<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359</id><updated>2011-10-06T11:21:42.672+09:00</updated><title type='text'>To the Japanese, -悲鳴 ガンディのblog-</title><subtitle type='html'></subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://gndh.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>61</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-3773034877715756333</id><published>2009-10-29T00:45:00.003+09:00</published><updated>2009-10-31T05:31:23.856+09:00</updated><title type='text'>RE:TAKE</title><content type='html'>&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;真に渇きたる者のために&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;絶望を忘れた者のために&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;愛を知らぬ者に&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;愛を壊す者に&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;未だ日本人ではない日本人に&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;僕の思想を託す&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-3773034877715756333?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gndh.blogspot.com/feeds/3773034877715756333/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=7498498870623838359&amp;postID=3773034877715756333' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3773034877715756333'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3773034877715756333'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2007/10/blog-post.html' title='RE:TAKE'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-7961557899553530007</id><published>2009-06-02T06:58:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:59:29.986+09:00</updated><title type='text'>黒い自由</title><content type='html'>本当に苦しいときに親身になって助けてくれる、人生の先輩がいるというのは、実に嬉しいことである。人生の先輩たちはぼくよりも世の中の何たるかを知っているし、なにより十年二十年後に、ぼくがものごとをどのように考えるようになるかを知っている。けれども、だからと言って彼らは、若者の考えを青い考えだなどと笑いとばすこともしない。なぜなら、彼らがそこに見ているのは若かりし自分の姿に違いないからである。だからこそ彼らはまるで自分のことにように真剣に助言してくれるのだ。で、一方ぼくら若者としてもこのような諸先輩たちの助言ぬきに何かをなしえるというのは大変困難なことのように思われるし、事実みな、先輩たちに大いに助けられて来たはずである。そしてそれは実に恵まれたことに違いあるまい。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ、今更ながら思い直してみると、ふと妙に思うことがある。 &lt;br /&gt;ぼくの場合、なぜかこの助言者のほとんどが日本人じゃないのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まだ幼稚園に上がる前、新宿三丁目参番館ビルに住んでいた頃、たまたま隣に住んでいたのが台湾の独立革命家の金美齢さんであり、よく記憶にはないが大変かわいがってもらっていたということがある。それから、ふらふらと我が家に出入りしては哲学や政治の談義をして、ときどき飴玉をくれ、朝方ふらりと帰っていったのは、シンガポール人華僑のイェンおじさんだった。とにかくずっと現在に至るまで、本当にぼくの面倒をみてくれたのはいつも外国人、それも中国人や朝鮮人といった、大陸の人たちだったような気がする。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろんこれは父が早稲田で建築を学んでいた頃、華僑らの住むアパートに転がり込んでくらしていたことと決して無縁ではあるまい。耳が聞こえない父にはデカイ声で話す中国人との生活が居心地がいい。なにより親父にとって嬉しいのは、彼らは気を使わなかったということだ。いったいどれくらい気を使わないのかと言うと、このアパートの家賃を誰が払っているのかわからないくらいである。金があるやつが払う、ないやつは払わない、それが彼らの流儀だった。(※こういう中国人が、共産主義を選択したというのはすこぶる興味深い話である。日本人に共産主義は無理だ。日本人は気を遣いすぎる。) &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本人は無意識のうちに、相手に自分と同等の気遣いを求めるが、実は耳の聞こえない人間にとってこれはかなり困難な要求である。気遣いは世界一細やかな感性を持ち、空気を読むことに長けた日本人だからこそできる芸当なのだ。親父は華僑のほうが、日本人とよりもずっと気が合った。理由は単純で、障害者である父が、中国人とならば健常者と同じように話せたからだ。それに、同類を愛する日本人と生活するには、親父はいくらか個性が強すぎたし、また、当時の最底辺の生活、まさに貧乏のどん底のような生活が、普通の日本人といっしょに学生アパートに住むことを難しくしていた、ということも理由のひとつなのかもしれない。なにはともあれ父は、素性のしれない中国人華僑たちとひとつ屋根の下で大学の四年間を過ごすことになったのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし共同生活を始めると、中国人はすぐに親父に迷惑をかけはじめる。料理洗濯、掃除……なにより酷かったのは論文の提出だ。連中は日本語が苦手なことにかまけて、翻訳しろ翻訳しろと、すぐ親父にたよってくる。親父もつっぱねればいいのだが、つい中国人のあの大袈裟な態度に折れて、親身になって助けてしまう。すると今度は翻訳じゃなくて、論文そのものをかけという。これが中国人である。結局親父と同期の早稲田大学中国人留学生の卒業論文は、ほとんど親父が書いたものになってしまった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なかでもひどかったのがイェンという男で、親父に論文をかかせて、二階に女を連れ込んでいる。そうして、コトが終わると下着姿の女と降りてきて、「おう、悪いな山田、」とやるのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これが先ほど話にでたイェンおじさんだ。シンガポール随一の国営企業リライアンスの御曹司であると同時に、その膨大な財産をたったひとりで全部食いつぶした。そうして無一文になって、去年だったか、一昨年だったか、カナダでひとり死んだ。なぜカナダかと言うと、極端に不精癖なイェンおじさんは、日本政府にも、シンガポール政府にも、出せば簡単に取れたはずの永住権申請を面倒がってしなかったからだ。「政府なんて関係あるか。他人なんて関係あるか。」そう言っていたイェンおじさんは、日本にも中国にもシンガポールにも見放され、全ての財産を失い、カナダでひとり、孤独に死んだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ふん、ロクでもないやつだよ」酔っ払うと親父はよくイェンおじさんの話をした。ああいう男にはなってはいけない。ああいう男になれば不幸だ。親父は熱っぽくイェンおじさんの悪口をいった。そうして、しまいにはあんな男生きている価値すらないというのだ。そのくせ、ぼくから見れば、イェンおじさんは親父のほとんど唯ひとりの友達に違いなかった。それにどうして本当に嫌いだったら、どんなに忙しいときでもふらりとやってきたイェンおじさんを泊めて、酒杯を交わそうとするのだろう。イェンおじさんはリーカンユーのパーティで毎晩一本100万もするようなシャンパンを飲んでいたときも、全てを失って、財産はあの小さな毛糸の帽子ひとつだけになったときも、変わらず思い出したようにふらりと我が家にやってきた。そうして親父とムツカしい思想や政治の話をしては、気づくとスースー眠っていた。朝起きると大抵おじさんの姿はなく、毛沢東のようなひどい癖字で、辛うじて読める「また来る」との書置きだけがあった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;耳の聞こえず、日本人のうちに入り込めない親父と、徹底して自分のことしか興味のないイェンおじさん。不具者の運命は因縁のように絡み合う。親父はイェンおじさんを軽蔑したが、しかし親父の強烈過ぎる個性に口出しをしないのはイェンおじさんくらいなものだった。イェンおじさんは親父に興味をもたなかったが、けれども彼の破天荒な生き方に一切文句をつけず、放っておいたのは、親父くらいなものだったのかもしれない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼らは互いの人生に関心を持たず、時に憎悪すらしていたが、互いの自由だけはわかりあっていた。日本中どこへ行っても説教をされそうな勝手な人生を歩んでいる二人だったが、それゆえにこの二人が酒を飲み交わすときには、そのようなことは一切口にしなかったのだ。 &lt;br /&gt;事実親父は、イェンおじさんが全財産を失い、世界中から見放されていくのを目の当たりにしても、絶対に何も言わなかった。「おまえ、しっかりしろよ」とか、「きちんとやれ」とか、友人として言うべきといわれているようなことは、一切言わなかった。そうして、我が家の扉を閉ざすことも決してなかったのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;親父はわかっていたのだろう。誰が何を忠告しようとも、イェンおじさんはそういう人生を歩んだに違いないのだということを。自分がどこに行っても不自由であるがゆえに、イェンおじさんの不自由もわかりすぎていたのである。運命、それはちょうど不自由な自由といったようなものだ。人間は重すぎる十字架のような過去を背負っているから、ちょっとやそっとで人生を変えることなんてできやしないのだ（誰かができるというのなら、それは彼がよっぽど軽い人生を歩んできた証拠である）。人は神に自由を与えられたが、おかげさまで互いをまるっきり分かり合えない存在になってしまった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イェンおじさんの訃報をきいたときの、親父の顔をよく覚えている。笑いとも泣きともつかない、あの苦虫を噛み潰したような顔。「人は人に、何も言うことはできない……だけどなあ、とうとう死んだか。」外は見渡す限りの、果て無き真っ黒な自由。邪魔するものは何一つとしてない。君はこの世界に、永遠に一人ぼっち。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;----------- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おれのことを真に考え、助言してくれるのが大陸人ばかりなのは、もしかするとイェンおじさんの霊が何かやってるのかもしらん。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ああ、ひとりぼっちだなあ」そう呟くイェンおじさんの霊がぼくに乗り移って、日本という風ひとつない静かな海の中で、同じように思っている孤独な大陸人たちの魂を、ひきつけさせているのかもしらん。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-7961557899553530007?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/7961557899553530007'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/7961557899553530007'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2009/06/blog-post.html' title='黒い自由'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-3715257423083319134</id><published>2009-03-01T06:56:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:57:24.879+09:00</updated><title type='text'>泥棒</title><content type='html'>無機質な蛍光灯が、ちりちりと音をたてる部屋に男が二人座っている。ひとりは警察官。もうひとりは線の細い、いやに白い男。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「たかがパンひとつ、ここまでねばるとは思わなかったがね。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「たかがパンひとつ、そう思うならもういいじゃないですかね。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうはいかない、パンひとつでも盗みは盗み、事情を聞くのが俺の仕事だ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうだ、たかがパンひとつでも盗みは盗み。おれは確かにやってのけたのだ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「やってのけたと言ったな。初犯か。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうだ。これが始まりなのだ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「始まりか。いったい何が始まるというのだ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「人生さ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「終わりの間違えじゃないのか。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「いいや、確かに始まったんだ。刑事さん、あんたは人生を始めてすらいないんだぞ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「どこの刑事が万引きの聴取なんてするもんか。おれはヒラ巡査だ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;立ち上がった巡査が窓の外を見る。激しい雨で、滲んだ信号の光がガラスに映る。しばし動かず。やがてブラインドを閉じる。男が口を開く。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「巡査は、給料はいいのか。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なんだ、巡査になりたいのか。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;男、だまって笑っている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「普通だよ。サラリーマンさ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なんのために働く。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「家族のためさ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「子供がいるのか。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうだ。子がパンを盗まぬように、おれが働くのだ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「金があっても盗みはするぞ。金があるからおれは盗んだのだ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しばし無言。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;降りしきる雨の音の中、ゆっくりと男が話し始める。巡査、調書に書き取りを始める。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「働いてお金をもらう、そんな当たり前のことがどうしても嫌で仕方がないのだ。こんなことを言えば、人は腹をかかえて笑うだろう。笑ってくれてかまわない。それでもやっぱり、働いて金をもらうというのは、どうしても嫌な気持ちがするのだ。 &lt;br /&gt;おれは生まれて初めて人からうん十万の給料というものをもらい、なんだか頭を金槌で殴られたような気がしたよ。だいたい、こんなに金をもらって、いったい何をするというのだ。月曜から金曜まで、奴隷のように働いて、その見返りがこれか。この金を、土日で馬鹿みたいに使って、そうしてまた奴隷に戻れということか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;給料をもらってすぐ、同僚が、遊びに行こうとおれを誘った。土曜の街をぶらつきながら、阿呆みたいに服を買い、クッションを買い、グラスを買い、漫画を買い、インテリアを買う。同じようにしろというから、彼を習っておれも阿呆のように金を使った。そうして、一日の締めとして、女と遊ぼうという。『風俗か。』『ばかめ、女は街でつかまえるんだ。』そう言うが早いか、彼はもう二人組みの女に声をかけていた。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;女におごってやり、いい気分にさせる。頬を赤くそめて、ネコのようになった女たちを尻目に、同僚がおれに囁く。　『女なんてのはな、一杯おごってやればまず誰でもやれるんだよ。』女たちは嬉しそうにきゃっきゃと騒ぎまわっている。『こないだね、私渋谷でマキシマムザホルモンとすれちがったんだよ』『えー！ほんとほんと！？いいなぁー！』彼もすかさず話題に滑り込む。『マジ！？それちょうヤバくね？りょっくん超すきなんだけど』 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;吉祥寺のホテル街を、男女四人で歩く。　『歩けなぁい』『ねーむーいー』女がしなをつくり、おれに寄りかかってくる。同僚の無遠慮な笑い声が、夜の街に響く。 &lt;br /&gt;『な、こいつ面白いだろ？』 &lt;br /&gt;『うんー、私この人のことちょっと好きになっちゃったかもー、うふー』 &lt;br /&gt;『うは、ゆみ惚れやすすぎでしょ』 &lt;br /&gt;『ちょっとちょっとおまえきたんじゃねーのコレ？』 &lt;br /&gt;同僚が肩をバンバンと叩く。おれは何を思ってたかって？気持ち悪くて仕方ないんだよ。少しおごっただけで簡単に股を開くクソ女ども。汚くて絶対にさわられたくないのに、女は酔ってなおさらしなだれかかってくる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イライライライラと唇をかみながら、下をうつむいて歩く。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしおれは悟ったね。なるほど世の中というのは、そういう風にできていたのか。月曜から金曜まで、奴隷のように働くと、土曜と日曜に、甘くて美味しいお菓子が待っている。そいつを舐めたらまた月曜から奴隷の生活だ。金さえあれば、服も酒もマンガもゲームも、およそこの世界にあるものはなんだって買える。女の心だって買えるんだ。いったいこれは何のパロディなのだろうね。ぼくらはなんのために生きているんだろう。金があれば女とやれる、金がなければ女とやれない。ぼくの頭は憎悪と汚いものへの嫌悪感でいっぱいだ。５日奴隷になって、その対価として、２日酒と女がやってくる。で、酒と女をくれてやるから、きっちり奴隷になりなさいって言うのか。いったい誰がおれを奴隷にしてるんだ。金はなんのためにある？金は女を買うためじゃない。金はパンを買うためにあるのさ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おれはいきなりぴたりと立ち止まって、びっくりした顔をしている女をつきとばした。そのまま一瞥もせずにバックれて、帰り道のコンビニでジャムパンを盗んでつかまり、そうして今ここにいるってわけさ。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;巡査、筆を止め腕を組み天井を仰ぐ。何かを考えている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「はは、まだやっぱりよくわかんないみたいだな。いいかいおまわりさん、全部欺瞞なんだ。どいつもこいつもまったく嘘なんだ。あの女がおれを好いたのはなぜだ？おれが金をもっていたからか。おれが飯をおごったからか。毎日飯をおごってやれば、毎日やれるのか。そういうことを、結婚というのか。つまるところ、女って「もの」なのか？女ってのは男を奴隷にして死ぬまで働かせるために、この世界が造った愛玩人形なのか。そうしてその愛玩人形でオナニーをするためには、月曜から金曜まで、奴隷になるしかないってわけだ。この世界はおれたちに、「奴隷になったら、褒美に女をくれてやるぞ」と、そういう風にいってるんだ。世間の人々そんなことを指してやれ真実の愛だとか、やれ愛こそ全てだとか、欺瞞に満ちたことばかり言っている。おれはそんなもの願い下げだと、あのときはっきり思ったんだ。この世界の奴隷になったご褒美に、愛玩人形でオナニーするくらいだったら、真実の愛を求めて男と抱き合ったほうが百倍マシだろうってね。おれは人形を抱く趣味をもたない。おれは人間を好む。おれはパンのために働いたはずだった。そして同じ人間と、一緒に楽しく食いたかったんだ。それがなんだ。いつの間にかパンだけじゃ生活できないこの世界だ。誰のせいだ？誰がやってるんだ？おれにパンと、真実の愛をよこせ。綺麗な服も、うまい酒も、おもしろいインテリアも、愛玩人形も、文学も芸術も宗教も全部いらん。パンと、愛だけよこせ。なければ奪う。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しばし無言。男、目がらんらんとしている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;巡査。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「しかしいくらおまえがいらんと言っても、女はおまえを好きになるぞ。おまえが嫌悪する女は、そういうおまえを、真実の愛で包むだろう。それでもおまえはまるで気づかず、ずっと愛に飢えるんじゃないのか。盗んだパンに愛はあったか。おまえの心は砂漠のようだが、女の心は澄んだ水だ。何もない人形ではない。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;男、巡査の話に耳を傾けず、興奮さめやらぬ様子。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いつの間にか雨は上がっている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;巡査、取調べの調書に「飢えのため」と書き込む。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（幕）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-3715257423083319134?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3715257423083319134'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3715257423083319134'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2009/03/blog-post.html' title='泥棒'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-5559263185444149159</id><published>2009-02-03T06:55:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:56:52.731+09:00</updated><title type='text'>魂の鎧</title><content type='html'>無様にはなりたくない。どんなときでも、高貴さを失いたくないのだ。たとえ一銭ももたなくても、人に笑われても、人を殺したとしたって、高貴な心だけは失わずにいたい。殺し合いにも作法がある。いや、人生は殺し合いなのだ。上手に隠されているだけで、本当は殺し合いなのだ。それを、殺しはいけないという方がおかしいのだ。殺すも殺さぬも縁起次第であり、運命次第である。殺さねばならないか、殺さなくてもよいかなど神が決めるだけで、自分に人生の何を決められるというのだろう。誰にでも殺し合いはやってくるものだからこそ、殺し合いにも作法がある。どんなときでも作法を失ってはだめだ。美しく生きなくてはだめだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;乱交パーティに行くたびにいつもこんな風に思う。新宿も東のずっと外れにある雑居ビルの一室は、金をあしらった豪華絢爛な内装に山ほどのご馳走やフルーツが並び、みな裸でそれをつまむ。そうして戯れる。きっとローマ人はこんな感じだったのだろう。あるいは時計仕掛けのオレンジでもいい。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;裸になるということは、鎧を外すことだ。身体の？心の？それでも無様にならないということはどういうことだろう。あるがままの心は無様なものか。つくろわない心というのは。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;少し酔ってソファにもたれると、やわらかな絨毯の上に果物を口にした男女が裸でだきしめあっていて、ここは楽園かと見間違える。罪の果実。夜が明ければ今に神さまにおいだされる。それがわかっていてもこの人たちは抱き合っている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分が一番わかっていることだが、ぼくは誰より臆病な人間だから、だから一所懸命に勉強した。膨大な知識が一枚一枚鎧を羽織って、ぼくの心が誰にも攻め込めないようにしたのだ。ぼくの心はラビュリントスで、ケンタウロスを決して外に出そうとしない。ただ怖がりなだけなのだ。あるがままでいるのが怖いから、人は学問をする。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくの心は奇形だ。醜いケンタウロスを人に見せたくない。迷宮の奥深くに迷い込ませて、そのまま消えて、なくなってしまいたい。そう思うのは勇気がないからだ。愚者のように正しく、裸でいられない。だから学問に逃げる。力に頼る。神を殺そうとする。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;親鸞、という男は、延暦寺という、当時の最高学府で学を窮めながら、その生き方を自ら否定した。知、というのはすべて自力で神に到達しようとする力だと信じたからだ。鋼のような鎧を何重にも纏った末に、重みで心をつぶしてしまう。どんな敵も容易に打ち倒す力を持ち、やがてその力に溺れる。そもそも力を持とうとすることが、弱く臆病な人間の証左なのだ。親鸞はたったひとつのその真実に気がついたのだ。だから知を棄てる。究極まで極めた知識を、平気な顔で棄てる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イチゴをつまみ、嬌声を上げる裸の女たちをながめながらバタイユの云いを思い出す。エロチシズムとは、生死の彼岸を飛び越えることだ。人間は個体だが、服を脱ぎリズムを合わせつながれば、やがて死の境界を飛び越える一瞬がある。その一瞬とは、「知」と全く逆の態度である。知は鎧をまとうことだから。けれど死を飛び越える一瞬は、服を脱いだところにある。だからどれだけ奇形だろうとも、ぼくはケンタウロスを解放してやろうと思う。命の極地は強さにあるのではない。絶対他力。パブロピカソというひとりの天才が、「ぼくは生涯一度たりとも子供のようには描けなかった」といったように、ぼくもまた愚者を目指そうと思う。それで救われるかなんぞわからない。全ては御仏の計らいなのだから。ぼくにどうにかできることではないのだ。ただ運命と縁起だけが、ぼくに殺しもさせるし救いもさせる。たった一瞬だけでいい。善悪の彼岸を飛び越える瞬間があれば。明日はいらぬ。未来はいらぬ。人はただ過去に突き動かされて生きている。おれがいなくったって明日は存在してるよ。だからおれは今この一瞬のためだけに書くし歌わなければならないのだ。勇気をもって鎧を脱げ。この広大な黒い海に身一つ裸で飛び込むのだ。やがて夜に溺れ死のうとも、悪を掬って魂にこぼす。冷たい海の自由！ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;無力即無善也。愚禿龍郎&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-5559263185444149159?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/5559263185444149159'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/5559263185444149159'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2009/02/blog-post.html' title='魂の鎧'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-6940067835746140606</id><published>2009-01-26T06:53:00.001+09:00</published><updated>2009-10-31T06:55:15.713+09:00</updated><title type='text'>サイード　『知識人とは何か』</title><content type='html'>先日の日記でエドワード・サイードの『知識人とは何か』について多少論じたのだが、何の因果かそれについて書評する羽目になってしまった。ちょちょいと書いてみたのでup。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（注！　外大の人へ。学校の課題用にコピペ禁止！理由は想像力を働かせて下さい。自分がえらい目みることになりますよ。） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに…… &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※エドワード・サイード(1935～2003)…亡命パレスチナ系アメリカ人の文学批評家。主著『オリエンタリズム』で西洋と東洋という対立図式が人工的なものに過ぎないことを明示し、後に「ポストコロニアル理論」と呼ばれることになる文学理論を確立。ノーム・チョムスキーとともに、アメリカ国内における代表的な中東外交政策批判者でもあった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;------- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;サイードが掲げる知識人像は「専門知識で重装備したエキスパート」ではなく、「各分野を自在に横断できるアマチュア」であるという[pp.205-206]。こうした考え方自体はとくに斬新なものではない。サイードの公演のおよそ一世紀前にはウェーバーが資本主義を評して「精神なき専門人」と皮肉っている。二十世紀を通して、多くの知識人が専門化し、本質的なものから離れていくことに危機感を募らせてきた。サイードはその長い伝統の末席に座っているだけである。 &lt;br /&gt;あえてサイードの思想の特異なところを挙げるならば、「精神なき専門人」と対峙しうる知識人のモデルを「亡命者」「故郷喪失者」と重ね合わせた点だろう。パレスチナ系アメリカ人という、アメリカ人としてもパレスチナ人としてもプロフェッショナルになれない、「アマチュア」のサイードにとって、「精神なき専門人」の対抗軸とは「亡命者」でしかありえなかった(※1)。サイードは知識人が、自らアウトサイダーとして一歩社会の外に出ることで、その中にいては決してわからないものがわかるかもしれないと説いたのである。 &lt;br /&gt;あまり難しく考える必要はなくて、要するにサイードは、「海外留学をすると日本のことが客観的に見れるようになる」というような、ごく一般的な話を議論したのである。 &lt;br /&gt;だがこの話を、医者と薬を取り違えるようにとるなら問題である。医者は分析するだけで、それを治癒する力は持ち合わせていない。知識人は社会の分析者であっても、それを治癒はできないのである。ほとんどの知識人は、自分が社会に直接関与し、社会を変えていくことができると誤解している。そうして不本意にも、自分が批判していたはずの近代社会の、より強固な地盤を完成させる働きへと加担してしまうのである。 &lt;br /&gt;サイードは、自分が世界を変えていけるという考えを否定も肯定もしない。アドルノを引き、「知識人がいだく希望とは、自分が世界に影響をおよぼすという希望ではなく、いつの日か、どこかで、誰かが、自分の書いたものを自分で書いたとおりに正確に読んでくれるだろうという希望なのだ[pp.99-100]」と、まるで牽制のように言い放つだけである。しかしこの無意識的な一行からも、我々は彼の言下の辞を推測することができる。少なくとも彼は知識人が世界に影響をおよぼすということ自体に疑問を持たないということをつい考えなしに語ってしまっているからである。 &lt;br /&gt;もちろん、だからこそ彼はアメリカの外交政策を強烈に批判する行為できるのである。 &lt;br /&gt;私が問題にしたいのは、知識人が世界を変えようとする考えに対してである。 &lt;br /&gt;ニーチェの有名な「神は死んだ」の一節に代表されるように、近代以降ヨーロッパはキリストにたよることをやめた。理由については都市の発達だとか、イスラームの圧迫だとか、とにかく色々言われるけれど、今はそれについて紙面を割く余裕はない。しかし重要な点は、ヨーロッパ人が「これからは神にたよるのをやめ、我々人間が自らの力で世界を変えていくのだ」と、そういう風に考えるようになったという点である。 &lt;br /&gt;「科学」は、神から離れた人間が、最初に生み出した技術である。自らを自然に対して客体的な位置におき、これを分析するという手法は、人間と世界を分離し、孤立せしめた。これをもって自我の誕生と言う。以後、資本主義の発展とともに人間は分裂症的になってゆくことを余儀なくされる。 &lt;br /&gt;こうした考え方は当然革命の在り方も変容させた。ノーマン・コーン(※2)の丹念な研究によって、初期社会主義思想とは千年王国思想の変種であったことが明らかにされた。コーンの研究書の中には国王に反抗してキリストの再臨を祈祷し山にこもる異端キリスト教徒の話がいくつも出てくるが、こうした「恐るべき争いの末にキリストが再臨し、世界は神の国になる」というアルマゲドン思想が、近代において進歩主義思想と結びつきながら、「資本家と労働者の恐るべき争いの末に弁証法的な解決を見て、原始共産主義が再臨する」という革命思想へと変容していったのである。マルクスの思想と異端キリスト教徒たちの思想はほとんど紙一重であるが、その間を隔てるほとんど唯一の論点と言えば、キリスト(神)の力で福音をみるか、人間の力で福音をみるかの一点である。近代という思想の根本概念とは、要するに人間中心主義なのだ。 &lt;br /&gt;そうして、この人間中心主義こそが、知識人の、あるいは人間の驕りの始まりなのである。日本においてはかつて親鸞が、あの有名な「悪人正機説」において、「善人なおもて往生とぐ、況や悪人をや」として「自力」で仏に到達しうると考えた道元を批判し、「他力本願」こそ正統として説いたのだが、ヨーロッパにおいてはこのような考えはあまり注目されなかった。いやむしろ、中世こそ強力な教会による「他力」の世界であったのかもしれない。だからこそ、近代になっての反動がすさまじかったのである。 &lt;br /&gt;問題は、知識人が科学という分析を用いて、まるで医者か何かのように「ほら、ここにはこういう悪い患部があるんです、だから私に任せなさい」と言って患者を言いくるめて、勝手に社会を切ったり縫ったり、摘出したりして、挙句の果てには「私はよいことをした」と、ひとり悦に入っていることである。 &lt;br /&gt;近代哲学は、「我思う、ゆえに我あり」という素朴な自我の発見をその始まりとしていることに象徴される通り、科学的(分析的)手法をその基礎にしている。以後カントにしろ、ヘーゲルにしろ、サルトルにしろ、少なくともポストモダンの時代が到来して自我意識が批判されるようになるまで（本当に自我を批判できているかと言えばだいぶ怪しいものだと思われるが）、哲学は自我を世界から切り離すという科学的手法によって発展してきた。そうしてサイードもその延長線上にいる。サイードは「オキシデント」が、「オリエント」との出会いの中で、どのような心理の変化をもって、どのような正当化を行い、どのように心の納めどころをもったかを極めて丁寧に分析した、(社会)科学者である。そうしてそれ以上の何者でもない。彼は分析のプロフェッショナルであり、みなそこに敬意を払うのであるが、もしそのことで自分が世界を変えていくのだなどと考えだすとすれば、思い上がりも甚だしいところである。知識人は正当な手続きを経て民意で選ばれた政治家では決してないのだ。知識人の役割は分析までである。医者は「こういう患部がありますよ」というだけなのであり、それを切除したり、投薬したりするかどうかは、患者が決めるのにきまっているのである。 &lt;br /&gt;もしもサイードが、個人的な問題から『オリエンタリズム』というすばらしい分析に至ったのだとしても、それを個人的な事情と混同することは、彼の慧眼を濁らせるだけである(※3)。もちろん、私は彼が自伝的メッセージをこめて「私は知識人とはこうであるべきだと考えている」あるいは「こういう世界であってほしいと願っている」と述べることについて、どんな否定的な意見ももたない。しかしもし彼が自分の分析した理論をもとにそれを個人的事情と結び付けて、「私の場合はこうだったから、世界はこうなるべきだ」と考えるならばそれは違うと言っているのである。 &lt;br /&gt;極端な話をすればこういうことになる。あるオリエンタリストが、精神の安定を保つためにオリエントという幻想を作り出したとして、それを否定する権利は、知識人はもちろん、誰にもないということだ。いかに資本主義が堕落しているようにみえたとしても、だから革命をおこすというのは、ただの知識人の傲慢である。まったく革命というのは、要するに大衆は馬鹿だから、選民たる知識人が導いてやって当然なのだと言うような、人をなめきった行為なのである。もしある人間が、個人的な事情から、自分の生きる場所をこの世界に確立したいと願うなら、人を巻き込むべきではない。彼は世界を変えるのではなく、自分を救うべきなのである。 &lt;br /&gt;自分が人と違っていたり、何か世界に違和感を感じていたとして、だからといって平和に暮らしている(彼から言わせれば馬鹿な)大衆を、自分が導いてやろうとする、それは要するに弱者の僻みなのであって、逆恨みから街中でナイフを振り回し、無差別殺人を図る連中と何も変わりはしないのである。彼は世界を変えることよりも、自分が強くなること、そうして世界を許してやること学ばなければならない。そしてそれは決して分析からは生まれない。医者のできることは分析までなのであり、そこから先は文学や宗教が担っている。 &lt;br /&gt;亡命パレスチナ系アメリカ人というサイードの例を引くまでもなく、往々にして弱い待遇に生まれた人間というのは、強く生きざるを得ない。彼の深い洞察は、言ってみればその人生の辛酸から来たものだろう。ミシェル・フーコーはゲイでSM愛好者であるという自分の狂気、世界との違和感からあの一連の膨大な思想体系を作り上げた。三島由紀夫も、太宰治も虚弱体質がその文学に大きく影響を及ぼしていると言われる。彼らは皆、言葉という重く、固い鎧をかぶり、その殻に閉じこもって、自らを守ろうとしているのである。けれど彼らは、時にして自分が、どうしてその殻をかぶっているのかを忘れてしまう。自分が強い人間で、世界を導ける神に選ばれた人間であるかのように勘違いしてしまうのである。人は決して自分が弱いということを認めたくないものである。