2018年7月18日水曜日

大麻考

ぼく自身は大麻をやったことはないのだけれど、昔よくやっていたという友達がいる。

大麻を吸うとカラダから魂が抜け出て、だだっ広い宇宙空間のド真ん中に連れて行かれるという。そうして、"すべて"が分かるのだそうだ。"すべて"というのは、言葉の通り"すべて"だそうで、人生の意味から宇宙の真理までの"すべて"が分かってしまうというのだ。

ところがこの"すべて"、大麻が抜けるとスッカラカンに忘れてしまうらしい。勿体ない、覚えていれば教祖にもなれたろうに。諦め切れない彼は思いつきで一計を案じた。手元に鉛筆とノートを置いたまま葉っぱを吸って、"すべて"が分かった瞬間に書き留めようというのだ。

さっそく煙をくゆらせて天井のシミを見つめていると、間もなくその瞬間はやって来て、次第にシミがそこにあった意味、それが伝えようとしていること、シミと自分の1000000年にも及ぶ因果などがゆっくりと了解されてきた。なるほど"すべて"は初めからそこにあったのだと彼は理解した。早速ノートに書き留める。「すべてが分かった。すべては初めからそこにあったのだ」

さて、正気を取り戻してノートを見てみるとなんのことはない、ミミズが捩れたような文字でたった一行「すべては初めからそこにあったのだ」とあるばかりだ。これには随分ガッカリしたそうだ。

大麻をやっているときの感覚は、夢の中に近いらしい。ある程度の明確な意識があるという点においては明晰夢というのがより正確だろうか。魂が肉体から幽体離脱して、自由に物事を考えはじめる。「質量のない世界では、物理法則に縛られたこの世界とはまるで考え方が異なるんだ」

「あの世界では」半信半疑で聞いているぼくを尻目に喋り続ける。「どんな些細なことも感動的だし、全てに意味があるんだ。そして、どうしてぼくらが今、そう感じられないかと言うと、忌々しいこの肉体が、ここに在るからなんだ。ぼくらは骨の軋みや血液の逆流、内臓の膨張、凡ゆる重さの在ることに意識を混濁させられて、この世界を何一つ正確に感じ取ることは出来やしない。マリファナはそれを解放してくれるんだ。重さがなければ"すべて"が了解される。そう、本当に"すべて"なんだ」

大麻をやって魂が抜ける度、彼はいつも「ああ!そうだったのか!」と叫んでしまうと言う。なぜこんなにも簡単なことが今まで分からなかったのかと、自分で気づいて一人で驚いてしまうのだ。そして何となくだが、もう自分は何億回もこんなことを繰り返していて、毎回魂が抜ける度に今は何億何万何千回目で、「"また"だ!またオレは、生きているうち気づけなかった!」と思うのだそうだ。

宇宙の中心に引き摺り出されて、創造神の前で彼は問われる。神さま:「何回目だ?」彼:「72億5386万0294回目です」神さま:「また気づけなかったな」彼:「ハイ…」重さのある内にこれに気づけないのがカルマというもので、人はそれぞれ重さのある内に自分のカルマを克服する必要がある。そして、全部のカルマを乗り越えたときにようやく解脱するんじゃないだろうか、オレはそう思うよ、だって神さまに「やり直し」って言われたもん、それだけは覚えてるもん、と彼は言った。





2017年4月22日土曜日

蕎麦屋


地元には愛すべき蕎麦屋があって、わざわざ遊びに来てくれた友達を時々連れていく。

新聞を読むおじさんから家族連れに部活帰りの高校生、果てはおひとりさまのOLまで、食事時はいつだって込み合っているから、お昼下がりとか、夕方とか、少しずれた時間帯に行く。

玉子焼きを注文して、日本酒を一杯やってから(王子は玉子焼きが名物なのだ。たぶん語呂合わせだと思う)しばし歓談して、盛り蕎麦を食べる。奮発するときは天ぷらの盛り合わせを食べる。誰かが天ぷらは揚げたてを、親の仇のように食えと言っていた。実際、蕎麦も天ぷらも着いた瞬間に食べるのがよいので話はそこで途切れてしまう。そうして、食べ終わったころには何を話していたかも忘れてしまう。その感じがいい。議論に迫中して味わうことを忘れるなんて無粋もいいところだ。そういうところが蕎麦が粋な食べ物だと言われるゆえんに違いない。得心してすする。

ネギについて。通は蕎麦湯に取っておくなどと言うが、ぼくは気にしない。大した量でもないので、つゆに入れてしまう。ただワサビを解くのだけはよくないと思う。香りが飛ぶ。直接少量を箸にとり、蕎麦につけて食うのがよろしい。取る量は二三本がよいなどというが、ここもさほどこだわらない。口の中でモグモグやってもいいと思う(´~`)モグモグ

