2019年2月15日金曜日

ナンバーガールに追憶を寄せて

おれは17歳のときにはじめてナンバーガールを聴いたんだけれども、本当の意味では初めて刺さったロックンロールかもしれなくて、それは「なんてカッコいいんだ」と思うと同時に、「なんて気持ち悪いんだ」という気持ちも少なからずあったように思う。向井秀徳の歌はとてつもなく甲高いスネアの音と、ごん太のモズライトベース、轟音をかき鳴らす金属じみたギターの向こう側でかすれるように風景の中の少女への憧憬と性的衝動への自問自答を叫ぶといったもので、まだ今ほどオタクが市民権を持っていなかった当時、少女に異常な執着を持つ向井の歌詞は客観的に見れば変質者以外の何物でもなく、それは一介の男子高校生がかのバンドが好きということを公言することを憚るのに充分な理由であったように思う。(TLが「あのころナンバーガールを聴いていたやつなんて全然いなかったのになんでこんなに盛り上がっているんだ」となっているのはこれが一因であるような気もする)。

いずれにせよ自分にとってナンバーガールは「ロックンロールってなんて恥ずかしくて、本当に恥ずかしいものはなんてカッコいいんだろう」ということを教えてくれた先生であり、そしてその恥ずかしさの理由は、ナンバーガールの音楽は向井氏が本来目も当てられない代物であるはずの自分の性的衝動と率直に真正面から向き合ってひねり出した音であるというところにあると考えられ、そういう意味で、生涯童貞を貫き妹への憧憬を文学にしたためた宮沢賢治の書く物語たちにも似ているかのように思えた。自分はナンバーガールや宮沢賢治を通して性的衝動や暴力衝動、つまるところの「リビドー」と言われるものが恥ずかしい、みっともない、醜いばかりのものではなく、こんなにもカラフルでサイケデリックな世界を描くことがあるのだということを知った。そのとき自分の人生は文学とロックンロールに捧げることになるだろうということをおれは天啓として受け取ったのだった。

平成も終わる今日2019年の世界において、性的/暴力衝動、つまるところのリビドーは、社会より無用の長物として烙印を押され、それをうまく扱えないことは彼が畜生にも等しい人間であるということの証明と化しつつあると、誰かがうそぶいていた。そんな中、ロックンロールといういわば暴動のイミテーションともいえる衝動音楽は次第に行き場所を失い、時代遅れの産物として息絶え絶え虫の息、博物館入りも目前の代物なのかもしれない。にもかかわらず、ナンバーガールがこんなにも根強く人々から支持され、その復活を歓喜の声をもって受け入れられていることは、ある種宗教的奇跡の光景のようにすら見える。「こんなにも、こんなにもロックンロールを未だに信じている連中がいたのか」とおれは流れるタイムラインに目を丸くし、舌を巻いている。

歳を追うごとに一人、また一人と友人たちがバンドをやめていった。それはどこをどう切っても、仕方のないことである。誰もが自分の人生を、ギリギリの決断の末選び取っている。他人がどうこういうものではないことは明白だ。ましてやロックンロールは芸術である。勝手にやって勝手にやめるというのが道理というものだろう。そんなことは百もわかっている。おれは今そんな話をしているのではない。ひょっとしたら寂しかったのかもしれない。初めてナンバーガールを聞いた帰宅ラッシュの東急東横線の中、「自分だけのロックンロールを信じる」と誓ったあの気持ちを、決して忘れたわけではない。しかし二十年近くも経てば、あの時信じた神が、本当に命を懸けるほどのものだったのか、それとも若者によく見られる一時的な情緒不安定やメランコリーに類するものに過ぎなかったのか、つまるところただの幻影にすぎなかったのか、次第に不確かなものへと変わっていく。性や暴力の衝動を美とするなんて趣味はどうかしている、いくら芸術家の手を経ても暴力は暴力に過ぎぬのであり、いくら美に描き変えところで倫理的に許されるものではないのだぞと脅迫する声は、日を追うごとに近くなってくる。軍靴の音が聞こえてくる。自分は流されてゆく。そんな感情はいっそなかったこととし、追憶と余生をもって大人の証としようとする。ついにはとうとう一度信じた神を手放そうとする。そしたらいったい自分に何が残るのか、きっと何も残らないさァ。生活して、排泄して、死ぬ。すべての人間はそうして生きてきたじゃないか。と、そこまで思いつめてもどうしても棄教できなかった信仰なのである。自分にとって、ロックンロールという神は。



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