2008年3月28日金曜日

卒業式であった



大学の卒業式であった。出てる最中にだんだんうんざりして来て、式辞の最中に座ってしまう。そんなぼくの様子をみて、同級生の女子がクスリと笑う。ぼんやりしながら、ああ、あんまりこの学校も好きになれなかつたなあと思う。要は学校が嫌いなんだろう。卒業証書を奪いとるようにして、ひとりでこそこそ逃げ帰る。二度とこの学校に関わらないでよいという嬉しさより、ひとり逃げ帰る惨めさが勝る。無論卒業の喜びなどは、ない。

結局、どんな場所も都にはならないのだ、神を望むならばそうなのだ。ひとりでやろうというのは、どんな集団も居心地悪く感じるものだ、英雄ぶっているのでもニヒリズムでもなく、ただ単純に、そういうことだ。現実の世界に、神の国などあろう筈がないではないか。


会場を背にラジオの収録に小田原に向かう。


ホストがsunエドくんともうひとり、ナリくんと言う方。ゲストがおれとノーベンバース松本健吾。一時間の番組を二本収録。気のおけないやつらとは言え、ぼくは結局友達すら怖くてお道化てみせずにはいられない。ほら阿呆でズッコケのガンディだよと、ところがエドくんは梅酒をぐいとやって直視し、ガンディくん、おれらの前ではそれはよせという。ケンゴがニヤリとしながら頷く。こんなことを言うやつはいない。ぼくは素直に嬉しかったのだ。とっとと卒業式を逃げてきたかいはある。酒が進む。


ラジオでは、ポップとは何かということと、北村透谷を話した。

血走った目で、エドくんが聞く。ガンディくんはなぜ売れる音楽をやらぬ?と。

答じて、ぼく自身はポップを愛すのだが、下手すぎてどう頑張ってもノイズになってしまうのだよ、と。
それはなぜだい?

身体が思い通りに動かんのさ。

どうして?

ぼくは身体を呪ってるのさ。精神の身体に対する復讐さ。

だから君はセックスに行き着かないの?

身体と精神が分裂してるんだ。言うことをきかないんだよ。

君は化粧をするのは?

ぼくの男女が分裂するからさ。

女は?

身体。





総じてこんな話であったように思う。音声編集のひとが、一所懸命手慣れた様子で編集をしている。みんな普通の調子だ。ぼくはラジオでこんな話をさせてもらえていることに心底びっくりしているというのに。


今一度、エドが問う。


今流れてるのは町田町蔵だけど…ガンディくん、町田康は読むの?

いや。

どんなの読むの。

今は北村透谷にはまってるよ。

どうして?

政治と文学が直結してる。

どういうこと?

二葉亭四迷にしろ透谷にしろ、大宰なんかもそうだしあげれば本当にきりがないが、昔の物書きはみんな政治運動をやっていた。それが文学にはっきりと出るのだ。自分の苦悶と同じだ。安吾にしたって漱石にしたって谷崎にしたってみんな日本について論じる。三島は言うまでもない。ところが今の文学はその苦悶がない。恐らく1968年あたりがターニングポイントだったのではないか。松本健一が言うが、それまでの、日本人の欧米に対するコンプレックスが消えはじめたのは1945年ではなく、高度経済成長を遂げ東京オリンピックを成功させた1968年あたりだ。そのあたりを境に学生運動もなくなり文学から政治は消えた。恐らくその最後が三島だ。なるほど確かに文学から大言壮語を唱う輩は消えた、しかしずいぶんとスケールは小さくなり、ぼくはそのような文学に何の興奮も感じえないのだ、と。

簡単なことだ、芥川に勝てる芥川賞作家がただひとりでもいるのなら、ぜひ引っ張ってきて頂きたい。


そんな話をした。しかしそこで時間が来てしまった。

再びエド。

ガンディくん、最後に、悲鳴誰に一番聴いてもらいたい?

死にたい高校生。

なんで?