言葉という分析(理性)は力である。その剣をもってすれば、いかなる鎧もやぶり、敵を突き刺すことができるものだ。だから人は、いつの間にか力に溺れてしまう。それが知識人の驕りだ。彼らは知らなければならない、本当は、自分はアウトサイダーになったのではなく、インサイダーになれなかっただけなのだということを。あの恋しくもイライラとさせる、大衆の輪の中に入れてもらえなかっただけなのだということを。自分は大衆よりもずっと弱い人間なのだということを。そうして、だからこそ自分を救うためだけに、闘い続けているのだということを。 &lt;br /&gt;知識人は世界を変えることはできない。知識人は敗北者だ。知識人は孤独だ。だからこそその孤独さに、同じく孤独な人が共鳴するのである。坂口安吾の言葉を借りるならば、知識人とはこういうことになる。すなわち、眠れない人の睡眠薬であり、健康な人にとっては劇薬(※4)。誤解してはいけないのは、健康な人に無理やり服用させようなど、決して思わぬことだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※1.こうして彼自身が「オリエンタリズム」で批判していたはずのあの二項対立に加担いくことはまさに皮肉でしかあり得ないのだが……。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※2. ノーマン・コーン著／江河徹訳『千年王国の追求』(紀伊國屋書店,1978) &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※3. 彼は自分の主張に自伝的メッセージが含まれているとする考え方を前もって否定している[p.14]。しかし第三章では、「故国喪失者や亡命者の大きな共同体」が、サイードにとって「子ども時代の風景の一部であり、その存在に」「長いあいだ心ひかれていた」など、自らが亡命の身にあることと、知識人とはいかにあるべきかが明らかに関連付けられてしるされている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※4.坂口安吾「不良少年とキリスト」(『堕落論』新潮文庫,2000)&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-6940067835746140606?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6940067835746140606'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6940067835746140606'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2009/01/blog-post_26.html' title='サイード　『知識人とは何か』'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-8346540054762317002</id><published>2009-01-23T06:51:00.001+09:00</published><updated>2009-11-01T02:05:44.944+09:00</updated><title type='text'>凡人と変な人</title><content type='html'>久々に何年か前の自分の映像を見る。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;object width="425" height="344"&gt;&lt;param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/L6iXkQbtQoM&amp;hl=ja&amp;fs=1&amp;"&gt;&lt;/param&gt;&lt;param name="allowFullScreen" value="true"&gt;&lt;/param&gt;&lt;param name="allowscriptaccess" value="always"&gt;&lt;/param&gt;&lt;embed src="http://www.youtube.com/v/L6iXkQbtQoM&amp;hl=ja&amp;fs=1&amp;" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"&gt;&lt;/embed&gt;&lt;/object&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;確かO-NESTでSOMEGIRLSと対バンしたときのものだと思われる。（撮影／大島亜耶） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;因みに林君がもっているギターは舞踏家田中泯の音楽、西原尚（外大映画研究会出身）が作成したもの。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;映像という媒体を通して客観的に自分をみると、ふと、おれって変なやつだなあと思えた。これを率直に思うことが出来るようになったのは成長だろう。小さい頃は、自分がおかしな人間であることを絶対に認めたくなかった。今でも「変であること」は悪いことであって、「普通であること」は良いことであるという基本的な考えは変わらない。ただ、自分に関して言えば実際いくらか変わってるようなのだ。だから仕方ない。人間はいかに認めがたくとも、偽らざる自分の性質を認めずに、生きることはできないものである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;右翼で変態でノイズか。どう考えたってデタラメじゃないか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでもそれが自分だから認めざるを得ない。それを認めずにいる時、人は自分のことが嫌いになるのだ。君は自分を愛することが出来るか。それは何より大事なことじゃないのか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分が何か人と違っていると感じたとき、問題はそれを認めることから始まる。「私は変わっている、それでいいじゃないか」というのは、本当には特に変わったところのない人の意見である。少なくとも、自分が変わっていることを意識したことのない人間である。日々自らが変わっていることを感じさせられている人間は、自分をどうやって人並みにするかを考える。変わった人間であることの窮屈さを感じていれば、自然とそれを悲劇と感じているはずだからである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこから変人の冒険は始まる。変人が凡人になるための旅である。これはたとえそれが白痴であろうが奇人であろうがハタマタ天才だろうが、凡そ人と比べて変わっている人全てにとっての事実である。この旅に劣等な人間も優勢な人間も存在しない。全ての人並みでない人間は、世間で生きていくために人並みを目指す。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アメリカ在住の亡命パレスチナ人である思想家、エドワード・サイードは「知識人とは何か」の中で、それはアマチュアのことだと言明する。 &lt;br /&gt;彼によれば、プロのアメリカ人にはアメリカとは何のことだかわからない。知識人は帰る場所をもたない、いわば「アマチュア」であるがゆえに、それが何であるかを示すことができる、というのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アメリカ人としてもパレスチナ人としてもプロフェッショナルになれない生い立ちを持った、サイードらしい考え方である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;変人は、普通でないというその事実そのものによって、逆説的に普通とは何かを指し示すことができる。そうして、それによって人を感動させることができる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人を感動させるのは、決して変わった歌や言葉ではない。意識の深層にある、誰もが知っているあのメロディや言葉である。芸術に前衛はありえない。真の芸術とは保守のことである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくの話すこと歌うこと、一挙手一投足は、どうしてもなじめないこの日本という世界に対するメッセージでしかありえない。ぼくは常に日本人を熱望する、自らこそが日本的でないがゆえに。それでもぼくは日本人になりたい。ぼくは最も日本を愛し、最も日本を呪うものである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ああ、それにしても芸術家とは果たして、まるで巫女のようなものだ。共同体の持つ深層意識を救い上げ、言霊にして歌いあげる。それを人々が尤もだという顔で頷くのである。これをしてようやく芸術家は人並みになる。共同体に認めてもらえるのである。だから日本人よ。ぼくは日本人に告ぐ。To the Japanese,輪の中に入れてもらえるまで。顔を上げて往来を歩けるようになるまで。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;諸君、凡人でありたまえ。凡人であろうと願う心の中に、高貴さは生まれる。人のことを理解しようとする心は生まれるのである。諸君、変であろうとするな。愛とは、お互い変だと思いあっている心が、普通になじむことを言うのであり、その逆ではありえない。勇気とは、その努力のことを指す。絶望とは、それができないことを言う。高貴さとは、それでも人を理解しようとする心のことであり、神とは、通い合う気持ちの究極（Public Image Limited）を示した言葉である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-8346540054762317002?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/8346540054762317002'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/8346540054762317002'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2009/01/blog-post_23.html' title='凡人と変な人'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-7382597663346473196</id><published>2009-01-22T06:50:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:51:02.002+09:00</updated><title type='text'>死ねないルーシー</title><content type='html'>私はアンドロイド。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;23世紀のロシアで踊り子を務めている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は月に一度のメンテナンスで半永久的に稼動することが出来る。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;死ぬことはない。眠ることもない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その代償として、自分が本当に起きているのか、生きているのかもよくわからない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もっとも、ロボットが生きているかどうかを気にするなんて妙な話だ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでも愛する人はいる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;劇場の下働きの老人、イワンだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イワンは月に一度、満月の夜、私を裸にしてメンテナンスをする。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;油圧を下げ、しわだらけの手で、シリコンからにじんだオイルを丁寧に拭く。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もうこんなことがかれこれ８年も続いている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私に見える世界は、現実と幻がごちゃごちゃだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;眠らないアンドロイドは起きながらにして夢を見るからだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;時折、イワンと踊る幻を見る。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうしてこんな夢をみるのだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ポールに映る自分の姿はひどく歪んでいる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;劇場は、床も天井も全てが鏡ばり。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;無限の私が、じっと私を見つめて、私の目を回す。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう何が過去で、何が今なのかもわからなくなった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ふと気づくと、イワンが身体を拭いている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;真っ白のつきひかりが、鉄格子の窓から差し込んでいる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうしてまた気を失った。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-7382597663346473196?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/7382597663346473196'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/7382597663346473196'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2009/01/blog-post_22.html' title='死ねないルーシー'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-623896899338969965</id><published>2009-01-04T06:49:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:50:24.560+09:00</updated><title type='text'>太宰と清張／純文学と大衆文学の彼岸</title><content type='html'>徒然なるままに、少しだけ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;読売新聞(H20/12/30)『太宰・清張つなぐ点と線』 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今年二人の作家、太宰治と松本清張が共に生誕百周年を迎えた。このふたりは、共に昭和を代表する国民的作家でありながらなんの関連もない。太宰が東京帝大在学中から文芸誌に作品を発表し、一躍時代の寵児として祀り上げられていたころ、清張は高等小学校を卒業するまでで「生活のためにかねて夢と抱いていた文学を棄てた」という。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;太宰がぼんやりと「自分には人間の生活というものが見当もつかないのです（人間失格）」と書いていたとき、清張は「賞金欲しさ」のために初めて小説を書き、入選した。そうして太宰の自殺と清張のデビューは、ほとんど時を等しくしている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;記事によれば、他にも1909年生まれの作家には、他に埴谷雄高、中島敦、大岡昇平などがいるという。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;------ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間は、自分がぬくぬくとパンを食いつつも、隣の人間が飢え苦しんでいる様を見ると、ふと心に疚しさが生まれる。なぜ自分だけがこの豊かさを享受することができるのか。なぜ人は平等でなく、豊かな人間が貧しき人間から奪ってゆくのか。なぜ人はみな、仲良く手をつなぐことができないのか。歴史上、数々の宗教がその説明を行ってきた。インド教（ヒンドゥー・仏教）はその答えを過去に求めた。曰く「今飢えるのは前世の因果である」と。一方ヨーロッパは未来に答えを求めた「やがて最後の審判の日、全ての人が復活し、審判を下される」と。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういった人類の根源的な問題に、神の力にたよるのではなく、人の力で解決を試みたのが近代思想（左翼思想）である。キリスト教千年王国思想から無神論、やがてアナキズム、社会主義、共産主義へと変容したこの思想は、「人は平等である」という考え方を徹底的に敷衍した。左翼思想の骨頂はこの考え方にある。そうしてその支持層は、どこの国でも例外なく高所得インテリ層である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;逆説的なことであるが、「人は平等である」という考え方を、低所得層は決して支持しない。貧しき人々は、人が平等でないことなど、骨の髄から知り尽くしているのだ。この世界は全て力の関係によってなりたっているのであり、平等はありえず、人は奪うか奪われるかなのであり、彼らにしてみれば、左翼思想など金持ちの坊っちゃんによる甘ちゃんのお遊びもいいところである。温室育ちの人間に、奪われることの苦しみや憎悪がわかってたまるかという言い分だ。だから彼らは平等を志向しない。彼らは力の転覆を望みとする。奪われたから奪い返すだけである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;簡単に「生きてりゃいいのさ」だとか「戦争するよりセックスしよう」なんて嘯く人間は、人から奪ったことも奪われたこともないのだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;清張からみれば、太宰なぞ金持ちの甘ちゃんもいいところである。太宰に地の底で蠢く悪の叫びはわからない。太宰にわかるのは、奪ってしまったことに対する自己嫌悪である。太宰は「自分は悪い人間である」と自分を責めることすらできない。太宰は「自分が悪い人間だということは、自分がいい人間だというよりもずっと卑怯だ」という。太宰には自分の言うこと全てが偽善に見えてしまう。『人間失格』の冒頭にはこうある。「まったく、その子供の笑顔は、よく見ればよく見るほど、なんとも知れず、イヤなう薄気味悪いものが感ぜられてくる。どだい、それは笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。」太宰は自分が人前で引きつった笑いをしてしまうことが許せない。太宰の人生とはこの虚偽の仮面を引き剥がすための惨々たる戦いのことであった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;厳格な父親のもとで育った太宰は、笑いたくなくても笑わざるを得ない自分の弱さを呪った。『弱い』。しかし太宰は三島由紀夫のように力が欲しいとは思わない。三島は「弱い」自分を克服しようと、ボディービルを行い右翼思想に傾倒していくが、太宰は弱いままで生きていたいと願うのである。そのような太宰にとっての『仮面の告白』とは『走れメロス』しかありえなかったのだと思うのだが……。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一方清張は、奪ってしまったものの苦悩よりも、奪われたものの苦悩に注目した。これははっきりしていて、太宰が金持ちで、清張は貧乏人の出自であったからだ。清張の小説の中では、奪われた人間の悲しみと憎悪が、闇の中に蠢くようにして描かれる。「悪」は「力」はそこから生まれる。清張によれば、悪とは貧しき人々であり、奪われた人のことである。奪われた人が奪い返そうとするとき、それは「悪」になる。そうして必ず「正義」に、滅ぼされるのである。清張の描く犯罪者は極悪人や猟奇的な人格の持ち主ではない。清張は、「悪」を温かい目で見つめる。敗者はいつまでも敗者であり、「悪」は「正義」に滅ぼされ、それ自体が決して「正義」を取り返す日がこないのだとするならば、犯罪を犯すこと自体に何の意味があるだろうか。「憎悪の連鎖を断ち切らねばならない」「復讐に何の意味がある」しかし、そういった種々の言葉を重々骨身に染みこませながらも、それでもどうしてもやらずにおれなかったそういう人間を、清張は描くのだ。清張の文学には、中沢新一の「文化（藝術）とは敗者の慰め」であるという言葉をささげるのが、最も相応しかろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;太宰を支持するのは、主として高学歴インテリ層だった。太宰が左翼思想に被れたりするのも、豊かさへの疚しさからだったのだろう。一方清張は、昭和の後半を通じて保守・庶民層、「貧しき人々」に愛され続けたのだった。人間世界の仕組みは奪った者、奪われた者、このふたつの不断の闘争でできている。奪った者は奪ったことに対する罪悪感に、奪われた者は奪われたことに対する憎悪に生き、死んでいく。苦悩は似たようなものである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;昭和の日本を見ていくと、戦争の世紀を経て、アジアから「奪った日本」と、ヨーロッパに「奪われた日本」のふたつが同時に立ち上がってくる。日本における「奪った者」である左翼（高所得インテリ層）は、自分が「奪った者」である罪悪感から、「奪った日本」である側面に注目したがり、日本における「奪われた者」である右翼（保守・庶民層）は、自分が「奪われた者」である恐怖や憎悪から、すぐに「奪われた日本」に注目したがる。なんのことはない、両者とも自分の境遇を、日本に投射して語っているだけのことだ。また左翼が、在日や部落、女性などといった日本における「奪われた人々」に注目するのも、自らが「奪った者」であり、その罪悪感に怯えているからだ。一方右翼が中国や北朝鮮の脅威について極めて高い関心を持っているのも、自分が「奪われた者」であり、誰かに「奪われる」ことに関して、極めて敏感であるからだと言える。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;国内における闘争ばかりでない。第二次世界大戦は植民地を「持てる国」と「持たざる国」の間で勃発した。「奪った側」であるアメリカ・イギリス・フランス、即ち『近代』に対する「奪われた側」である日本・ドイツ、即ち『反近代』の反抗である。持てる国である連合国側の思想は民主主や人権に基づく極左思想なのであり、持たざる国である枢軸国の思想は保守革命やファシズムに基づく極右思想である。「奪った者」は平等であろうとし（左翼思想）、「奪われた者」は奪い返そうと考えるのだ（右翼思想）。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;マルクスは、世界史とは「奪った者」と「奪われた者」この二つの不断の闘争であると説いた。しかしその思想が唯物史観であったため、逆説的なことに「奪われた者」は奪う者になろうとし、「奪われた者」に同情的なのは奪う者の側だけなのだということに気づかなかった。弱者は強者になろうとする。強者は弱者を恐れ、弱者は弱者を嫌悪する。強者は弱者への罪悪感に怯えている。弱者は憎悪から反逆し、必ず敗北する。だから強者は弱者の反逆を、いつまでも鎮魂しつづけなければならない。それでも弱者は強者から奪おうとする。そうして奪い取ったとしても、永遠に弱者が強者になることはない。大文豪になっても、ロックスターになっても、弱者は弱者であることからは逃れられず、自殺か狂うか、結局惨憺たる最期を迎えるのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;----- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だめだ。一週間くらい文章書くのサボると文体が荒くなる。楽器とか舞踏とかと同じようなもので、文章はある種の身体調教だから、日々絶やさず訓練しつづけることが肝要である。二日サボると自分にはわかる。四日サボると目の肥えた人にはわかる。一週間サボると誰にもわかるほど腕が落ちる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言葉は刀だ。剣筋が鈍れば命を落す。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;-----&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-623896899338969965?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/623896899338969965'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/623896899338969965'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2009/01/blog-post.html' title='太宰と清張／純文学と大衆文学の彼岸'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-2722901742009499080</id><published>2008-12-31T06:47:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:48:57.518+09:00</updated><title type='text'>蛇足</title><content type='html'>飽きたら飛ばすといいと思います&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;†&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは古いものが好きだ。若い人より、年をとっている人のほうが、貫禄があるしかっこいいと思う。だからぼくは、年をとるたびに自分を誇らしく思う。同時に今まで何をしてこれただろうと思い直す。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たった25年しか生きていなくても、25年も生きていれば色んなことが変わるし、こんなぼくにも、少しだけ分かるようになったこともある。そうして、そんなものはきっと何千年も昔に、この広い世界のどこかの誰かがとっくに分かってたことなんだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ふと部屋を見まわせば、何百冊もの本の山。ぼくはこの知識の海から、一体何を知り、何をしたかったのか。どうして何も知らずに生きていくことができなかったのか。知恵の実を食べれば、いずれ楽園を追放されることなどとっくに知りながら。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは小学校時代にあまりいい思い出がない。静岡の東隅にある小さな観光街では、東京から越してきた変わり者ということでなじむことはできなかった。一般に思う以上に、土着民というのは、よそ者に対して冷たい。ぼくは学校が嫌だった。家は？家も嫌だった。父さんが怖かったから。父さんはぼくの話を聞こうとしなかった。耳が聞こえなかったから。聞こうとしないのではなく、聞こえないのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある日学校に行くと机は水浸しにされ、花瓶の破片が転がっていた。母さんに買ってもらったドラゴンボールの消しゴムには落書きがされ、耳を覆いたくなるような言葉でおおいつくされていた。最も悲しかったのは、母さんが始業式の前日に「りゅうもとうとう小学生になったのね」ととても嬉しそうにマジックでぼくの名前を書いていてくれていた、そのうわばきの上から、大きくマジックでばってんが記されていたことだ。自分の名前を否定されたそのうわばきを、到底母さんに見せられるわけがなく、ぼくは誰にも知らせずにそれをだまって焼却炉に棄てた。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ははあぼくはここで不幸自慢などするつもりはこれっぽっちもない。土台ぼくの不幸などアフリカの貧困や戦争の悲劇に比べればまるで話にならないのであるし、そうして何よりも、どれだけ不幸を装って見せ、腕を切り、泣いて叫んで見せても誰も助けにきてくれないことなど十年も前にとっくに知っているからだ。弱い人間は、畑のこやしにもならないのだ。生きる場所がほしかったら、奪い取るほかにどんな方法も存在しないのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;親父は怖かった。理不尽なほどにぼくを怒鳴った。だからぼくも母さんもいつも父さんにはびくびくしていたし、家に行き着く場所などあろうはずがなかった。父さんが上機嫌なとき、それは食卓で自分の思想を披露しているときだった。だからぼくは、父さんの話を黙って聞いた。すると父さんは実に嬉しそうにアメリカの悪、中国の悪、日本の正義を語り、我が家は平和なのである。そうしてぼくは、静かに座っていられればそれでよかったのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、言葉というのは実は刃であり、力である。知らず知らずに人を殺すのだ。どうやらこの行動が、ぼくの精神に大きく抑圧を来たせたらしい。人の思想を聞かされ、反論を許さないというのは、実はとてつもなく恐ろしいことなのだ。言葉はひとつ用法を間違えばレイプ、暴力なのである。その刃は、やがて人の精神を屈服させ、服従させることができる。いつの間にかぼくはおかしくなっていた。ぼくはロボットのように中国の悪、アメリカの悪を語り、日本の正義を讃えた。父さんはぼくにとって全知全能の神だった。だからこそ反逆することも、理解することもできなかったのだった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは男であったにも関わらず、父さんの言葉の力に、支配され、レイプされ続けた。精神分析的にいえば、ぼくが女のような行動をしたり、わざわざ売春まがいのことまでして、知らない男に犯されにいくのも全てそこに起因する。ぼくは男でありながら女である。この世界全てに犯され、奪われ、屈辱と服従を手にする。目の前に見えるのは強大な帝国であり、神である。ぼくはそれに愛され、許されることでのみ、ここに生きる意味を見出すことが出来る。ぼくはいつだって思っていたのだ。誰かぼくを殺してほしい、愛してほしい、許してほしい、もう全て終わりにしてほしいと。公衆便所で男に犯されているそのときだけは全て、ぼくは何も考えなくてよかった。今だって何も変わらない。綺麗に化粧して、多くの視線に犯されたい、たったそれだけの理由で多くの人間の人生を巻き込んで悲鳴をやっている。カワセくんは悲鳴をやるために泣いている母親を置いて東京に出てくるのだ。ぼくにはそんなことをする資格があるのか？ぼくが、他人から他人の生を奪って、人の心と結びつく、そんな価値がぼくの人生にあるのだろうか。ぼくにはわからない。ぼくは人の心を奪っていくだけの資格があるのだろうか。ぼくはそんなに偉い人間じゃない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;やがてぼくは父さんの力を奪い、父さんを殺した。言葉と知というその力で。なぶられ続ける過程でただ、ぼくのほうが強くなった。たったそれだけのことだ。でも、その事実は今も自分を責め続ける。ぼくは父さんのことを本当に許してやることが出来たのだろうか。今でも分からない。しかし、しかしどうだ？世界はどれだけ泣いても叫んでもぼくのことなど助けにきやしない。ぼくが泣いてみせたら、みんなぼくが悲しいのだと思った。ぼくが笑って見せたら、みんなぼくが嬉しいのだと思った。ぼくが叫んで見せたら、みんなぼくがびっくりしたのだとおもった。でも、ぼくが本当に苦しくてつらくて仕方のないとき、誰もがぼくは演技をしているのだといった！世界なんてそんなものだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間は、社会を形成する歴史過程で、強さと力こそがこの世界を支配する全てだというたったそれだけの、こんなに単純なその事実を巧みに隠蔽した。社会を形成するということは、助け合うということだからだ。そこで「強さ」という原理に代わり「優しさ」なるものが発明された。強い人間だけでなく、弱い人間も同じように生きていける世界。そんな世界を願って、人間は社会を形成したのだった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、社会の行き着く究極の未来は、誰もが平等で、助け合い、讃えあい許しあって、何人も殺す必要のなく、みんなみんなこの世界に生きる全てが幸せなエンディングを迎える、そんな世界である。誰もがその世界を夢想している。ぼくだってそうだ。嘘じゃない。この気持ちは、絶対に嘘じゃない。でも、ぼくはとうに知ってしまったのだ。そんなことはキリストでも降りてこない限り、絶対に不可能なんだって、 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは、ぼくはこの世界から全部奪うことにした。父さんから奪い取った言葉というこの力で。心も、金も、力も絶望もすべて奪うことにした。悲しければ奪いとるのだ。そうしてたとえ全部奪い取ったとして何になる。ぼくがキリストになるのか。誰もが笑って迎える、ドラマみたいなエンディングで、みんな手をつないで、おしまい、ってなるというのか。なればいいのに、なればいいのだ。ああ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;父殺し！今の父さんといったら廃人のようだ！ぼくはやがて自由になり、このどうしようもない世界へと旅立つのだ。許されることはないだろう。でも、全部を奪い取った暁には、この世界の全てを許そうぼくは。ぼくはもうぼくのような人間はごめんなのだ。ぼくは自分を愛し、ぼくこそ世界の救世主だと言明して憚らぬ傲慢な人間であるが、本当はぼくは自分のことが世界中の誰より嫌いなのだ。だから、いつまでも自らを破壊し、創造しつづけなければならない。埴谷の云う永久革命家とは、果たして本当に悲哀だろうか。壊す、許す、その繰り返しの中でしか、自分を見出せないのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは戦争がしたい。平和のために戦うという言葉ほど嘘つきなものはない。ぼくはもっともっとぼくを勃起させる、おそるべく崇高なものと殺し合いたい。ぼくは彼女にぼくをゆるされたい。ぼくは試されたいのだ。この世界に？この正義に？言葉というこの力に？ぼくは君を殺すし、救うことだってでｌきるのだ。かつての自分のように。過去の一瞬を殺すただそれだけのためにわが命を燃やすと知れ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;逆説的な話だが、月夜に名前も知らない男に抱かれ、身体を舐めているときにぼくはこの世界を全部支配して、神にすらなったような気がするのだ。誘惑的な目つきで父親の幻影に呪いをかけて、この世界の全てを手に入れて、そうしてたった一瞬笑った瞬間に全部を硬い大地に叩きつける。その一瞬のために、ぼくはぼくの人生を無為にでもしよう。ビロードとスパンコールのドレスを着て真っ赤なルージュをひき、満月の夜に笑いながらこの身をくるむ父親という絶望の纏から解放されるのだ。そのためなら悪とすら血を結ぶ。みんなもっとおれを見ろ。そのほかに何もいらない。金も力も、愛もいらない。おれは父さんに代わってこの世界の王となる。みなおれを讃えろ。おれを愛する必要なんてないから。ぼくの心の穴をふさいでくれ。ぼくは奪うんだ。手に入らないなら、奪うしかないのだ。ぼくの絶望を、ぼく以外の一体だれが救ってくれるというのだ。いくらでも愛してくれ、ぼくは決して愛さないから。ぼくは父さんにささげられる生贄さ。何も見えないこの世界で、ただただ何かをたたきつけるためにぼくは生きる。愛は呪いさ。さあ虐げられるすべてのものよ。ぼくのようになりたいか。ぼくのようにはなりたくないか。神のようになりたいか。神のようにはなりたくないか。力がほしいか。力などいらぬか。ぼくは自分のことなんてどうだっていい。それよりこの世界の全部を掌に掬いとって、頭からこの身体にこぼすのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たった一輪だけ、血のような色の薔薇を君にあげよう。ぼくが決してその輪に入れてもらえなかったその一輪だ。神と宇宙と太陽と、この満天の星空と、人に満ち溢れる絶望と、誰もおまえのことなんか救ってくれやしないよ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;救われたかったら奪い取れ。この手でこの力で、父親から世界から、悲しみも正義も全部奪い取れ。そうして全部背負っていけ。やがて誰かがおまえを殺すだろう。そうして許されるその日まで、この世界に響きわたる悲しみと罪と絶望を、全部背負って死ね。奪われたことのない人間には、永遠に分からないことだろう。それでもいいのだ。結局のところ人間だれも分かり合えないのだから。ただ、長年ステージに立っているとそれでも一瞬だけ、わかりあえた気がするときがあるじゃないか。気のせいなんだけど。でも、そのたった一瞬のため、ただそれだけのためだけに、ぼくはこの世界の全てを奪い取るのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;†&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おれは弱い。いつも何かを恐れている。小さな心だ。吹けば飛んでしまうような心だ。人が恐ろしい。前は客席を向いて、人の顔をみて演奏することすらできなかった。今は縄で心を縛り付け無理やり客席を向かせている。だからまばたきひとつしない。したら、途端に逃げ出してしまいそうになるからだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おれは恐れている。一体何を。何を人の影にみる？人と論を戦を戦わすとき、死に物狂いになっている自分がいる。一歩でも退いたら、言葉に食い殺されるような気がする。大袈裟でなく本当に死ぬんだと思う。だから死に物狂いで刀を振り回す。バンドだってそうだ。共演者をみて、殺すべき敵だと思わなかったことなど、たった一度もない。殺さなければ、やられるのは自分だ。その前に奪えと、魂が囁く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おれは殺し合いがしたい。それはおれが弱いからだ。強いやつは全員殺さなければ、いずれ自分が殺される、そう思っている。日本一にならなければ、顔を上げて往来を歩ける気がしない。おれより強いやつがいたら、おれはいつか必ず、そいつにとり殺されることだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;少し弱れば、餓鬼どものなじり笑う声が聞こえてくる。何百もの魑魅魍魎が、おれの身体に喰らいついて動けなくなる。おまえは強くないのだ、おまえの上にはもっと強いやつがいるのだ。おまえは、恐怖にとりつかれ敗れ、今に負けて死ぬのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おれは弱い。酒を飲んで麻痺させなければ、自らの闇と見合うことすらできぬ男だ。ときどきわざと、独りで狂ったように酒を飲む。そうして闇と見合い、焼き付けるようにしている。そうしなければ、おれのような弱い男はすぐに忘れるだろう。そうして女と物欲に溺れ、いずれ斬り殺されるに違いない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;昨晩はやたらと呑んだから、今も頭がずきずきする。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;闇にもぐっていけば思い出す。物心ついたころから、父親に言葉という剣の切っ先を、いつでも喉元につきつけられていた。おれの記憶はただそれだけだ。けれども、そう思うのもおれの弱さに違いない。もしおれが強ければ、そんな幻はとっくに切り殺しているはずだからだ。だがそうではない。いつでも敵と見合うとき、相手の刀に父の姿がちらつく。もうとっくに切り殺したはずの父親が、姿を変えて相手の剣に乗り移ってくる。おれは恐怖で手がじとりとにじむ感触を知っている。嫌な気分だ。あの手でギターのネックを握る瞬間というのは。指が、凍りついたように動かなくなる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;手っ取り早く殺し合いがしたい。真に強い対手と、命の遣りとりが。そう思って浪人になったのかもしれぬ。組織の中で力を使い、ひとりでは到底得られないような対価をもらうのも、真に強い相手と真剣で殺し合いをする喜びには遥か及ばぬ。正直、自分の剣が強いのか弱いのか、よくわからない。自分が今、日本で何番目くらいに強いのか。