蕎麦には付け合わせのお新香が付くが、冬には白菜で、夏にはぬか漬けのきゅうりに代わる。醤油を二、三滴かけて食べるのだが、一度誤ってソースをかけたことがある。あれは悲しかった。しかしこの蕎麦屋には竹輪揚げがあるのだ。竹輪揚げがあるなら、ソースが置いてあっても仕方がない話だ。あきらめて駄菓子風の味付けになったぬか漬けをたべる。

実は竹輪揚げどころか、ハムカツも、こんにゃくの田楽味噌もある。しかしカレーはない。これはギリギリのところだ。カレーやラーメンがあったら、立ち喰いそばになってしまう。でもハムカツや田楽味噌なら、蕎麦屋がやってても、サービス精神ということで許されるのではないだろうか。ぼくはこの蕎麦屋が好きで、この町の人間もこの店を愛している。それでいいんじゃないだろうか。

ところで一駅向こうの街に素晴らしくいい蕎麦屋が出来たというので行ってみたことがあるが、あれは馴染めなかった。三ツ星か何かで修業したという板前が作る?本格的な蕎麦屋という触れ込みで、まだ開業したばかりの店前には行列ができていた。蕎麦が出てきて驚いたのはつゆが出てこないことだ。蕎麦そのままの味を味わってほしいから、塩で食ってほしいという。面喰いながらも塩だけつけて食ってみると、確かに恐ろしく美味い。なんというか、甘みがある。周囲に座っている人もみな美味いと言っていた。

すごい蕎麦屋もあったものだなあと思ってお茶をすすっていると、後ろの席の声が聞こえてきた。テレビ局のプロデューサーらしき人が、どこかのお偉いさんらしき人を接待しているらしい。ここの店主がいかにすごい人で、使われている蕎麦がいかに貴重か、この店が経営者の中で有名な某雑誌の中で紹介されていたこと、さらには蕎麦湯の漆が如何にエレガントかまで、立て板に水を流すよう話していた。そんなにいい店だったのかと驚いた。冷静になってみると、座っている人に地元の人は誰一人いないようだった。そのあとお会計でもう一度驚いた。クレジットカードで払った。

それに比べて地元の蕎麦屋は特に語るべきところがあるものというわけではないがやはり落ち着く。なにより地元人に愛されているというのが良い。蕎麦は必ずここでなければならないというわけではまるでないのだが、小腹が減るとなんとなく立ち寄ってしまう。店主の感じもえばってるわけでなく、かといって工業的に蕎麦を作っているという感じでもない。「めっちゃ美味しかった」と感想を言うと「本当」と顔を少し赤らめ、嬉しそうにする。彼は蕎麦を作ることに誇りを持っているが、決して自意識を持っているわけではない。それがいい。この店の店主にとってはたかが蕎麦、されど蕎麦なのだ。

腹いっぱいになり、満足して友達と歩いているとこんな話になった。テレビについて。4Kテレビは気持ち悪い。自分の視力が5.0くらいあるんじゃないかというくらい、あらゆるものが鮮明に見えてしまう。人間の目は本当はこんな風に出来ていない。例えばぼくが仕事で漫画を描くとき、あえて背景は描かなかったり、彩度をだいぶ落としたりする。キャラクターが際立って見えるようにするためだ。恐らく人間の目はこれに近い。必要なところ以外はぼんやり見えるようにできている。しかし4Kは全部が主張する。背景がうるさい。くっきりしすぎている。

なるほど、と友達は言う。「少し違う話かもしれないが」と切り出す。音楽について。すべての楽器がよく分離して聞こえることは一見、無条件でよいことのように思われがちだが、それは本当に音楽的だろうかと。実はレッドツェッペリンのドラムは、リボンマイクひとつ(ひとつ!)で録音されていることがあったりして、決して分離がよい、くっきりした音とは思われないのだが、なんとも言えない熱量をかもしだしているじゃないか、と。

ぼくは応える。ビーチと温泉で知られるとある観光地に住んでいた子供のころ、海沿いのハイウェイをドライブしながら聴いていたカセットの音が好きだった。カーオーディオは決して音質が良いとは言えないし、外からは風の音がひっきりなしに入ってくる。にもかかわらずあの音はたまらなく感動的だったし、今もよく覚えている。それは単なるノスタルジーなのだろうかと。

