2017年4月22日土曜日

蕎麦屋


地元には愛すべき蕎麦屋があって、わざわざ遊びに来てくれた友達を時々連れていく。

新聞を読むおじさんから家族連れに部活帰りの高校生、果てはおひとりさまのOLまで、食事時はいつだって込み合っているから、お昼下がりとか、夕方とか、少しずれた時間帯に行く。

玉子焼きを注文して、日本酒を一杯やってから(王子は玉子焼きが名物なのだ。たぶん語呂合わせだと思う)しばし歓談して、盛り蕎麦を食べる。奮発するときは天ぷらの盛り合わせを食べる。誰かが天ぷらは揚げたてを、親の仇のように食えと言っていた。実際、蕎麦も天ぷらも着いた瞬間に食べるのがよいので話はそこで途切れてしまう。そうして、食べ終わったころには何を話していたかも忘れてしまう。その感じがいい。議論に迫中して味わうことを忘れるなんて無粋もいいところだ。そういうところが蕎麦が粋な食べ物だと言われるゆえんに違いない。得心してすする。

ネギについて。通は蕎麦湯に取っておくなどと言うが、ぼくは気にしない。大した量でもないので、つゆに入れてしまう。ただワサビを解くのだけはよくないと思う。香りが飛ぶ。直接少量を箸にとり、蕎麦につけて食うのがよろしい。取る量は二三本がよいなどというが、ここもさほどこだわらない。口の中でモグモグやってもいいと思う(´~`)モグモグ

蕎麦には付け合わせのお新香が付くが、冬には白菜で、夏にはぬか漬けのきゅうりに代わる。醤油を二、三滴かけて食べるのだが、一度誤ってソースをかけたことがある。あれは悲しかった。しかしこの蕎麦屋には竹輪揚げがあるのだ。竹輪揚げがあるなら、ソースが置いてあっても仕方がない話だ。あきらめて駄菓子風の味付けになったぬか漬けをたべる。

実は竹輪揚げどころか、ハムカツも、こんにゃくの田楽味噌もある。しかしカレーはない。これはギリギリのところだ。カレーやラーメンがあったら、立ち喰いそばになってしまう。でもハムカツや田楽味噌なら、蕎麦屋がやってても、サービス精神ということで許されるのではないだろうか。ぼくはこの蕎麦屋が好きで、この町の人間もこの店を愛している。それでいいんじゃないだろうか。

ところで一駅向こうの街に素晴らしくいい蕎麦屋が出来たというので行ってみたことがあるが、あれは馴染めなかった。三ツ星か何かで修業したという板前が作る?本格的な蕎麦屋という触れ込みで、まだ開業したばかりの店前には行列ができていた。蕎麦が出てきて驚いたのはつゆが出てこないことだ。蕎麦そのままの味を味わってほしいから、塩で食ってほしいという。面喰いながらも塩だけつけて食ってみると、確かに恐ろしく美味い。なんというか、甘みがある。周囲に座っている人もみな美味いと言っていた。

すごい蕎麦屋もあったものだなあと思ってお茶をすすっていると、後ろの席の声が聞こえてきた。テレビ局のプロデューサーらしき人が、どこかのお偉いさんらしき人を接待しているらしい。ここの店主がいかにすごい人で、使われている蕎麦がいかに貴重か、この店が経営者の中で有名な某雑誌の中で紹介されていたこと、さらには蕎麦湯の漆が如何にエレガントかまで、立て板に水を流すよう話していた。そんなにいい店だったのかと驚いた。冷静になってみると、座っている人に地元の人は誰一人いないようだった。そのあとお会計でもう一度驚いた。クレジットカードで払った。