しかし確かなことは、たとえば二番なら、やがて一番に命を奪われるだけだと言うことだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おれは弱い。組織に入らず、この手一本で、人から奪って生きると決心するにも、ガクガク震えながら大変な時間がかかった。今時フリーターになんて五万といるのに。ぼくは彼らよりずっと臆病だった。ぼくは負けたら死ぬのが怖かったのだ。、、、なんのためにせっかく一流大を出たと思っている。それに加えてこの力さえあれば、いい就職先なぞいくらでもあるのだ。綺麗な嫁をもらって、いい収入があって、たとえ日本一でなかったとしても、この力を高く評価してもらいながら発揮して、死ぬまで生きることができれば、もうそれで十分ではないか。全てを棄てて、それ以上の何に求めるほどの価値があるものか。それにもし、おまえが一番でなかったら、どうするのだ。得られるはずだった対価を全て失い、野垂れ死にだ。、、、、おれの心は、今だっていつだって、少しでも気を抜けば弱さに捕らわれ離れない。おれは極めて臆病な男だ。おれは知っているのだ。おれが小さい頃から一度だって万引きをしたことないのも、どんなときでも愛想良くふるまうのも、滑稽なほど真剣な表情で人の話をきこうとするのも、これらは全部、ぼくが人の痛みの分かる人間で、優しく善なる心を持っていたからでなくて、ぼくがいつでも人の目を気にして、相手の御機嫌をとって媚をうらずにはいられないほど臆病な心の持ち主だったからである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも、いやだからこそおれは、自分の心の中に自分をさげすむ心が生まれるのがどうしても嫌だったのだ。自分の中の餓鬼に、「ああおまえはやっぱり父親の前でびくびくしているだけの、弱くて何も出来ない子供だ」などとしたり顔で囁かれるのが、どうしても嫌だったのだ。「弱くて小さいおまえには、一生女を抱くことなんてないよ。こんなにふにゃふにゃなおまえを、愛する女なんていると思うのかい？」「父親の下でずっとびくびくし刀を抜けないおまえは、生まれたときから去勢されているんだよ。女男。」「また媚を売っているのか女男。ヘラヘラ笑ってばかりいて。そうだよなあ、おまえは父さんが怖いもんなあ。」そう、餓鬼の言う通りおれは女男だ。闇夜に化けて、男をあさりに行く。真っ赤な口紅をひいて。でもそれは男が好きだからじゃない。おれには女が臆病者のおれを好きになるとは信じられない。女は強い男を愛すだろう。だから、おれがこの世界の王にならない限り、喜んでおれに抱かれる女など誰一人としていないに違いないと信じているのだ。もし触れることができたとしても、辛うじておこぼれをもらえるだけ。足元に踏まれるか、唾を吐かれるかが似合いだ。そう、おまえは男に犯されるがいい。腰抜けで刀すらぬけないおまえには、それしか出来っこないのだから、、、 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おれの心は恐怖で一杯だ。絶対に勝てない父親という幻想相手に、たった一歩でも退いたら、無限の闇に引き込まれそうになる。だからこそ前に出るしかないのだ。逆説的なことに、全てが恐ろしく吹けば飛んでしまうほどの臆病な人間だからこそ、真剣で殺し合うしかないのである。殺して殺して屍の山を築き、その上に玉座を築いたときにしか、この餓鬼どもの囁きが消えることがあるとは、ぼくには到底思えないのだ。女が、金が、愛が、力がほしい。ほしかったら奪い取れ。刀を奪い取って、躊躇せずに振り下ろせ。数々の強い相手を殺しまくったその末に、おまえはとうとう全てを手に入れて、この世界の王となることだろう。そう、殺し合いに生き残れば、屈辱にまみれずに生きていけるのだ、誰にも負けない圧倒的な力さえあれば。平和なんて知らない。ぼくはそれより、誇りをもって生きていたい。餓鬼にいくら女男と囁かれようとも、高貴な心だけはどうしても失いたくない。ぼくは貴族だ。だからこの剣に誓って、無様な真似をするわけにだけはいかないのだ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-2722901742009499080?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gndh.blogspot.com/feeds/2722901742009499080/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=7498498870623838359&amp;postID=2722901742009499080' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/2722901742009499080'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/2722901742009499080'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/12/blog-post_31.html' title='蛇足'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-6225952430619553301</id><published>2008-12-19T06:45:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:47:26.075+09:00</updated><title type='text'>眠れぬ朝のために２</title><content type='html'>昼ごろに起き出して、blogを見てみると書いた記憶のない日記に人様からコメントがついている。夜は恐ろしい。無意識が勝手に思想を描く。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしてもやはり、政治の話よりもセクシュアリティの話の方が、人の食いつきがよいようだ。時代の興味が、社会から個人へと移っているのかもしれない。よく言われる「大いなる物語の終焉」も、その要因のひとつだ。「大いなる物語」とは、国家という架空の共同体の物語のことであり、その終焉とは、つまりその幻想が崩れたという意味である。国家が人間の生み出す妄想の産物であり、歴史は事実ではなく神話に過ぎないというのは、現代ではほぼ常識となりつつある。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;明治維新からちょうど百年の象徴的1868年をターニングポイントに、日本という超高度発展資本主義社会は恐らく世界で初めて大衆消費社会へと到達した。この社会の中で人は、政治より個人のことに目を向けた。というのも、革命運動より豊かな生活の方が、より魅力的に映ったからである。かくして人は、神よりもパンを選ぶ。こうして来る80年代においては、日本人は果てることのない物欲に酔いしれた。知識人は言った、あらゆる物語は無化された。ポストモダンの到来だと。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だがしかし、人は本当にパンのみに生きることができるのであろうか。無論、人はパンぬきに生きていくことなどできない。しかし我々ゼロ世代の人間にとって、パンはもはや空気と同様に当然のことである。大枚をはたいて高級な珍味にうつつをぬかすなんて贅沢の仕方には、とっくに飽き飽きしているのだ。山盛りになった山海の珍味よりも、身の丈にあった、人間が本来必要としていた生活を、必要な分だけとることが出来れば十分である。我々はそんなものより、心の満足を必要としている。物質より、精神の安定を必要としている。パンよりも、神を必要としている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大量消費社会は、我々人間同士の、互いの心を遠ざけたのだ。世界で最も高度にシステム化された都市、東京で暮らす我々には、最早他人との接触がない。人と話さないでも困ることなく生活することができる。道に迷ったら携帯でネットに接続すればよいし、小腹が減ったらコンビニがどこにでもあるからである。高度にシステム化されるということは、人から乱調を奪う。しかし乱調からしか、精神の接触は生まれない。ただ延々と繰り返される日常と労働と、それに対応する大量のパンと金。ポストモダン思想は、ただ現状を肯定するばかりで、我々の世代の問題にまるで見当違いな回答ばかりをしている。既存の思想の閉塞はすでに限界まで来ている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;恐らく、これほどまでに人と人の心が離れた時代というのは、日本史上初めてのことだろう。みな、ひとりぼっちである。ひとりぼっちになったとき、人は初めて神をみる。多神教の言う精霊ではなく、一神教の神である。キリスト教の言う父、子、精霊とはすなわち、神、自我、多神教のカミガミに対応している。砂漠で生まれたユダヤ教には神と自我しかなかったが、森の中ではぐくまれた中世キリスト教には精霊がいる。精霊は森の中にいるものだ。だから森が失われると、精霊はなくなり、神と人の対峙となる。そうして日本は、超高度資本主義社会を経て、森を失った。一神教到来の時である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本人は恐らく今こそ、一神教に覚醒しようとしている。それは良いこと悪いことではなく、否応なしにそうなのである。なぜなら、ひとりぼっちの我々は、一人で神と対峙せざるを得ないからだ。神と物語の再評価の時である。ポストモダンは我々に、全ての物語は人の妄想によって構築されたものにすぎないということを教えたが、人から妄想をはぎとったら何も残らないのだ。だから、脱構築ではなく汎構築なのである。あらゆる物語を信じないのではなく、あらゆる物語を信じるのだ。妄想だから信じないのではなく、妄想だからこそ、信じるのだ。それは、やがて科学が全てを明らかにするとか、合理的な考えではないとか、そういう問題では全然ないのだ。我々は、信じなければならないのだ。どれだけ科学が進歩しても、人は信じずには原罪の問題を乗り越えることができないからである。ぼくらが牛を殺し豚を殺し、人を殺して今ここにのうのうと生きていること肯定するためには、信じる他にないのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ひたすら書きまくりたいのだが、打ち合わせがあるのでここまで。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-6225952430619553301?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6225952430619553301'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6225952430619553301'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/12/blog-post_19.html' title='眠れぬ朝のために２'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-2962084367764701708</id><published>2008-12-18T06:44:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:44:53.719+09:00</updated><title type='text'>眠れない朝のために</title><content type='html'>眠れないからもう少し別の話を続けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いわゆるマゾを自称する女性というのは珍しくないのだが、ぼくはその大半が特殊性癖というわけではないと思っている。女性というのは身体と精神にぽっかり穴があいているものなので、その穴を埋めるために攻め入る性を待っているものなのだ。このときに言う攻め入る性とは当然ペニスのことだけではない。男が女の身体を視ること、男が女に能動的に行動をしかけること、これら総て攻め入る側の性行動である。もちろん女が男の身体を見たり、女が男に能動的に行動をしかければ逆の事態がおこる。攻め入る性とは男性生殖器のことだけを指しているのではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何はともあれ、「攻め入る性」を「受け入れる性」である女性性は、行き過ぎれば当然の結果としてマゾヒズムに似た行動に行きつく。「受け入れる性」は、いつでも「攻め入る性」を受け入れつづけていたいのである。男性の視線を、言動を。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そもそも人間は本来、男も女も「受け入れる性」ではなく、「攻め入る性」である。幼児は男も女もむしろサディズムに近い徴候をしめす。ところが二次性徴に至って、女の子は自分の身体が、何か男にとって、価値のあるものらしいということに気付く。彼女らの意志に関わらず、「攻め入る性」は、例えペニスを突き立てなくとも、視線や言動で自分の身体へと、無遠慮に攻め込んでくる。この中で彼女たちは自分の意志に関係なく、男達の欲望に降参して、屈辱的に自分の「攻め入る性」を、「受け入れる性」に転化させなくてはならない※。ここにマゾヒズムが生じてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(※圧倒的多数の無条件降伏にも関わらず、この中には、いつまでも白旗を挙げずに大人になった者もいるかもしれないし、あくまで戦略的にそれを利用しようと考えた者もいるかもしれない。)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、女性は女性の身体をもっている以上、多少マゾヒズムの癖は持っていて当然なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何はともあれ、こういった理由で女性は身体と同様精神にも穴が空いており、それを埋めることができれば、大体精神上の問題は収まる。これに対し男性は身体からはみ出た部分(ペニス)が満足すれば大体問題なしである。この時女性性は受け入れる側であるゆえに性の問題を精神身体を含めた全人格上の問題と考えるが、男性性にとっては身体からはみ出たペニスだけが問題であるので、性の問題は即ちペニスの問題である。だから男性は性行動にペニスの満足を求め、女性は精神を含めた全人格上の満足を求めるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、ぼくが明朝から長々と日記を書いておるのは、こんな単純な精神分析理論の受け売りを披露したいためではない。そうではなくて、話したいのは男性のマゾヒズムと女性のマゾヒズムの違いに関する考察である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一般に女性のマゾヒズムが、二次性徴に伴う「受け入れる性」の正常な精神的反応だとしたら、男性のマゾヒズムはどのように説明できるだろう。男性は女性のように身体と精神のどこにも受け入れるべき穴が空いているわけでもなし、二次性徴で欲望の視線を引き受けなければならないわけでもない。つまり、男性のマゾヒズムにはそれを引き起こしうる、身体上の要因が存在しない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実にその通りであって、男性のマゾヒズムは社会的な要因からしか生まれ得ないのである。世界で最も有名な(偉大な)男性マゾヒストと言えば恐らくイエスに他ならないが、原始キリスト教の受けた猛烈な迫害が彼の物語の下地としてある。つまり、イエス…というより彼が象徴しているところの原始キリスト教は社会的に「受け入れる性」として、迫害者の「攻め入る性」を不可避的に受け入れ続けていた、ということである。そういった意味で原始キリスト教の立場は、二次性徴を経た直後の女性性の立場に近い。嫌気が差すほど繰り返される聖書の迫害者に対する憎悪と諦めに近い慈悲の感情は、女性が男性にたいして常に持っている分裂的な「口惜しさ」の感情と同種のものであろう。「私はあなたが知らないということを知っていた」というイエスのあまりに寂しい言葉は、自分が不完全であって、最終的に男性にとって必要のない人間であるということをどこかで知っている女性性の憎悪にも似た呻きである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ、イエスと女の違うのは、男であるイエスの身体には不完全な部分などどこにもないことだ。男という完全な身体をもったイエスにとって、不完全さとは最早、神と比較した時の実存の不完全さでしかありえない。女のマゾヒズムはペニスという鍵を経て完全な身体に到達すること(子供という女性にとって初めての射精＝攻め込む性)で収まるのだが、イエスのマゾヒズムは最早処刑され死に至る(＝神になる)ことでしか解消され得ないのである。三島由紀夫なんかもその心理作用だろう。無論女性でも、このようなマゾヒズムに迷いこむことはあり得る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;三島が熱心にボディービルをしていたこともまた正にその論証となるが、イエス的なマゾヒズムは「攻め入る性」ではなく、欲望の視線を「受け入れる性」になることを欲する。そうして、この世界中の人間全ての視線、即ち欲望の「罪」であり絶望を、彼ひとりの肩に背負いながら、破滅へと突き進むことを望むのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-2962084367764701708?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/2962084367764701708'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/2962084367764701708'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/12/blog-post_18.html' title='眠れない朝のために'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-166504690934783301</id><published>2008-12-18T06:43:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:44:00.196+09:00</updated><title type='text'>哲学雑談</title><content type='html'>ぼくは芸術の革新なるものに極めて懐疑的だ。音楽には日々革新が起こっており、進歩を重ねてどんどんよくなっていくなんてのはダーウィニストの世迷い言としか思えないし、だから新しい音楽なんてちっとも興味がない。しかしただ、色んな意見のやつがいるのが好きなのは確かだ。というのも、百人の人間がいたらその精神の吐露は当然百通りになるに決まっているはずで、そうならないのは何がしかの外的圧力がのしかかっているに違いないと、ぼくは考える。周りに合わせよう、とかね。こういうのを、専門用語で同調圧力、というらしい。同調圧力。ぼくはそういうのは、嫌いだ。そんなものに屈する人間は、悲しい。でも、同調圧力に気付かない人間も醜悪だ。唯一好ましいのは、同調圧力を嫌というほど身に染みながら、それを自らの力で打ち壊していく超人のような人間だろう。ぼくは超人に憧れる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしても表現の世界で、最も閉鎖的で、同調圧力の強い世界は言論じゃないだろうか。ぼくは大学に入って、同世代の誰もが現代思想ピッタリなのにはほとほとうんざりした(※ここでいう現代思想とは、構造主義以降の一連のフランス思想家たちを中心とした思想潮流を指す)。日本人はそんなにフランスが好きなのだろうか。誰も彼も口を開けばフーコーデリダで、誰に尋ねても似たような口調で似たような解答が帰ってくる。思想に関する意見を聞く以上こちらは個性的な解答を期待しているのだが、どれも見事なまでに現代思想の入門書でみたようなお決まりの解答が返ってくるのだ。国家と言えば想像の共同体、神話と言えば脱構築、アメリカと言えば帝国主義、抵抗と言えばマルクス……なるほど日本人にとって哲学とは受験の続きであり、思索するものではなく、勉強するものなのかもしれない。しかしそんなやつに限って自分はきちんとした意見をもっておると考え、さも他の学生は馬鹿だと言わんばかりにしておるのだから困ったものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なんだか心底イライラしており、大学一年のあたりで「ぼくは日本主義でいこう、なんだいあいつらフランスフランス言ってるがあの奴隷根性は典型的日本人だ、なんでもかんでも舶来上等なんだからな！」と考えた。もちろん現代思想を学んだ連中には、そこから高度な思想的展開を経て高次の独創的哲学を切り開かんとしていた者も少なからずいたに違いないのだが、当時のぼくには脱構築なんていってるやつは全員没個性な田舎百姓精神丸出しの典型的日本人にしか見えなかったのである。こうしてぼくは、彼らを一纏めに「左翼」と呼称し(なんとおおざっぱな定義であることか)彼らを侮蔑した。そうして「あいつらが左翼ならおれは右翼だ」と、ひとり勝手に戦前の思想書を読みふけったのだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;要するに、ぼくが右翼を自称するようになったのは、逆説的な話だが、典型的日本人というものをいみきらったがゆえである。外来思想を金科玉条のようにありがたがる島国根性を侮蔑して、日本にこだわる人間が、最も日本人らしくないというのは、恐らく日本有史以来の逆説だろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで鼻息荒く勇んで独自の思索活動を始めた自分であったが、結局のところ現代思想もやがて多少かじるようになった。というのも、それがわからないと、同世代の連中との共通言語がなくなってしまうからだ。いくら独自に思索を発展させても、人に伝わらなくては仕方がないのである。ものすごく嫌々ながらフーコーを読み始めたら意外と面白く、一気に読了してしまった。それから、ドゥルーズだのネグリだのも、面白がって触れるようになった。こうして自分の中には、いつの間にか二つの思想的軸が現れた。現代思想という、周囲に合わせた軸と、右翼思想という、自分独自の軸である。ぼくは周りと同じ科目をとるのを拒んだがゆえに、結局のところ二科目とも勉強する羽目になったのである。これは極めて勉強が嫌いなぼくにとって全く因果な話である。しかしこれが重要な気もする。サイード「知識人とは何か」によれば、知識人とはアマチュアのことである。亡命パレスチナ人であるサイードはアメリカにもパレスチナにも故郷を持てないが、それゆえに、二つの軸で両方を見ることもできる。周りと同じ価値観しか持たないのでは、ロクなことは言わない。かといっ&lt;br /&gt;て自分独自の価値観しか持たないのでは、誰にも伝わらないのである。自分の中に、分裂症的な理解しあえない、外と内という二つの世界があり、それが矛盾しあいながら引き合うときにのみ、創造はおこると、西田幾太郎は言った。ぼくはまともじゃないけど、まともじゃないままの言葉はダメだ。まともじゃない人間が、人に理解してもらいたいと願い、力で引き付けようとするときにのみ、創造はおこる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしても本当に個性的な人間なんて、滅多にいるもんではない。その上、その個性をなにがなんでも周りに理解してもらいたくて腸が煮えくり返るような思いをしているやつなんて、一体どこにいるのだろうか？&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-166504690934783301?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/166504690934783301'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/166504690934783301'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/12/blog-post.html' title='哲学雑談'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-8248946951431634884</id><published>2008-12-10T06:41:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:42:58.455+09:00</updated><title type='text'>N君との往復書簡</title><content type='html'>Ｎくんとの往復書簡がヒートアップしている。 &lt;br /&gt;せっかくなので彼の許可をとり、ここに転載することとした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;下は先日の日記に対するＮくんの返事である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;----------- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ガンディさん &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大学での学問は、学問のひとつのあり方であって、すべてではないのは、承知の通りで、こういう風に違う学問のあり方を実践しないとつまらなくなる。もちろん、こうしたやり方でだけやると、やっぱりつまらなくなると思いますが。 &lt;br /&gt;そんなわけで、ぼくにとって得るところは大いにあるので、よろしくどうぞ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくの指導教官は、二年前に倒れて、まともに研究もできないんですが、彼が教えてくれたことは、学問の本質とは自分の問題発見であり、表現であると。 &lt;br /&gt;ぼくも大変個人的な理由で学問をやっているわけですが、その理由がガンディさんとはかなり違います。ぼくはなんというか、偉そうに聞こえるけど、実は恥ずかしいことで、「対象」となる人たちにはかなり申し訳ないんだけれども、ぼくの生き方とか生きていることからどう嫌な要素をなくしていくか、快に生きるかのために、学問をやってます。「対象」から多くのことを学ばせてもらっています。まあ、こんな感じです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、思うところを書きます。ガチでやりましょう。(1)・(2)は、まあ、いつもの話です、(3)がいいたいことです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(1)「民族や国の態度というのは、必ずその構成員ひとりひとりの性格に強い影響を及ぼす」ということは、ぼくもみとめます。が、ふたつ付け加えたい。 &lt;br /&gt;①ひとつめは、何をとおして影響を及ぼすか、です。 &lt;br /&gt;民族や国家は、実体がない。したがって、何かを媒介にしなければ影響を及ぼせない。この媒介するものを媒介と感じさせないところが、ナショナリズムのイデオロギー作用ですが、この媒介するものを分析しないかぎり、なぜ影響が及ぼされるかわからないと思います。 &lt;br /&gt;②ふたつめは、他にも影響を及ぼすものがないのか、です。 &lt;br /&gt;家族、友人、親族、隣人、企業、宗教等も同等にあるいは、それ以上に影響を及ぼすと思いますが、これを無視することはいささか不公平なように思います。 &lt;br /&gt;こうした民族や国家を特別視する観念はいうまでもなく、近代以降のイデオロギーです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(2)「目の青い人や肌の黒い人は、ぼくには宇宙人に見える」 &lt;br /&gt;これは、文章の論理上当然の帰結となっており、そういう風に思うこともありうるだろうと思います。ただ、考えて見ると、なぜある種の身体的特徴(それは往々にして人種と呼ばれるものの特徴)のみがピックアップされるのか不自然です。たとえば、眼鏡をかけて目が悪いとか、あるいは目がみえないとか出っ歯とか、あるいはものすごく胸が大きいとか、こうした身体的特徴がなぜとりあげられないのか。 &lt;br /&gt;これらの身体的特徴もやはり、さまざまな集団によって影響を及ぼされ、内面化され「個性」として定着しているでしょう。身体的特徴に対する不思議な選好が働いている、そして、通常これは近代以降の大文字の人種概念のイデオロギーと呼ばれます。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(3)目の前にある世界を日本とすること &lt;br /&gt;この日本は、あの「日本」ではなくて、当然、目の前の世界である。これを近代以降のあの「日本」と混同するのは、むしろ、目の前の世界を虚しくさせはしまいか。近代を「超克」するとは、近代によってがちがちに絡めとられた「日本」から離れた、目の前の世界である日本を浮かび上がらせることではないのか。愛すべきは「日本」ではなく、目の前の世界であるはずだ。そうするならば、(1)(2)のような発想はむしろ真逆なのではないか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;返信を心待ちにしております。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Ｎ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;------------ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Ｎ君へ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;はは、参ったなあ、こういうのは、出来たら公開でやりたいんだがねえ。きっと、いろんな人にとってプラスになると思うな。どうかね。公開しちゃ、いやかい？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、なんだかぼくの文体は、いくらか不真面目で、余裕ぶったように見えるかもしれないが、そうでなくて、これはぼくなりの真剣なのだから、それは許してくれよ。結局これが、一番自分の気持ちが率直に相手に伝わると、最近気づいたのだ。 &lt;br /&gt;しかし君が「生きていることからどう嫌な要素をなくしていくか、快に生きるかのために、学問をやってます」というのは、皮肉でもなんでもなく、なんだかおいおい本当かよ、という感じがするね。君はこの世界を本当に生き易い理想の世界に変えられら、学問なんかやめて、田舎にひっこむかい？どうにも本当かよ、という感じがする。人間はね、ほうっといても戦争をするんじゃないかい。人類が平和を希求しているというのは、どうにもぼくには耳に聞こえの良い言葉にしか聞こえない。（それがぼくの、サヨクの一番嫌いなところなんだ。）ぼくは戦いが好きだ。戦いのときこそ、生きている実感が湧く。だから、本当の敵ってなんだろうかともいつも思っている。憎むべき敵は、中国や韓国だろうか。日教組だろうか。共産党だろうか。アメリカだろうか。官僚だろうか。資本家だろうか。＜帝国＞だろうか。それとも、日本だろうか。全部嘘だね。自分なんだな。本当のところ自分と自分の過去が作り出した他人という幻影の話なのさ。その幻影のことを、ぼくは日本と名づけた。しかし、それは国家や民族ばかりを特別視する近代以降のイデオロギーではなかろうか、というのが、君の率直な感想だ。なるほど、君の言うことは論理として全く正しい。家族や企業はどこいった、日本などという既成の概念を用いるのはやめて、「目の前の世界」という肉体的な言葉を使え、というのは理性的で至極もっともな話である。だけれども、ぼくの言っているのは完全に感覚の話なんだね。ぼくには君のいっていることは、どうしても頭が先行しているように感じてしまう。そりゃそうだ、君の言っていることは要するに、「君が今まで感知してきた言葉や感覚は、近代という概念が生み出した想像上の産物であり、ただの偽物なのだから、それを一旦排除して身体に戻り、真理を把握したまえ」ということなのだから。頭（理性）で、感覚を排除しろというのが、君の意見だし、同時に左翼思想の根本もそこにあると思う。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、それが完全な嘘偽りにすぎなかったとしても、人間から思い出と過去を排除したら、一体何が残るだろう。そこに真理が残るはずというのは、あまりに唯物的な考え方であり、ぼくには到底くみすることができない。ぼくは、人間は過去と思い出の蓄積があるから、人間なのだと思うよ。人間から蓄積を取り去ったら、サルになるだけだ。決して理性なんてのこりゃしない。というのも、理性は感性の上部構造にすぎないからだ。感性を引き起こす過去を捨て去ったら、未来を想像する能力なんて、どこにも残らないだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「近代の超克」というのは、人間の歴史の中から、「近代」の部分を綺麗さっぱり取り去って、新しく別の人類史を構築していく、ということではないと思う。それはサルへの退化だ。本当の超克は、近代を真に理解し、自らの血肉として組み入れることによって行うことが出来る。ぼくは、近代の条件であるところのデモクラシー、資本主義、ナショナリズム、この三点を真に血肉にすることによってのみ、近代を超克していくことができると信ずる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;君は「日本なんて幻だ、君が判断できるのは、目の前にあるこの世界だけなのだ」というかもしれない。しかしそれを言うならば、人間の感じたものは全て幻だよ。人間は、自分の頭の中で妄想をつくりあげ、その妄想のためにのみ生き、死んでいく。人間はそんなに唯物的にできちゃいないんだ。だれもパンのためになんか死にゃしない。人間は、妄想を崇高だと思うからこそそのために生き、死ぬんだね。君は「そんなことはない、目の前に見え、手で触れる人を思い、愛する気持ちは本当だが、日本なんていう抽象的な概念を愛する気持ちはただの妄想だ」というかもしれない。それに関しては断言して言う。目の前に触れられる人を愛する気持ちも、日本に対して思う気持ちも、どっちもただの妄想だ。それとも君は、人が人を愛する気持ちは、生物学的な生殖の必要性から唯物的に説明しようとするかね。ところが男が男を愛したりなんてことも、このめちゃくちゃな世界では、ざらにあることなんだな。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;君はかつて、「日本人、日本人っていうけど、その君が言うところの「日本人」にあてはまらない日本人なんて、いくらでもいるに違いないじゃないか。」と言った。そうして「日本人という発想は、妄想だ。信じることができるのは、目の前で触れる一対一の関係における人だけだ」とも。しかしこれに対してはぼくはこういいきることができる、「君の目の前で触れる相手は、本当に君の想像したとおりの人なのだろうか」と。君が目の前の人をいい人だとか、悪い人だとか判断するのは、日本人がいい人だ、悪い人たちだと判断するのと、大して変わらないのじゃないか？信じられないことに、人の心というのは、ついさっきまでいい人だった人が、大悪人になったりするものなのだし、どんな悪人の心の中にも、花を愛で、ひとを信ずる心を見つけ出すこともできる。ぼくにとって日本人というのは、その意味のわからず、あやふやで、やたらと人をイライラとさせるあの人たちの代名詞なんだよ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ、君はそれを「なんで日本人という言葉を使うのだ、」と言うのだ。どうして眼鏡をかけて目が悪いとか、あるいは目がみえないとか出っ歯とか、あるいはものすごく胸が大きいとか、そういうことに目が行かないのだ。それこそ国家という近代のイデオロギーにとらわれている証拠じゃないかと。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なあ、人はそんなに頭だけで動いているわけじゃないんだと思うよ。いくら君に「それは頭で操作された近代イデオロギーだ」と言われても、ぼくにとって「日本人」という概念は「自然な」感性の発露であるし、そうとしか言えない代物である。別に頭で操作したわけじゃない。「他の枠組みも平等にあつかえ！」なんて言われても、やっぱりぼくにとっては「日本人」という枠組みが一番の重大事なんだ。それでももし君が「日本人なんて枠組みを使うのは近代イデオロギーによる洗脳の結果だ！」というならば、それに対しては先述の通り、「近代の超克は、近代イデオロギーを血肉とすることでしかなしえない」というしかないだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ものすごく乱暴な言い方をすれば、ぼくは「日本」という言葉を、詩的な言葉でのみ使っている。そうして、詩的でない言葉なんて存在するのか、というのがぼくの意見である。目の前に映っているこの愛憎入り混じる世界というのは、ぼくにとっちゃ幻だ。自分の作り出した夢である。そうして、人はみな、自分の夢想の中でだけ生きている。お互い、決して理解しあうことはない。でも、ほんの少しだけ、何かを媒体にして、わかりあった気になれるようになる瞬間があるのだ。それは銃弾の飛び交う中で見た、隣で弾を込める仲間の姿だったり、ギターを床に叩きつけ、雄たけびを上げたときに目があった最前列の観客だったり、狂ったように噛み付き合い、しゃくり声をあげて愛を囁いた瞬間だったり、、、それが愛と宗教の起源だ。神が一瞬だけ降りてくる。君は本当に自分が生きやすくなるために学んでおるのか。本当は、戦いの中でしか生きている意味を、神をみられないからじゃないのか？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;山田 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;------------ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ガンディさんへ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;公開でいいですよ、全然問題ないです。一応、ぼくの本名は伏せて、公開するところはガンディさんにお任せします。ただ議論が散ると面倒になるので、原則、往復書簡でお願いします。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうしてお互いに書いたのを読むと、これはこれでおもしろいですね。面と向かって話すと何か共通するものが先に出ちゃって、やっぱり同じこと考えてる、で終わっちゃうけど、相違点が明確になっていい感じです。 &lt;br /&gt;あと、文体について。ぼくのほうは、完全にガンディさんのことを信頼して読んでるし書いているので気にしないというか、ぼくのほうも失礼になっちゃうかもしれないし、そこは許してください。はたから見たらケンカに見えるかもしれないけど、お互いずかずか土足で入っていってガチでやりあうことができる相手は限られていて、こういうことのできる相手同士だと勝手に思っています。このことは共通理解があるとぼくのほうが一方的に感じていますが、大丈夫ですよね？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①「君はこの世界を本当に生き易い理想の世界に変えられると思っているのかい？」 &lt;br /&gt;根本的にいわゆるサヨク(実はよく知らないんだけど)とは違うと言っておきたい。ぼくは、あんまり世界を変えようとは考えていないですね。むしろ、ある種の理想というのは、まさに現にあるんだと。理想の瞬間というか、日常に理想というのは感覚で感じられる時があって、この感覚をどう言葉にしていくか、ぼくの学問はこういうことです。じゃあ、哲学じゃないかというかもしれないけれど、哲学はあまりに偏りすぎているし、実際の問題に弱い。社会学は西洋近代の自意識の塊みたいな感じで近代の話ばっかりしている。じゃあ、人類史のレヴェルで考えられる人類学だというわけです。後の議論とつながりますが、ぼくは、感覚のほうが、思考よりも優先権をおくべきだと考える。感覚を思考にしていくこと。一般に流通しているあのいやらしい思考にクズだといって距離をとること。あの汚らしい思考が、ぼくの生き方についていろいろ勝手にいちゃもんつけてくるのが気に食わない。だから、そこらじゅうを漂っているこの気に食わない思考を変えようと思ってる。これが、ぼくの快にいきるということです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②「頭（理性）で、感覚を排除しろというのが、君の意見だし、同時に左翼思想の根本もそこにあると思う」 &lt;br /&gt;「左翼思想」を一括してそういえるかどうかは、わからないけれども、ぼくの意見については、①でいったように感覚をむしろ重要視する。これは、ごくごく単純な話です。ぼくのいう「目の前の世界」とは文字通り「目の前の世界」です。これは感覚によるもので、パソコンがあり、ドアがあり、窓があり、本棚があり…、外に行けば、コンクリートの道、密集するマンション、電柱等々(「目の前の世界」の描写が下手糞ですね、全然駄目だ)、これを＜むしろ思考が「日本」として再構成するのではないか＞ということです。だから、具体的に「目の前の世界」があって、これをそこらじゅうに蔓延している(本来的な意味でのあらゆるメディア＝媒介物を通じてひろがっている)思考がむしろ「日本」とか「日本人」に染め上げていくのではないか、ということです。これはごくごく素朴な議論です。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③「人間から思い出と過去を排除したら、一体何が残るだろう。そこに真理が残るはずというのは、あまりに唯物的な考え方であり、ぼくには到底くみすることができない」 &lt;br /&gt;①②で述べたように、ぼくは感覚を排除しない。むしろ、ある種の感覚は、まだまだそこらへんの思考に犯されてないと思う。だから、ぼくは思い出も過去も排除しない。素朴にいえば、ぼくの思い出や過去を真理とかなんとかに染め上げないでくれ！