細やかな感性を持ち、空気を読むことに長けた日本人だからこそできる芸当なのだ。親父は華僑のほうが、日本人とよりもずっと気が合った。理由は単純で、障害者である父が、中国人とならば健常者と同じように話せたからだ。それに、同類を愛する日本人と生活するには、親父はいくらか個性が強すぎたし、また、当時の最底辺の生活、まさに貧乏のどん底のような生活が、普通の日本人といっしょに学生アパートに住むことを難しくしていた、ということも理由のひとつなのかもしれない。なにはともあれ父は、素性のしれない中国人華僑たちとひとつ屋根の下で大学の四年間を過ごすことになったのだ。

しかし共同生活を始めると、中国人はすぐに親父に迷惑をかけはじめる。料理洗濯、掃除……なにより酷かったのは論文の提出だ。連中は日本語が苦手なことにかまけて、翻訳しろ翻訳しろと、すぐ親父にたよってくる。親父もつっぱねればいいのだが、つい中国人のあの大袈裟な態度に折れて、親身になって助けてしまう。すると今度は翻訳じゃなくて、論文そのものをかけという。これが中国人である。結局親父と同期の早稲田大学中国人留学生の卒業論文は、ほとんど親父が書いたものになってしまった。

なかでもひどかったのがイェンという男で、親父に論文をかかせて、二階に女を連れ込んでいる。そうして、コトが終わると下着姿の女と降りてきて、「おう、悪いな山田、」とやるのである。

これが先ほど話にでたイェンおじさんだ。シンガポール随一の国営企業の御曹司であると同時に、その膨大な財産をたったひとりで全部食いつぶした。そうして無一文になって、去年だったか、一昨年だったか、カナダでひとり死んだ。なぜカナダかと言うと、極端に不精癖なイェンおじさんは、日本政府にも、シンガポール政府にも、出せば簡単に取れたはずの永住権申請を面倒がってしなかったからだ。「政府なんて関係あるか。他人なんて関係あるか。」そう言っていたイェンおじさんは、日本にも中国にもシンガポールにも見放され、全ての財産を失い、カナダでひとり、孤独に死んだ。

「ふん、ロクでもないやつだよ」酔っ払うと親父はよくイェンおじさんの話をした。ああいう男にはなってはいけない。ああいう男になれば不幸だ。親父は熱っぽくイェンおじさんの悪口をいった。そうして、しまいにはあんな男生きている価値すらないというのだ。そのくせ、ぼくから見れば、イェンおじさんは親父のほとんど唯ひとりの友達に違いなかった。それにどうして本当に嫌いだったら、どんなに忙しいときでもふらりとやってきたイェンおじさんを泊めて、酒杯を交わそうとするのだろう。イェンおじさんはリーカンユーのパーティで毎晩一本ウン万もするようなシャンパンを飲んでいたときも、全てを失って、財産はあの小さな毛糸の帽子ひとつだけになったときも、変わらず思い出したようにふらりと我が家にやってきた。そうして親父とムツカしい思想や政治の話をしては、気づくとスースー眠っていた。朝起きると大抵おじさんの姿はなく、毛沢東のようなひどい癖字で、辛うじて読める「また来る」との書置きだけがあった。

耳の聞こえず、日本人のうちに入り込めない親父と、徹底して自分のことしか興味のないイェンおじさん。不具者の運命は因縁のように絡み合う。親父はイェンおじさんを軽蔑したが、しかし親父の強烈過ぎる個性に口出しをしないのはイェンおじさんくらいなものだった。イェンおじさんは親父に興味をもたなかったが、けれども彼の破天荒な生き方に一切文句をつけず、放っておいたのは、親父くらいなものだったのかもしれない。

彼らは互いの人生に関心を持たず、時に憎悪すらしていたが、互いの自由だけはわかりあっていた。日本中どこへ行っても説教をされそうな勝手な人生を歩んでいる二人だったが、それゆえにこの二人が酒を飲み交わすときには、そのようなことは一切口にしなかったのだ。
事実親父は、イェンおじさんが全財産を失い、世界中から見放されていくのを目の当たりにしても、絶対に何も言わなかった。「おまえ、しっかりしろよ」とか、「きちんとやれ」とか、友人として言うべきといわれているようなことは、一切言わなかった。そうして、我が家の扉を閉ざすことも決してなかったのである。


親父はわかっていたのだろう。誰が何を忠告しようとも、イェンおじさんはそういう人生を歩んだに違いないのだということを。自分がどこに行っても不自由であるがゆえに、イェンおじさんの不自由もわかりすぎていたのである。運命、それはちょうど不自由な自由といったようなものだ。人間は重すぎる十字架のような過去を背負っているから、ちょっとやそっとで人生を変えることなんてできやしないのだ(誰かができるというのなら、それは彼がよっぽど軽い人生を歩んできた証拠である)。人は神に自由を与えられたが、おかげさまで互いをまるっきり分かり合えない存在になってしまった。


イェンおじさんの訃報をきいたときの、親父の顔をよく覚えている。笑いとも泣きともつかない、あの苦虫を噛み潰したような顔。「人は人に、何も言うことはできない……だけどなあ、とうとう死んだか。」外は見渡す限りの、果て無き真っ黒な自由。邪魔するものは何一つとしてない。君もぼくも、この世界に、永遠に一人ぼっちだ。