それに比べて地元の蕎麦屋は特に語るべきところがあるものというわけではないがやはり落ち着く。なにより地元人に愛されているというのが良い。蕎麦は必ずここでなければならないというわけではまるでないのだが、小腹が減るとなんとなく立ち寄ってしまう。店主の感じもえばってるわけでなく、かといって工業的に蕎麦を作っているという感じでもない。「めっちゃ美味しかった」と感想を言うと「本当」と顔を少し赤らめ、嬉しそうにする。彼は蕎麦を作ることに誇りを持っているが、決して自意識を持っているわけではない。それがいい。この店の店主にとってはたかが蕎麦、されど蕎麦なのだ。

腹いっぱいになり、満足して友達と歩いているとこんな話になった。テレビについて。4Kテレビは気持ち悪い。自分の視力が5.0くらいあるんじゃないかというくらい、あらゆるものが鮮明に見えてしまう。人間の目は本当はこんな風に出来ていない。例えばぼくが仕事で漫画を描くとき、あえて背景は描かなかったり、彩度をだいぶ落としたりする。キャラクターが際立って見えるようにするためだ。恐らく人間の目はこれに近い。必要なところ以外はぼんやり見えるようにできている。しかし4Kは全部が主張する。背景がうるさい。くっきりしすぎている。

なるほど、と友達は言う。「少し違う話かもしれないが」と切り出す。音楽について。すべての楽器がよく分離して聞こえることは一見、無条件でよいことのように思われがちだが、それは本当に音楽的だろうかと。実はレッドツェッペリンのドラムは、リボンマイクひとつ(ひとつ!)で録音されていることがあったりして、決して分離がよい、くっきりした音とは思われないのだが、なんとも言えない熱量をかもしだしているじゃないか、と。

ぼくは応える。ビーチと温泉で知られるとある観光地に住んでいた子供のころ、海沿いのハイウェイをドライブしながら聴いていたカセットの音が好きだった。カーオーディオは決して音質が良いとは言えないし、外からは風の音がひっきりなしに入ってくる。にもかかわらずあの音はたまらなく感動的だったし、今もよく覚えている。それは単なるノスタルジーなのだろうかと。

二人の話のテーマは少しずつずれて、当てどなく綺麗な図形を描いていく。

ぼくらは鮮明なものよりも自然なものが好きなのかもしれないな、と言うと「ライトをばんばんあてた最近のグラビア、全然ボッキしないんだよねー」と友達が笑った。「蛍光灯だもんなぁ、影がないんだもの。ぺったりしててさ、確かに美人なんだけど、見るからに作り物で、あれならオリエント工業の方がいい」「わかる」ふたりで笑っていたら、子供が足元を駆けていった。もう春だ。

「おれはさ」ライダースジャケットの内側を見せながら友達が言う。「革ジャンが好きなんだけど、革ジャンって、バイクに乗るために作られたものなんだよ。それがさ、シルエットがスマートすぎると、なんか違うって思うんだよな。だってバイク乗りづらいもん。本物のヴィンテージはちょっと野暮ったいんだよ。そういう野暮ったいのを、ちょっと腹の出たテキサスのおっさんが、それしかないから着てる、そういうのがいいんだよ。どんなことも本来の用途を忘れたものは美しくないんだ」

「なるほど蕎麦屋に通ずるものがある」

「蕎麦屋って、さっきの蕎麦屋?」

「そう、あの蕎麦屋は美しいんだ。なんでって、所詮蕎麦はファーストフードだよ。腹を満たすために食うのであって、芸術でも娯楽でもない。あの蕎麦屋はそれを分かっている」

「人間は動物であることを忘れると、病んでくるんだよな」

ぼくは自分がサルとあまり変わらないってことを、あまり忘れたくないと思う。だけど人工的なものばかりで作られた都市の中で暮らしていると、だんだん忘れていってしまう。だから革ジャンは地面を転がってもよいものを着て、蕎麦は空腹を満たすために食べていたいと思う。そうしたら、ギターも自然な音が鳴る気がする。言葉にするのが難しいのだけれども、あの蕎麦屋のような、テキサスの腹が出たおっさんが着てる革ジャンのような、そんな感じ。




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