ということです。真理というのは、基本的に信頼関係という名の下の権力関係によって規定されると考えている。だから、つねにぼく自身の思い出でさえ、よくわからない。だけれども、ぼくの思い出というのは基本的にぼく以外のひとやものが必ず登場するもので、その当事者たちじゃない連中になぜぼくの思い出を染め上げられなきゃいけないのか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;④「「近代の超克」というのは、人間の歴史の中から、「近代」の部分を綺麗さっぱり取り去って、新しく別の人類史を構築していく、ということではないと思う。それはサルへの退化だ」 &lt;br /&gt;この思い出というのは、歴史意識であって、「客観的な」過去の出来事の集積の叙述としての歴史叙述ではない。歴史叙述だって、内的な論理性を担保するという点においてのみ、「客観的」でありうる。したがって、人類史とは、歴史叙述であって、歴史意識ではない。だから、思い出を肯定することと人類史を構築することはそもそも別次元の問題だ。もうひとつ、ぼくはむしろ歴史意識や歴史叙述を精査すべきだと主張している。 &lt;br /&gt;ぼくはじいちゃんの記憶はないので、感覚の部分では、頑張ってもじいちゃんのころの歴史意識はない。これは感覚としては、むしろ、ない。このじいちゃんの生きた時代を、ほかの奴らが「日本」の「思い出」として語ろうとするのは、はっきりいってよくわからない。全然、感覚のうえで肯定できない。これを肯定させようとするのが、イデオロギーとしてぼくが批判したものです。 &lt;br /&gt;で、こういう歴史意識と歴史叙述をごっちゃにしてようなイデオロギーにあんまり加担したくはない。だから、人間の歴史をもっとよく精査すべきだと思う。ぼくがイデオロギーとして批判できるのも、(まだまだ未完とはいえ)この近代の歴史の精査のおかげだと思います。だから、近代を綺麗さっぱりとりさるなんてことは主張していない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;⑤「人が人を愛する気持ちは、生物学的な生殖の必要性から唯物的に説明しようとするかね」 &lt;br /&gt;人が人を愛する、男が男を愛する、この感覚をもって、思考を鍛えなおしたい。男が男を愛するのが、おかしいといい始めたのが、それこそ近代ではなかったのか。おかしいと思わせようとする近代のそこらじゅうにあふれかえっているあの「思考」の産物ではなかったか。感覚の肯定とは、この「思考」を撃つのではないのか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;⑥「近代の超克は、近代イデオロギーを血肉とすることでしかなしえない」 &lt;br /&gt;しかし、これまで見てきたように、近代イデオロギーを血肉化すると、感覚を虚しくしてしまう。これは「超克」とはいえないんじゃないか。血肉化したら、愛することを肯定できなくなってしまうのではないか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;⑥「でも、ほんの少しだけ、何かを媒体にして、わかりあった気になれるようになる瞬間があるのだ。それは銃弾の飛び交う中で見た、隣で弾を込める仲間の姿だったり、ギターを床に叩きつけ、雄たけびを上げたときに目があった最前列の観客だったり、狂ったように噛み付き合い、しゃくり声をあげて愛を囁いた瞬間だったり、、、それが愛と宗教の起源だ」 &lt;br /&gt;そうこれこそが、ぼくの立脚する感覚であって、この瞬間を思考へと(ぼくの場合は人類史へと)練り上げていくことで、近代の「思考」を超克できるのではないか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Ｎ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;------------- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Ｎ君へ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;返事遅くなってしまってすまない。君のことだから、きっと、パソコンの前でガンディさんの返信は今か今かと待ちわびていたんじゃないかと思うよ。はは、いやでもぼくは君のそういうところが好きだ。君は、真面目なやつだなあ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;君と話して、大体合意できるところと、合意できないところが、まとまってきたと思う。ひとつに、名前が先か内容が先かという問題だ。これはどうやら、Ｎ君が「目の前にあるこの世界」と呼んでいるものを、あまりにそれじゃあ風情がなく、詩的にもならんもんだから、ぼくは色んな気持ちと感情をこめて「日本」と呼んでいる、ただそれだけのことらしい。どうやら互いに見ているものは同じことのようである。で、そのことに関して評させていただくと、互いにメリット・デメリットがあるように思う。Ｎ君の言い方のデメリットは、単純明快に「風情がない」、要するに詩的じゃないことに尽きる。これに対してぼくのデメリットは、あまりに人に誤解させるという点だろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これに対して、ぼくの君の、互いにどうしても同意できぬ点というのは、恐らく君の「当事者たちじゃない連中になぜぼくの思い出を染め上げられなきゃいけないのか。」という叫びに全て凝縮されているように思う。きっと、Ｎくんが「目の前にあるこの世界」と呼び、ぼくが「日本」と呼ぶ、この差もここから来ているのではないか。というのも、ぼくがわざわざ「日本」だとか「右翼」だとか、あるいは「マゾ」だとか、誤解を生じ易い言葉を使うのは、あえて摩擦係数の高そうな言葉をつかうことで、相手の価値観を覆すことに価値と快感を見出すからだ。そうして、Ｎ君はそれに対し「なぜぼくの思い出を染め上げられなければならないのか」と怒りをこめて叫ぶ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ではなぜぼくは相手の価値観を覆すことを好むか。ひとつに、ぼくの支配欲求の表れではないかと思う。相手の価値観を転覆し、「改宗」させたとき、ぼくは彼女の全部を支配したような気持ちになり、心底興奮する（これは恐らくＳＭのシステムに非常に近い）。そうしてもうひとつ、詩人とはそういう生来気質なのだ。芸術家の仕事は、人の価値観をゆさぶり、和の中に乱調を作り出すことにある。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうしてこれらふたつの根拠はまた、恐らく同根である。芸術家は自分の思い通りな世界を、キャンパスや原稿の中に閉じ込める。芸術家の中には自分しかない。そうして、他人をみな、自分の世界に引き込もうとする。そうしてこの世界を思い通りにしようとするのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは無色透明な世界を好まない。ぼくは右翼だが、なんの色ももたぬ教科書よりは、マルクス主義の絵の具にべたべたにぬりたくられた毒々しい教科書の方を好む。ぼくがこういうように思うようになった原因は、恐らく親父だろう。親父は強烈な個性の持ち主だった。建築家という、三次元を舞台にした芸術家で、挙句が耳も聞こえないものだから、自分の世界に閉じこもって、ぼくの話なんて聞こうとすらしなかった。ぼくの精神はものごころもつかない内から毎日毎日、親父の色に染め上げられた。なにしろ我が家の晩飯といったら、テレビは一切見ずに３歳の餓鬼に一時間の大演説をぶつのだ。その効果として当然のように、ぼくは幼稚園でも小学校でも、友達と話があわせることができなかった。おかげさまでぼくはいつも孤立していた。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながらぼくは親父のやったことを、けして悪いとは思わぬ。小さい頃はどんなに理不尽でも親父に反論など全くできなかったが、これは自分の言葉が足りなかったがゆえである。全く、言葉は力である。ぼくは親父の言葉を日々聞かされたせいで言葉という力を身につけ、やがて親父の力を自分の力でねじ伏せることができるまでに至った。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうして、そこまでやって、言葉は人を殺すことも、笑わせることも、感動させることも、つまりは人が人を染め上げることなど自由自在なのだと知った。そうして、それは人を幸せにもすれば不幸せにもする。宗教というのはこうして出来る。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;君は人が人の心を染め上げることを、まるでレイプのようだと思うのだろう。しかし、愛であることもありえるのではないか。心と心が出会えば、必ず傷つけあうこともあるし、騙し、時には壊してしまうことすらありえる。しかしそれが愛であることもありえるし、心というのはそんなに単純なものでもない。それに、どれだけ誰かが禁止をしても、人は人と出会うことをやめないだろう。人には悲しい心があるから、弱い人間は自分より下の人間を必死に見つけては、「あいつはおれより劣っている」と言って、自分の存在価値を確認したりする。それは悲しいことだ。在日、部落、セクシュアルマイノリティ、障害者、しかし、これらについて語ることを全方位において禁止しても、人は必死に次をみつけるんだな。そうして、どうしても人は力において、人との関係を作り出そうとする。自分は尊敬されたいと、そうして卑下されたくないのだと。部落、というレッテルをはられて下に見られたくないがゆえに、自らに日本人というレッテルをはる。残念ながら、この心理的作用が人間からなくなることは、どんなに社会が進歩したとしてもありえないとおもう。 &lt;br /&gt;コメント&lt;br /&gt;ガンディ2008年12月10日 00:34&lt;br /&gt;力のゲームがなくならないのならば、ゲームにのる以外彼のの救われる道はない。ぼくは「右翼」というひどくマイナスなレッテルを、自分の力で価値ある最上のレッテルに変えることができると、信ずる。価値観を転覆することこそが、詩人の存在意義である。在日は在日であることを隠さず、在日に誇りをもち、力で国境の壁なんか全部ぶち壊してしまえばよい。そうして、日本人を、全員馬鹿にしてやれば良いのである。ぼくは在日ではないから、そのゲームにはいつでも受けてたとうとおもう。そうして、この力の闘争ゲームが働く磁場こそが、人間の生きている瞬間であると思う。要するにぼくは、なんでもレッテルをつけるべきだという考えである。人はどんなに禁止しようとしても必ず物語をつくるのだから、いっそのことどこにでも物語をつくりだし、どこでもゲームを行うべきだと考える。だいたい、物語がない世界なんてちっともおもしろくないではないか。全てのものが「目の前に存在するもの」に過ぎず、それ以外のいかなる意味も持たないのであったら、当然詩の生まれる余地はなく、人はこの世界をおもしろいとも、つまらないとも思わないだろう。理不尽のない世の中かもしれないが、それほどいとおしいとも思えぬ世界である。そんな世界で人は生きていたいと思うものか。死にたいと思うのじゃないか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは思うのだ、結局のところ、人間は物語ぬきにしては生きられないのではないのかと。人間の心はいつもぽっかり穴があいていて、その穴が神を生み出すし、愛もひきよせる。物語なき世界は傷つかない世界だが、同時に愛なき世界である。国家という物語がなくったって、きっとまた、みんなどこかで物語を探すよ。そうしてそこでまた、自らの無力さゆえに傷つくんだ。人間には物語をなくす力は授けられていない。人間にできるのは、言葉で鼓舞し、挑発し、力を与えることだけだ。その言葉こそは宗教であり、芸術であり、国家であり、歴史であり、科学であり、愛であり、嘘であり、真であり、ぼくであり、君であり、幻であると、そう考えている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;山田&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-8248946951431634884?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/8248946951431634884'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/8248946951431634884'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/12/n.html' title='N君との往復書簡'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-5496805395657633447</id><published>2008-11-27T06:40:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:41:22.751+09:00</updated><title type='text'>食べて</title><content type='html'>女になりたい&lt;br /&gt;女に生まれたかった&lt;br /&gt;昼のうちに掃除をすませ&lt;br /&gt;皿を洗い夕げをつくり&lt;br /&gt;洗濯物を取り込んで&lt;br /&gt;あの人の帰りを待つ&lt;br /&gt;ベッドではたくさん愛してあげるの&lt;br /&gt;綺麗な身体で&lt;br /&gt;疲れた今日一日を&lt;br /&gt;私が慰めてあげるの&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;誰かの愛人になりたい&lt;br /&gt;売春婦もいい&lt;br /&gt;真っ赤なドレスを着て&lt;br /&gt;シャネルの香水をつける&lt;br /&gt;私はいるだけで&lt;br /&gt;私を必要とする&lt;br /&gt;身体があるだけで&lt;br /&gt;私は必要される&lt;br /&gt;絶望的なほど&lt;br /&gt;人の目が欲しい&lt;br /&gt;燃え上がるビロードよう&lt;br /&gt;火がつくように欲望して&lt;br /&gt;貴方のお好きなままに&lt;br /&gt;泡のあふれたバスタブで&lt;br /&gt;震える指先で月を蹴る&lt;br /&gt;好きなだけ楽しんだら&lt;br /&gt;捨てるように帰って&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は思った&lt;br /&gt;私は何も欲しくない&lt;br /&gt;みんなが私を欲しがれば&lt;br /&gt;私は何も欲しくない&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;愛なんて知らない&lt;br /&gt;貴方なんて知らない&lt;br /&gt;私しかいらない&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;蟻のように働く時間があったら&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;蝶のように化粧をしていたい&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;蟻に食べられてしまうために&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私なんて何百の蟻に&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;黒々とした鉄のようにたかられて&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もがれ、焼かれて&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いなくなってしまえばいいのに&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-5496805395657633447?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/5496805395657633447'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/5496805395657633447'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/11/blog-post_27.html' title='食べて'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-3877909091455860421</id><published>2008-11-25T06:40:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:40:39.673+09:00</updated><title type='text'>我が名はツァラトゥストラ,天を拒んで地を笑う</title><content type='html'>一昨晩、外語大までライブを見に来てくださった方、どうもありがとうございました。本当はひとりひとり声をかけて感謝の言葉を述べたく思っております。本当に。心より感謝しております。ぼく、未だに信じられないんですよ。自分のやることにお金を払って見にきてくださる人がいるということが。ぼくはね、自分のことを嫌いという人間ではないんだ。ぼくは自分のことが大好きなんですよ。だけど、なんだか山田龍郎という人間のことが大好きなのは世界中で自分だけだと思ってる。正直に言えば、心のどこかで「ぼくのやることなすことは、どうせだれにも理解してもらえない」なんて思ってる。だからぼくのやることにお金を払ってきてくれるひとがいるとなると、すごく戸惑うんですね。「なんだ、どうせぼくの何も理解しようとしないくせに」などと言ってすごく斜に構えた態度をとってみたり、逆にものすごく申し訳なくなってきて、退屈してないかとても不安になったりする。小さい頃から変なやつだといわれることにはだいぶ慣れ切ってるから、そう、自分は変なやつ、変、つまり別の人、日本人とは別の人。別世界の人、日本人とは関係のない人なんだと、ずっと思っている。「りゅうろうは、まあ、りゅうろうだから仕方ないよね。」小学校の時から、ずっとそう言われてきた。ぼくは日本人になりたくて、仲間に入れてもらいたくてたまらない。「変わった人になりたい」というやつがぼくは信じられない。ぼくはどうしても普通の日本人になりたい。ぼくの歌はすべて日本人への愛と憎悪を歌った呪いの言葉なんですよ。To the Japanese,ぼくは変態ではない、ぼくは日本のことを愛している。アメリカのバンドの友達に、おまえはこっちに来た方が絶対に有名になれるなんて言われても、ぼくは絶対に行く気になれなかった。ぼくは日本のことが好きなんだ。日本人、日本人、日本人。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくが日本人に受け入れてもらえるには、どうしたらいいのか、そればっかり考えている。結局、一億二千万人に一人残らず「自分は日本人の敵ではない、むしろこんな奇妙な個性なんてものは即刻全部捨てて、仲間に入りたいのだ」ということを伝えるまでは、ぼくは人の目が恐ろしくて、往来を顔をあげて歩くことなんかできやしないわけですよ。だからどうしても有名になりたいんだな。本当の音楽とか、本当の自分とか、そんなものにはこれっぽっちも興味なんてありゃあしないよ。ぼくはただ、有名になって、自分を仲間にいれろと言いたいだけだ。「みんな」という日本人への愛のうた、憎悪のうた、呪いのうた、復讐のうた、ねえ日本人、どうして君はいつも、無表情で、少し上からぼくを傍観しているんだい？君も泣いたり、笑ったり、悲鳴をあげたり、すこしでもそういうことをしてくれたら、ぼくはいくら楽になったか知れない。いつもぼくばっかりが悲鳴をあげて騒いでいる、ぼくのひとり相撲なんだな。そんな君が、お金を払ってぼくを見に来るというのは、どうもわかりかねる。馬鹿にしているとしか思えないじゃないか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくにはよくわからない。年をとればとるほど、ぼくは人に愛されるようになった。ぼくには、ぼくのライブにお金を払って見に来てくれる君が、あの時、ぼくのことを「出ていけ」といったあいつと重なってみえる。なぜ、君は今更ここにくる？ぼくは納得することができないのだ。君はあの時、ぼくを拒絶したじゃないか。ぼくは、誰かがぼくのことを好きといっても、どうしても信用できないのだ。何十人の女に言い寄られて、奴隷みたいにしたって、大勢の後輩たちに囲まれながら、酒をのんでいたって、何百人の聴衆の目を、一身に集めてるときだって、たった一秒ですら、全然信じることができないのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのくせ、へらへら笑う技術だけは、よく身についていやがる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人のライブなんてこないで孤独になれよ。と言って、一番、首が締まるのは、この自分だ。でも、ぼくは結局、そういうやつのことだけを、ずっと信用してきたのだ。ぼくは、ぼくとまるで違う場所から、たったひとりでこの世界にテロリズムをしかける奴だけを信用する。「ライブの一体感」なんてこれっぽっちも信じるもんか。それを信じられなかったから、バンドをやっているんじゃないか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは思っている。日本は、神国だ。不滅の国だ。ぼくなんかが傷一つつけること絶対にできない、とてつもない化けものだ。ぼくは、試したいのだ。最後に笑うのは天皇かおれか、確かめるためにやっているのだ。おれは、おれの中の日本を殺したいのだ。おれはおれのなかのおれを殺したいのだ。おれは、おれの中の狂気を、殺してここからいなくなりたいのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なにはともあれ、見に来てくれた方には、本当に心から感謝している。直前にこんなこと書いておいてからにアレなんだが、なぜだか本当に心から感謝している。なんでだろうか。これもまた、ぼくの卑屈な心がそうさせるのだろうか。でもぼくは、ただ、ぼくを見に来てくださった方々に、素直に頭を下げて感謝したいと、確かにそう思っている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とりあえず吉田がドラムをたたくのはあれでおしまいです。何はともあれ吉田らしい幕切れだったことは間違いない（※１）。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;※１、吉田はバスドラを客席にぶん投げた後、シンバルスタンドをそれに突き刺し、バスドラの中に入った上、それを腰にまいて(？)会場を後にした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて我々はいつ死ぬかもわからんので、立ち止っている時間などこれっぽっちもない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは写真が嫌いだった。それを見ている時間ほど無駄なものはないと思ったからだ。 &lt;br /&gt;何よりも嫌だったのは、高校の学園祭での、バンド出演者全員での集合写真だった。そんなもん嫌なら写らなきゃいいじゃないかと思うかもしれないが、ぼくは輪を乱すのが怖くて拒否できない。そもそもぼくなんかが写真の仲間に入れてもらえるんだから、それだけで感謝しなくちゃいけないはずだ。そういう空気があった。おれのような取るに足らない人物が(謙遜ではなく、本当にそういう立場の人間だったのだ)そこに写ってようが写ってまいが、連中にはどうでもいいに決まっているんだが、きっと全員写っていることが重要なのだ。 &lt;br /&gt;ぼくは、「写っても写らなくてもいい人間が、みんなの配慮で写らさせていただいている」というのがたまらなく嫌だった。 &lt;br /&gt;ぼくは本当に本当に嫌で、現像されたその写真を、大変嬉しそうな顔でいただいてから、家のベランダですぐに焼き捨てた。そうして、二度とこんな思いはしまいと、今後はどんなときも、ぼくがこの世界の主人公になるのだと、心に誓ったのだ。ぼくはあのときの自分に向かって歌うのだ。いくら話してもわからない、死んだ魚の目をしたあの連中の無言の暴力にテロをしかけているのだ。諸君、弱いということはみじめだ。 &lt;br /&gt;君は主人公か？ぼくはそうでなくては、絶対に納得できない。ぼくだ。ぼくを見ろ。おれを見ろ。おれは神だ。唯一絶対の、全能だ。おれはおれ以外の神は認めない。神はひとりしかいない。だからおまえとは最後まで殺し合いだ&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-3877909091455860421?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3877909091455860421'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3877909091455860421'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/11/blog-post_25.html' title='我が名はツァラトゥストラ,天を拒んで地を笑う'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-6768289826123986623</id><published>2008-11-09T06:37:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:39:41.558+09:00</updated><title type='text'>惰性</title><content type='html'>惰性で日記を書いてみるから、だるくなったらすぐ飛ばしてくれ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;†&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;筑紫哲也が死んだ。彼の意見や思想の全てに共感できるわけではないが、確かに偉大なジャーナリストであった。ご冥福をお祈りする。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それはとにかく、筑紫が降板して以降、ニュース２３のメインキャスターは膳場貴子という女性アナウンサーが勤めておるのだが、こいつが面白い。何しろ、ＴＢＳを、いや日本を代表する看板ニュース番組に銀杏ボーイズを地上波として初登場させた女である。生放送で、案の定峯田が膳場のテーブルの上によじ登り絶叫をしている最中に突然番組が終了するという、ハプニングすれすれの放送を通した首謀者は恐らく彼女である。というのも、筑紫が降板して彼女がメインキャスターに以来ニュース２３の取り上げる内容が明らかに変化しているのだ。筑紫がメインのころのニュース２３といえば、国際・国内政治がメインであったが、彼女がメインになってからは、文化・社会問題の番組中に占める割合が目に見えて大きくなっている。中でも興味深かったのは『鬱の時代』という特集で、ここでは毎回鬱病にかかってしまったごく普通の若者に取材をし、その原因、現状について報告していたが、この他にもフリーターやネット難民の問題、インターネットから引き起こった事件など、従来のテレビニュースではあまり触れられなかった問題について、ニュース２３は深くとりくんでいた。ライブドア事件以降、ネットとテレビの融合が叫ばれ、双方向型の番組やＨＰと連動した番組など様々な実験が行われたが、そんな中でニュース２３は筑紫が降板して以降、膳場を中心として、テレビというメディアの「形」ではなく、「内容」において、インターネットに対抗しうる新しい方向軸を作ろうとしていた。この点においてぼくはニュース２３を非常に高く評価している。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん、筑紫哲也や、あるいは田原総一郎、日高義樹のような政治をメインとした伝統的なジャーナリストは必要だし、重要である。しかし一方で日本人の若者の興味が政治から社会問題や自分の内面の問題に移行していっているのも事実で、こういう類の問題は今までテレビはあまり取り上げてくれなかった。それも確かにわからないではない。例えば『鬱』の問題を取り上げるとなれば、政治家でもなければ有名人でもない、ごく普通の一般人を一千万人近くが見ているテレビというメディアで取り上げて、視聴率をとらなければならないのだ。これは学問で言うならば歴史学というより民俗学的なアプローチである。少なくとも、大人数が受動的に、同時間に見ているテレビよりも、少人数の関心のある人間が、個別の時間に、能動的に見ているインターネットというメディアのほうが、向いているテーマであるように思われる。しかし、だからといってテレビがこの問題を取り上げなかったら、若者はさらにテレビ離れを進ませ、インターネットの方に流れるだけだろう。膳場は果敢にもこの難しいテーマに挑戦し、きちんとテレビ番組としての数もあげて見せた。彼女がどのような関心からこの問題に取り組んだのかはわからぬが、これは正当に評価されるべき点である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;----- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;年上の世代と話していると、大きな世代間ギャップを感じることがある。特に60代以上の世代というのは、ぼくらとはまるで世界が違っていて、ほとんど話していて宇宙人である（ここでいう「話」というのは、言葉遣いとか、口調だとか、そういう表面的な「話」ではなく、議論したときに関心を持っているテーマ、といった調子の「話」である）。 &lt;br /&gt;親父を初めとして（今年御年71歳）、なぜか色々な知り合いがいて、ぼくは周りと比べて、割とこの世代と本気で議論する機会に恵まれている方かと思うのだが、彼らは政治に関心をもっていることが、非常に多い。何かと言うと「日本は」「アメリカは」「中国は」と、国を擬人化して議論を進める傾向が非常に高いのである。そして総合的な印象としてその言説は極めて保守・日本擁護的である（もちろん、極左的なおじいちゃんもいることにはいるのだが、極めて少ないという印象がある） &lt;br /&gt;。そうして、この日本擁護論は、総合してファナティックであり、根拠はあまりない。これはぼくの批判ではなく、単純な事実として、そうなのである。学問的に判断した結果としての日本擁護ではなく、キリスト教徒がキリストを信じるように、日本を擁護し、日本を批判する国・人を排斥しているのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これが40、50代になると、極めて高い政治に対する関心を示す一方、より文化的な話題が可能になってくる。単純にビートルズがどうだ、みたいな話が可能になるのである。さらに、40、50代はこの上の世代に比べてより政治に対してより学問的なアプローチをとるようにみえる。もしかすると、その結果としてこの世代は左翼的な政治的嗜好を持つことが多いのかもしれない。左翼思想は、政治を理性的・学問的に考えると現れる思想だからである（これに対して右翼思想は、政治を感情的・宗教的に考えると立ち現れてくる）。どうして60代以降に比べて彼らがより理性的にものごとを考えられるようになったかはわからないが、恐らくは高度経済成長と「もの」や「情報」の氾濫が関係しているのかもしれない。人間は「情報」が多いと、より直感でなく、「情報」にしたがった理性で行動をしがちだからである。だから、彼らは60代以降に比べれば、より理性的で、情報にしたがって物事を考えている。思考したり作り出したりするのではなく、専ら「もの」と「情報」の収集・蓄積をその目的とする「おたく」と呼ばれる人種が出てくるのもこの世代である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20代になると、ほとんど政治に関心がない。20代が関心をもっているのは、文化と、自分（＝人間精神）の内面のことである。よく言われることであるが、20代は30、40代以上にさめている。さめているを通り過ぎて無気力だとすら言われる。おそらくは「情報」が多すぎて、ほとんどの人間が処理しきれずに押しつぶされてしまっていることが原因かもしれない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;我々が思う以上に世代間で生活はまるで異なる。例えば今おれは40歳の女性の家でコピー取りやらなにやらの仕事をしている。彼女は資料を調べるとき、必ず自分の足で図書館に行く。これがぼくらの世代だと、アマゾンで買ってしまったり、とりあえずはまずウィキペディアで基本情報を仕入れるということにもなろうが、彼女はそうしない。ネット上では滅多に買い物をしない。接続も未だにダイヤルアップ回線だし、ケータイのメルアドは面倒だという理由で滅多に人に教えない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あるいは、今のおれの同居人は19歳だが、これがパソコンを全然使わない。使えないわけではない、使わないのである。何か問題があると、すぐにケータイで検索してしまう。blogも全部ケータイで書くし、道を迷えば即EZナビである。飯食ってるときでもセックスしているときでもすぐにケータイを開く。そうして5000文字くらいならさらさらとケータイでメールをつくる。『拝啓○○様』から始まるような年上相手の丁寧なメールもケータイである。彼女の行動をみて、ぼくは慌てて悲鳴のモバイル用ページを作成した。彼女によれば、今の十代はよさげなバンドをケータイランキングから見つけて、ケータイで試聴し、blogでおもしろそうなバンドだと思ったら、コンサートスケジュールをケータイで確認して、それからライブに来るのだそうである（これはバンドマンには貴重な話かもしれない）。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;注・本人に言わせれば、「自分はケータイ依存症ではない」とのことだ。その通りだろう。実際、彼女はケータイを奪われたとしても、なければないでケロっとしているに違いない。いかにそれがぼくらの世代から見て、異常な利用量に見えようとも、この世代においては、これがごく一般的なケータイの使用法なのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これだけ生活習慣が異なれば、見ている世界も、思想も全く異なってくるというのも自然な話である。確かに60代にメンヘラは見たことがない。今の若者が政治に関心がなく、精神のことにしか関心がない（これを年輩者は「自分のことにしか関心がない」と言いたがるかもしれないが、それもまた一方的な偏見であるように思われる、我々が関心をもっているのは「自分」というよりもむしろ「こころ」＝精神の問題である）上の世代からは宇宙人のようにみえるのも、生活環境があまりに違っているからである。それではケータイなど棄ててしまえばいい、パソコンなどいらないというわけにはいかない。それは「自分たちの世代の生活の方が正しいから、貴方たちは態度を改めなさい」という意見であり、その意見が通るためには、「自分たちの世代」が正しかったという根拠を示す必要がある。それは土台無理な話だから、やはりどの生活が正しいなんて到底いえない。我々の世代には我々の世代のリアルがあるし、我々は決してそこから逃げ出すことはできない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;----- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしてもやはり、若者たちの関心が、政治から文化に、社会から自分に、「世界」から「私」に移行しているのは事実である。総理大臣が誰になったって、あまり世の中が変わるとも思えない、というのが我々の若者たちの本音である（本音じゃないかとぼくは思っている）。そんなことよりアニメや漫画や音楽にこそ自分たちのリアルがあると、若者たちは信じている（のじゃなかろうかとぼくは思っている）。今まで「文化」のことなぞ女・子供のやることと完全に無視し続けていた「政治」と上の世代の人間も、若者世代を中心に着々と支配権を広げ続ける「文化」を相手に、最近ではとうとう耳を傾けざるを得なくなった。今や「アキバ」や「オタク」、「マンガ」「アニメーション」「J-POP」抜きにして日本の外交はなり行ゆかないし、どんどん利用すべきだという声が「政治」側の人間から聞こえてくる。「政治」というハードパワーを、「文化」というソフトパワーが凌駕し始めたのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところでなぜ若者たちは政治より文化に関心をもつようになったのだろうか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そもそも近代的な「政治」の起源の話を始めると、ヨーロッパにはもともと、宗教政治上のトップである「ローマ教皇」というのと、実務政治上の権力者である「王」というのがいて、どちらが偉いんだかよくわからないままで政治をやっていたんだが、それが「宗教改革」という事件を境として、「ローマ教皇」率いる宗教政治は排斥され、政治は、それぞれの国の「国王」あるいは「皇帝」が、宗教は一切関係なしに、実務的な部分のみで行われるようになったという歴史があるわけだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり現代の「政治」は、「宗教」色が一切ない、「実務」だけの政治だけであるということである。政教分離が憲法で定められてたり、よく創価学会をその政党母体とする公明党が憲法違反だとか言われるのはそのせいですね。これは逆をいうと、政治はもともと、宗教と実務、両方あわせて政治だったということである。「まつりごと」という言葉は、「まつり」、即ち「祭祀」なのであり、政治が古代、宗教事に他ならなかったということを示している。つまり現代政治は宗教をその範疇ふくまないことを共通理解としている。当たり前といっちゃ当たり前のことなんだけど、本当のことをいって、宗教的要素をふくまない政治なんてのは、絶対に存在しえない。政治が、人間が人間を率いるという職業である以上どうしても政治家には官僚的実務能力以上のものが求められてくる。カリスマ性や、人間力といった、無形の能力である。この無形の能力がなくては、人が人を魅了したり、従わせることというのはどう逆立ちしたって絶対にできない。実際、ヨーロッパの絶対王政から始まりファシズム、共産主義の個人神格化に至るまで、これらは全て政治家（あるいは王）の神格化・宗教化によって行われたことであるし、国家の「歴史」というのが、宗教化された国家の「神話」として作られるものであるというのは、現代の思想家たちによって散々指摘されたとおりのものである。特に内容があるわけではないが（あるのかもしれないが）、小泉が「構造改革！」だとか、オバマが「CHANGE！」だとか、とにかく叫ぶと、実質能力ぬきに、やっぱりなんとなくかっこよく聞こえるのである。これを「衆愚」といって一笑に付してしまう評論家がいるが、それは政治のもつ宗教性を認識していないという点において「構造改革！」と叫んでいるのをみて「かっこいいなあ」と思っている選挙民とあまり変わりはない。やはり、政治には宗教が関わってくるのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;戦前の日本においては（他の多くの帝国主義国家と同じく）、宗教と政治は分裂していなかった。現人神はその名の通り神であったのだし、国土は「神州」という言葉で呼ばれ、神話は歴史と一体化し、そこに学問の理性的な目の入り込む余地はなかった。ヨーロッパにはキリスト教という素地があったから、国家の神格化もそこまで徹底的には行われなかったのだけれど、もともと一神教的素地がなくて、物語を一から作り上げることができた日本は、明治維新のときそれを徹底的にやった（いくらナチスでも、ヒトラーが神の子であるとは誰も言わなかったし、ソヴィエトでスターリンがキリストの再来だなんてのは噂すら立たなかった。キリスト教という一神教的素地があったからである）。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で、徹底的にやった当然の結果として、戦後になって戦前の価値を全否定したとき、日本のどこにも宗教的なものというのは残らなくなってしまった。ヨーロッパでは、帝国主義をやめたとき、もとのキリスト教にもどればよかったんだけれど、徹底的に国家の物語に神話を吸収させちゃった日本ではそれができなかったんです。たとえば「神武天皇」というとどうしても戦前と侵略のにおいがする、これは日本が、戦前に神話を政治に徹底的に吸収させちゃったせいです。日本は戦前のものを全否定したために、宗教的なものも全否定することになってしまった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アメリカでは大統領就任の際、聖書の上に手をおいて式を行うことについて誰も批判しないけれど、日本では愛媛県知事が戦没者の供養のため玉串料を払っただけで最高裁から違憲判決が出る騒ぎになる（愛媛県玉串料訴訟）。そのくらい宗教は全否定されている。あるいはアメリカ人の約半数は「人間や生命はダーヴィンの言うような進化論ではなく、何かしらの知的設計者によって創造された」と考えているが、日本人の多くはアメリカ人の半数がこのように考えているという事実すら信じないだろう（もし信じたとしても、「ジョージ・ブッシュを大統領に選んだアメリカ人はやっぱり狂っている」と考える根拠を補強するに過ぎないだろう）。しかし、そのようにアメリカ人を馬鹿にする日本人も、「じゃあ生命がどうやって作られたのか、君は説明できるのかい」とアメリカ人に聞かれたら、口をもごもごさせて、閉口するぐらいしかないのである。とにかく日本人は科学で説明できないことに弱い。魔法や超能力は（少なくとも日本では、）公式には存在しないことになっているが、現実にそう言う能力をもっている人は、存在する。で、そういう人を見たときに日本人は、相も変わらず必死で科学的説明をしようとするか、沈黙するほかないのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;科学でわからないことはなかったことになってしまうというのは、日本が戦後に宗教を廃したことの他にも、民族性が大きく関わっているのかもしれない。