死にたい高校生だったから。

じゃあ一言。

死ぬなよ。


我ながら物凄く恥ずかしい台詞を言ってしまった。赤くなる。恥ずかしさのあまり音が割れるほどデカイ声でいってしまった。余計恥ずかしい。エドのやつが追い詰めるからだ。そうこうしていると突然、ケンゴマツモトが「死ねえ~」と奇声をあげた。そこでエンディング。

最低の終わり方だ(笑)


それにしても、本当にこんな話をしていいのか。視聴率は大丈夫か。心配になる。だがもし、評判が決して悪くなかったなら是非またお願いしたいものだ。とても楽しかったのだから。



帰りの東海道線の中で、腕組みして考える。ぼくには何が正しくて、何が間違っているかなんてひとつもわからない。どうして人を殺してはいけないのかも知らない。末期ガンで苦しんでる人を殺しちゃいけないのか、悲しむ人が誰ひとりいなくて自分も死にたいという人を殺しちゃいけないのか、わからない。

ぼくにはわからない。何が正しくて何が間違っているかなんてわからない。こんな大学に来てしまったことが果たして正しかったのか、間違っていたのか、全然わからない。あの時、このつまらない大学に来ることを選択したのは、間違った選択だったのか、わからない。

けれども、例えどれだけぼくがこの大学を憎んだとしても、この大学に来てしまった事実だけは消せないのだ。


だから、ぼくはその過去を受け入れよう。ぼくには何が正しくて、何が間違っているのかなんてわからないから、自分のやってきたことを信じよう。カルマのように、過去の自分に突き動かされる自分を信じよう。


ぼくにはわからない、正しいことと間違っていることが。だからきっと、ぼくは自分の過去に照らしあわせて、その都度、正しいと思う方を選択してきたのだ。人は神ではないから、人は何が正しくて何が間違っているかなんてわからないから、過去に縛られ生きていく。それは全知全能の絶対間違わない神を捨て、自分のみを信じて生きる、今まで生きてきた自分のみを神とするということである。


そうして、その自分の過去を愛するにせよ憎むにせよ、人は「かつてその過去を生きた」という事実だけは決して消すことはできない。人は永遠に自分の過去に呪縛され続ける。そうしてもし、自分に理想的な自分を望むならば、愛するためのハードルは高くなっていく。まして完全(神の国)を望むのならば、どんな世界も拒否せざるを得ないだろう。



今日も月が綺麗だね。
東海道線から。














2008年3月12日水曜日

殺し合いの作法


父も母も戦中派である。もっとも、母は昭和19年生まれであるから、全く記憶はないという。父は昭和13年であり、空襲にあった記憶もある。この父の戦争の記憶が面白い。例えば戦中と言えば食糧難ということがよく言われるが、ははぁ、食糧難と言うのは実に相対的なもので、要は気持ちの問題だよ、父は言う。つまり確かに米はない。しかし米がなければ芋を食えばよい話で、芋がなければ虫を食えば済む話である。そうして、さすがに虫がないということはなかったということである。ちなみに親父に言わせると本当に食料がなかったのは終戦直後で、GHQが交通を遮断してしまったので、東京からは虫すらなくなったという。

バッタやコオロギは炒めるとなかなかうまいんだ、楊枝で歯をしーしーしながら、太鼓腹をぽんと叩いて父は言う。ときどきカマキリが混ざっており、これは硬くて食いづらい。しかし食えないものでもない。ゲンゴロウや大体の幼虫などもいけるという。フライパンについそこでとってきた虫をざあっと入れてね、ばん、と蓋をする。しばらく中でばたばたしている。静かになったらもう食いごろだよ。小さいころから食卓でよく聞かされた話である。なにも食卓で話さなくてもよかろうに。

原っぱで野草をとってざるに入れていると、ずっと向こうからアメリカ軍の戦闘機がぷーんと音をたててやってくる。それでタイミングを見計らって、そろそろ来るかな、というころになったら橋の下に避難する。そうすると、その上を、ダダダダダ、と機関掃射してゆく。それでまたのそのそ出て行って、野草をとっている。しばらくすると、またやってくる。一度やってきた戦闘機は、必ず帰ってくるのだという。それでまた橋の下に非難する。このタイミングが難しい。いちいちあまり早く逃げ込んでては仕事にならないし、遅ければこの世とおさらばだ。慣れてくれば見ないでも音だけでタイミングがわかるようになる。それで橋の下でしゃがんでいると、またダダダ、とその上を機関掃射してゆく。橋の下から這い出てくると、パイロットがこっちに向かって笑いながら手を振っている。表情がわかるくらい低空で飛んでいるのだ。それでこっちも手を降り返す。そうしているうちに飛行機は行ってしまう。それでまた野草をとる。まあもちろん、運が悪かった場合は死ぬ。友達も何人も死んだ。