二人の話のテーマは少しずつずれて、当てどなく綺麗な図形を描いていく。

ぼくらは鮮明なものよりも自然なものが好きなのかもしれないな、と言うと「ライトをばんばんあてた最近のグラビア、全然ボッキしないんだよねー」と友達が笑った。「蛍光灯だもんなぁ、影がないんだもの。ぺったりしててさ、確かに美人なんだけど、見るからに作り物で、あれならオリエント工業の方がいい」「わかる」ふたりで笑っていたら、子供が足元を駆けていった。もう春だ。

「おれはさ」ライダースジャケットの内側を見せながら友達が言う。「革ジャンが好きなんだけど、革ジャンって、バイクに乗るために作られたものなんだよ。それがさ、シルエットがスマートすぎると、なんか違うって思うんだよな。だってバイク乗りづらいもん。本物のヴィンテージはちょっと野暮ったいんだよ。そういう野暮ったいのを、ちょっと腹の出たテキサスのおっさんが、それしかないから着てる、そういうのがいいんだよ。どんなことも本来の用途を忘れたものは美しくないんだ」

「なるほど蕎麦屋に通ずるものがある」

「蕎麦屋って、さっきの蕎麦屋?」

「そう、あの蕎麦屋は美しいんだ。なんでって、所詮蕎麦はファーストフードだよ。腹を満たすために食うのであって、芸術でも娯楽でもない。あの蕎麦屋はそれを分かっている」

「人間は動物であることを忘れると、病んでくるんだよな」

ぼくは自分がサルとあまり変わらないってことを、あまり忘れたくないと思う。だけど人工的なものばかりで作られた都市の中で暮らしていると、だんだん忘れていってしまう。だから革ジャンは地面を転がってもよいものを着て、蕎麦は空腹を満たすために食べていたいと思う。そうしたら、ギターも自然な音が鳴る気がする。言葉にするのが難しいのだけれども、あの蕎麦屋のような、テキサスの腹が出たおっさんが着てる革ジャンのような、そんな感じ。




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2016年9月13日火曜日

透明な日


最近王子神谷ずっと帰らんかったんだけれど、どうしても曲作りができなくて久々に帰ったら一瞬で出来た。



ぼくの家のすぐ裏には墨田川があって、もう少し歩くと荒川があって、とても気持ちがいい。もうこの土地には十年以上住んでいるけれど、ぼくはこの町が本当に好きだ。

川のほとりは、あまりに何もなさすぎ色んなことが次々頭に浮かんで、あっという間に夢の世界へと連れ去ってくれる。








この道はどうだろう。この先にはいかにも「何もない場所」が待っていそうではないか。東京でこういう場所は珍しい。きっとぼくは何かにいざなわれて、戻ってこなくなるのだと思う。






この町はアイストップがない。歩いていても情報がない。だからついつい、ウッカリ、ハカラズモ、フホンイナガラ、自分の思い出や記憶、もういない「だれか」と対話する羽目になる。

人間は話し相手がいないと、どこからでも引っ張り出してくる。そう、それが妖怪だろうと幽霊だろうとおかまいなしだ。そのくらいひとはさみしがりやだ。




この道を逝ったその先でも、ぼくは生き延びていけるのだろうかと考える。あちら側では、すべてがアベコベにひっくり返っていると人はいう。ひっくり帰った場所でも、ぼくはうろたえながらも、ちゃんと生きていけるのか、考える。ぼくはあまり、余計なものを着たり、買ったりしたくはない。それはあちら側では通用しないのではないかと思ったりする。どんな場所でも、どんな世界でも、ぼくらは生き延びなければならない。だれかに呼び戻されてしまう前に、携帯をおやすみモードにする。









あちら側には、もういなくなってしまったものや過去や思い出が全部そのままに(ひとつ残らず!)いて、それでいてケンカすることなくみな仲良く暮らしている。


ぼくもいつか仲良く暮らせるようにと思って、この川のほとりを散歩している。



2016年5月31日火曜日

悲鳴は解散しました




2016年5月23日の林恒平の永眠をもって悲鳴は解散しました。
この先未来永劫、永久に復活はありません。




一昨日までずっと夏のように暑く、晴れわたっていたのに、昨日今日と急に涼しくなって、今はぽつぽつと降り出して、なぜか漠然と、ああ、たぶん雨は、きっと人が死ぬたびに降るんだなあと思いました。


悲鳴は2011年11月の自主企画を最後に、事実上の活動停止のまま、なんのアナウンスもなしで来ましたが、それはまたいつか、なんとなくまた全員でスタジオに入って、自然に音を出したらその瞬間から、何か始まるんじゃないかなんて、心のどこかで思っていて、いつかってなんだよって今はすごく思う。