例えば、日本人は人前で自分の意見や考えを披露することを極度に恥ずかしがる。私事は私事として、自分の考えを、人前に出さない。結果としてその人の見た目からは想像もつかないようなことを、blogなんかで書き散らかしていたりする。blogはひとりごとなんだから、別にいいでしょ、というわけだ。そのくせ本当は、人に自分の思ってることをみてほしくて、ノートではなく、インターネット上に公開してひとりごとをつづるということになる。日本人はいつの間にか「科学的ではないこと」は言ってはならない、「自分の感情や考え」は表に出してはならない、という空気に、抑圧されているのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;精神分析をかじればすぐにわかることであるが、人間の心のしくみは、実はあまり合理的、科学的ではない。それは、「人間の心は科学なんかではとらえられない！」というような感情的な議論ではなくて、ただ単に現代人の生活習慣が子供に及ぼす影響が、（人間が他の動物よりはるかに複雑な生活体系をとるという理由から、）あまり単純ではないからだ。どういう理由でそうなってしまったのかはわからないが、人間の心の仕組みというのは外界（自分の外の世界、言い換えれば客観的に外の世界はこうなっているだろうという考え）と自我（ego）と、内界（膨大な記憶の海や太古の意識から作り出された自分の中の宇宙＝id,es）の三つからできていて、脆弱な自我はこの外界と内海の狭間でいつもひょろひょろしているのである。外界は、自分の外の世界のことであり、「恐らく現実はこうなっているだろうな」という世界である。例えば、「恐らくこの井ノ頭線にのれば、30分後に吉祥寺につくだろうな」というのは、いつもそうしているという過去の記憶の集積から理性的にはじき出された予想であり、外界というのは理性と予想の集積からできている。これを我々は「現実」と呼ぶ。では、この「過去の記憶の集積」とやらはどこから来ているかというと、idとかesとか呼ばれる、自分の内界からきているのである。この記憶の集積は理性によって取捨選択され、整理される前の状態であり、場合によっては生まれる前の太古の記憶とかまで混ざっていたりして、傍から見ればぐっちゃぐちゃである。これを我々は「夢」、あるいは「妄想」と呼ぶ。言い換えれば、内界は記憶の集積という意味で「過去」、外界は未来予想の結果という意味で「未来」、それにはさまれる「どこにもいない本当の私」こそ現在と言えるかもしれない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;内界と外界は、本来両方そろって初めてバランスの取れるものであるが、「科学」（外界）しか認められない現代社会では、片手落ちになってしまった内界の安定のために、何かしらの道具が必要になってくる。本来ならば「宗教」がその分野を担っていたのであるが、様々な政治的事情から、宗教の消滅してしまった現代日本では、アニメやマンガが新しい神話として内界の安定のために次々と生まれたのである。言うまでもなく『新世紀エヴァンゲリオン』は聖書とを下書きに作られたいわゆる母親と父殺しがテーマの作品であるし、次々とエピソードストーリーが作られ、作者もかわっていく『機動戦士ガンダム』という作品の作成経緯は、『旧約聖書』や『ラーマーヤナ』といった宗教聖典の作成経緯に非常に近い。人間には夢（＝妄想）が必要だ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;全ての宗教と、芸術作品は妄想である。その妄想の形が、わりと普遍的なものなのかもしれないということを発見したのはフロイトである。フロイトはこれをエディプスコンプレックスと名づけた。『聖書』『リア王』『ファウスト』『ツァラトゥストラ』『カラマーゾフ』という系譜が扱うテーマである。ちなみに先述の通り、庵野の『新世紀エヴァンゲリオン』が扱ったのもこのテーマである。テーマの面から考えても、世界の文学に与えた影響の面から考えても、エヴァはこの系譜の末席に位置する資格があるかもしれない。新世紀エヴァンゲリオンという作品は、やがてシェイクスピア、ゲーテ、ニーチェ、ドストエフスキーといった作家たちと並べて評される日がくる可能性がある。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん妄想であるから、様々な形が起こりうる。フロイトは人間の内界の中から、特にその原動力となっている衝動に注目し「性衝動（リビドー）」あるいはその裏返しである「死の衝動（タナトス）」と名づけた（死の衝動と性衝動についてはhttp://mixi.jp/view_diary.pl?id=979539431&amp;owner_id=889993）現代人は片手落ちになった内界の安定のために、腕を切ったり（死の衝動による安定）、変態行為に走ったりする（性衝動による安定）。そこまでいかなくても、例えば『バトルロワイヤル』や『リアル鬼ごっこ』みたいな作品は、立派な「死の衝動」による精神安定剤である。現代人は、残虐シーンや死体、殺し合いをしているのをみると、科学文明でつくられた現実世界では滅多に使うことのできない自分の内界の部分が刺激されて、なんだか興奮したり、安定したりするのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは死の衝動に走るよりは性衝動に走るほうがよっぽどマシだと思っているので、腕を切るくらいならばセックスをおすすめしているのだが、どうも人前で自分の感情を露にすることを控えてきた人たちに、急激にそれをせまっても、難しいかもしれない。なんだかヴィルヘルム・ライヒに言ってることが近くなってきてしまったが、実際のところ、片手落ちになったおまえの「夢」の部分を救ってやるといって忍び寄ってくる、国家や会社、新興宗教のような「巨大なシステム」に利用されるだけ利用されて使い捨てにされたり、その結果としてどこにも夢も現実も居場所をなくして、自分で自分を殺してしまうよりは変態セックスに走った方がずっとよいように、ぼくには思われるのである。別に性行為でなくても、音楽でも文学でも映画でも構わないように思えるかもしれないが、どうして性行為を推奨するかと言うと、あくまで音楽や文学や映画が、作品の中に出てくる誰かに自己を投影して成り立ついわば「偽物」の妄想であり、作品が終われば妄想も終わってしまうのに対して、性行為というのは、自分が主人公になる「本物」である。性行為には、文学や音楽といった、芸術にはできない妄想と現実との交差がある。逆を言えば、だからこそ危険すぎて、性行為は秘匿されるのだ。人に見せることを共通理解とする音楽や文学とは違って、性行為は秘密にしなかったら、現実と妄想の判別がつかなくなってしまう。内界と外界をつなげていた、小さな扉であった自我はあっという間に消滅し、内界と外界が融合を始めて、二度と元には戻らなくなってしまうのである。自分がどこにもなく、あるのは無限の記憶の集積と、それが溢れ出た世界だけ。理性が感性に食われた世界であり、ここでは現実と妄想の区別がない。人はそれを狂人と呼ぶのかもしれないが、狂人には分裂した現代人のほうがよっぽど狂っているように見える。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;フランスのミシェル・フーコーという哲学者は、自分がゲイでＳＭ愛好者だということをカミングアウトしたいがために『狂気の歴史』だとか『性の歴史』だとか大量に言い訳の本を書いて、いつの間にか現代を代表する思想家になってしまった人物なのだが、そのフーコーは、『狂気の歴史』の中で、こんな話を紹介する。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コメント&lt;br /&gt;ガンディ2008年11月09日 22:52&lt;br /&gt;フランスには、狂人を監禁施設から解放した人物、近代精神医学の父としてピネルという名高い人物がいるのだが、このピネルという医者は、「精神錯乱者は、空気と自由を奪われているから治癒しづらいのだ」として、精神病者を鎖から解放した。ピネルが最初に解放したのは、給仕人を殴り殺したことのある「凶暴な」イギリス人中尉であったが、ピネルはこの中尉に、理性的にふるまうことを約束するなら、鎖をとき、中庭を歩く自由を与えると申し出る。中尉は条件をのみ、中庭を走ったり、階段を上り下りしながら、絶えず「なんと美しい！」と叫んで、もう二度と発作的に暴力を振るうことはなかった。彼は施設の中で、狂人たちに一種の権威をふるうようになり、自分なりに狂人たちを支配して、いわば番人になった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;フーコーはこのエピソードを紹介し、その上で、患者は理性を取り戻したのではないと指摘する。彼の意見では、患者が取りもどしたのは理性ではなく、「すっかり組み立てられた社会的なさまざまな類型」である。解放された狂人は、理性的な人間としてではなく、番人という役割を演ずる演者として安定し、社会的なパターンにしたがって行動できるようになるのである。フーコーによれば、狂人はそれまで鎖で身体を縛られているだけであり、心は野生のままに猛り狂っているのだが、しかし身体の鎖を解かれた患者は、それからはピネルのまなざしに身体を貫かれながら、心を鎖で縛るようになる。狂人は、自己の身体の奥深く、行動と思考の源泉となる場所まで他者のまなざしによってつらぬかれることで「解放」されるのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;フーコーはこのエピソードを紹介することで精神医学の欺瞞を指摘しようとしたようだ。だが、逆説もありうる。もしも狂人が、「自分自身の片隅に押し込んだまま、狂気を武装解除」するのではなく、自己を解放させ、社会の中に狂気を浸透させるために「自分の狂気を全部告白してしまう」という戦略をとったとしたらどうだろう？フーコーはこの発想の転換を思い浮かばなかった。あるいは勇気がなかっただけかもしれない。結果として、死ぬまで自分の狂気の言い訳をし続ける羽目になったのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;----- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とにかくめちゃくちゃに話がずれた。もう三時間ぐらいだらだらと書き続けている気がする。そろそろ終わりにしよう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それにしても、気が狂うのなんて、実はちっとも難しくないのかもしれない。しかし正気のままでその狂気をコントロールして、狂人とも常人ともつかぬ人間になるのは、ちと力がいる。何せあのフーコーすらもなしえなかった業だ。三島とニーチェはやってみせたが、なるほどやはりすぐに死んでしまった。これは狂人ではない。超人だ。超人としてはイエスも有名人だが、やっぱり死んでしまったこともあまりに有名だ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-6768289826123986623?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6768289826123986623'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6768289826123986623'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/11/blog-post.html' title='惰性'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-5803982244864034161</id><published>2008-10-31T06:36:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:40:12.255+09:00</updated><title type='text'>死の衝動と性衝動 夢想と現実</title><content type='html'>今日は自殺志願者の友人と話してきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自殺志願者というと、どうも偏見が付きまとう。例えば、blogで自殺をほめのかしてみる割には本当には自殺しなかったり、他人になんとも返答しがたい人生相談を持ちかけたりと、そういった「困った」行動が偏見の根になっているのかもしれない。&lt;br /&gt;(誤解を避けるために言っておくが、ぼくはそういうタイプの人たちを嫌いではない。ぼくは彼らのことを、引っ込み思案だが話すといい奴らだくらいに認識している。もしかすると、ぼくは人が死のうが死ぬまいがどうでもいいと考えているのかもしれない。まあ、そりゃ生きてる以上自殺したいことだってあるかもしれんし、その中の何人かは、まあ死ぬだろうなあくらいに思っておるのである。)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり我々の共通認識として、自殺志願者とは、「自殺したいことを人に言う、なかなか自殺しない人」のことなのかもしれない。しかしぼくの友人の自殺志願者は少し話が違う。死にたい様子などおくびにも見せないのであるが、ある日突然誰にも相談せずに青木ヶ原に行ってしまったという経験の持ち主なのである。&lt;br /&gt;彼は非常に頭の良い人間で、自分の衝動と自殺(正確には未遂であるが)に至った経緯を客観的に説明してくれた。これが非常に面白かったのであるが、彼は必ず死ねる場所を探そうと思い、冷静な頭で樹海へ向かったのだそうである。錯乱などはなかったという。山梨行きの電車の中で、車窓を眺めながらぼうっと考えていたことは、「自分は受験戦争を生き残って一流大学に入ったが、この先例え生きていたとしても、一流企業に入って年収千万程度、毎日同じ生活を繰り返し、70程度で死ぬだけであろう。自分の叔父も父も祖父も、みな自分と同じような人生を歩んだが、最後まで生ききったとしてもその人生が別段素晴らしいものだとも思えぬ」という、中学のころからずっと考えてきたことのごく自然な焼き増しに過ぎなかったという。&lt;br /&gt;バスを乗り継いで青木ヶ原につくと、青々と生え伸びる自然の力の凄まじさに、まず畏れを抱いたという。天まで届かぬばかりの緑のベールが、遥か頭上を車道まで覆い被さっている。散策路を奥に入っていくと道端には「命を大切に」と記された看板がたっていて、「ははあなるほど、ここらへんから外れれば死ねるな」などと思いつつ、慎重を期してもう少し奥に入ってから散策路を外れたのだそうだ。&lt;br /&gt;首を吊った後は尿や目玉の悲惨になることを思って、それはなんだか嫌だなあと思い、用を足して目隠しを用意した。そうして雑木の山の、いくらか奥まったところに手頃な形をした枝をみつけ、縄を巻き付け、首にひっかけてみた。しかしどうもためらう。いっそ一思いにとは思うが、人間土壇場となるとなかなかそうも行かぬ。そうこうしてる内に寒くなってきた。今から自殺しようという人間が寒いというのもバカらしい、さっさと死のうと思う。死ぬ、死ぬ、死んだらこの世界ともとうとうおさらばだ。この世界には二度とやってこないのだと考えると、つまらない世界にも一つや二つやり残したことがあるように思う。今何か一つだけやり残したことがあるとすれば？おれは風呂に入りたい。ここはあまりに寒すぎる。自殺するには寒すぎるのだ。&lt;br /&gt;彼は自殺する前に風呂に入りたいと考える自分のバカらしさにほとほと呆れはてたという。そうして、二三時間も樹の周りをうろうろしていたが、とうとう諦めて、高尾まで戻り健康ランドで風呂につかったのだそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「で、今でも君は、自殺したいと考えることがあるのかい？」&lt;br /&gt;思わず目を丸くして尋ねるおれに、彼はアハハと笑いながら答えた。&lt;br /&gt;「そりゃまあ死にたいことは死にたいですけどね、死ねないことがわかってますから…。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくはこの自殺志願者の腹の決まりっぷりに尚更目を丸くした。本物の自殺志願者とは、このようなものである。ぼくは鬱と自殺衝動は、なんら関係のないものなのだということを今日初めて知った。彼は語っている間ずっと冷静であった。鬱だろうが躁だろうが、死にたいときゃ、死にたくなるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;-----------&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで彼との話の中でもっとも面白かったのは、もしかすると変態は自殺したくならないのではないのではないかという話だ。彼はあの自殺未遂を経て「自分はやりたいことなんてないし、人に従属しているのが一番向いているのではないか。結局のところ、敷かれたレールの中で奴隷のようになり、大学も会社も淡々とこなしていくのがおれには向いている」と考えるようになったとのことであるが、「でも、二人ともこの世界について感じていることはほとんど同じなのに、ぼくは自殺したいと考え、ガンディさんは世界を壊したいと考えるようになったんでしょうかね」と言われ、ふと感づいた。ぼくは超がつくほどのドＭの性癖を持っているが、人に従属してしまいたいという衝動は、その衝動でバランスをとっているのだ。ふと思いついたこの考えを彼に伝えてみると、少し考えてから、「なるほど、そう言われれば確かに、ぼくはあっちの方はかなり淡白なんですよねえ…」と答えた。&lt;br /&gt;そう言えば精神分析において、死の衝動とは性衝動の裏返しに他ならない。ぼくの友人でも筋金入りのド変態が死にたいと言っているところはあまり聞かない(註記・これが適用されるのは男の変態だけかもしれない)。そうして、少なくともぼくの知ってる範囲においては、変態にはそれこそ神を殺さんがばかりの、異常なほどの上昇志向を持っている人がかなりいるのである。そこまで行かなくても、ぼくは前々から性的に大分おかしくなってる人に医者や社長など、社会的地位や収入の非常に大きく、しかも紳士的な人が多いのはなぜかと考えていて、彼らはどうやら性衝動で死の衝動を帳消しにしているらしいのである。というのも、彼らは深い教養を持ち、哲学や芸術に対して極めて理解のある人たちであるが、やっぱり自殺しようとは夢にも思わないみたいなのである。ちょうどいい例が(先ほど書いたが)三島と太宰かもしれない。太宰は弱さを見つめて「死にたい」となるが、三島は「強さ」を志向するために変態になってしまうのである。ジョン・Ｋ・ノイズはSM愛好者が好んでナチの衣装を身に纏うのを見て「マゾヒズムは現実のパロディで&lt;br /&gt;ある」と指摘したが、事実性衝動の世界は現実を転覆するためのパロディなのである。なぜ、そうなっているのかはわからないが、性の監獄とでも言うべきパラレルワールドでは、現実世界で強さを信奉する人間が(ちなみに三島は強さを信奉するがゆえに右翼なのであるが)、パラレルワールドではナルシスティックな悲劇の英雄をマゾヒズム的に演ずることでしか感じることのできなかったりする。そうすると、三島はマゾ・ナルチズムのパラレルワールドと現実の世界を融合させようとしてあのような最期を遂げたのかもしれない。そこにはもはや現実も夢想もなく、嘘も本当もない。『仮面の告白』とは、真実を語るべき肉体が何も語らず、つけられた仮面の側が告白するという逆説であるが、三島は仮面に告白させることで、現実を夢想のパラレルワールドに引き込んだのだった。(ここは現実だから、現実を夢想に引き込むことはできても、夢想を現実に引き込むことはできないのだ。『本当の自分』が告白しても、夢と現実を混乱させることはできないのである。)道化気質の人間にはしばしばみられることであるが、例えばマリリン・マンソンなんかは&lt;br /&gt;、インタビューで自分のことを「確かに自分を演出していると言われればそれに間違いはないのだが、結婚相手から友達まで全員自分の設定にあわせて選んでるから、もう一体どこまでが本当の自分なんだか、まるでわからなくなっている」という。薬なんて使わなくても、夢想の世界に迷いこむことなんて簡単なのだ。宇宙への鍵は性衝動である。普通の人間は、行為が終わったらあっちの世界から帰ってきて、入り口の扉に鍵をきちんとかけて、普段は絶対にそれを人に見せないのであるが、何らかのきっかけで(例えばマンソンや三島のようにロックスターや芸術家の過剰になった自己顕示欲がそうさせるのであるが)扉に鍵をかけるのをやめてしまうと、夢想の宇宙が現実を侵食しはじめて、何が現実で何が幻だか、まるでわからなくなってくる。こうなったら最早手遅れで、現実と夢想の区別をつけることはもう二度と出来なくなる。それは、他人の前の偽りの自分と、部屋で一人の時だけに現れる本当の自分の区別がつけられなくなるということであり、区別をつける前の状態すなわち赤ちゃんの状態まで退行することである。それは現実と幻がまだ分かれる前の世界&lt;br /&gt;である。それは嘘のなく、しかし本当も存在しない世界である。それは絶対的自由を手にするということだが同時に夢想の囚われ人になり、二度と帰ってこないということでもある。だから、現実の世界を大事にしている人は、宇宙が現実に溢れこまないように、扉にしっかりと鍵をかけておくがよい。けれども、現実なんてどうでも良くなって、死んでしまおうと思うくらいならば、扉を壊すがのがいいだろう。夢想の渦は現実の世界を粉々にして飲み込んで、あなたを天国へと連れ去ってくれるだろう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-5803982244864034161?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/5803982244864034161'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/5803982244864034161'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2009/10/blog-post_31.html' title='死の衝動と性衝動 夢想と現実'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-185432611547881255</id><published>2008-10-30T06:35:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:36:08.340+09:00</updated><title type='text'>『東大を動物園にしろ』</title><content type='html'>三島の『東大を動物園にしろ』って文章が、とてもいいから、いくらか抜粋してメモ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ぼくは反革命なんだ、絶対に反革命で押し通すつもりだからね。見ておいでよ、いまに反革命が一番カッコよくなるから。反がつきゃ、なんでもカッコいいんだからいまファッションとして革命をえらんでいる連中、そのときになって先をこされたと口惜しがるだろうさ」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「だいたいいま革命だ革命だっていってる連中、命を懸けてないよ。新宿騒動のとき、ぼくは武器がどうエスカレートしているかを見に行ったんだ。エスカレートしてなかったね。竹槍すら出ていない。遠くから機動隊へ投石したり、電車のガラス割ったり、あんなことならおれにだってできる。あぶなくなったら逃げちまえばいいんだからね。何が革命だという感じだな。一種の自己欺瞞だよ。（中略） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;命を賭けるなら一生に一度という古い考えがあるけれども、彼らのやってることと言えば、テントウムシの群のようにヘルメットの軍を集めてワイワイガヤガヤ、電車のガラスを割って『革命です、命賭けです』といったって誰が信じるものかね。革命は殺すか殺されるか、どちらかだよ。（中略） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;要は度胸がねえんだよ。一人でやる度胸がねえんだ。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「しかしきみ、革命っていうのは、今日よりも明日を優先させる考え方だろう。ぼくは未来とか明日とかいう考え、みんな嫌いなんだ。（中略） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;未来社会を信ずるやつはみんなひとつの考えに陥る。未来のためなら現在の成熟は犠牲にしたっていい、いや、むしろそれが正義だ、という考えだ。（中略） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;未来社会を信じないやつこそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないという生活をしているやつが何人いるか。現在ただいましかないというのが文化の本当の形で、そこにしか文化の最終的な形はないと思う。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小説家にとっては今日書く一行が、てめえの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして今日書く一行に力がこもるかね。（中略）未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;三島のいうことには未来のイメージがないなんていわれる。馬鹿言え、未来はおれに関係なくつくられてゆくさ。」&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-185432611547881255?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/185432611547881255'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/185432611547881255'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/10/blog-post_30.html' title='『東大を動物園にしろ』'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-4421262351193943073</id><published>2008-10-29T06:32:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:33:26.971+09:00</updated><title type='text'>思考メモ</title><content type='html'>考え方としては、明日の課題どうしようとか、今週中にあの仕事終わらせないととかより、明日死ぬかもどうしようと考えた方が、憂鬱病にならない気がする。 現代人は失うものが多すぎる。とりあえず明日は死にさえしなければクリアだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;総ては非常に単純で、働きたいとき好きなだけ働いて、食いたいとき食って、寝たいとき寝て、セックスしたかったら誰とでも好きにして、それでまあ、死ぬときは死ぬときなのである。 ルールなんて初めからなかったのであって、自由こそが唯一の法律なのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;誤解を恐れずに言えば、自殺をしたければ自殺して、人を殺したければ殺したっていいのだ。問題は、自殺したくないのに自殺するとか、殺したくなかったのに殺してしまったとか、そういうケースなのであって、本当に自殺したかったり、本当に人を殺したかったりするなら問題はないのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間にとって最も重要なものは、命じゃなくて自由だ。自殺したいというなら止めるべきではない。しかし、本当はさほど自殺したくなさそうであるならば止めてやるとよいだろう。尤も自殺は重大な決断なので、相談はしてもよいが、人の意見に流されずに、最後は自分で決めることをお薦めする。殺人も同様である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ルールは人から与えられるものではなく、自分が自分を律するために作るものだ。したがって自殺だろうが殺人だろうが、そこに禁止事項はない。あるのは筋だけである。筋さえ通っていれば、自殺や殺人も時には共感を呼ぶものだ。例えば死刑は殺人であるが、かなりの確率で支持されるのは何故だろうか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本当は、あなたを束縛しているのはいつか死ぬという事実ただそれだけで、後は何一つ決まってはいないのだ。常識に囚われず、ひとつひとつ自分だけのルールを作りあげていくといい。ルールが明確化されれば、何でも出来るようになるだろう。筋が通っているから気違いだろうが変態だろうが誰も文句は言えないのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ルールを明確化するということは、あなたが無意識に考えていたことを意識化するという作業だ。一見デタラメに見えるあなたの行動を、納得がいくよう人に説明するという作業だ。 そのために言葉がある。言葉はあなたを自由にする。まずは態度で示さず、口で言ってみるといい。大概の問題は解決するだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;膨大な無意識を無理に閉じ込めていると、辛く悲しくなってくる。弱く恐ろしい自分を認めよう。更に良いのは、その恥ずかしい自分をおもしろおかしく人に伝えてしまうことだ。デタラメな狂気も、人に伝えることで飼い慣らすことができる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分の狂気に気が触れそうな人に限って、普段は礼儀正しい常識人であることが多い。それを抑えこむだけのパワーがあるからだ。そういう人が自戒を破り、無意識を人に伝えようとすると、とんでもない力が発揮されるものだ。芸術とは、技術でも才能でもなくこれだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;逆を言えば感情を意識化する力がないものは呟きでしかなく、芸術にはなりえないのである。 人は誰しも心に怪物を飼っている。食べられてしまわないようにと思いながら、本当は怪物になって大暴れできたらと思っている。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ならば人に伝えることが重要だ。伝わらない言葉には価値がない。自分の気持ちさえ伝われば、あなたは無限の自由を手に入れ、全能になることができるのだ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-4421262351193943073?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/4421262351193943073'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/4421262351193943073'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/10/blog-post_29.html' title='思考メモ'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-9005492111331017006</id><published>2008-10-24T06:31:00.001+09:00</published><updated>2009-10-31T06:32:54.497+09:00</updated><title type='text'>愛と勇気と絶望をこの両手いっぱいに</title><content type='html'>忙しい日々が続き、力が出なくなっておる。日記を書こうにも、書く力がでないのである。書く力がないとは、面倒だとか、おっくうだとか、そういうことではなくて、事実として文章が書けなくなっておるのである。無理に書いてみようとしても、中途半端になったり、おもしろくなかったり、昔書いたものの繰り返しだったりする。前回の日記なんて典型的だが、それでも敢えて消さないのは、自分を戒めるためである。そもそもぼくは文を書くことくらいにしか才能のない男で、悲鳴をやっていくにも、音楽的な素養はまるでなく、歌詞や言葉や奇妙な動きで人を面白がらせるくらいしかできないものである。であるからにして、ぼくにととて文章を書けなくなるというのは、最早致命傷としか言い様のないものだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは今、少しずつだが文章を書くことを生業とし始めている。自分の書いた文で、僅かながらもお金を貰えるというのはなんだか奇妙なものである。それこそ好きでやってきたことが、突然金になるというのだから。 &lt;br /&gt;飯を食うためであるから、外貨為替の取引からAV女優のインタビューまでそれこそなんでもありである。そこに違和感はまるでない。ありがたいことだ。文章を書くことでお金がもらえるならおれはなんでも書く。好きなことで金をもらえてるの時というのは、どこにも文句の出る余地などないのである。何より好きなときに好きなだけ働けばよいというのがよい。この仕事には出社というものも退社というものもない。寝たいときは寝たいだけ寝て、働きたいときに好きなだけ働けばいいのである。おれは子供のころから、自由が何よりも好きだった。おれの今までの人生は、金持ちになるためでも、いい企業に就職するためでもまるでなく、自由になるため、ただそれだけのために歩んできたものと言える。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし自由には、必ずそれなりの代償がつくものである。好きにやるのは自分の自由だが、力がなくて死ぬのも自分の自由である。もしかしたら突然今日から仕事をもらえなくなるかもしれないし、そうしたら飯を食えなくなって死ぬしかない、この仕事はそういう仕事である。明日の保証がどこにもない中で、「まあ、それでもなんとかなるだろう、例えなんとかならなかったとしても、まあ死ぬくらいのもんだろう」という発想が、すべての基調である。明日死ぬかもしれないし、でも死にたくないし、でもまあ死んだら死んだだし、でもまだやりたいことあるので、とりあえず働くのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし自由というものはやはり断トツに面白い。学生までというのは、今日も明日も明後日も、何の変哲もなく代わり映えのしない日常というものをただ漫然と繰り返す他のないもので、これほど生きているか生きていないのか眠っているのか起きておるのか、はたまた自分なんてはじめからあったのかなかったのか、とかくいくらか人より敏感な者にとってはやたらと死にたくなって仕方のないものである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いいや、死にたいというのはいくらか語弊のあるかもしれない。死ぬこと以上にこの不自由を自分の力でぶち壊そうとしているやつもいた。力があれば、それも可能である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;動物というのはそもそも、強いものだけが生き残って弱いものは死んでしまうわけである。で、このような非人間的な世界を克服するために、人は隣人と手を結び、国家や社会を形成していったに違いない。どんな国家も、元は都市国家から形成される。その時都市は自然という広大な海に漂う小さな孤島であり、人間はこの中で肩を寄せ合いひっそりと暮らしている。このような状況だからこそ、追放刑というものが作られる。昔の人にとっては、この孤島を追い出されたら、人間界を追放されたも同然であり、それは人でなくなる、場合によっては死ぬことを意味するのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;社会、国家、会社、すべて人間の生命を保証するためのものである。これらはみな、我々の未来を保証するという思想から作られている。未来を保証するということは、明日がどうなるかすでに決められているということである。こうして我々はもはや明日に対して絶望する必要がないわけだが、しかし絶望がないということは、当然それ以上の希望もないということである。決められた分より悪くなることも、良くなることもないわけだ。これが保証というものの本質である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;キリン、という動物がいる。サバンナとかにいる、首の長い、角とも耳ともアンテナともつかぬものをつけた、黄色い豹柄のあれである。ぼくはあの動物の外見に勝てるとも劣らぬ不可思議さを、つい最近友との酒の席で知ったものだが、彼の話によれば、あいつは首が長すぎて、どれだけ血圧をあげても血が脳まで届かぬゆえ、いつ寝てるのか起きてのるか、自分ですらよくわからないのだという。おかげでキリンの世界とは、夢とも現実ともつかぬ、空想と幻の入り混じった、なんとも奇妙な世界の中で、いつ母親の腹から生まれ、いつライオンに食われたのか、自分でもよくわからぬままに、生まれ死に、死んでは生まれていくのが、その一生なのだという。おれは「あのころ」を思った。おれは血圧が低くて、なかなか朝が起きれない。そうして起きてる時も、なんとなく頭が重くてぼーっとしている。学校に行くと、なんら変わりばえのしない講義をしている。今週もこんな風に、先週と同じように過ぎていくし、来週もそうだろう。そうしてよくはわからぬが、いつの間にやらどこかに就職して、こんな風にくらすだろう。正直なところ、おれはふてくされていた。なんてつまらないのだ！生きるということはこんなにもつまらないことであろうか。おれは全くキリンであったのだ。そうしていつの間にか社会や国家というこの巨大な化け物に吸い尽くされて食べられてしまっても、そのことにすら気付かずに死んでいったのに違いがないのだ！ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしキリンの不幸を取り除くためには、圧倒的な力が必要である。力がなければ、大海に漕ぎ出しても、すぐさま野垂れ死ぬに違いあるまい。力がなく、しかし社会にも適応できないものは不幸だ。それこそ死にたいと思うに違いがあるまい。死にたくないから外に出ようにも、力のない彼女に外はあまりにも危険である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;かつてキリンであったぼくも、外にでることには非常な恐怖を抱いていた。そうしてこれから外に出るのか、それともこのまま中に残るのか、なんとも踏ん切りのつかないままでいたのである。大学に入りたてのころのぼくとは実に子供だったのであり、ぼくは将来に対してなんとなくバンドをやって有名になり、なんとなく自分が世界を変えるのだと思っていた。しかもその一方で、ただなんとなく自分は外務省か大学院にいくのだと思い、ただなんとなく将来は官僚か大学教授で、社会的にも安定し年収は一千万前後と、ただただなんとなく思っていたのである。この二つの「なんとなく」は、理性的に考えれば決して両立しえないものに違いないのであるが、あの時のぼくの頭の中ではこの二つの考えが矛盾なく居場所を作っていた。つまりどちらも本気でやるつもりなんかなかったのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが大学も四年生になり、卒業が目の前に迫って、現実に自分の人生を決めていかなければならなくなると、にわかにぼくはあわてた。ようやくこのキリンは目を覚まして、自分がライオンに食べられる寸前だったということに気づいたのである。 &lt;br /&gt;ぼくは人と話さなくなって、悲鳴もやめてしまった。朝から酒におぼれ、家にこもって本ばかり読む日々が続いた。ぼくは悩んでいた。現実問題として、ロックスターと外務官僚は両立しえないなどということに、今更になって気づいたのだ。秋には大学院の受験もあったが、こんな状態で受かるはずもない。分かり切っていることは、大学院も、ロックスターも、どうしてもなりたいと思ったやつだけがなれるのだということだけである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは昼も夜もなく真剣に考え続けた。しかし結局のところ、はじめから答えは出ておるのだ。定められた未来にむけて、安心して死ぬまで生きるよりは、ワンチャンスで神になるか死ぬかの方がやりたいのである。それに加えて、指導教官に出ていけと言われたことも良い後押しとなった。あの教授は嫌いだが、そういう意味で感謝はしておる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうと決まると、こちとら命を賭けておるのだから、なりふり構っていられなくなる。自然に覚悟が定まって、いちいちすべてが真剣勝負になってくるのだ。そうして不思議なことに、これが今までの人生より遥かに面白い。死ぬか生きるか分からん方が、よっぽどおもしろい。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近大変に感慨深かったのが、フライングイズナドロップの町田君の言葉で、彼のバンドは今まで何回も活動停止の危機にさらされてきたのだけれども、その度に彼はこう思ったというのだ。「このバンドは誰が何と言おうがおれのバンドだ、メンバーがなんと言おうがおれは絶対このバンドを止めねえ、理不尽も筋も知らねえ、これはおれのバンドだ。」この言葉は彼自身が言う通り、まさに筋も論理もあったもんじゃないのだが、彼は確かにこのバンドは自分のバンドだと思っているのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;バンドというのは、メンバー全員が平等だから、筋からいえば誰が誰をクビにするとか出ていけというとか、やりたいようにやらせてもらうとか、そういうわけにはいかないはずである。当り前のことだが、人が二人以上集まったら、お互いがお互いの意見を認めあい、その中で妥協点を見出していかなければならない。それが社会であり、人間関係というものだ。しかし町田はそんなもの全部知らんというのだ。