このような話は、戦後民主主義の何でもかんでも戦争は悪だ、空襲は恐ろしいというお決まりの言説に隠されてしまって、めったに聞くことができない。


もうひとつ、よく心に残ったエピソードを話そう。ある空襲の夜のこと、高射砲が爆撃機を一機撃墜した。アメリカ軍のパイロットが、落下傘で降りてくる。で、市街地でこういった状態になった場合はほとんど、下からの機関射撃で空中で撃たれて死ぬことになる。ところがこのパイロットは完全にラッキーで、運良く撃たれずに地面までおりることができた。そうして、地上におりて、日本人の民衆がわーっと彼に駆け寄っていこうとした瞬間、空に零戦が現れたという。父は、即座に、あ、撃たれる、と思ったのだそうだ。ところが零戦のパイロットは、コックピットから、ただ、だまって地上でよろめく彼に敬礼をしたのだという。そして、米兵の方も、ただ黙って背筋を伸ばし、零戦に向かって敬礼をしたのだという。




その後のことは記憶がない。




このような話を聞くとき、ぼくはいつも、不思議でありながらどこか納得してしまうのである。テレビやメディアが、絶対に言わない戦争の真実を、どこかで垣間見てしまうのである。


バトルロワイヤルやリアル鬼ごっこ、ソウ、キューブといった気持ちの悪い映画作品が繰り返し作られている。これらの作品群はただ理不尽なシチュエーションの元で登場人物に殺し合いをさせる。どうしてこれほど理不尽な状況に追い込まれていかざるを得なかったのかについては一行たりとも説明がない。これらの作品は芸術作品ではなく、ただ観客の性欲を満足させるだけのポルノである。

ただ、戦争はポルノではない。戦後常に悪魔のようにしてしか描かれてこなかった軍首脳、傲慢なる憲兵、そして常に神であった天皇にすら、ギリギリの状況の中でギリギリの判断があったはずだ。零戦のパイロットと、B29のパイロットが、ほんの一瞬に交わした敬礼─いわば殺し合いの作法とも言うべきものが、戦争にはある。


異常犯罪者と言われる人間が、最早異常とはいえないほど次から次へと現れてくる。綺麗な女の子の首をのこぎりで切ったらどれほど楽しいだろうなあ、というのは正直よくわかる。上記の作品群─バトルロワイヤルやリアル鬼ごっこ─がポルノ作品として大ヒットしているところを見ると、そう思ってるのはどうやらぼくだけではないだろう。ぼくらは闇との付き合い方を知らない。そう、ぼくらの世界には生まれたときから闇はなかった。少年Aの生まれた街、須磨ニュータウンにはパチンコや風俗といった猥雑の臭いが全くない。親父はこの街に仕事で何度もいっているのだというのだが、印象としてはとにかくまぶしいのだという。そうして、このまぶしい街の中で唯一薄暗い場所が、タンク山だというのは、出来すぎた話だろうか。

人間の心理は膨大な無意識という闇と、その上に乗ったごく小さな意識から出来ている。それはまるで、巨大な森を開拓し、小さな都市を作り上げていった人類の歴史のうつしのようでもある。我々は、木を切り倒し、森と都市の境界に結界を張った。神社である。人間は常に神社を通して、都市の外を畏れた、カミゞの世界を。それは他者の世界である。都市を勝手のわかる自己の世界だとするならば、その外は手探りの闇である。

ところが、都市に生まれた我々は、生まれつき闇を知らない。この都市の外が、巨大な森であることをしらない。闇との付き合い方を知らない。闇との付き合い方とを知らないということは、カミゞ、即ち他者との付き合い方をしらないということである。ぼくは、君が、ぼくのことを馬鹿にしているんじゃないかと思って、いつだって怖くていてもたってもいられない。しょうがないから昼間からエビスあおって君と話すよ。ごめんね。君はそんな人じゃないのに。それでも怖くてたまらないから、ぼくは自分の殻に閉じこもるんだ。ここだけがぼくの居場所だ。仕方がないじゃないか。闇となんて一度も話したことがなかったんだから。今まで誰も教えてくれなかったんだから。先生も教科書もみんな、つじつまが合うように、この世界の全てはまるで何でもわかっているかのように書いてあったんだ。ぼくはそれを真面目に勉強していただけだよ。今更ぼくの中に入ってこないで!ぼくは頑張ったんだから、これでいいんだ。セックスなんてしたくない。君のことが怖いもの。この世界から引きずり出さないで。どうせ君も最後にはぼくのことを裏切るのさ。だからさあさっさとどこかに消えてよ。現実なんていらないの。そうして私なんてどこかでのたれ死ぬがいい。


ところが、無意識を抑圧すれば、その軋轢は必ずどこかに現れると言う。まあだから、それがバトルロワイヤルみたいなポルノだったり、異常犯罪だったりする。それがぼくらの現実の限界だ。