今、地元のファミレスで、彼が最後に遺した音源を聴きながらこれを書いています。



十九のとき大学で初めて出会って、彼はソニックユースが好きで、すごいノイズの出し方について武蔵境の庄屋で延々と語り合ってから、一緒にバンドを始めて、いつの間にかお互い三十二になってしまった。


三十までに死ぬと言って君に呆れられていたぼくが、君の葬式で弔辞を読むなんてあの頃は夢にも思わなかったよ。なんだか十九で出会った日から今日までのことが、全部夢だったような気すらするな。


告別式が終わってから、円盤に行って、すごく久しぶりにラムコークを飲んだよ。

ここから全ては始まったんだよな。



口下手であんまり人とうまくやれない君と、なんとなく集団行動が苦手なぼくは、うまく大学生活に馴染めなくて、本当はキラキラした青春に憧れながら、ちっとも興味がないようなフリをして、大学の外でバンドを組んだんだ。


今思えば、本当はぼくらは、大学のバンドサークルに入って、新しくできた友達とコピーバンドをして、夏になったらみんなで海に行って、バーベキューをして、外語祭でお酒飲んで、ときどき恋愛したり失恋したりしながら、卒業して、就職して、たまに同窓会したりしたかっただけ、そしてぼくらにはその勇気がなかっただけなのかもしれないな。


コマツさんが悲鳴をいいバンドだって紹介してくれてさ、このお店でCDを置かせてもらって、なんだかフェスに出してもらえることになって。今まで自分がロックヒーローだと思ってた人たちと突然一緒にライブすることになって。俺なんかFも弾けなかったのに、田口さんは何考えてんだって。

どうせダメ元だと思ってもヤケクソでやったら、少しずつ、局所的にだけど人気が出てさ、その年の円盤の年間チャートで1位取れて。おれさ、あんときあんま言わなかったけど、生まれてはじめて人に認めてもらえたようで、すごく嬉しかったんだよ。音楽に一番なんてものないなんて当然だし、音楽チャートほどアホらしいものないなんて分かっちゃいるけどさ、それでもなんだか、初めて自分が、世の中に受け入れてもらえたようで、めちゃくちゃ嬉しかったんだわ。あー、おれなんかでも生きてきた意味あったのかなあなんて、もしかしたら、友達とご飯食べたり、遊びに行ったりする、そんな普通の生活が、おれにだって出来るのかもしれないなんて。


いつの間にかこの店にくれば、売り上げでお小遣いが貰える程度になっていて。


それで大学時代のぼくは毎日のように、退屈と憂鬱から逃れるように円盤に来て、昼からラムコークをあおっていた。


店主の田口さんの話はいつだってめちゃくちゃ面白くて、飼い主が犬にラジオをしょわせてステージに上らせるだけの犬ラジオというバンド(バンドなのか?)の話とか、ライブ中にギターアンプに小便をかけて壊し出禁になったバンドが買い取らされたアンプを道頓堀に投げ込んだ時の話とか、魚屋で仕事してた頃、泥酔した板前がときどき自分の手とイカの区別がついてなくて血まみれのイカの塩辛を出して来るって話とか、そんなことばかり聞かせてくれて、ああ、自分はなんてくだらないことに憂鬱を感じているんだろう、世の中にはこんなに無茶苦茶な人たちもいるんだ、本当は、どんな生き方をしたって生きていけるんだって思うと同時に、こんな無茶苦茶な人たちがいる中で、本当に自分たちだけの音を出すためには何をしたらいいんだろうって、真剣に考えさせられもした。そういうことを、田口さんは説教ではなく、ただただ面白い話をしてくれるだけで、たくさん教えてくれた。ぼくにとって円盤は、大学よりもはるかに真剣になれる人生の授業だった。


田口さんの話を聞きながらぼくは、ロックの世界ってなんてふところの広い世界なんだろうと思った。ふつうの学校、ふつうの会社、ふつうの世間になじむことができない、出来そこないのぼくらのことを受け入れてくれるロックの世界は、今までずっといじめられっ子で、うまく「みんな」の仲間に入れない、そしてこの先もずっと日陰者として、当然一生愛してるなんて言ってくれる人も居らず、人の目を気にして目立たぬように生きていかねばならないはずの自分も、ひょっとして、ひょっとすると、この世界だったら一発逆転が狙えるのかなんて思った。


だったら命をかけてもいいと思った。どうせこの先何もいいことがないのなら、死んだっていい。一度も自分を認めてくれなかったこの世界を、命をかけて全否定したい。三十以降の寿命を全部あげる。だから神様、この世界に、どうか一矢だけでも報いさせて下さいと。きっとこの世界は、そんなことじゃビクともしないことなんて初めから分かってた。それでもたった一瞬だけでも革命を起こしたかった。全ての価値観をひっくり返して、ほんの一瞬だけでもこの世界をびっくりさせてやりたかった。