それが筋であることも、論理であることも百も承知だが、そんなもの全部クソくらえだ、このバンドはおれのバンドであるというのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;覚悟もなくただ漫然と日々を過ごしていたあのころでは決してできなかったことに違いないが、おれは先日生まれて初めてバンドのメンバーをクビにした。おれがリーダーでもないのにである。おれが彼より偉いわけでも決してないのにである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも、おれはもはやなりふり構っちゃいられないのである。目の前に立つ者は筋が通ってなかろうが、論理に応じてなかろうが、切り殺さなければこの広大な海で、こっちが野垂れ死ぬのである。船をおりろ、さもなくば切る、おれははっきり彼にそういった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうすると、全く不思議なことだ。いや、全く自然なことなのかもしれない。彼は全く素直にそれを受け入れたのである。 &lt;br /&gt;吉田という男は、普段はこれほどふざけたやつも珍しいのであるが、こちらが本当に真剣になったときだけは、絶対に真剣に返してくる。全く鏡みたいな男で、彼の子供らしさは、ひとが少しでも甘えたり、ふざけたりしているのをみるとそれを無意識に察知して、無意識のうちにあっちもふざけているだけなのである。だから同様に、こちらがなりふり構わない真剣勝負の時だけは、あちらもそれを本気で引き受けるのである。 &lt;br /&gt;おれは彼のこういうところを、心底信用していた。むしろこの点のみで彼とバンドを続けていられたとすら言える。ただふざけているだけの男と思ったら大間違いだから、それだけは知っておいてもよい。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、こうしておれはあのイライラしてくる街を飛び出して、誰も知らない海沿いの街を目指すというわけだ。ただわかっていることは国を追放されてさまよい、自分の王国を作るにはただただ力が必要だということである。王国を作るに至らぬときは月下の荒野で野垂れ死に、とこういうわけである。人生は本当にゲームみたいなものだ。最後は大軍を率いて、遥か昔に追放された、父が国王として治める王国に攻め込むのである。そうして、一度は奪われた国王の座を、復讐のうたと共に奪い返すのだ。途中で力尽きたらゲームオーバーだが、まあそれもそれでいいじゃないか。できるだけ死にたくはないけれど、生きてるか死んでるかわからんよりはマシ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さてまだレベルは１なんだが、勇者であることには間違いないぜ &lt;br /&gt;どうだおれ今最強にかっこいいだろ　ヒモだけど&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-9005492111331017006?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/9005492111331017006'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/9005492111331017006'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/10/blog-post_24.html' title='愛と勇気と絶望をこの両手いっぱいに'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-420552067224852478</id><published>2008-10-21T06:29:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:31:03.135+09:00</updated><title type='text'>右翼思想について　コメント</title><content type='html'>----以下コピペ---- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まず、「右翼、または保守派が保守したいものって何なのでしょうか」という問いについてです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この質問に対してはまず、右翼と保守派とは同じものなのかという問いが発せられなければならないでしょう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これに関して、評論家の松本健一氏は『思想としての右翼』の中で、「近代日本において、権力を握り続けた」のは、「左右両翼のあいだで、バランスをとることによって権力を維持し続けたリベラル」であり、その「リベラル」は、「わがくにでは保守主義者として立ち現れてきた」のだとし、「右翼」と「保守」を別物として捉えた上でこう論じます。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「極論すれば、近代日本における政治とは、左右両極のあいだでバランスをとることだった。～中略～彼らは左右両翼のはざまで権力を掌握しつづけ、文明開化の論理、いいかえれば近代化（資本主義化・中央集権化・脱亜化・合理主義化）を推し進めたのである。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;即ち、松本の言いによれば、わがくにでは、左翼と右翼という「思想」の間に、リベラル（＝保守）という、「思想」をもたない「政治」が、バランスをとって、権力を掌握し、近代化を推し進めたのだということになります。だから、松本の議論によれば、日本の政治は思想的旗色を明らかにしたことはなく、「戦前の日本を支配していたのは右翼だ」という言説は間違いで、リベラル（＝保守）が政治に、戦前は右翼を利用し、戦後は左翼を利用したのだ、ということになります。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり松本は、「右翼」や「左翼」は思想であり、「保守」あるいは「リベラル」は政治だと言いたいわけです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういう議論からすれば、「リベラル（＝保守）が守りたいものとは何か」という問いは、単純に「政治家が守りたいものはなにか」という問いに置き換えられるのであり、そういうことであれば、日本の政治家の守りたいものというのは、恐らく「日本の国益（＝日本人の生命と財産の保護）」に間違えないでしょうから、、このように単純明快に回答することが出来るわけです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;では一方、右翼が守りたいものとは何でしょうか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、再び松本に戻りますが、松本は先ほどの話の続きで右翼と左翼の源流について、明治維新を「曲がりなりにも近代国家（ネイション・ステイト）の成立を意味するとすれば、」とした上でこう続けています。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「たとえば、明治十年の西南戦争当時は、この左右両翼は、いまだわかれていなかった。先進資本主義列強にならって近代化をおしすすめんとする、大久保利通ら体制派にたいして、反体制派の立場はひとつあるだけだった。いわく、大久保一派が国権を失墜させ、民権を抑圧し、とどのつまり国家を私のものとしている、と。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり松本によれば、西南戦争当時にあったのは、「大久保利通を代表とする体制派」と、「西郷隆盛に象徴される反体制派」だった。反体制派の中では「国権の失墜」も「民権の抑圧」も同時にあったのであり、それは「いまだ相互に転換可能であった」。しかしやがてそれは、頭山満をして国権派ならしめ、中江兆民をして民権派ならしめることで、右翼と左翼の源流をつくるようになる。（ただしこの時もまだ、頭山満と中江兆民の深い親交からも理解されるように、国権派と民権派は密接に関係している。）そうしてこのふたつの政治思想潮流は、頭山の門下である内田良平と、兆民の弟子、幸徳秋水というふたりの人物にいたって、とうとう右左両翼にわかれることになる、というわけです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうすると、松本の定義によれば、左翼とはそもそも「民権」を伸張するための思想であり、右翼とはそもそも「国権」を伸張するための思想であるということになります。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただしこの時「民権」なくして「国権」ありえず、「国権」なくして「民権」なしである以上、両者は相互不可分であることが前提にある。この問題に対して、幸徳秋水に代表される左翼（＝民権主導派）は、「国権」をこの世界から全部なくしてしまうことで解決を図った。つまり社会主義です。これ以降、現在に至るまで、左翼思想の基調は、社会主義……と言うと語弊がありますが、まあ平たく言えば「国権の消滅」に拠ることになった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で、これに対して右翼思想はどうだろうか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;頭山満から内田良平にいたる右翼思想の流れというのはかなり単純で、『玄洋社々史』に明治十九年の清国水兵暴行事件を評して「民権の伸長大いによし。しかれども、いたずらに民権を説いて、国民の消長を顧みる無くんば、もって国辱をいかんせん。よろしく日本帝国の元気を維持せんと欲せば、軍国主義に依らざるべからずとし、国権大いに張らざるべからずとし、遂に先の民権論を捨つる弊履のごとくなりしなり。」とあるように、要は行き過ぎた民権論が国権をの失墜を引き起こすという考えに基づく、「反左翼」、「反民権」の思想です。 &lt;br /&gt;実際問題としてこの時期の日本は、差し迫る欧米列強の脅威を前に、いつ植民地化されるかわからない状況であったわけで、まあそういう実際上の必要から、「こんな非常時に不満なんて言っている場合じゃないだろう」と言うのが、この時期の右翼の役割だったわけです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところがこれが、日露戦争に勝利し、次第に日本人が「日本は世界の一流国である」という意識を自覚するにしたがって、少しずつ変わってくる。つまり右翼思想の基調が、「どうやって列強から日本を守るのか」から、「世界史において日本民族が果たさねばならない役割とは何か」に変わってくるわけです。アジアで唯一の一流国、という立場が、こういう問いを打ち立たせるわけです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここにいたって右翼思想は急激に転回を始めます。なぜなら、「どうやって列強から日本を守るか」という受動的な問題からは、実際的な回答しか現れてこないわけですが、「世界史において日本民族が果たさねばならない役割とは何か」という、主体的な問題は、けだし哲学的な回答を必要とするからです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あるひとつの回答が亜細亜主義です。亜細亜主義とは、端的に言えば「アジアは日本を盟主として、一致団結して欧米列強の侵略に立ち向かわなければならない」といった思想です。しかしこの立場は、「どうやって列強から日本を守るのか」というかつての問題を、「どうやって列強からアジアを守るのか」という問題にとってかえることにより、延命させているに過ぎません。この問題はやがてアジア諸国が世界の一流諸国になってしまえば自然に解決する問題なのであり、「人間の幸福とは何か」というような、より根源的な問題に比べて、どう考えても低次の問題にならざるを得ないわけです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;思うに右翼思想の限界点はここにあります。即ち、右翼思想が日本の「国権」あるいはアジアの「地域権」とでもいうようなものにこだわり続ける限り、より人間の根源的な問題を考える、左翼「民権」思想に対して、どうしても低次の思想にしかなりえない。右翼思想は、国権にしろ、地域権にしろ、なにか自分以上の大きさのものを重視する思想です。そうして左翼陣営は、右翼のこうした「自分以上」のものを重視するという立場を、「事大主義である」「ファシズムを引き起こす」「自分だけでは何も出来ない臆病な連中のやる思想である」などとして批判し続けてきたわけです。とは言うものの左翼も、「労働者」や「被抑圧民族」「マルチチュード」といった、自分より大きなものを重視せずにはその思想を成り立たせることが出来ずにいるわけですが、左翼の言い分としては、「たとえそうだとしても、生まれついたときに選択する自由もなく、無理やり所属させられている『国家』などというものを重視するよりは、遥かにマシだ」ということになるわけですね。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうすると、究極的には右翼思想と左翼思想の差はここにあるということになるわけです。つまり、右翼思想というのは「国家」にしろ「地域」にしろ、あるいは「家族」にしろ、生まれついたときに選択する自由もなく、無理やり所属させられているもの（つまり言い換えれば運命です）自らの運命を、まず認める。認めたうえで、悪いところは改造する、と、こういうわけです。北一輝の「日本改造法案大綱」なんていうのも、まず日本という国を認める、認めた上で、改造するという立場にたっているから、こういう題名になるわけです。これに対して左翼思想というのは、国家であれ何であれ、運命というものを認めない立場にたっている。何にせよ生まれつき選択する自由がなく所属させられているものというのは、認めないという立場にたつわけです。これは左翼思想が、国家を認めない社会主義思想から発展してきたことに因ると考えられます。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;更にもう一歩話を進めます。それが幸であれ不幸であれ自らの運命を認める、運命を愛すというのは、何か人知を超えたものを認める、人知を超えたものを愛すということです。それに対して運命を認めないというのは、人知の超えたものを認めないということです。ここで我々が思い出すことは、ヨーロッパにおいて右翼思想の最大の担い手は、キリスト教勢力であるということです。つまり右翼思想というのは、（日本においてはキリスト教がないゆえに大変わかりづらいことになっておるが、）本来、「神を認める」に端を発する思想だったということです。（そうして左翼思想というのは「神を認めない」（無神論）に端を発する思想であるということも出来ます──言うまでもなく左翼思想の源流たる無政府主義は、無神論に端を発しているわけです。） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうすると、再び思い浮かぶことがあります。明治維新の際に、日本はヨーロッパの社会システムを真似て、まずキリスト教の代替品を作る必要があった。つまり国家神道を浸透させ、天皇をキリストの代替品として、まさに現人「神」として、国家の頂点に据え置いたわけです。キリストをもたない日本の右翼が皇室制度（俗に言う天皇制）の存続を最大の重要事とするのは、恐らくこれが原因となっていると考えられます。つまり右翼は、天皇という理不尽極まりない合理もへったくれもあったもんじゃない制度を受け入れることによって、我々人間は運命（という理不尽きわまりない合理もへったくれもあったもんじゃないもの）を認め、受け入れるぞ、という意思を表明すべきだ、と主張しているわけです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、長くなりましたが私の結論はこうなります。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;・保守（＝リベラル）が守ろうとしているものは、国益（国民の生命と財産）である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;・一方、右翼が守ろうとしているものは天皇である。天皇とは、神や人知を超えたものや、人間の動かしがたい運命を象徴している。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で、ここから先は私見になりますが、「あらゆるものを信じるな」と言ったポストモダンは、果たして人間を幸福にする思想だったのでしょうか。「あらゆる物語を信じるな」「自分以外誰も信じるな」という思想は、安易に「自分すら信じるな」という思想に結びつきます。自分を好きじゃない、そう言う風に思う人が、増えてきたように思います。誰も信じられない、人のことが怖い、みんな嫌い、でも自分が一番きらい。たとえ科学が全てを証明しても、人は神なしには生きられないのではないか。何かひとつでも信じるものなしには、生きられないのではないだろうか。全てを信じないのではなく、全てを信じることから始めることが我々には必要なのではないでしょうか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;----以上コピペ---- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;昔、とある左翼運動家と一緒に酒を飲んでいたときに、「君みたいによく物を考える人間がどうして右翼なんぞやっておるのだ、時代錯誤も甚だしいじゃないか、どうだ、左翼に転向しないか、君ならすぐ幹部になれる」とよくわからん勧誘を受けたことがある。時代錯誤も甚だしいのは絶対に幹部とか細胞とか言ってる君の方だとは思ったのだけど、「ぼくにとって右翼は信仰の問題だ、放って置いてもらいたいね」と不機嫌に答えた。右翼というのは要は神を信じるか信じないかという類の問題で、右翼に左翼転向を薦めるのは、キリスト教徒に棄教して社会改革者になることを薦めているのと同じで、極めてチンプンカンプンな議論である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;社会改革は大事である。福祉の問題や、権力の監視、誰かがやらねばならぬ。左翼のやっていることはそういうことだから、ぼくは左翼は社会に必要だと思っている。ただし、社会改革では人間は救えない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜなら、社会改革は社会を救うだけで、人間を救うものではないからだ。社会がよくなれば、やがて人間はみな幸せになれるという考えは間違いである。なぜなら人間は、どんなところにも不幸せの理由をみつけてしまうものだからである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;左翼思想は、行き過ぎると「全て社会が悪い」思想へと傾いていく。「全て資本家が悪い」だったり、「全て国家が悪い」だったり、「全て＜帝国＞が悪い」だったり、とにかく全ては他人のせいとなる。そこには自分を省みる余地がない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;運命を引き受け、自我を超越していくためには、神と宗教が必要になる。なぜなら、神こそは際限のない他者だからだ。他者が「資本家」だったり「国家」や「＜帝国＞」であったりすれば、自分のことは棚にあげて、これらに悪を一方的になすりつけることができる。本当は自分のことである悪も、全部これらのせいにしてしまうことができるのだ。しかし神は違う。神は他者は他者でも無限の他者であるがゆえに、自己と分裂させることができない。神は全知全能で全てであるがゆえに、神が悪い、としてしまうことはできないのだ。よって全ての善も、全ての悪も、この世界の全ての出来事は、全部自分のもの（或いは全部神のもの）として受け入れざるを得なくなる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;無神論と、キリスト者は全く同じ思想である。ニーチェが神を否定しとか、ドストエフスキーが信仰に目覚めたとか、そんなことは表面上の話だ。全てを自分に還元することと、全てを神に還元することは、物事を善いものと悪いもの分類しないという点で、全く同じことである。問題は、物事を善いものと悪いものに分類したときに生ずる。善いものと悪いものに分類されていれば、人間は必ず自分は善いものに属する、としたがるからだ。「資本家が悪い」とか、「国家が悪い」とか（そして自分は悪くない）はこの典型である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが神は全てだから、分類することが不可能なのである。後はそれを自分に還元しても、神に還元しても、原理的には同じことなのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;全ての責任を自分で背負いこむという考え方は、一方で極めて自分本位的な考え方でもある。だから、マゾヒズムは常にナルシズムと手を結んでいる。自分だけが生贄になって怪物の餌食にされるというヒロイックな願望は、「自分だけが」という条件抜きには語りえない。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-420552067224852478?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/420552067224852478'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/420552067224852478'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/10/blog-post_21.html' title='右翼思想について　コメント'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-7979838520996175589</id><published>2008-10-14T06:28:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:29:14.361+09:00</updated><title type='text'>悲鳴のドラム脱退について</title><content type='html'>こんばんわ。ガンディです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;悲鳴のドラム脱退に関しまして、御心配おかけいたしましたことを、この場で深くお詫びいたしたく存じます。吉田の脱退について、非公式ではありますが、この場をお借りしてもう少し詳しくお知らせさせていただきたく思います。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;我々悲鳴は2004年より４年間、一度もメンバー交代を経ることなく、山田龍郎、吉田規朗、林恒平、粟生こずえの四人で活動を行ってきましたが、この度活動の方向性の違いにより、ドラムの吉田が脱退することになりました。ファンの皆様、関係者の皆様には甚大なご迷惑とご心配をおかけしましたことをここにお詫びいたします。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;吉田は間違いなく最高のドラマーでしたが、遺憾ながら本人の今後の希望や活動方針の違い、一身上の都合など複合的な要因により、どうしても脱退せざるを得なくなりました。残った我々三人としても非常に残念に思いますが、今後の吉田と悲鳴の活動を生暖かい目で見守ってやってくださるよう、宜しくお願い申し上げます。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;新ドラマーに関しましてですが、かなり絞り込む形でただいま話が進んでおります。早ければ来週中には、みなさんの前に公式にご紹介できるのではないかと期待しております。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;現在既に決定しております11月23日の「東京外国語大学映画研究会主催10＄＠外語祭」に関しましては、吉田で出演するのか、新ドラマーで出演するのか、ただいま協議中の状況です。ご迷惑をおかけいたしますが、どういう形であれ、悲鳴はそのとき出来うる限りの最高の演奏をしますので、なにとぞご理解いただけますよう、よろしくお願いいたします。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう逃げ道が完全にゼロになったので、今後は絶対にオリコン一位とりにいきます。十年後の自分に言っておく。ダメだったら今すぐ死ね。おまえは結局最後まで便器をなめてる蛆虫だったということさ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人は神か奴隷かだ。ゼロか全部かだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;吉田、本当にありがとう。そうして、今まで悲鳴を楽しんでくださったすべての皆様にこの場を借りて、心の底からお礼を言いたく存じます。本当にどうもありがとうございます。今後も悲鳴をどうぞごひいきに。最低限、みんなが金払えるくらいのデタラメはやらかしていこうと思います。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;悲鳴からの公式な声明は、新ドラムが入り次第、きちんとホームページの方へアップさせていただく予定です。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もうこれっぽっちも時間はないんだ &lt;br /&gt;今すぐ全部うち捨てて、楽園に行こう、神の国に行こう &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;約束の時は今そこ &lt;br /&gt;今すぐ全部を手に入れろ &lt;br /&gt;不可能ならば血を汚す前に死ね &lt;br /&gt;高貴なままで貴族のうちに死ね&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-7979838520996175589?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/7979838520996175589'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/7979838520996175589'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/10/blog-post_14.html' title='悲鳴のドラム脱退について'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-6144431984571031421</id><published>2008-10-08T06:26:00.001+09:00</published><updated>2010-08-22T01:10:58.242+09:00</updated><title type='text'>気が狂ってるか？狂ってるってどういうことか知ってるか？</title><content type='html'>なあおまえ、おまえはおれのことをキチガイだっていう。すぐに変態だとか頭がおかしいといっておれのやってることを賞賛する。そんなに変態がすきか。そんなにキチガイが嬉しいか。おまえには本当に、変態とか、頭がおかしいといわれる人種が、どういう人たちだかわかっているのか。変態が、格好いいとか、ロックスターだとかいう脳みそがタリン野郎はどこのどいつだ。おまえは、変態の何も見ていない。本当の変態がどんなものか何もわかっちゃいない。あたかも気が狂ったかのようにみせたり、変態のようにふるまった普通の人間を、なんだか流行かなにかのようにただ漫然と受け入れているだけだ。なあ、おまえ、そんなに変態だとか、キチガイが好きだって言うのなら、おまえに本物の変態がどういうものか教えてやるよ。おれの言うことは全部嘘さ。なぜかって？本当のことはゴミクズ同然で、これっぽっちも価値のないからだ。おれの本当なんて、本当にゴミクズほどの価値もないからだ。今、一度だけ本当のことを見せてやるよ。おまえは見なけりゃよかったと思うだろう。そうして作り物のキチガイで、興奮するままでよかったと思うだろう。しかしこれはおまえが望んだことじゃないか。どうだ、これがぼくの真実さ。勇気のあるやつだけが目をそむけるな。本当のことなんてこれっぽっちも価値がない。何もないのさ。何もない。本当のおまえなんてなにもない。本当のおれもなにもない。文学にもロックンロールにも何もない。おれが、今、一度だけ、本当のことを話してやる。おれという中心がこんなにくだらないものだったのかと、おまえは呆然とするだろう。変態とか、キチガイとか、頭がおかしいとか、そんなものおまえはわかったふりをしてるだけで &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おめえには一生わかんねえよタコ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは小学校のころ、いじめられっこでした。 &lt;br /&gt;幼稚園のころ、東京から静岡に引っ越してきて、いじめがはじまりました。一年生のころから、高学年になるまで、いじめはどんどんエスカレートし、教科書が捨てられたり、上履きはしょっちゅうなくなったし、机や持ち物は『バカ』や『くさい』、『（ぼくの名前）菌』など、ひどい落書きだらけでした。ぼくは最初、本当に悲しくていつも音楽室の前にある階段の下で隠れて泣いていました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのうち、ぼくはぼくをいじめる人たちを、なぜかだんだん崇拝するようになりました。多分そう思い込むしかなかったからなのだと思います。きっとあの人たちがぼくをいじめるのは、ぼくよりずっとえらいからなんだ、クラスメート全員、いや、みんなぼくよりずっと高貴で素晴らしい人に違いないんだと思うようになりました。そしてぼくは最低の蛆虫に違いないんだ、だからいじめられても仕方が無いんだと自分を納得させるようになりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;高学年になるとぼくは、水泳の授業を仮病でよく休んで、女子更衣室に忍び込み、クラスの友達のパンツの匂いをかくようになりました。ぼくをいじめていた中心グループの子のパンツの匂いを初めてかいだときは本当に心臓が壊れるかとおもいました。あの、とても高貴な方のアソコの匂いを、蛆虫にも等しいぼくがかがせていただくだなんて、本当に恐れ多いことだと思いました。笑っちゃうような話ですが、そのときぼくはその子のパンツの匂いをかいで、ありがたさのあまりひとりで泣いてしまっていました。そして、排泄器官としてとらえるならばある意味人間の最も穢れた器官「性器」の汚れを、人間の最も清い飲食の器官、「くち」で嬉々として掃除している自分に、ものすごく興奮を覚えたんです。ぼくはクラスメートのパンツを舌で掃除しながら、漠然とクラスの女子全員の排泄器官としての性器を、くちで掃除したいなぁと思うようになりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういう風に思うようになってから、ぼくが学校の女子トイレに侵入するようになるまで、大して時間はかかりませんでした。女子トイレに侵入すれば、思う存分にクラスメートたちが使った便器をなめて、女子の排泄物を口で掃除できるのです。運がいい日は、排泄物が流されてないまま放置されているのを発見することができました。そんなときは、こころから神様に感謝をして、全てを口ですすりとりました。大が放置されていることも似三度ありましたが、さすがにこれは一口しか食べれませんでした。せっかく女子の排泄物を食べることができるという大変ありがたいチャンスにもかかわらず、食べれなかったということが残してくれた女子に大変申し訳なかったと、ものすごく申し訳ない思いをしたのを覚えています。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この当時、ぼくには、朝はやく小学校にきて、女子トイレに侵入し、まずピンク色の便所サンダルの足があたる部分を綺麗になめ、つぎにサンダルの足の裏を綺麗に舌掃除し、次に洋式便器の便座の裏にこびりついた女子の尿をなめとり、便器の陶器のふちをなめ、次に和式便器のふちをなめとり、ゆかをなめ、おちてた陰毛を持ち主に感謝しながら食べ、最後に最も汚れている金隠しの裏の部分にこびりついた便器の黄ばみ、尿石を歯でこそげとって食べてから授業にでるのが日課になっていました。放課後には必ず下駄箱に行き、今日一日女子が履いた上履きの香りをできるかぎり全員分かぐようにしていました。（それは自分に課したノルマでした。） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このころになると、女子に対してはいじめられることがむしろ快感に感じられるようになり、学校に行くのも楽しくなってきていました。また、更衣室侵入も頻繁化し、（なぜバレなかったのか未だに不思議です、あるいはやはりばれていたのでしょうか）クラスの女子全員のパンツの匂いを一度はかいでおり、一部の女子のものは匂いと味だけで誰のパンツかを区別できるようにまでなっていました。（ちなみに、上履きはパンツよりはるかに誰のものかを判別するのは困難でした。） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それでも、やはりいじめはとてもつらいものだったので、ぼくは受験をして、東京の中学校に逃げることにしました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;東京の中学に入って、前ほどいじめられなくはなりましたが、ぼくの性癖は弱くなるどころかむしろ更に強くなりました。ただし、ぼくの入った東京の学校は男子校でした。そこで、ぼくは公衆トイレの女子便に侵入するようになりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とくにぼくのお気に入りの公衆トイレの女子便は、駅の女子便と駅ビルの、若者向け婦人服売り場の女子トイレでした。駅の女子便は、地元の駅の利用者はそんなに多くなくて侵入しやすく、本当に汚くて、とくに夏はものすごい悪臭を放っていたためお気に入りでした。また、駅ビルの女子便は、これもまた本館から少しはなれた場所にあって男子トイレの入口の真横が女子トイレの入口で、しかも入口が少し離れただけですぐに死角になるので大変侵入しやすく、しかもなぜかかなり利用のされ方も汚く、また、若い女性向けのフロアなので、若い女性ばかりが使用した便器をなめることができるという点でお気に入りでした。中学二年ごろまでぼくは女子トイレに何度も侵入しては便器をの汚れをなめとり、すぐドアの向こうで女子高生らしき声が談笑するのを聴きながらオナニーをして射精していました。なぜか見つかったことは一度もありませんでした。本当に不思議なことですが。。。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら、中三の最後あたりのころ、となりの個室のひとに怪しまれドアをどんどん叩かれるという大変やばい事件があり、それ以来急激に怖くなり女子トイレに侵入できなくなりました。しかしぼくにとって女子トイレで便器をなめるというのは、小学校からの日課ですから、本当に生活の一部になってしまっているし、簡単にやめられませんでした。それに、侵入しなくなって本当にびっくりしたことなのですが、１週間もすると、禁断症状のようなものがでてくるのです。本当に女子トイレのことしか考えることができなくなり、頭がくらくらする。小学校から日課のようにやってきたことですから、確かにそれもそうなのかもしれないのですが、どうやらぼくの身体がまるで排泄物を栄養素としてもとめているみたいなのです。ぼくの身体は、もうすでに女性の排泄物を最低１週間に一回は摂取しないと、体調がわるくなるほどになっていたのです。これはものすごくショックでしたが、同時に自分自身で、ものすごく興奮しました。もうぼくは一生女性の排泄物がないと生きていけない便所虫としていきていかなければならないんだと、ショックのあまり寝込みながら、狂ったようにオナニーをしていました。 &lt;br /&gt;そういえば、ぼくは普通の性欲の方も相当強いらしく、今でも休日は一日１０回くらいはオナニーをしたりします。平日は３～４回で、よっぽどのことがない限り必ず &lt;br /&gt;毎日しています。その点もぼくの異常さに拍車をかけていたのかもしれません。単にいじめられてマゾになったぐらいでは普通、ここまではならないように思います。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とにかく、簡単に女子トイレには侵入できなくなったので、そこでぼくは妥協案として男女共用便所をなめるようになりました。男性の排泄物をなめるのは本当にいやでしたが、禁断症状まで出ているのですから、本当に瀬に腹はかえられないという感じでした。できるだけ女性の尿があたる、洋式の手前のふちの部分のみをなめるようにしました。しかしそれは本当に嫌な気分のするものでした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこでぼくが発見したのが、女子トイレでよく見かけた汚物入れでした。汚物入れは、何が入っているのかは、なんとなく前々から察していましたが、ぼくの目当ては便器のよごれの方だし、とくにそこまで興味をもってはいませんでした。しかし今、女子トイレに入ることが出来ず純粋な女性の排泄物を楽しめなくなったぼくに、唯一手に入れることができる純粋な女性の塊は、使用済みの生理用品なのでした。そのことにきづいたぼくはすぐに汚物入れをあさり、使用済みのナプキンを開きました。中にはレバーのようになっただれのものかわからない女性の経血がどさっとついていて、ものすごい生臭さと、ずっしり重かったのをおぼえています。ぼくは興奮のあまり右手でオナニーをしつつ、必死で経血にむしゃぶりつきました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それからというもの、ぼくは大喜びでコンビニやファーストフードの汚物入れをあさりまくりました。とくにファーストフードは、若い客が多いので、手に入れられる使用済み生理用品はぼくにとって大変上質なものでした。どこのどんな女性がつけていたのかわからない使用済みの生理用品をしゃぶり、匂うという最低の行為をしているという自覚に、ものすごく興奮させられました。ぼくはしばらくは使用済み生理用品に夢中になりました。色々な楽しみ方をしました、、お湯に２、３本タンポンを入れて真っ赤な経血ティーをつくって飲んだりもしました。（知らない女性三人の性器からでたカスを同時にミックスして飲んでいるのだから、ぼくにはものすごい贅沢です。）しかしやはりそのうち怖くなりました。世の中にはエイズや性病というものがあるのですから。便器をなめている分には腹を壊すだけですが、使用済み生理用品を舐めるのは命にかかわります。一時期の熱気がさめると、ぼくはすぐに誰のものかわからない場合は匂いをかぐだけにとどめるようになりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくはまた、女性の排泄物を摂取することができなくなり、禁断症状がおそうようになりました。高校のころは、まるで禁煙でもするかのように、できるだけ回数を減らして女子トイレに忍び込む、共用便所をなめるようにする、使用済み生理用品のにおいだけにとどめておく、ということの繰り返しでした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分の性癖をかえるということも色々試みました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば、身体中に卑猥な落書きをしてコートだけはおって綺麗な店員さんの本屋にいってみる、エロ本屋で700円で買ったローターを性器にガムテープで貼り付けて駅ビルの婦人服売り場をうろついてみる、綺麗な店員さんのいるコンビニでエロ本、こんにゃく、生理用品、コンドームをいっしょに買ってみる（そしてそのあとトイレをお借りしてオナニーをする）、アナルに色々つっこんでみる、知らない番号に電話をかけて女性がでたら自分の性癖を告白する（当時、ＰＨＳにかけると６割くらいの確立で女子高生らしき相手が電話をとった）など、、、 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしやはり女子トイレの便器を超える興奮をえられるものは存在しなかったのでした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実際この当時のぼくは女性の排泄物に相当飢えていました。友達と女子高の学園祭にいったときはふと友達とはぐれたタイミングで教室に入り、そこにあった黒ずんで汚れたゴミ箱（単なるゴミ箱です！汚物入れとかではありません！）をべろべろなめたりしていました。普段女子高生だけが使っているゴミ箱なら、ぜひともなめたいと思ったのです。そのときはゴミ箱の下にたまっていた、飲料や食べ物などがこぼれた生ゴミの汁も飲みほしました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;フラストレーションは溜まる一方でした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに、ぼくは中高と男子校でしたが、おかげでめったに女性と話す機会がありませんでした。そのことが、ぼくの中で女性に対する神聖視をいっそう強めたのだと思います。もはやぼくにとって女性は神様と同等でした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、高校のころにはぼくはいじめられなくなっていました。身長も１７５センチ近くまで伸び、体格はスリムな方で、わりとおしゃれに気を使ったりして、また、音楽もギターをひいたりするようになっていたので、クラスではわりとそれなりの立場になっていました。 &lt;br /&gt;いじめで受けた心の傷は未だに消えませんし、未だにやつらを見返したい一心で毎日をがんばってるという側面はありますが、それにしても高校のころには、いじめのことはぼくのなかでは一応整理がついた問題でした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな中で、ぼくは本当に半年に一回話すか話さないかの女性の相手の前ではちょっとクールなやつ、のような顔をしてものすごく格好をつけながら、一方ではこの女性にひれふして今すぐ顔を踏んでいただきたい、そして今までの日々の全てを告白してしまいたいと思うという日々を続けていました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうしても女性と話したかったぼくは、友達の合コンにつれていってもらったりしては、（と、いっても高校生同士の合コンですから、いっしょにカラオケいったりする程度なのですが、）かっこをつけていました。カラオケでは出来るだけクールそうに椅子にすわって足を組み、クールに吸えないタバコをふかす（今でも全然すえません。）、それで『あ、おれＪ－ＰＯＰとか全然わかんねぇから。』、というかんじです。そんなかんじですから、女の子のほうも声をかけづらいし、それにぼくは家の門限が早く、７時あたりには帰らなければならなくなり、結局合コンいつも、なんの進展もなくおわっていました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのうち合コンを主催していた友人達は、彼女をつくりはじめ、童貞をすてたものもちらほら出てくるようになり、ぼくはあせるようになりました。なんで彼らと同じようにしてるのに、おれだけ童貞なんだ？今から考えれば、セックスというのは、自分が一人の女性を愛した、ただの結果にしか過ぎないなんてことは完全にわかりきっていることなのですが、当時のぼくはまだ愛するということをまるで分かっておらず、単に童貞を捨てたやつはえらい、それだけしか思っていませんでした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;女子トイレのことも含め、ぼくはきっと女性のことを人間と思っていなかったのだと思います。神か何かだと、思っていたんだと思います。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本当は女性だって、人間なのに。。 &lt;br /&gt;人間だから、愛せるのに。。 &lt;br /&gt;そのことがわかるまで、ぼくにはまだしばらく時間がかかりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ともあれ、童貞をなかなか捨てられなかったぼくは、だんだんと童貞であることにコンプレックスを感じるようになっていきました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大学に入ると、門限はなくなり、また、うちの大学は女子の比率が非常に高く、すぐに女友達がたくさん出来ました。最初は話すのすらかなり緊張しましたが、すぐになれるようになりました。また、大学のトイレは警備が非常にゆるく、また日常的に女子トイレに侵入し、（それも自分の友達をふくむ女子大生だけが使用するという、ぼくにとっては大変好条件のトイレです）便器をなめることができるようになりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ、童貞だけはまだ捨てることは出来ずいました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;インターネットのエロサイトやＡＶには、毎日のように違う女性とセックスをしまくる男性が出てきます。それを毎日のように見ていると、だんだん感覚が麻痺してきて、未だに童貞でいる自分が劣った人間であるかのように思えてきます。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくはそのうち、羨ましいという思いを超えて、色んな女性とセックスをしまくる男性のペニスを崇拝するようになりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、たくましい、何十人、百人もの女性を快楽に導いた男性のペニスをしゃぶらせていただきたい、と思うようになりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのうちぼくはインターネットのゲイサイトで男性のペニスをしゃぶり、少しのお小遣いをもらうようになりました。募集を掲示板にのせると、すぐにお客さんがついて、週２くらいで色々な男性のペニスをしゃぶることができるようになりました。ぼくは固定客ではなく、できるだけいろいろな男性のペニスをしゃぶらせてもらおうと思いました。現在までで、５０人くらいのペニスをしゃぶったと思います。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;お金を払っているという気持ちがそうさせるのか、ぼくのことをまるでトイレのように使う男性は少なくありませんでした。ゲイの男性はそういう人が多いのかわかりませんが、ほとんどの方がペニスを洗わずに臭いのするペニスをぼくにしゃぶらせました。一目見て分かるほどのカスがついているひともいました。いつも口の中にはすっぱい味と香りが広がりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのうち、ぼくもそれが好きになり、今ではぼくにとって男性のペニスの恥垢や精液も、女性の排泄物と同様、しばらく摂取しないと禁断症状がでるほどのものになりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくが男性のペニスをしゃぶってもらったお金で、インターネットのサイトで女性を募集し、尿やツバを飲ませてもらうようになるのには、そんなに時間はかかりませんでした。これは画期的なアイディアでした。男性のペニスをしゃぶってもらったお金で女性の尿を飲ませてもらえるのです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;-------------------------------- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大学四年のころね、ぼくを飼っていた女王様が、ぼくにいったんだ。 &lt;br /&gt;「キミはマイケルジャクソンみたいになるしかないじゃない。キミはねえ、ロックスターにならなかったら、誰も認めてくれないわよ。誰もこんな気持ち悪い人間、相手にするわけないでしょう。あなたは一人ぼっちよ。あなたは孤独の中で死んでいくの。だからキミはどんな思いをしたって、絶対にロックスターになりなさい。生きなさい。そうして、生きられなかった人を救いなさい。さあ、私のもとから飛び去って、思う存分に飛びなさい。」そういって彼女は悲しそうに笑った。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうしてぼくは彼女はいなくなった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくはマイケルジャクソンになりたい。なにがなんでもマイケルジャクソンになりたい。どうしてもロックスターになりたい。変態なんかになりたくない。ぼくは変態じゃない。キチガイじゃない。ぼくは普通の人間だ。ぼくはここに生きているんだ。彼女も普通の人間だ。彼女はあそこに生きているんだ。頭がおかしいんじゃない。なんで腕をきらなきゃいけないんだ。なんで睡眠薬をのまなくちゃならかなかったんだ。なんであんなにつらい思いをしなければならないんだ。ぼくは彼女を救うんだ。ぼくは世界を救うんだ。みんなぼくを馬鹿にするだろう。それでもぼくは世界を救うんだ。この世界は、天国にならなくちゃならないんだ。悲しいことも苦しいことも、貴族も乞食も労働者も資本家も、キリスト教徒もイスラム教徒もテロリストもこの世界の支配者も、みんな手をつないでハッピーエンドをむかえなくちゃならないんだ。だれがおかしいなんてことはない。彼女は頭がおかしいんじゃない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おい町田おまえ、言ってみろ、おれはカルトスターかそれともロックスターか？おれはカルトスターかロックスターなのか？おれはキチガイか？変態か？おれは人間じゃないのか？おまえは永遠に過去に負けつづけるのか？おれはマイケルジャクソンになりたい。マイケルジャクソンになれば、顔を上げて道を歩くことができる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おい松本、言ってみろおまえ、キリストはおれたちを笑ってんのか？それとも本当に世界を救うつもりなのか？あいつらは馬鹿なのか？それともおれたちよりずっと大人な連中なのか？？おい、おまえはアイドルか？アイドルになって百人を殺すのか？百人を愛するのか？そうしておまえは最期に笑うのか？やっぱり愛だったって言って笑うのか？？？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おい関崎、おまえは死神か？おれがひとりで殺しあってるのをみて感じてるのか？いつかおれがぼろぼろになって倒れたとき、最期に首をしめて息の根をとめるのは笑い顔のおまえか？そうしておれの死体とセックスして、完全になろうって言うのか？おれはピエロか。おまえは死神か。世界は天国か。それとも人の国か。どうしておれはあいつとわかれなければならなかった？どうしておまえはあいつと別れなければならなかった？どうして人は別れ続けなければならないんだ？どうしてみんな仲良く手をつなぐことができないんだ？どうしてみんなみんな幸せに、ハッピーエンドを迎えることができないんだ？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは弱くない。ぼくは強い。ぼくはだれよりも強い。ぼくは弱さがきらいだ。何よりもきらいだ。ぼくは強かったら彼女とも彼とも別れないですんだ。もし彼が強かったら？神さまより強かったら？おい町田、誰より愛すべき友達よ。おまえが神さまよりも強かったら？おまえに力がありさえすれば？天国もこの世界も未来も塗り替える力があったとしたら？おい江戸原、おまえは苦悩だけが人生を燃やすガソリンだといったな？おまえのガソリンはそれっぽっちなのか？おまえのカルマはそれでおしまいか？おれはいつまでたっても燃え尽きないぞ。おれは絶対に燃え尽きない。おれは死んでも燃え尽きないぞ。百年後も二百年後も、消し忘れた仏壇の蝋燭みたいに燃え続けてやる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;林、おまえの血は自分の悲鳴を殺すのか？おれがおれのおれにおまえのおまえをおまえだらけにして血まみれじゃないかいつだって。誰かおれを止めろ誰かおれを殺せ誰か世界が終わりに近づいてるぞおまえの世界がおわりになるぞ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おい誰でもいいから答えろ、おれはロックスターか？それともカルトスターか？それともただの変態か？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;高校のころ、ぼくはギターもひけないし歌もへたくそで、誰もバンドを組んでくれなかった。ぼくは一度だって自分のストーリーの主人公になったことはなかった。ぼくのお話にはいつだって父さんが大きな影をひそめていて、、、、父さんは怖かった。ぼくは父さんに一度でも認めてもらえたら、すぐにだって悲鳴をやめたっていいと思ってる。ぼくは過去を殺したくて殺したくてギターを叩きつけるのだけれど、過去はぼくを縛り付けるばかりで一度だってぼくを自由にしない。自由は一番ほしいものだけど、それを手にするには力が要る。力は求めたものだけに与えられる。真実なんてどうでもいい。ぼくは力がほしい。ぼくは誰よりも強くなりたい。神さまよりも強くなりたい。そうして、今日からはみな自由だと叫ぶのだ！ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何もない何もない何もないぼくには何もない力も時間も勇気も愛も。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だからぼくは作ろう。自分を、何もない世界に。ひとりで作ろう。貴方を作ろう。神さまをつくろう。つくられた神はぼくを許すだろう。つくられた天国はぼくを救うだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おい中尾、たった一度でいいから答えろ。革命は世界を救うのか。それともおまえを救うのか？答えろ。人の力は世界を変えるのか？おれは太陽に飲み込まれた人間の、何もない何もない何もないこの世界に、神さまと自分がたったふたりの、愛も悲しみもないこの世界に、なんのために生まれてきた？おまえはなんのために生まれてきた？世界がかわったら、人間は救われるのか？答えろ中尾、おまえは一番頭のいい人間だろう、なあ頼むから答えてくれ、答えろよ、人は人を変えることができるのか？答えろったら。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;おい神さま、答えろ、たった一度でいいから。貴方はぼくを許しますか。許しますかってきいてるんだよ。何百人もの人を痛み、傷つけ、殺して生きているぼくに、生きる資格はあるのか。あるのかよ。ぼくは傷つけ、殺したものと共に滅び行くことが正しいのか。これはぼくの罪に貴方が与えた罰だろうか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;真っ赤な薔薇を関崎にあげた。花はなぐさめだろうか。気休めみたいなものだろうか。ぼくの血はこのくらいに赤いだろうか。ぼくの血は、あなたの中をかけめぐるのか。貴方はぼくが生きてると認めてくれるだろうか。ぼくの血は、永遠に生き続けることができるのだろうか。なあおまえ、ぼくは冗談で書いてるんじゃないんだ。書かなきゃマジで死んじまうから書いてるんだよ。ぼくは愛してるよ君の事を。数百人がみてるけどぼくは全然恥ずかしくない。初めてあったとき、君はぼくに鎮魂歌をきかせた。やっぱり君は死神か。ぼくはやがていずれ誰かに殺されるだろうか。それでもぼくの歌は、せめて歌だけは、誰かの慰めになるのだろうか。それならぼくは本望だ。花は慰め？それでも嘘じゃない。絶対に嘘じゃない。あの美しさだけは嘘じゃない。この愛が嘘だとしてもそれだけは絶対に嘘じゃない。おい町田、羽根なんてなくていいじゃないか。負けと決まった人生だ。サヨナラなんて覚悟の上さ。愛か？おまえの色でこの世界をバラ色に染めろよ。おい松本、おまえは本当に、知らないといわれても、誰も恨まないのか。おい、悪いけどおまえ絶対に神に許されねえぞ。キリストはおまえのことを許さないぞ。おまえがどれだけ世界を愛すといったって、世界は絶対におまえのことを、やがて殺すのさ。でも、そこまでしても、ぼくはこの世界に残りたかった。おまえは生きていくのか。この、神のものでもなく人のものでもない世界に。あああ、あああ、あああ、ああああああああああああああああああああああああああ、、、、、 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんなにも強く、弱いものを許さないぼくが、はじめて君の胸にふれたとき、はじめて世界は展開して美しい星を見せた。太陽の下で眠れ、神の元で眠れ、正義の元で眠れ、罪と憎悪と絶望のもとで眠れ、それでもぼくは手を握る、足を曲げる、目を動かす、希望の歌を歌う、ロックスター、ロックスター、ロックスター、ぼくはロックスター、やがてロックスター、死ぬまでロックスター、死んでもロックスター、ぼくはヒーロー、世界を救うヒーロー、神さまを倒してみんなを救うヒーロー、答えろヒーロー、答えろロックスター、おれはロックスター、王国をつくるロックスター、天国はロックスター、ぼくはロックスター、君もロックスター、ロックスター、ロックスター、ロックスター、ロックスター、ロックスター、ロックスター、 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生きろこの世界 &lt;br /&gt;夢はこの世界 &lt;br /&gt;絶望もこの世界 &lt;br /&gt;愛もこの世界 &lt;br /&gt;おれは正気じゃないのというのか &lt;br /&gt;いいやおまえが笑いかけたからだ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なああんた、あんたに聞いている。名指しじゃなくて今この日記を読んでいるあなただよ。貴方が一瞬でも信じるなら、ぼくは貴方のために死ぬまで歌い続けよう。愛となり損ねたロックスターからの冗談でした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これが何もない世界 &lt;br /&gt;愛のない世界 &lt;br /&gt;ロックスターのいない世界 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも、なぜだか絶望だけじゃない世界 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;????????&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-6144431984571031421?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6144431984571031421'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6144431984571031421'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2009/10/blog-post.html' title='気が狂ってるか？狂ってるってどういうことか知ってるか？'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-866486917293162444</id><published>2008-10-02T06:25:00.001+09:00</published><updated>2009-10-31T06:26:15.071+09:00</updated><title type='text'>後始末</title><content type='html'>勘違いされた方がいらしたようで……&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いえいえ、すみません、自殺なんて本当にこれっぽっちも考えてません、いきなりそんな風にとられてたからむちゃくちゃびっくりした…なんとなく悲鳴の歌詞を作りたくなっただけですよ。ただ、ぼくは人の目がないとガチでただのヘタレなので日記を使って作ってたんです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;てか、そこは、なんつーか、わかってよ(笑)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;せっかくだからついでにぼくの自殺観について書きましょう。自殺したいと思ったことはあんまりないのですが、どうなってもいいと思うことなら正直結構あります。そういう時は大体、ここで死んだら伝説になるかな、と緻密な計算をしておるのです。まあいつも計算の結果、今はまだ早いという結論がでるからぼくはまだこうして生きておるのですが。自殺よりぼくは有名になりたい。自殺すれば有名になれるのなら躊躇なしにやるかもしれない。死ぬことは手段なんです、ぼくには。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;やっぱりそういうことにかけてダントツに上手かったのは大宰だったと思う。心中する時も、きちんと致死量を調べて、ギリギリ死なない量をのんでいる。彼にとっては、人生は全てショーなのであり、周りの人の気を引くためなら場合によっちゃ自殺もいとわないという筋金入りの道化である。ぼくも完全にそのタイプですね。プライベートな時間やプライベートな日記も含めて全部ショーだから、それも悲鳴の一部と思って楽しんでほしいと思ってる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;じゃああなた、あなたはずっと演技をしていて、本当にプライベートな時間なんて一瞬もないじゃないですかというのならば、実のところ本当にその通りなのです。ぼくなんかひとりきりでトイレにいるときすらかっこつけてみせている。神様がみてる気がするからね。神様にショーをやってるわけ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、プライベートな時間は一瞬もなく、全部ショーだというのなら、演技が演技にすらならないじゃないかと言われれば確かにそれもまたそうなわけ。もしかしてそこまでするならそれはもう演技じゃなくて本当のことかもしれない。だからぼくが言うことは確かに嘘で演技なのだが本当のことでもある。そこにはもう、嘘も本当も、ない。だからぼくが泣いてたら、それは悲しいし、全然悲しくないことなんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくには自分のやりたい音楽とか、文章とか、どうでもいいことなのだ。そんなことより有名になることだ。有名になって一瞬でも長く、この世界に名前だけでも残り続けることだ。ぼくは永遠にみんなの記憶に残りたい。そうして不死になりたい。要はぼくは、生きて生きて永遠に生き続けたい、生きるためなら自殺することもいとわない、ってくらい生きることに執着しまくっているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で、こんなやつが自殺について語ること自体が、本当に自殺したい人には「なぬんな！」って話だろうし、なんだか申し訳なくもなってくるんだが、でも多分おれ、本気で自殺するつもりになったら、人に何をどうこう言われたって絶対に自殺しちゃう、ただそれだけはわかってるんですよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくっていう人間はもう自分でも嫌になるくらいむちゃくちゃ自我が強いので、自分でやると決めたことは絶対にやらないと気がすまないのですね。だからぼくには「自殺するかどうしようか今悩んでるんだけど誰かご意見ください」みたいなことってまずないと思う。「やあみんな、ガンディは今日で自殺することにしました！また別の世界で会いましょう！チャオ！」とかならありうるが。本当、我ながら我が強すぎてときどき自分が嫌になる。おれ人の意見に絶対耳を貸さないもんな。自分の決めたことは絶対やっちゃうもんね。みんなおれを見ろ～～～！！！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんなわけでもう完全にお約束かと思ってたんですが、ガンディの所業は自殺も含めて全部エンターテイメントとして受け取っていただきたい。楽しみましょうね。ショーですから。本当は内定取れなかったとか、全然ありうるから。いや、取れたけど。いや、本当はどうだか。本当は大学受かってなかったとか(みんな俺の学生証みたことないでしょ…？)。むしろ悲鳴なんてバンド初めからなかったとか。いやむしろガンディなんて初めからいなかったとか。いや、それよりあなたなんて初めからいなかったとか、むしろ初めからこの世界なんてなかったとか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろんエンターテイメントですから、みなさんに楽しんでいただける最低限のものはご用意させていただいているつもりです。最低限金払ってもいいと思えるライブ、最低限金払ってもいいと思える日記(まだ金もらってないけどゆくゆくは)、そして最低限いくらかは募金してやってもいいと思える無茶な人生をやっております。そこはプロですから。半端なことはしませんよ。はっきり言って死にたいとか死にたくないとか、正直ぼくにはどっちでもいいんですよ。大事なのは面白いか面白くないかだけ。それがショーってもんです。金払ってもいいレベルの死にたいなら書けばいいし、金払う価値のない死にたいなら、誰も読んでくれない。その点魔ゼルな規犬とかは、結局精神病院にぶちこまれたけど、最後までちゃんとエンターテイメントに徹したよな。命掛けのエンターテイメント。ぼくが魔ゼさんを高く評価してるのは、彼が全部わかって道化役を買ってでてるからです。あれをキチガイと言う人がいるが、あれは決してキチガイなんかじゃない。てかあれほど正常な人間も珍しい。生粋のエンターテイナーですよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「人生はショーだ。エンターテイメントだ。」ガンディ24歳のお言葉&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに物語の結末は、主人公の壮絶な戦死で初めから決まっている。なぜならそれが、最も聴衆を感動の渦に引き込むやり方からだ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-866486917293162444?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/866486917293162444'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/866486917293162444'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/10/blog-post_02.html' title='後始末'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-9005667593352269234</id><published>2008-10-01T06:23:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:24:19.514+09:00</updated><title type='text'>嘘つき</title><content type='html'>返信や日記のレスたまってるんだけれど許してくれ。 &lt;br /&gt;今は何かしゃべりたくて仕方ないんだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;------------ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;同世代でぼくよりたくさん本を読んでいる人なんて五万といるに違いないのだけれど、それでもぼくも、それなりに本を読んできた方だと思う。読み方は乱読ではなく、難しめの思想書、哲学書中心だ。どうして難解な本にこだわるかというと、どうにも「ぼくは難しいことはわからないけれど、、」というのが逃げのようで嫌だったからだ。そう言う人はよくいるけれども、ぼくにはそれは、努力が足りてないだけのように見えるのだ。それに、そもそもぼくは本とか音楽とかの面白みとかが、めっきりわからない人間なのだ。高校のころどこがいいのかさっぱりわからないながらみんながよいよいと言うので、話についていけるように一所懸命THE WHOとかニルバーナとか、ロックの名盤と呼ばれるものを次々と聴いた。それと同じノリでハイデガーやらキェルケゴールやら読み始めたのである。で、それを眠かったり、つまらなかったりしながらも、ずっと二、三年続けていると、少しずつ面白みがわかってくる。音楽も本も、わかるようになるためには訓練が必要なのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だけど、確かに面白み、、というか、伝えたいこと、それはわからなくもないのだけれど、何か重要なものが全くかけおちているのである。それを言葉にしたいのだけれど、それがものすごく難しい。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;難しいと呼ばれる本、即ち思想書の多くは、実は社会変革の書物である。マルクスは当然だが、ヤスパースもハイデガーもレヴィストロースもフーコーも、ネグリもデリダもつまるところ社会変革の本である。この世界をどう変えていくかというお話である。少なくとも上記の人たちはみなそうである。だから革命のための指南書と言ってもいいかもしれない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも、どの本も世の中を変える方法が書いてあるだけで、自分を変える方法については一行も触れられてないのだ。みんな社会が悪いというのだけれど、自分が悪いとは一言も言わないのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これはなぜかというと、多少難しい話になってしまうのだが、市民革命が起こって近代という時代に入ったときに、多くの人たちが、「我々は教会に『悪いのは社会じゃなくておまえ自身だ』と言われ続けてきたけれど、本当は悪いのは自分じゃなくて社会と教会の方だったんじゃないのか」という風に考えるようになったからである。そんなわけで、近代という時代に入ってからというもの、我々人間は、神さまに頼るのはやめて、自分たち人間の力で世の中を切り開いていくようにしようって、考えるようになったわけなんですね。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で、ぼくら人間は自分の力で自然を切り開き、科学文明を世界中に押し広げた。科学者らは言う、「悪いのは社会のほうだから、改革を繰り返していけば、きっと理想の世界がやってくる」、少なくとも多くの思想家たちがそう言った。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;でも、ときどきぼくらはふと思うのだ。もしかして悪いのはぼくら自身なんじゃないのか。例えば、いつかぼくら自身の力で世界中のみんなみんなが一人残らず全員幸せになって、みんながみんなが手をつなぐとても素敵なハッピーエンドがやってきたとしたって、本当にぼくはそこにとても幸せな顔をして参加できるのだろうか。ばんざい、ばんざーいって叫べるのだろうか。端的な話をすれば、ぼくは今まで何匹もの牛や鳥を食べてしまったのに、そのお母さん牛の子牛のは絶望にくれながら死んでいったかもしれないのに、ぼくはそこに本当に心からの笑顔で参加できるの？ぼくは、ぼくはその輪に参加するには、あまりに多くの人を傷つけすぎてしまったに違いない。ぼくは犯罪者なんじゃないのだろうか。だからぼくはその輪に参加する前に、なにがなんでもどうしたって、大地に額をこすりつけて、みんなに許しを請わなくてはいけないのだ。科学者たちは大笑いして相手にもしないだろう。でも、神様だけはきちんとみていると思うのだ。ぼくらが神さまのことを棄て、自分だけの力で試験管の中に天国を作ろうとしたって、神様はそれも全部だまってみていると思うのだ。そうじゃなかったらこんなに胸が痛むのはなぜだろう。ぼくの魂が血を流しているのはなぜだろう。君が手首を傷つけたのはなぜだろう。あの子が死んでしまったのはなぜだろう。彼がマンションの１４階から飛び降りたのはなぜだろう。人はなぜ戦争をおこすんだろう。殺したくもないのにナイフをつきさすんだろう。魂が血を流しているんだよ。ぼくがぼくのことを許せないんだよ。ぼくの過去がぼくの今をしばりつけるんだよ。たとえこの世界が救われたって、ぼくが救われなかったら、なにも意味がないんだよ！ああうごけうごけうごけ今、この身体がうごかなかったら、何にもならないんだよ。試験管の中の天国が、ぼくのことをあざけ笑っているんだよ。ぼくのことを笑っているんだよ。ぼくは世界を変えることはできないんだよ。ぼくはぼくすら変えることはできないんだよ。死神がぼくの右肩に手をかけているんだよ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;天国がぼくを待っているんだよ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-9005667593352269234?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/9005667593352269234'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/9005667593352269234'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/10/blog-post_01.html' title='嘘つき'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-6580516575176099135</id><published>2008-10-01T06:22:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:23:09.741+09:00</updated><title type='text'>後悔</title><content type='html'>ああどうしてぼくは嘘ばかり書いてしまうんだろう。ぼくは天才でも変態でもなんでもないし、ぼくは自分で言うほどダメな人間でもなんでもないのだ。ぼくは普通の人間だ。何のおもしろみもない、ごく普通の、平平凡凡な人間だ。それなのにぼくは、ロックスターやら大文豪やらにあこがれて、涙目になって彼らの真似をしてみせるのだ。ぼくはお酒なんて飲みたくない。ぼくはもっと平凡な人間だ。ぼくはきっとロックスターになんてなれっこないのだ。デビットボウイみたいな顔もしてなければ、太宰のような文才もない。それでもぼくは、滑稽な化粧をしてへたくそな小説を書き、必死に自分では稼ぐまいとし、必死に酒を飲んで、やりたくもない女たちとセックスをして、どうだぼくはロックスターだと、血を吐き涙を流して言ってみせるのだ。魂が泣いてるんだよ。全部嘘さ。全部本当だ。それでもぼくは、どれだけ惨めな思いをしても、どうしてもロックスターになりたかった。でも本当は、ぼくは天才でもロックスターでもなんでもなくて、ただの気が弱いいじめられっ子だ。寂しがりやのいじめられっ子は、みんなの気が引きたくて、でも引きかたがわかんなくて、だか&lt;br /&gt;らぼくは壊すしかないのだ。死神がぼくの右肩にその手をかけている。ぼくは魂を失う代償に、この世界と愛を与えてもらった。ぼくなんていない。どこにもいない。ぼくは愛だ。全部だ。そして全部嘘だ。ぼくは寂しい。男女構わず何十人とセックスしても、さみしい。ぼくは君に触れたい。でもぼくはどうしてもその一言が言えないのだ。恥ずかしくて、たまらないのだ。それに君はぼくのことなんて…&lt;br /&gt;ぼくは有名になりたい。有名になって、誰からも赦されたい。でなければ、ぼくは恥ずかしくて道も歩けないくらいだ。みんなぼくに怒っている。ぼくはどうしたらいい？赦されるには？有名になったら、きっとみんなわかってくれるだろう。ぼくを友達にしてくれるかもしれない。ぼくはみんなと友達になりたかった。でも、どうしたらいいのだろう。足を舐めればいいの？犬のふりをすればいい？ぼくは自分の顔が嫌いだ。いつも怯えた目をしてる。いつ怒られるんだろうと、ずっとびくびくしている。人を不快にさせまいと、いつも精一杯に笑っている。みんなぼくを必要としない。ぼくはひとりだ。なんでぼくは悲しくて仕方がないのだろう。ぼくはみんなと仲良くしたいのに、どうして人を差別するやつの方は何も苦しまずに、ぼくはこんなに悲しいのだろう。どうしてみんなみんな仲良く手を繋ぎたいと思う人ばかりが、いつも苦しくて仕方がないんだろう。みんな仲良くしたいのに、そうしてこの世界のみんなみんなが、全員幸せになるハッピーエンドがやってきたらいいのに。魂が血をこぼしているんだ。ぼくはロックスターになるんだ。ロックスターになったらきっと、ぼ&lt;br /&gt;くはみんなみんなと仲良くできるんだ。だってぼくはロックスターなんだから！ぼくは歓喜と溢れんばかりの愛の中で大いなる大地にキスをする。神よ、貴方に魂を捧げます、その代償として、どうかぼくを赦してください。どうかぼくを叱らないでください。出ていけって言わないでください。ここにいても良いと言ってください。ぼくは普通だし、天才でもロックスターでもないけど、けれどもぼくは自分が罪人であり、許されない存在だということだけはよくわかっているつもりなのです。貴方がぼくを赦してくださらなかったら、ぼくは一生顔を上げて町を歩けないでしょう。みなぼくに石を投げるに違いないのです。ああ神よ、ぼくはぼくのことを忘れた人をゆるします。ぼくはぼくを裏切る人を許します。ぼくもぼくが愛する人もやがては死に、この世界からいなくなって、永遠に人々の記憶から忘れさられてしまうことを受け入れます。ああ神よ、貴方が許してくれるなら、ぼくはそれでも生きます。死ぬまで真面目に精一杯に生きます。ぼくはこの愛が、例え嘘でも、やがて跡形もなく消え去ってしまうものだとしても構いません。孤独よ、絶望よ、この世で最も高貴なる魂よ、ぼくを天国に連れ去ってくれ。ぼくは何も出来ない、歌うことも話すことも伝えることも、歩くことも描くことも笑うことも、憎しむことも夢見ることも愛することすらも、だからぼくは天国にいきたい。そうして君に赦しを乞うのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「泣いてもいいかい？」&lt;br /&gt;「なぜ泣くの」&lt;br /&gt;「あまりに多くのことを忘れてしまったから」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうしてぼくは、世の中全部全部の、忘れられてしまったもののために泣こうと思う。人間はやがてみな、忘れ去られるのだ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-6580516575176099135?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6580516575176099135'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6580516575176099135'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/10/blog-post.html' title='後悔'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-1355016512893722741</id><published>2008-09-30T06:20:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:35:08.122+09:00</updated><title type='text'>就活と愛</title><content type='html'>ガンディです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近、就活なるものをしています。はい、今あなた、ゲッ、あのガンディが就活！などと思いましたね。私にはぜんぶ お み と お し&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今までぼくは彼女の奨学金と生活費とで生活しておったのですが、どうにもその金も底をつき初めたらしく、最近ではぼくがどれだけ「大丈夫！今に死んだら新聞に載るようなロックスターになるから！」と訴えかけてみても彼女はしかめっ面で財布の紐をほどこうとはしないのです。なんてことだ！君だけが頼りなのに！君を心から愛しているのに！ぼくは真っ赤な薔薇を一輪、そっと差し出しました。しかし彼女は暗い顔をしたまま、どうしても首を縦にふろうとはしないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とりあえず食っていかなければならないので、自分で仕事をしてみようと思いました。時には男だって、働かなければならない時があるのです。ライオンをみなさい！普段はぐーたらしたままメスに狩りを任せっぱなしですが、いざ本当に腹がへったとなるとハイエナが群れてるのをおっぱらってのそのそ餌を奪ってくるでしょう。そのノリです。男にはやらなければならない時があるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただし悲鳴があるので、土日があるやつはだめです。月収は25万以上。23区内勤務。社会保険完備。もちろん正社員採用。残業厳禁。希望を言えば週四。希望を言えば11時以降出勤、５時以前退社。有給20日。希望を言えばクリエイティブな業種(ぼくは貴族なので単純労働系はあまり向かない)あんまり会社から外に出なくてもよくて、かつ目がつかれたりしないやつで、社内にはビュフェとジムがあるやつがいいですね。責任のある大きな仕事をやりたい。ただし責任はとらなくていいやつで。いっそのこと働きたくない、金だけくれ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんなわけで、早速リクナビネクストに登録し、条件の合うものを検索。しかしながら驚くべきことに、条件に合う会社がない！どうやら今って就職難らしい？全くひどい話です。未来ある若者が、こうやって真剣に仕事を探そうとしているのに。それを受け入れる素地がなくて、何が政治でしょうか。かつてカール・マルクスはこう言いました、「働かなくていいのだ！」しかしそのような理想社会は、下らない政治家どもの政治的占有と、資本家どもの独善的搾取によって未だ至りません。これは決して許されるべきことではないのです。今すぐぼくを資本家にしなさい！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;理想は高いのですが、腹はへります。彼女は怖いです。仕方がないから、ぼくは少しだけ我慢することにしました。&lt;br /&gt;セクシュアリティ・人類学系専門の学術系出版社編集。月収20万。募集人員・１人。&lt;br /&gt;編集ならまあまあクリエイティブな感じです。募集要項には一応「三年以上の実務経験有り」とかなんとかもっともらしいことが書いてありましたが、読まなかったことにしました。読まなかったんだから仕方がない。読まなかったんだから、なかったことなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とりあえず「出版界はネット社会と競合し…市場を失い…未来はなく…こういう時代だからこそカリスマ的な…だから私をとらないと御社はえらいことになる的なメッセージを自己ＰＲ欄にところせましと書きめぐり、余った余白に「私事ではございますが母が病で…手術代が…人ひとりの命がかかった入社試験ですが…精一杯努力したいと思います、かしこ」とも記入、更に唾を数滴たらして即席の涙を偽造、履歴書を添えてポストに投函。