戦争賛美?もってのほかだよ。あんなこと、二度とおきちゃいけないって心から思っているんだ。けれど、ぼくはいつも思うのだ。悪魔のような軍部。傲慢な憲兵。罪のない民衆。全部嘘だろう?そんなことばかり言って、しまいには主人公に「生きろ!」なんて叫ばせるから、ぼくにはますますこの世界が虚構にみえてくる。この世界から闇を隠蔽しているのは誰だ。あの零戦のパイロットと、B29のパイロットの敬礼に気づかれると都合の悪いやつはどこにいる?このうすっぺらな世界を八つ裂きにしようとすることで右翼と呼ばれるなら大歓迎である。そんなものよりぼくは殺し合いの作法に興味がある。あの闇への敬礼に興味がある。






セックスなんてしたくない。君のことが怖いもの。


嘘つき。本当は私とセックスしたいくせに。私と消えてなくなりたいと思っているんでしょう?

残念ね。私は貴方じゃないわ。だからひとりで死になさい。















2008年3月10日月曜日

闇とセックス


烏丸の方からずっと歩いてきて、四条大橋を越えると漬物屋や茶碗屋などがふえ、次第に観光客でにぎわってくる。人ごみの中を、もみくちゃになりながら先へ進むと突き当たりに八坂神社がでんと構えている。春は桜が見事だそうだが、残念なことにその季節はまだだ。しかし森の緑は深い。

この八坂神社を右折すると、途端に土産屋が消え、風情のない車中心の道になる。東大路である。ところが、人はこのくらいの方がよく喋る。あまりに物が多いと、人間はだんまりになる。ものがないから、どこからかおもしろいものを見つけてはぎゃあぎゃあ騒いでいる。コンクリートミキサー車があった。右から左に向かって横書きに記された「生コンクリート」という文字が、物陰に隠れる「リート」によってクンコ生もといウンコ生、生ウンコにしか見えない、そうしてあれは生ウンコを今から工事現場に流し込むところであるのだなどと言って、あやちゃんが一人でケタケタ笑っている。初めは相手にしないのだが、ずっと笑っているのでそのうち男たちも調子に乗り始め、焼きウンコならいいのか、そもそも何のために焼くのかなどと言ってつきあってやる。そうすると、あやちゃんはまた腹をよじって笑う。そうこうしているうちに道端の料亭に「雲古てんぷら」などとあったものだからたまらない。皆、大いに苦しむ。

ウンコウンコなどと騒いでいるうちに、突然左手に、三重塔が見える路地がある。このせまい小道を、てくてく上っていく。思ったより急だ。今度は皆無言である。左右には小さな店がいくつも並び、八つ橋やら飴玉やらを売っている。時折若い舞妓さんなども歩いていて、外人が奇声をあげながら勝手に撮影している。それらを無視してひたすら上った先が清水寺である。

清水寺はその外観はもちろん、その舞台から見る光景が美しい。数ある日本の絶景の中でも、最も美しいもののひとつに数え上げられるだろう。日が落ちるころに上れば、京都の町の向こうに夕日が沈んでいくのを見物することができる。ただ、手前には不恰好な京都タワーがひとつ、蝋燭のような姿でまぬけに建っていてそれだけが不愉快だ。

けれどもそれさえ無視すれば、こんなに美しい情景も他にあるまい。京都には高層ビルがない。みな、地面が見える高さである。人間にとって無理のない高さだ。平屋も多い。これらが整然とならんでいる。そして逆光で真っ黒である。その果てには嵐山がある。こちらも真っ黒である。そうしてその先には黄金色の太陽のほかない。

清水の舞台に立って町の方を見下ろせば、王になった気分になれる。吾が眼下に広がるこの国は、誰のものかと問いたくもなる。自分しかあるまい。ここに上るものは誰もが王だ。ひとり胸をはって腕組みをし、にやにやするものが後を絶たないという。ありそうなことだ。

一方、背後に広がるのは急峻な杉山だ。目の前に迫ってきて、今にもこちらに落っこちてきそうである。杉は枝落としをするから、幹のはらには枝がない。そうしてできた山の口は、真っ暗で底がなく、どこまでも吸い込まれていきそうである。山はぽっかりと口をあけて、今にも我らを飲みこまんと欲す。せっかく王の気分に浸っても、こうして後ろを振り向けばあっという間におしまいである。