そう思ってステージに上った。いつだって膝はガクガクして、このステージがダメだったらもう俺は死ぬんだと思っていた。本当のことを言えば、ぼくは一度も来てくれたお客さんに感謝できたことがない。ここは処刑台で、この人たちは見世物を見に来ているんだと思った。ぼくはピエロのふりをしたテロリストになったつもりで、血まみれになってステージを転げまわっていた。これは「ふつう」の人たちが支配する、「ふつう」の世界に仕掛ける戦争なんだ、いつもそんな妄想に取り付かれていた。もちろん戦争だから、負けたら死ぬ。音楽の喜びや充実感なんて、一度も思ったことはない。「ふつう」の世界にとり殺されるか、ぼくらが「ふつう」の世界を殺すか、どちらかしかないと思った。そんなだから、ライブはただただ苦しいだけだった。 でも、不思議とライブが終わると、ありがとうって言いながら、泣いている人もいた。ぼくはなんて返したらいいのかわからなかった。


ぼくはだんだんおかしくなっていった。この世界のすべてが敵になっていた。いつの間にか愛した人もバンドのメンバーもみんな敵になっていた。ぼくは愛し合った人をさんざん傷つけ、奴隷のように扱い、精神的に殺した。そうしなければ世界に押しつぶされそうだった。そんなおれを、林君は人でなしだと言った。ぼくはずっとそれを許せずにいたし、そして君にそう言わせたことを、ずっと後悔し続けていた。


ぼくらは地獄を見た。




いつの間にか敵は「ふつう」の世界じゃなく、悲鳴そのものになっていた。ぼくらはいがみ合って、 憎み合って、何度も傷つけ合った。 おれは林くんの言っていることがさっぱり分からなかったし、林くんもまたぼくの言葉を、全く理解できないといった。最後の最後に林君は「人でなしとはバンドはやれない」と言った。



そうして悲鳴は崩壊した。ぼくはようやく自分が何をしたのか気付いた。




三年前に、林くんが音楽の専門学校に入学したのを知った。


おれは素直に、本当にすごいと思った。三十になって、十八の連中と一緒に肩を並べて真剣に学ぶというのだから。彼は当然のように二年間連続で首席をとって、その時一緒に演った連中と、一緒にバンドを組んでいた。雨の花束という。ぼくは「ああ、こいつにはもう、くだらないプライドとか一切ないんだ、ただただ真剣に音楽に、自分に向き合いたいだけなんだな」と思った。ぼくはそんな林くんをすごくカッコいいと思い、尊敬した。


それからひと月かふた月に一回、二人でお酒を飲むようになった。話していることはいつも本当にたわいもない会話で、この酒美味しいなぁ、とか、同級生の誰それは何してる、とか、何のエフェクターを買ったとか、そんなことばかりで。昔のように、死ぬとか、生きるとか、そんな話は一切しなかった。林くんが命がけなのは、何も言わないでも全部伝わったからだ。


あるとき林くんが、自分がバンドのリーダーになって、初めてガンディ君の苦しみに気付いたと言った。それでなんだか、少しだけ泣いた。もしかして、自分ももう一度バンドをやってもいいのかと思って。



悲鳴が崩壊してから、きっと永遠に許されないと思って生きてきた。


何をやっても灰色だったし、人から感謝されても、自分は人でなしなんだからと、顔では笑っても、すぐに打ち消してきた。こんな自分が、人前に立って歌ったり、人と当たり前に恋をしたり、人と喜びを分かち合うことなんて一生、絶対に許されないと思った。ただ人の幸せだけを願って生きて、いつかお迎えが来たら、そっとひとりで死ねばいいと思っていた。


だんだん、林くんと心が通じ合うようになってきた。彼との最後の二年間は、ただ静かに吉祥寺で酒を飲むばかりで、本当に穏やかで、幸せだった。時には、二人の飲み会に共通の友達を招いたりもした。あの誰にもすぐ悪態をついて無言になる林くんが、ガンディ君みたいにちゃんと人に心を開ける人になりたいなんて言い出したからだ。そんなことを思ってくれていたなんて、十年前は全く気付かなかった。ぼくらは失った時間を取り戻そうとするかのように、ようやく打ち解けて話した。たまには下らない冗談も言った。林くんと冗談を言い合うなんて、悲鳴をやっていた頃には考えられなかった。あの地獄のような過去が嘘のような、本当に穏やかで幸せな時間だった。


