「打ちつける怒涛のように煙が噴出してきた。真っ黒い泥濘と泡と飛び散る土くれ、石や氷の塊からなる涙。うなりをあげて跳ぶ飛沫と、轟々たる爆発物のガスからなる竜巻と共に五重の死がやってくる。彼の目は大きく見開かれ、心臓は一斉に広がり、再び燃えながらはじけて縮み上がる。……神代、大地は融けてはじける泡の立つ粥かぬかるみに姿を変えてしまったのだろうか。爆発したガスと圧力と内部の溶岩流によって垂直に宙へと吹き上げられているのだろうか。それは汚物と吐瀉物からなる大洪水なのだろうか。」
(F.Schauwecker)
私たちは放出を必要とした。流れるもの、私の中に流れる熱を帯びたどろどろの粥状の血液が沸騰し、射出する先を求めて体内を循環した。身体から流れ出るとは、一体何が流れ出るのだろう。我々の身体には、一体何が流れているというのだろう。涎、涙、血液、精液、吐瀉物、糞便、これらを沸騰させ、流れ出すことを必要とする火鍋とは一体何なのだろうか。確かに、精液は射出されるべき粥状の血液そのものであった。ペニスというリボルバーから撃ちだされた沸騰する血液は、必ずや敵を見つけ出し殺戮することで満足する必要があった。どうしても敵がなければ自らを殺戮する。こうしてオナニズム(ナルシズム)とマゾヒズムの連帯が、自明のものとしてしてそこに生まれる。
人間の身体に、ナイフを突き刺す時に得られる興奮と、同じくペニスを突き刺す時に得られる興奮は、言うまでもなく同様のものである。拷問や剣闘士の闘いは、常に上流貴族にとって最上級のポルノグラフィであった。そうして、恐らく他の生物種に見られぬ人という種のだけの異常な偏執狂的な行動の本源は全てこれだ。流れ出し、溶解させ、破滅する。(させる。)敵が、敵が必要だ。敵だけが私たちの血液を受け入れてくれるからだ。戦争と革命、これらは全て射精のためのものだ。流出する血液をこぼす受け皿だ。それらは全て、平和だの正義だのというよくわからぬ大義名分のために行われたのであるが、本当のところは射精がしたかっただけのことであった。平和だの正義だのというのは堂々たる射精の大義名分に過ぎぬ。平和な世界に住む私たちには射精の大義がない。敵を見つけることすらできなかった私たちは、オナニズムそしてマゾヒズムにだけ逃げ場を求めた。繰り返し行われる自らの手による血液の流出。行き場をなくして沸騰したそれは、自らに銃口を向けてまでも流出を求めたのだ。性器的な快楽と性的な快楽は異なるが、性的な快楽におけるオナニズム・マゾヒズムは、恐らく本来的なオナニズム・マゾヒズムのひとつの(最も手軽な)回路に過ぎない。オナニズム・マゾヒズムの本性は、性的な回路という目に見える氷山の下に、巨大な抑圧回路を持って潜んでいる。自らのオナニズムを笑うな。私たちの中に流れるどろどろの血液は、外から強くぎゅうとおされることで、圧力鍋の中の粥のように沸騰し、煮えたぎり、やがて爆発と放出を求めていた。貴方はそれを直視することを恐れた。直視すればすなわち、たちまちにして貴方の血液は身体中の穴と言う穴からあふれ流れ出し、貴方は溶解し、世界と同じになり、消えてなくなってしまうに違いないからだ。あなたはそれを恐れるがゆえに笑った。青ざめたまま、笑ってそれに蓋をした。
かつて性が性器的なものにすぎなかった時代、性はタブーではなかったのだが、しかしやがて性が私たちの身体の中に流れる血液と結びつき始めたとき、性は恐るべき人間世界の自滅と崩壊への可能性として忌避されるに至ったのだ。しかしながらそれは、決してなくなったわけがないのであって、実際に沸騰し、流出する先を求めて荒れ狂うように体内を循環し始めた血液は誰にも止めることはできないのだ。そうして、二十世紀は戦争と革命の世紀であった。人々は流れ出すために、戦争し、革命したのだった。
私の血液は、私の外に出ることを求める。私の魂は、私の外に出ることを求める。私は、私の外に出ることを求める。それは死ぬということだろうか。それとも、人ならぬ神類の誕生だろうか。