清水寺の舞台は本堂を背に、左手に山、右手に街を臨む。その建築的役割は寺というよりもむしろ神社である。考え方は延暦寺に近い。寺はそもそも街の中にあるものだが、僧侶が世俗権力と結びつくようになってからは、市街地からは排除された。結果として寺は山に建立されるようになり、まるで神社のような役割を果たし始めた。つまり、鳥居がカミの世界への象徴的な門であり、参拝者は御神体を祈らず(そもそも神社にそんなものは存在しない)森と山に潜むカミゞを祈るように、寺もまた山におはす仏をまつるようになったのだ。これらは空海・最澄らがそれまでの教義中心の仏教に密教と禅を持ち込んだことと深く関わっている。空海は行によって大日如来と一体化することができると訴えた。大日如来とは一切の如来・菩薩・カミゞを包摂するいのちの根源である。こうしたカミゞが住むのは当然街ではない。山である。

清水寺はこうした、カミゞの世界と俗界を区別する境界として今も街の外れにちゃんと存在している。カミゞを鎮め、京の街に怒りと呪いが降りかからないように、そうして建っている。そう考えると、この剛健な建築も、荒らぶるカミゞの前ではあまりに心細いようにすら思う。人はどこかで後ろめたく感じる。我々はカミを犠牲にしてこの繁栄を成し遂げたのだと。しかし人はカミに何を託す?人は何を犠牲にしたのだろうか。人は、あの、杉山の飲み込まれるような闇の、一体何を恐れているのか。

山が、真っ黒な口をぽっかりあけて、今にもこちらを飲み込もうとしている。闇とは何か。光が正義で、闇が悪だなどというのは大変な間違いだ。闇には正義も悪もない。正義と悪は、光に照らされて、初めて明らかにしたものである。それはいわば秩序である。我々は正義が正義である理由をてんで知らぬ。二十一世紀になっても、殺人が悪い理由も、窃盗がよろしくない理由も、とんと説明できぬ。我々は殺人が悪い、ということにしている。それは闇が恐ろしいためだ。秩序にならないものが恐ろしいからだ。

真の闇を見たことがあるか。自分の身体すら、どこからどこまでだがまるでわからなくなってしまう。闇の中に、身体は溶けて、ついにはどこにもいなくなってしまう。死か?セックスに似ているかもしれない。

つまるところ、人間がセックスを忌避する理由はこれだ。セックスは人間の身体も心も溶かして、人はそのまま消えていなくなってしまう。セックスは極めて反社会的行動である。セックスは、闇を恐れ、忌避してきた人間への呪いだ。人間はセックスを犯罪にすることができない。人間が存在することができなくなってしまうからだ。だからできるだけ目に付かないところに追いやることにしたのだ。しかし、人間はそもそも闇のカオスシステムから現れてきたのだという事実を、我々は無視することができない。

そもそも個体生物学における寿命が、生殖と同時に誕生したのだとしたら、マスターベーションは自殺であるというバタイユの考え方を否定し、セックスこそが自殺なのだと、我々は理解しなければならない。生殖を終えれば、人間に生物学的な存在理由はもうない。寿命は遺伝子の自殺システムだ。我々はただ、後はその時を待つのみである。


人間が忌避するそれを、ぼくは愛す。闇。呪いとセックスに溺れて、血まみれになるがいい。心の壁なんていらないの。みんなセックスして闇に還ればいいわ。こわいの?でも、貴方は私から生まれたもの。私の子宮から、血まみれで生まれてきたのよ。それは死?それとも永遠?あの空海が見ていたものよ。この世界が太陽を作ろうとするならば、ぼくは月になろう。月はいつまでも太陽に憧れながら、いつも地球の反対側をおいかけっこしてる。そうして、いつまでたったって追いつきはしないのだ。

本堂をさらに進むと、もうひとつ小さめの舞台がある。奥の院という。ここからは、山を背にして本堂の舞台と京都の街を同時に臨むことができる。きっと、舞台と街を同時に見れたら、どれだけ美しいだろうかと思って作ったに違いない。ここからはあの人を食うような杉山は全く見えない。美を、宗教心と切り離したという点においては、この場所を日本人の近代的美意識の目覚めととることもできる。しかし当然そこには、カミゞを畏れる心は不在である。もはや人は闇を見ていない。人は太陽を作り出したのだ。


あのぽっかり開いた山の口。子宮だろうか。闇。人間は子宮が怖いのか。ぼくは本堂に戻り、この闇をしかとにらみつける。反対側には、灼きつくような黄金の夕日が、今にも京の街を飲み込まんとしている。ははぁ、とどのつまり、どっちを向いたって同じなのだ。だから人間よ、やがてこの真っ白な光の中に飲み込まれるがいい。自らが作り上げた太陽の、真っ白な闇の中に。