林くん、あの頃のぼくらは今に革命を起こし、世界で一番有名なバンドになって、どこにいっても受け入れてもらえる、優しくしてもらえる、ちゃんと顔をあげて上を向いて歩ける、そうしてこんな陰鬱でみじめな現実とは永遠にお別れして、当たり前の生活を手に入れられるなんて、そんな風に思っていたよね。遥か彼方のまだ見ぬ栄光に手を伸ばし、目の眩むような空を見上げ続けて、確かにぼくはあのとき、目の前にある本当に大切なものを何一つ大事にできなかった。そうして本当に大事なものを自分から全て壊してしまった。本当にくやしくてくやしくて涙が止まらないよ。ずっと後悔しているよ。あのときから。ずっと。ずっと許されないと思ってたよ。


病院で君の姿を見た時、おれは本当に信じられなかった。どうしてぼくではなく、君がそうしなければならないのかと。君もまた壊れかかっていたんだって、おれはまた気付けなかったわ。いつだって自分のことばかりな自分が本当に嫌になる。たくさん管のついた君は何も語らないし、何を言っても返してくれなくて、ぼくは本当に自分がこの世界のどんな小さなことすら何一つ変えられないってことを思い知ったよ。そうだな林くん、まるでこの世界は映画を見ているようだね。ぼくらはただ見続けることしか出来なくて、スクリーンの向こう側がどんなことになっていても、手を伸ばすことしかできない、そしてその手は決して向こう側には届かないんだ。


君は映画を観るのをやめて、ぼくはまだ見続けている。
どちらを選んでも、残酷なくらい当たり前に太陽は昇り、この世界は続いていくんだ。



あのやたら暑かった春の間、痩せ細った君の足を拭いていたら、君はぐぐっと体をよじらせたことがあったよね。ぼくらは林くんが応えたって大喜びで、もしかしたらどうにかなるんじゃないかなんて思って。次第にお見舞いの人も増えて、雰囲気も暗いばかりじゃなくなって、日曜日にはいつの間にかたくさんの人が集まって、待合室でみんなで記念撮影したり、お菓子を食べてお茶したりしながら、がんばれって、暗い顔じゃなくて応援できるくらいになったら、安心してしまったのかな、その翌日に君は行ってしまった。暖かな陽気の、ポカポカした日だったな。そのとき気づいたよ。あーそういやそういう奴だったなって。その場を離れないでじっと見てて、みんながもう大丈夫って分かったら、誰にも声をかけずに一人で帰っちゃう。みんな後になって気づくんだよ、あれ林どこ行った?ええっ、もう帰った!? 話したかったのに!ってさ。

君が体をよじらせたことはさ、確かに医者から言わせればただの反射運動なのかもしれないよ。でもおれは、誰がなんて言おうが絶対に君がぼくらに応えたんだって思ってるよ。真っ暗な宇宙の中で迷子になっている君が、もう届かなくなるその前に、微かに聴こえた交信に、必死で応えてくれたんだって思ってるよ。おれはさ、もしかしてたったの1ミリでも、このバカみたいな世界を変えられる可能性があるなら、スクリーンの向こう側とこちら側が交差する、そんな嘘みたいな奇跡があるというのなら、別に信じていたっていいんだって、君がいなくなった今でも、確信を持って思うよ。それがたとえ、医者や科学が何の意味もないって言ったとしたって、ぼくはどうでもいいんだよ。


会場でさ、ずっと君のうたが、流れていたじゃない。君は真ん中で眠っていて、黒い服を着たたくさんの人が泣いていて、君は「きみがいないと張り合いがないよ」って歌詞、本当にバカじゃないの。本当にバカじゃないのかと思うよ。おれも君も。本当に。


林くん、ぼくは思うよ。たとえ君とすごした時間のほとんどが、見えない何かをつかもうと、いたずらにもがいてあがいて苦しんだ、地獄のような時間だったとしても、ぼくにとっては本当に、何物にも代えがたい本当の宝物だったんだ。ずっと言えなかったけど、本当に本当だよ。


式が終わって、円盤に行った。田口さんはずーっと黙っていた。いつの間にかぼろぼろ涙がこぼれてしまって、泣きながらラムコークを飲んでいたとき、はっきり、ああー、おれら、負けたんだなーって思ったんだ。世界に戦争を仕掛けるつもりで始めた悲鳴ってバンドは、ここで始まってここで終わったんだ。十三年だよ。あっという間に過ぎ去ってしまったよな。ずっと終わりにしたかった夢を、ようやく終わらせることができたよ。

