この八坂神社を右折すると、途端に土産屋が消え、風情のない車中心の道になる。東大路である。ところが、人はこのくらいの方がよく喋る。あまりに物が多いと、人間はだんまりになる。ものがないから、どこからかおもしろいものを見つけてはぎゃあぎゃあ騒いでいる。コンクリートミキサー車があった。右から左に向かって横書きに記された「生コンクリート」という文字が、物陰に隠れる「リート」によってクンコ生もといウンコ生、生ウンコにしか見えない、そうしてあれは生ウンコを今から工事現場に流し込むところであるのだなどと言って、あやちゃんが一人でケタケタ笑っている。初めは相手にしないのだが、ずっと笑っているのでそのうち男たちも調子に乗り始め、焼きウンコならいいのか、そもそも何のために焼くのかなどと言ってつきあってやる。そうすると、あやちゃんはまた腹をよじって笑う。そうこうしているうちに道端の料亭に「雲古てんぷら」などとあったものだからたまらない。皆、大いに苦しむ。
ウンコウンコなどと騒いでいるうちに、突然左手に、三重塔が見える路地がある。このせまい小道を、てくてく上っていく。思ったより急だ。今度は皆無言である。左右には小さな店がいくつも並び、八つ橋やら飴玉やらを売っている。時折若い舞妓さんなども歩いていて、外人が奇声をあげながら勝手に撮影している。それらを無視してひたすら上った先が清水寺である。
清水寺はその外観はもちろん、その舞台から見る光景が美しい。数ある日本の絶景の中でも、最も美しいもののひとつに数え上げられるだろう。日が落ちるころに上れば、京都の町の向こうに夕日が沈んでいくのを見物することができる。ただ、手前には不恰好な京都タワーがひとつ、蝋燭のような姿でまぬけに建っていてそれだけが不愉快だ。
けれどもそれさえ無視すれば、こんなに美しい情景も他にあるまい。京都には高層ビルがない。みな、地面が見える高さである。人間にとって無理のない高さだ。平屋も多い。これらが整然とならんでいる。そして逆光で真っ黒である。その果てには嵐山がある。こちらも真っ黒である。そうしてその先には黄金色の太陽のほかない。
清水の舞台に立って町の方を見下ろせば、王になった気分になれる。吾が眼下に広がるこの国は、誰のものかと問いたくもなる。自分しかあるまい。ここに上るものは誰もが王だ。ひとり胸をはって腕組みをし、にやにやするものが後を絶たないという。ありそうなことだ。
一方、背後に広がるのは急峻な杉山だ。目の前に迫ってきて、今にもこちらに落っこちてきそうである。杉は枝落としをするから、幹のはらには枝がない。そうしてできた山の口は、真っ暗で底がなく、どこまでも吸い込まれていきそうである。山はぽっかりと口をあけて、今にも我らを飲みこまんと欲す。せっかく王の気分に浸っても、こうして後ろを振り向けばあっという間におしまいである。
清水寺の舞台は本堂を背に、左手に山、右手に街を臨む。その建築的役割は寺というよりもむしろ神社である。考え方は延暦寺に近い。寺はそもそも街の中にあるものだが、僧侶が世俗権力と結びつくようになってからは、市街地からは排除された。結果として寺は山に建立されるようになり、まるで神社のような役割を果たし始めた。つまり、鳥居がカミの世界への象徴的な門であり、参拝者は御神体を祈らず(そもそも神社にそんなものは存在しない)森と山に潜むカミゞを祈るように、寺もまた山におはす仏をまつるようになったのだ。これらは空海・最澄らがそれまでの教義中心の仏教に密教と禅を持ち込んだことと深く関わっている。空海は行によって大日如来と一体化することができると訴えた。大日如来とは一切の如来・菩薩・カミゞを包摂するいのちの根源である。こうしたカミゞが住むのは当然街ではない。山である。