本当は「普通」の人なんて、どこにもいないなんてこと、とっくに気付いていたんだ。


おれらのやったことは、1ミリでも何か世界を動かしただろうか。誰かに影響を与えただろうか。きっと何も変わってないと思うよ。おれは本気でやれば、負けてもいつか何かの肥やしになるなんて言葉はまったく信じないよ。何が起こっても世界は残酷なくらいに放置プレイで、何の感情もなく明日も太陽は昇るんだよ。

それでただおれらは負けたんだよ。でもそれは、おれらがやりたくて好きで勝手にやったんだよ。だから別にいいんだよ。



ここまで書くのに四日かかってしまったよ。まだ、雨は降ってる。でもきっと、明日はもう晴れるんじゃないかな。

なあ林君、おれ最近思ったんだ。あれは、確かに傍から見たら、すごく奇妙でいびつな形だったけれど、やっぱりぼくらにとってのまがうことなき、青春ってやつだったんじゃないだろうか。

あの頃のぼくらは何者かになりたいと思って、遥か空の彼方しか見ていなかったが、でも、本当に大切なものは、すぐ目の前にあったんだな。あのころのぼくは、そのことを夢にも気付かなかったんだよ。

三十も過ぎて今はわかる。多分もう、次の一発はない。でかい何かはこない。君もいない。革命は起こらない。

大切なものは次々と壊れていくけれど、それでもぼくは、君の見なかった映画の続きを、見続けようと思うよ。


君の魂が、夢を見るように安らかに、眠りにつくことを祈ってる。
それとも君は、あの頃と同じように、何も語らず、ぼくらを見ているのだろうか。


そうだな、願わくばぼくらが、今そばにあるものを大事にできるように。
そして、きっと何者にもなれないぼくらに、素晴らしい明日が訪れますように。



ぼくらの青春を一緒に彩ってくれた、悲鳴にかかわってくれたすべての人、初めてちゃんと言える。本当に、本当にありがとう。ずっと素直になれなかったけど、本当に嬉しかった。
感謝してもしきれない。

あれは、灰色で、地獄のような日々で、海もバーベキューもなくて、ステージに上がっているときはいつも苦痛ばかりだったけれど、それでも確かにぼくらの青春でした。



ねえ、あんなに傷つけあったけど、今でもぼくは、君が大好きだよ。














ガンディ
粟生こずえ
林恒平

カワセタクヤ
吉田規朗

撮影スタッフ:大島亜耶




2012年9月2日日曜日

警句

(下手な警句だ。でも僕はこいつを消さない。僕は大いに気のきいたものになると思ってこれを書いた。 だが今自分で見ても、汚らわしい自慢話にすぎない。だからわざと消さないんだ!) ドストエフスキー

2009年10月29日木曜日

RE:TAKE


真に渇きたる者のために

絶望を忘れた者のために

愛を知らぬ者に

愛を壊す者に



未だ日本人ではない日本人に

僕の思想を託す


2009年6月2日火曜日

黒い自由


シンガポール人華僑のイェンおじさんは、いつも突然ふらふらと我が家に出入りしては哲学や政治の談義をして、ときどき飴玉をくれ、朝方ふらりと帰っていったものだった。


ぼくの父は早稲田で建築を学んでいた頃、華僑らの住むアパートに転がり込んで暮らしていたらしい。耳が聞こえない父にはデカイ声で話す中国人との生活が居心地がいいのだ。なにより親父にとって嬉しいのは、彼らは気を使わなかったということだ。いったいどれくらい気を使わないのかと言うと、このアパートの家賃を誰が払っているのかわからないくらいである。金があるやつが払う、ないやつは払わない、それが彼らの流儀だった。(※こういう中国人が、共産主義を選択したというのはすこぶる興味深い話である。日本人に共産主義は無理だ。日本人は気を遣いすぎる。)

日本人は無意識のうちに、相手に自分と同等の気遣いを求めるが、実は耳の聞こえない人間にとってこれはかなり困難な要求である。気遣いは世界一細やかな感性を持ち、空気を読むことに長けた日本人だからこそできる芸当なのだ。親父は華僑のほうが、日本人とよりもずっと気が合った。理由は単純で、障害者である父が、中国人とならば健常者と同じように話せたからだ。それに、同類を愛する日本人と生活するには、親父はいくらか個性が強すぎたし、また、当時の最底辺の生活、まさに貧乏のどん底のような生活が、普通の日本人といっしょに学生アパートに住むことを難しくしていた、ということも理由のひとつなのかもしれない。なにはともあれ父は、素性のしれない中国人華僑たちとひとつ屋根の下で大学の四年間を過ごすことになったのだ。