清水寺はこうした、カミゞの世界と俗界を区別する境界として今も街の外れにちゃんと存在している。カミゞを鎮め、京の街に怒りと呪いが降りかからないように、そうして建っている。そう考えると、この剛健な建築も、荒らぶるカミゞの前ではあまりに心細いようにすら思う。人はどこかで後ろめたく感じる。我々はカミを犠牲にしてこの繁栄を成し遂げたのだと。しかし人はカミに何を託す?人は何を犠牲にしたのだろうか。人は、あの、杉山の飲み込まれるような闇の、一体何を恐れているのか。
山が、真っ黒な口をぽっかりあけて、今にもこちらを飲み込もうとしている。闇とは何か。光が正義で、闇が悪だなどというのは大変な間違いだ。闇には正義も悪もない。正義と悪は、光に照らされて、初めて明らかにしたものである。それはいわば秩序である。我々は正義が正義である理由をてんで知らぬ。二十一世紀になっても、殺人が悪い理由も、窃盗がよろしくない理由も、とんと説明できぬ。我々は殺人が悪い、ということにしている。それは闇が恐ろしいためだ。秩序にならないものが恐ろしいからだ。
真の闇を見たことがあるか。自分の身体すら、どこからどこまでだがまるでわからなくなってしまう。闇の中に、身体は溶けて、ついにはどこにもいなくなってしまう。死か?セックスに似ているかもしれない。
つまるところ、人間がセックスを忌避する理由はこれだ。セックスは人間の身体も心も溶かして、人はそのまま消えていなくなってしまう。セックスは極めて反社会的行動である。セックスは、闇を恐れ、忌避してきた人間への呪いだ。人間はセックスを犯罪にすることができない。人間が存在することができなくなってしまうからだ。だからできるだけ目に付かないところに追いやることにしたのだ。しかし、人間はそもそも闇のカオスシステムから現れてきたのだという事実を、我々は無視することができない。
そもそも個体生物学における寿命が、生殖と同時に誕生したのだとしたら、マスターベーションは自殺であるというバタイユの考え方を否定し、セックスこそが自殺なのだと、我々は理解しなければならない。生殖を終えれば、人間に生物学的な存在理由はもうない。寿命は遺伝子の自殺システムだ。我々はただ、後はその時を待つのみである。
人間が忌避するそれを、ぼくは愛す。闇。呪いとセックスに溺れて、血まみれになるがいい。心の壁なんていらないの。みんなセックスして闇に還ればいいわ。こわいの?でも、貴方は私から生まれたもの。私の子宮から、血まみれで生まれてきたのよ。それは死?それとも永遠?あの空海が見ていたものよ。この世界が太陽を作ろうとするならば、ぼくは月になろう。月はいつまでも太陽に憧れながら、いつも地球の反対側をおいかけっこしてる。そうして、いつまでたったって追いつきはしないのだ。
本堂をさらに進むと、もうひとつ小さめの舞台がある。奥の院という。ここからは、山を背にして本堂の舞台と京都の街を同時に臨むことができる。きっと、舞台と街を同時に見れたら、どれだけ美しいだろうかと思って作ったに違いない。ここからはあの人を食うような杉山は全く見えない。美を、宗教心と切り離したという点においては、この場所を日本人の近代的美意識の目覚めととることもできる。しかし当然そこには、カミゞを畏れる心は不在である。もはや人は闇を見ていない。人は太陽を作り出したのだ。
あのぽっかり開いた山の口。子宮だろうか。闇。人間は子宮が怖いのか。ぼくは本堂に戻り、この闇をしかとにらみつける。反対側には、灼きつくような黄金の夕日が、今にも京の街を飲み込まんとしている。ははぁ、とどのつまり、どっちを向いたって同じなのだ。だから人間よ、やがてこの真っ白な光の中に飲み込まれるがいい。自らが作り上げた太陽の、真っ白な闇の中に。