しかし共同生活を始めると、中国人はすぐに親父に迷惑をかけはじめる。料理洗濯、掃除……なにより酷かったのは論文の提出だ。連中は日本語が苦手なことにかまけて、翻訳しろ翻訳しろと、すぐ親父にたよってくる。親父もつっぱねればいいのだが、つい中国人のあの大袈裟な態度に折れて、親身になって助けてしまう。すると今度は翻訳じゃなくて、論文そのものをかけという。これが中国人である。結局親父と同期の早稲田大学中国人留学生の卒業論文は、ほとんど親父が書いたものになってしまった。

なかでもひどかったのがイェンという男で、親父に論文をかかせて、二階に女を連れ込んでいる。そうして、コトが終わると下着姿の女と降りてきて、「おう、悪いな山田、」とやるのである。

これが先ほど話にでたイェンおじさんだ。シンガポール随一の国営企業の御曹司であると同時に、その膨大な財産をたったひとりで全部食いつぶした。そうして無一文になって、去年だったか、一昨年だったか、カナダでひとり死んだ。なぜカナダかと言うと、極端に不精癖なイェンおじさんは、日本政府にも、シンガポール政府にも、出せば簡単に取れたはずの永住権申請を面倒がってしなかったからだ。「政府なんて関係あるか。他人なんて関係あるか。」そう言っていたイェンおじさんは、日本にも中国にもシンガポールにも見放され、全ての財産を失い、カナダでひとり、孤独に死んだ。

「ふん、ロクでもないやつだよ」酔っ払うと親父はよくイェンおじさんの話をした。ああいう男にはなってはいけない。ああいう男になれば不幸だ。親父は熱っぽくイェンおじさんの悪口をいった。そうして、しまいにはあんな男生きている価値すらないというのだ。そのくせ、ぼくから見れば、イェンおじさんは親父のほとんど唯ひとりの友達に違いなかった。それにどうして本当に嫌いだったら、どんなに忙しいときでもふらりとやってきたイェンおじさんを泊めて、酒杯を交わそうとするのだろう。イェンおじさんはリーカンユーのパーティで毎晩一本ウン万もするようなシャンパンを飲んでいたときも、全てを失って、財産はあの小さな毛糸の帽子ひとつだけになったときも、変わらず思い出したようにふらりと我が家にやってきた。そうして親父とムツカしい思想や政治の話をしては、気づくとスースー眠っていた。朝起きると大抵おじさんの姿はなく、毛沢東のようなひどい癖字で、辛うじて読める「また来る」との書置きだけがあった。

耳の聞こえず、日本人のうちに入り込めない親父と、徹底して自分のことしか興味のないイェンおじさん。不具者の運命は因縁のように絡み合う。親父はイェンおじさんを軽蔑したが、しかし親父の強烈過ぎる個性に口出しをしないのはイェンおじさんくらいなものだった。イェンおじさんは親父に興味をもたなかったが、けれども彼の破天荒な生き方に一切文句をつけず、放っておいたのは、親父くらいなものだったのかもしれない。

彼らは互いの人生に関心を持たず、時に憎悪すらしていたが、互いの自由だけはわかりあっていた。日本中どこへ行っても説教をされそうな勝手な人生を歩んでいる二人だったが、それゆえにこの二人が酒を飲み交わすときには、そのようなことは一切口にしなかったのだ。
事実親父は、イェンおじさんが全財産を失い、世界中から見放されていくのを目の当たりにしても、絶対に何も言わなかった。「おまえ、しっかりしろよ」とか、「きちんとやれ」とか、友人として言うべきといわれているようなことは、一切言わなかった。そうして、我が家の扉を閉ざすことも決してなかったのである。


親父はわかっていたのだろう。誰が何を忠告しようとも、イェンおじさんはそういう人生を歩んだに違いないのだということを。自分がどこに行っても不自由であるがゆえに、イェンおじさんの不自由もわかりすぎていたのである。運命、それはちょうど不自由な自由といったようなものだ。人間は重すぎる十字架のような過去を背負っているから、ちょっとやそっとで人生を変えることなんてできやしないのだ(誰かができるというのなら、それは彼がよっぽど軽い人生を歩んできた証拠である)。人は神に自由を与えられたが、おかげさまで互いをまるっきり分かり合えない存在になってしまった。


イェンおじさんの訃報をきいたときの、親父の顔をよく覚えている。笑いとも泣きともつかない、あの苦虫を噛み潰したような顔。「人は人に、何も言うことはできない……だけどなあ、とうとう死んだか。」外は見渡す限りの、果て無き真っ黒な自由。邪魔するものは何一つとしてない。君もぼくも、この世界に、永遠に一人ぼっちだ。