一週間程で書類審査合格の通知がきた。ははあ人事の野郎、わたくしにビビりやがりましたななどと味をしめ、再び二次審査でも泣き落とし作戦を展開、「人事さん…あんたにも、、、守らなきゃあならない人の一人や二人、いるだろう？」の一言で、無事二次試験も突破しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;三次は筆記です。さすがのわたくしめもこれは何がでるかしらんとおっかなびっくりでございましたが、意外と普通で「フーコーとレビストロースと上野千鶴子とサイードの思想をそれぞれ1000字で説明しろ」というまるでひねりのない極めて素直な問題。「これじゃ得点に大して差がつかないだろう」と極めてするどい判断をしたぼくは早々に問題を切り上げ、余白に一次試験の時の自己ＰＲの続きを書き始めました。人事さん、ぼくは落ちぶれても貴族です。ぼくだってなあなあのナイフで毎日毎日大事な時間を意味もなくけずってるわけでもないのです。ぼくには才能がある。ただ、実に残念なことにそのことに気付いたのはまだ世界でぼくただ一人しかいないのです。しかし貴方には二番目になる権利があります。貴方はリスクをほとんど負うことなく、目の前にころがる、巨大なダイヤの原石を今すぐ自分だけのものにしてしまうことができるのです。ぼくがここに来たことは、貴方にとってきっと大きな転機となることでしょう。冬月、おれと一緒に出版界の新しい歴史を作らないか？云々。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;更に昼飯くってから面接。わたくしめの新人とは思えぬ堂々たる態度に目に見えてはっきりと面接官がビビりきっておる。となりの新卒クンもビビり切っておる。しばらく趣味だの住所だの核心を避けた話題が続いていたが、とうとう面接官がおそるおそると言った様子で、わたくしめに一番聞きたかったことを尋ねてきた。&lt;br /&gt;面接官ちん「あの…山田さんは実務経験は無し、とありますが…。」&lt;br /&gt;山田「はい、実務経験はありませんッ！」&lt;br /&gt;面接官ちん「ええと、一応実務経験者のみの募集とさせて貰っていたのですが…」&lt;br /&gt;山田「いえ！実務経験のあるなしは、問題にはなりませんッ！」(キッパリ)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;うひゃわははははは面接官ちんめ、わたくしめの実に堂々たる態度に今にも小便ちびりそうなほどビビっておる。ビビってるっていうか、ちょっとひいてる。ぼくの頭の中には今ブランキーの「スカンク」が流れておる。だからきっと大丈夫。彼はぼくの ト モ ダ チィ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で、先日出版社から採用の通知が来た。内定通知書には、「実務経験のあるなしが問題になるかどうかは、一応こちらが決めることですので…」といった内容の文章が、極めて遠慮深げに、婉曲な言い回しで添えてあった。おれ軍、暁の勝利である。まあおれ天才だから当然だな。ぼくが出版社を受けると知って「出版社なんて早々受かるもんじゃない」「ましてや学術系なんてなおさら」「いつまでも夢みてないでもっと確実なところを受けなさい」などとのたまっていた連中(連中と書いてクズどもと詠む)は開いた口がふさがらんようであった。うひゃほへはあ、愉快爽快満開じゃひゃはあ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところがなめくさったことに人事のやつめ、恐れ多くもわたくしめに土日出勤も、たまには、あるかもとか、語尾を濁しながら、にやにや笑っておっしゃいますのだ。それムリじゃん。だってそれ、ライブの予定がたたないじゃん。てかおれ、土日どころか平日も有給がんがん使う予定なんすけど。有給使いきったら、熱だしまくったり、親族殺しまくったりしてライブする予定だったんですけど。&lt;br /&gt;ごめんムリ。と一言だけ残して社を後にしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;んなわけでニート。今ニート。おれニート。ニートじゃない、専業主夫という立派な職があります。彼女におべっか使ったり、花をあげたりして、ご機嫌をとる仕事です！今は一応契約社員ですが、正社員登用後は社会保険完備、寮あり、まかない有り、定年なし。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なーんだ。おれだってちゃんと働いてたんじゃん。このままでよかったんじゃん！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;てか、今の自分を否定することは、今まで自分を支えてきてくれた人にすごく失礼じゃん！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ってことを短い就活から学びました！おかげさまで、またひとつ成長できたと思います！みんな本当にどうもありがとう！みんな愛してるよ！平等に！&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-1355016512893722741?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/1355016512893722741'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/1355016512893722741'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2009/09/blog-post.html' title='就活と愛'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' 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/&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[・西欧では、罪深いことゆえ性交したがった] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;西欧文化においては、キリスト教にもとづいて性交を罪深いこととして禁止することが、人間に性交への欲望を抱かせる基本的方策であったと考えられる。（もちろん、神父たちが意識的にそう考えていたわけはないだろうが、無意識は意識を欺いておのれの意図を貫くのである。）キリスト教においては性的快楽は厳格に禁止され、キリスト教徒はできるだけ性交を避けるべきであり、[要約者注…『新約聖書』「コリント人への第一の手紙」（第七章）参照。「未婚者たちとやもめたちとに言うが、私のようにひとりでおれば、それが一番よい。しかし、もし時勢することができないならば、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方がよいからである。」byパウロ。パウロはセックスを我慢できるなら、それに越したことはないと述べている。]がまんできないときにのみ、結婚することが許され、結婚しても許されるのは子供をつくるためにする性交のみであった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして性交は厳しく禁じられた罪深いこととなったが、それゆえ西欧人にとって性交は極めて魅惑的なことになった。禁止は神、すなわち権威・権力に発しており、禁止に従っている限りは自分は無力な存在であるが、禁止を犯すことは自我の力の表明となり、自尊心を支える。本能の壊れた人間は、本能に変わるものとして自我を行動規範とも価値の根拠として生きてゆく他はないので、したがって、自我を守り、支え、強め、広げることは人間の第一の欲望となっている。西欧文化は、自我の根拠の問題を、性欲なるものにすりかえることにより、性本能の壊れた人間に性交をしたいと思わせた。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;簡単に言えば、西欧人は、セックスが禁止されてたからセックスしたかったのである。性交の遂行を力の発揮とみる西欧の思想は既にここに胚胎していると言える。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[・日本では、恥ずかしいがゆえに楽しい] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;他方、日本文化は、性交を日常性からはずれたこと、めずらしいこと、恥ずかしいこととすることによって、本能的には何の魅力もない性交を魅力的なものにしようとした。本能が壊れた人間は、本能に頼って生きていけなくなってしまっているので、何らかの人為的規範をつくって生きていくほかないのだが、人為的規範はつくりもので人間の内的生命とつながってないだけに、それにもとづく日常生活はたまらなく退屈であり、したがって、日常生活から逸脱して非日常的世界に遊び、常々はやらない恥ずかしい遊びをすることは、不安であると同時に、心ときめく楽しいことである。日本人は退屈な農作業から逃げ出して、どこか心ときめく楽しい世界に行きたいという気持ちを壊れた性交本能にすりかえた。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このように、「恥ずかしいこと」という定義を性文化の中心に据えた日本では、性文化において西欧と様々な違いが出てくる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;女は一般に、西欧の性文化においては、聖女（清純な乙女）と、娼婦（淫乱女）に分類されるのに対し、日本においては、地女と遊女に分けられる。[要約者注・地女とは、ひとつの土地にとどまった定着民である、常人的な女のことである。一方遊女とは、ひとつの土地にとどまることなく、様々な土地をふらふらする、非常人的な女のことである。ちなみに「遊ぶ」という言葉は、「遊離」や「遊牧」などといった単語から理解できるように、本来「ふらふらする」「ひとつの場所にとどまらない」などと言った意味を持つ。「遊ぶ」を「セックス」の隠語的意味としてとらえるのは、少し違うと考えられる。]聖女とは、罪深い性交の相手とするにはあまりにも恐れ多い崇高な存在であり、娼婦はもともと穢れている罪深い女であって、したがって罪深い性交によってさらにどれほど穢してもいいのである。他方、地女とは日常的世界で家事をし、子供を産み育てる女であり（西欧の聖女のように崇められてはおらず、）遊女とは非日常的世界で心ときめく色事をともに楽しむ相手であった（そして西欧の娼婦のようにさげすまれてはいなかった）。その証拠に西欧人は、どれだけ親しい仲になっても、娼婦を妻にしようとはしない。日本の歴史においては、遊女が妻になることは大して珍しくもないことである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（ちなみに、聖女と娼婦という分類も、地女と遊女という分類も、男の勝手な分類法なのであって、女にとってはまるで関係はない。） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[・恥ずかしさを共有せねば性交できない] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例えば、道端であなたがすっころんだとする。もし誰かに見られてたら、あなたは恥ずかしいと思うだろう。ところが誰にも見られてなかったら、恥ずかしいという感情はわいてこない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;では、道端であなたがすっころんだとき、あなたを見ていたその誰かも、たまたま偶然、同時にすっころんだとしよう。今度はそんなに恥ずかしくもないはずだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり、恥ずかしさというのは、行為そのものなのが恥ずかしいのではなく、人間との関係の中で恥ずかしいと感じるものなのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;性が恥であるとき、セックスをするためには恥ずかしさを乗り越えなければならないのであって、そのためには、相手との間で恥ずかしさを共有する必要がある。言い換えれば、相手にもセックスに参加してもらわなければならない。相手の参加がなければ、セックスは、無関係な人がじっと見ている前で自分だけオナニーをして興奮しているようなものだからである。そんなの恥ずかしくてやってられんというのが、性が恥の場合のまともな神経である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;相手に自分の恥ずかしい気持ち（セックスしたい気持ち）を伝え、相手の前で恥ずかしいことをすることができるためには、相手とのあいだにある程度友好的な親しい関係がすでになければならないであろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[要約者注・岸田は「恥ずかしい気持ち」を、単純に「セックスしたい気持ち」ととるが、そうではなく、「自分の弱さ」こそが「恥ずかしい気持ち」として採用される可能性が高いのではなかろうか。とりあえずセックスしたいだけの男子は覚えとくといいが、「自分の弱い部分」を「君だけに、」といって、深刻そうな顔してこっそり女の子に告白するとやらせてくれるぞ。具体例としては、「おれ、本当は弱い人間なんだよね」「小さい頃両親が離婚して」「実は本当の父親がわからないんだ」などなど。（※１、理論上、通用するのは恥の文化たる日本人オンリーです。外人でないことをお確かめの上、用法用量をよく守り、自己責任の上身長にお使いください。）（※２、この話を聞いて嫌な気持ちになった女の子、ぼくは今まで何ひとつ真剣に考えずにアホ面して生きてきた君のことが誰より一番嫌いだ。）] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つまり、性が恥じである男は、気が許せる親しい関係にある女とでなければ、セックスする気になれないのではないか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すでに述べたように、江戸時代においては、吉原の客は何日か通って花魁と個人的に親しい間柄になってからでなければ、セックスを求めることはなかったとのことであるが、これは、そういう気になれなかったからであって、「やりたいことはやりたいが、見知らぬ女にいきなりセックスを求めるのはよくない」などと考えて我慢していたのではないと考えられる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[・女でなくて神を気にする] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;他方、西欧のように性が罪となるとどうなるか。恥とことなり、罪においては、人間関係ではなく、神との関係が問題である。人前ですっころんだって恥ずかしくはないが、神様に失礼なことをするわけにはいかない。価値が絶対的なのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;性が罪であるものは、セックスをするためいは神と神が定める罪に反抗し、神と神が定める罪を乗り越えなければならない。 &lt;br /&gt;[要約者注・そう言う意味では、西欧のセックスというのは非常にＳＭ的である。セックスとは、自分と神（あるいは父）との権力の関係が問題なのであって、その権力自体を女に附与し、それに敗れることで興奮するのがマゾヒズム、それを破るのがサディズムとなる。余談であるがマルキドサドのプレイの中に大変面白いものがあって、それは敬虔なクリスチャンの十六歳くらいの良家の処女を後ろからアナルを犯しながら、「私はキリストを信じません！」って叫ばせるというプレイなんだが、要はサドはこの良家の処女に「乗り越えなければならない神」という人格を附与しているのであって、サドはこの処女のアナルを犯すことで、神をめっためたにやっつけようとしているわけだ。ＳＭの人って、本当理屈っぽいねえ。] &lt;br /&gt;すなわち、西欧のセックスにおいては、相手は問題ではなく、乗り越えるべきは神である。セックスは神と自分の問題であり、相手とは無関係に行われる。このような性文化においては、往々にして、セックスは自我を確認するための手段、相手の女は、自分が満足するための道具となる。セックスをするとき、男は相手の女ではなく、神を気にしている。[要約者注・人格のある人間としての女ではなく、やっつけるべき神、あるいは権威だから、相手の人格を無視したレイプも可能だし、それから、例えば「警察」「スチュワーデス」「巫女さん」「修道女」「看護婦」なる、それに附与されている権威や意味を犯すための、コスプレという変わったプレイも可能である。「男は神を気にしている」などというと、本当かよ？という感じもするかもしれないが、こう説明すれば、あなたにだっていくらか思い当たる節はあるだろう] &lt;br /&gt;セックスをするとき、相手の女でなくて、神を気にしているというのは、これは西欧人が悪いことをしたとき、それによって傷ついた相手の人間ではなく、それを罰する神を気にするのと一連のことである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;西欧人と日本人では、異なる性文化を持つが、どちらが優れているというわけではない。一応、それぞれ目につく欠点をあげてみると、例えば、かつて新大陸に渡ってきた西欧人たちは、はじめ先住民のアメリカインディアンに食べ物をもらったり、土地での生活の技術を教えられたり、色々親切にしてもらって生き延びることが出来たのだが、彼らはそのことをインディアンに感謝せず、神に感謝したので、そのあとインディアンが邪魔になったときに、インディアンを虐殺することは、大して良心を痛めなかった。他方恥の文化においては、仲間内とか相手のとの関係の中で和気藹々としている感じが大切なので、客観的にはとんでもない方向にハマりこんでいたとしても、内部からはブレーキがかからない。ベトナム戦争では、あやふやな大義のためにアメリカの青年たちが次々と戦場に送り込まれ死んでいくという状況に、かなり大規模な反戦運動がおこり、それが戦争をとめたわけだが、大東亜戦争では、ベトナム戦争のアメリカ兵の何百倍の日本兵があやふやな大義の前に無駄死にしても、国内からはまるで反戦の動きはなく、聞こえてくるのは現実遊離も甚だしい本土決戦、一億玉砕の声ばかりであった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[・罪の共有はふたりを引き離す] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;話をもとに戻す。日本人がセックスの恥ずかしさを相手と共有することによってふたりの間に親しさをはぐくむのと同じように、西欧人は、罪を共有することで相互の愛と尊敬を醸成できないのだろうかという疑問が起こるかもしれないが、結論から言えば、それは不可能である。なぜなら恥の関係は、純粋なふたりの相互の関係であるが、罪の関係は、ふたりそれぞれが神と関係しているという関係なのであって、実はふたりは関係しあっているようで、何の関係もないからである。この二人は、銀行強盗をして、これからふたりで札束を分け合おうとしている二人の犯人のようなものである。お互い相手が消えてなくなることを望んでいる。罪を共有したふたりは、なるべく相手に罪をなすりつけて自分の側の罪を減らそうとする。西欧人の男が、アダムを誘惑したイヴを非難し、性交が好きな女を「淫乱女」の烙印をおしたうえあまつさえ魔女に仕立て上げて火あぶりにし、近代「科学」ができあがると「多淫症」という精神病を発明した上に「あなたは病人です」と太鼓判を押してみせたのは、女に罪を押し付けて、自分は罪はないと、神様に証を立てたがったからである。[要約者注・しばしば峯田の歌詞にはこの症状が見られる。]少なくとも明治以前の二ｈんにおいては、性交が好きで多くの男と寝る女を非難し、処罰した歴史は、私の知る限り、ない。童貞の筆卸をするなど、村の多くの男と寝る未亡人などは「お助け観音」と呼ばれ、つまり仏扱いをされていたのであるが、明治維新以降になると、西欧の罪の文化が入ってきて、「淫乱女」や「公衆便所」という言葉がつくられるのである。江戸時代における「好色女」というのは魅力的な女という意味なのであって、男たちに人気のある好ましい存在であった。（そこに軽蔑的な意味はない） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すでに述べたように、日本においては、一般女性と売春婦、素人女と玄人女との境界の壁が低く、たやすく越えることができ、いったん売春婦になった女でも、客に身請けされて妻におさまるのはよくあることで、年季が明けて家に戻れば普通の娘として扱われるが、西欧ではそうはいかない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[・罪である性は「愛」を必要とする] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前述のとおり、「罪」は男と女を結び付けないので、そこで男と女を結びつける別のものが必要となる。これが「愛」と呼ばれるものである。[要約者注・岸田は「愛」というが、「恋愛」と言ったほうが、理解しやすいので、以後、「恋愛」に直して表記する。][要約者注２・北村透谷などによれば、日本人の愛は、まだ性と身分化である、劣ったものである。だから、西欧流に、愛と性を分けた、進歩した恋愛が必要である、ということである。今考えるとかなり西欧コンプレックスな意見であるが、明治以前の日本の愛の形が、性も愛も混濁した、未分化なものであったという例証にはなる。] &lt;br /&gt;この「恋愛」は罪である「性」を正当化するために発明されたものだったので、いやがうえにも、崇高なものとなった。「恋愛」では、たったひとりの女を死ぬまで、ロマンティックに愛し、そのためには死もいとわないということが謳われた。[要約者注・ロマンティック・ラブ・イデオロギーという。西欧近代文学では、ひとりの女のために男が命をかけて決闘するという話がしばしば見られるが、こういうのは、実は遥か昔からやってたのではなくって、つい最近、せいぜい200年程度の歴史しかないものである。] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;細かいことだが、西欧人の男女はよく人前で平気でキスをしたりするが、日本人はあまりそういうことをしない。なぜなら、日本人にとって、性は恥ずかしいことであり、非日常だからである。日常に、それを持ち込んだら、興奮できないタイプなのである。ライヒが唱えた性革命華やかなりしころ、アメリカなどでは盛んに乱交パーティがあちこちで行われたが、日本ではほとんどなかった。これもやはり日本人が人前でセックスすることに抵抗があるからではなかろうか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;同じく細かいことであるが、日本では明治になってもまだ、温泉地だけでなく、町の銭湯でも混浴が一般におこなわれていたし、若い女でも道端で行水していた。このことは、恥の文化だから可能である。罪の文化では、全裸の男たちが全裸の女たちと一緒にいればそれは間違いなく性的場面となるが、恥の文化においては、その場面が性的であるかどうかは人間関係と、それに基づく行動によって決まるので、これは性的場面とはならない。自己中心的で、想像力が乏しかった提督ペリーは、日本で混浴が普通に行われているということを聞いて、まさに下司の勘ぐりそのものをやって、日本人は淫蕩であると断定したが、確かに西欧であればそれは性的場面に他ならなかっただろう。中世の西欧では、男と女が一緒に入る浴場は全て売春宿であった。中世の西欧では、上流階級の婦人たちは、パーティのときなど、乳房を丸出しにした服装をしていたとのことであるが、これはもちろん、男たちを引き寄せるという性的意味をもつ行動である。しかし道端で行水する日本の若い女は道行く男たちに裸を見せて誘っていたわけではない。このように恥の文化では、何が恥であるか、どういう場面が性的場面であるかは、その場の人間関係、そのときの状況で決まるのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[・性の「国際文化摩擦」] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;レイプは日本にないわけではないが、アメリカなどと比べると、非常に少ない。これも、日本が恥の性文化であるからだろう。レイプとは男が何らかの情緒的な関わりなしに一方的に無断で女の身体を使用することであり、相手の女との間で恥ずかしさを共有するなどの手続きを踏まないと性交する気になれない男にはできないことである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;他方、痴漢はアメリカにはほとんど存在しないが、日本には非常に多い。こそこそわからないように触るなんて、いかにも性が恥である男のやりそうなことである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、西欧では同性愛が厳しく禁じられるが、これは性が神に対する罪だからだ。日本では恥なので、ま、ふたりがそれで幸せなら、ちょっと変わっているとは思うが、とやかく言わないのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[・富国強兵のための性文化改革] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;明治政府は、富国強兵と文明開化を国是とし、あらゆる面で西欧化、近代化を推進した。性文化の西欧化もそうした西欧化の一環にすぎず、合理的根拠もないのに西欧崇拝の傾向に引きずられるようにやみくもに行われたとみる向きもあるかもしれないが（西欧人にみっともないから混浴や夜這いのような蛮風はやめようというような）私はそうは思わない。明治政府は銭湯での混浴や、農村での夜這いを繰り替え日強行に禁止しているし、家父長制と一夫一婦制を根幹とする新しい家族制度を大急ぎで整えているし、成文化の西欧化に関してかなり意図的計画的だったのではないかと思われる。富国強兵のためというか、日本の工業化と資本主義の発展のために、性文化がこのままではいけないことを、明治政府は正しく理解していたのではなかろうか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本の性文化は性に関して概しておおらかで、男と女のことをひとつの粋な遊びにまで仕立てていて、人々がセックスを大いに楽しむという点では西欧の性文化より好都合だったし、西欧の性文化のように女性差別的な面も少なかった。しかし、資本主義には不適合だったので、改革が行われたのである。すなわち、資本主義社会というのは、恋愛と性の分離・強い性的禁止・無料セックスの排除などによって、ご褒美としてのセックスをするためだけに一所懸命に勉強し、学歴をあげ、稼ぐ、労働マシーンを作りあげ、それらに支えられて成立するものだからである。[要約者注・だから資本主義社会では、男たちは勉強して、学歴を得て、高収入な大企業に就職すれば無条件でセックスが出来ると言う風に思い込みがちである。（女の子は全然別のことを考えているにも関わらず。）しかしそう言う風に頭に叩き込まれている。誰によって？ドラマや漫画を駆使した資本主義の宣伝塔や、学校の先生や親たちによって。この傾向はむしろ親や先生の言うことをしっかり聞いてきた優等生にこそ顕著である。いつしか女の子に自分でふれて、今まで信じてきたそれらが全部嘘だったのだと気づいた時には、あまりのショックで全部何もしたくなくなるし、女の子は愚か、この世界の全部がまるで信じられず、全てのことに何の興味もわかなくなってしまうのである。彼らは自我を保つために、必死で言い訳を考える、例えば「おれオタクだしモテないし」「おれホモだから」「おれ女怖い」など。（峯田が、よい例である。女なんてきらいだ、と、なんであんなに一所懸命叫ばなければならないのだろうか。）こういう世の中は、あまり健全ではない。経済力があり、教養もあり、優しい男であればあるほど女のことを信用してないというのでは、これは恐らく女のみならず人類にとっても不都合であるし、ぼくの予想ではやがてそのうち男たちは女嫌いが長じてゲイになり、そうしてセックスが行われなくなって、人類は死滅するのではないだろうか。][要約者注２・で、資本主義の中で、男がこんな風にセックスというご褒美をゲットするための兵士としての役割を押し付けられている一方で、当然女の子の方も、兵士に与えられるご褒美としての商品価値の役割を、無理やり押し付けられているわけで、女の子もこれに対抗して色々と戦略をねってみたりしている。例えば一人称を「ぼく」にして、自分に女性性としての商品価値をつけられるのを拒否してみたりするなんてのもその一例である。「ぼく」を勝手に、商品として、欲望を持ってみるのはお断り、というわけである。そんなわけでぼくは、「ぼく」女は、世の中につっぱっている、高貴な精神をもった不良なのだという風に理解している。しかしそういう、高貴で、優しく感受性の高い女の子であればあるほど、（そういう男が女を信用しなくなるのと同様、）男のことを信用しなくなるというのだから、やっぱりこれはめちゃくちゃな世界だとは思わないか。]&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-6529368538147255815?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6529368538147255815'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6529368538147255815'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/08/blog-post_13.html' title='プロテスタンティズムの性倫理と、資本主義の精神'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-3194579707337005428</id><published>2008-08-07T06:13:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:14:20.017+09:00</updated><title type='text'>気高き心に</title><content type='html'>変態は嫌いだ。でも、あまりにも気高くて高貴な心が、この世界のあまりのデタラメさに、とんでもない変態になるくらいひねくれてさせられてしまったのだとしたらどうだろう。ぼくは変態が好きだなどと言っている連中がものすごく嫌いだ。何より、誠の高貴さというものをこれっぽっちも持たんくせにして興味本位で変態を覗きこむ連中が一番嫌いだ。変態の、気の狂った世界なぞに何がある。そんなもの何もないよ。変態は変態でこっそりやるべきなんだ。変態に何かがあるとしたら、それはこのデタラメな世界で、どうしても変態にならざるを得なかった誇り高い心だ。それがなかったら、変態なんて、ただの見世物小屋じゃあないか。気高き心に乾杯。変態たることを恥じながらも。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9/13 渋谷屋根裏「悲鳴企画vol.1」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;出演: &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Melt-Banana &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;blgtz &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Teenagers Bloody KillinG &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;悲鳴 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18:30open19:00start &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;adv.2000yen(18歳未満or高校生1500yen)/door2300yen &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;カレーなどエスニック料理あり。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;予約はhemay.g@gmail.comあるいはメッセージにて &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;------------------ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;詳細は置いておいて、まずはご一報。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;心機一転ということで悲鳴企画vol.1にしました。仕切り直しです。 &lt;br /&gt;18歳未満or高校生の方は予約の際にその節を伝えてください。で、当日学生証などの身分証を提示していただけますと、料金が1500円になります。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あと、エスニック料理でるんでそれも楽しんでください。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これが、現状でのぼくと悲鳴の全部です。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;みなさんに感謝します。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;全力をつくしますので、どうぞよろしくお願いいたします。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上報告まで &lt;br /&gt;気高き心に乾杯&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-3194579707337005428?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3194579707337005428'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3194579707337005428'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/08/blog-post.html' title='気高き心に'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-4584183404282894935</id><published>2008-07-29T06:12:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:12:59.609+09:00</updated><title type='text'>友達の話（終わらない話にかえて）</title><content type='html'>あまり形而上学的な話をしてもつまらないだけだから、そんなことより、ぼくの大切な友達について、話す。 &lt;br /&gt;こんな男がいた。こんな男がいた、というのはフィクションだと思ってくれても、現実にいるのだと思ってくれても構わない。人間はどうせ、自分の思ったことや、体で感じたことからしか、書けやしないのだ。ぼくの書くことは、本当のことだとしたら、あまりに創作が多すぎるし、創作だとしたら、あまりに事実が多すぎる。でも、ぼくはこの世界になんて、嘘も本当もないと思うのだ。もし真実というものがこの世界になにか少しでもあるのだとしたら、それは嘘も本当も生じる前の何かだ。その何かにだけに、人は共感し、ほとんど自分のことのように感じることができるのだ。だから、こんなのを言い訳がましいばかりだけれども、ぼくの書くことを、君はどうか悪く取らないでおくれよ。ぼくは誰だかわからない君の人生を通して、ぼくの話をしているに過ぎないのだから。でも、君はやっぱり嫌がるだろうか。ぼくは勝手にぼくの心と、君がぼくにひっそりと明かしてくれた君のストーリーを結び付けて、それを文書にまで残してしまおうとしているのだから、ぼくは今から勝手に、君としたセックスをビデオにとり、公衆の面前に公開してしまおうというのだから。君は事実と違うと言って怒るだろうか。でも、ぼくは、人間の心というのは、勝手に人の心と結びついてしまうものだと思うのだ。そうして人々は普段は隠しているだけで、それに翻弄されながら生きている。そうしてまた、ありもしない偽物のストーリーを、次々と作り上げるのだ。それを原稿用紙に書きとめて残すのが小説だから、だからつまりこれは小説である。嘘でも、そうして本当のことでもない。 &lt;br /&gt;ぼくの心のうちにいる彼の名前、仮にその名前をＡとしよう。Ａはぼくと同い年のバンドマンで、大学生である。大学生のバンドマンにありがちなことであるが、学校での成績は決して褒められたものではなく、何度か留年もして今もまだ大学に在籍している。顔立ちは大してよくもなく、性格は一言で言えばガサツである。付け加えて言えば鼻下からは常時二、三本の鼻毛がのぞいている。それから彼は生来のインドア派である。インドア派というのは、ひきこもりの極めて穏当な言い回しのことであった。彼はオタクで、とくにガンダム、エヴァンゲリオンを中心に日本アニメを深く愛しており、例えばフランス文学に幼いときから親しんできたとか、ボサノバとラテン音楽についていくらかの知識を擁しておるとか、そういう、いわゆる世間的に「好ましい」趣味とは程遠い文化に囲まれて青春時代を過ごしてきたように見える。で、そんなわけで彼は酔っ払うと、いくらバンドをやっていたとしたって、どうあっても自分はモテるようなタイプではないと、弁舌たくましく語りだすのであった。 &lt;br /&gt;しかしＡというのは本当にがさつでオタクで成績も悪く、本当にどうしようもない類の人間なのであるが、ぼくは彼のことが本当に好きであった。どうしてかと言うと、彼が心底孤独な人間だったからである。 &lt;br /&gt;ある日、いくらか酔いのまわったＡが二人きりの時に、突然こんな話をしたことがあった。 &lt;br /&gt;「なあ龍郎、おまえ、こりゃ実際本当に馬鹿みたいな話だが、どうかそう馬鹿にせず聞いてくれ。いや何、おまえそう姿勢を正して聞くような、大した話じゃない。実に皆目くだらない話さ。ああそうそうおまえ、よくありがちな、タブロイド誌の三文小説さ。その三文小説は、こういう月並みな書き出しで始まるんだ。昔々、あるところにひとりぼっちの少年がいました。どうだ、なかなか月並みなもんだろう。でな、この少年は、とあるクラスの女の子のことが好きだったんだ。この女の子は、そんなに美人てわけじゃないんだが、笑うと頬にえくぼができる、白くてちっちゃなとてもかわいらしい子で、少年はこのえくぼがたまらなく好きだった。教室ではいつも目立たず、ひとりでいることが多かった。かといってまるで友達がいないってわけでもなく、いつも何人かのグループを構成して、お弁当を一緒に食べていた。少年にとって、女の子は『心のお姫様』ってやつだった。 &lt;br /&gt;で、少年はこのお姫様に気に入られようと、色々なことをする。でも少年は、大して顔もいいわけじゃないし、体操だってクラスのガキ大将の連中のように自由自在、ってわけでもないから、うまく女の子に自分のことをアピールできないんだな。ま、思春期の中学生にありがちなことだがな。それにしたってこの少年は人間関係の全てにおいてあまりに不器用で、人に自分の感情を表すのが滅法苦手と来てる。で、あんまり苦手だからうちにこもって朝方までどうしようもない深夜アニメばっかり見てる。あるいはもう大分前に兄貴が使わなくなったクラシックギターを、よくわけもわからないのにぽろぽろと自己流で弾いて、なんとか精神の安定を保ってる。都会から遥か離れた人口二、三百のさびれた田舎町で、ザーメン臭い童貞中学生が、今にもパンク寸前てわけだ。ははあやっぱり、どこまで言っても三文小説だな。だがな、月並みもここまで来ると、どれだけ才能のない作家か、試してみたくもなるってもんじゃないか。 &lt;br /&gt;でな、この三文小説家はやっぱりここから、その月並みな伝統手法をしっかり守って、急展開を始めるんだ。なんてったってびっくりすることだがな、この少年が甘酸っぱい恋心を寄せているこのお姫様が、不治の病で突然入院しちまうっていう展開さ。な、本当に安っぽい、今時ありがちの、高校生が書いたケータイ小説みたいな話だろう？なあ龍郎、そんなにつまらなそうな顔をすることはないんだ。もう少しおれの話をきけよ。 &lt;br /&gt;少年はな、 恥ずかしくて恥ずかしくてたまらんかったのだが、勇気を出してお見舞いに行くんだ。何をお土産にもっていくべきか大層迷ったんだがな、そりゃメロンでもなんでも、お見舞いにはお見舞いらしいものってのがあるもんだ。ところがこの少年ときたら（なあ龍郎、人間てのはときに、究極的に恥ずかしくて何がなんだかわからないくらいになっていると、あえて最も恥ずかしいと思われる選択肢を、わざわざ自分からとりにいくっていうことが、間違いなくあるものなんだぞ。）何を血迷ったか、さんざん悩みあぐねた挙句、真っ赤な薔薇を一輪だけ、駅前の花屋で購入したっていうじゃないか。看護婦にも、学ランを着たニキビだらけの中学生が、真っ赤な薔薇を一輪だけ持って、えらく緊張した面持ちで、がくがく震えながら真っ赤な顔をして汗だくでやってきたってもんだから、人目もはばからずにくすくす笑われるって始末さ。もう、少年は恥ずかしさのあまり、今にも薔薇を投げ飛ばして、ワッと逃げ出したいってくらいなものなんだ。少年にだって、アニメオタクでひきこもりの自分が、薔薇の花の一輪もって歩く姿の、まるでさまにならないことぐらいはよくよく自分で承知していたんだからな。でもなあ、そう簡単に逃げるわけにもいかないんだよ。なんたって、彼のたったひとりの大切なお姫様が、この城のどこかにとらわれたまま、たったひとりで不治の病と闘い続けているっていうんだからな。それに比べたらこの少年のかく恥なんて……そう思えば文句ひとつ言えるわけもないってわけなのさ。なにはともあれそんなわけで、彼は真っ青になって震えながら、看護婦どもにげらげらと笑われて、病室への階段を上っていったって言うのさ。 &lt;br /&gt;しかしな、彼の大切なお姫様はこんな恥ずかしい少年のプレゼントにも、思いのほか並々ならぬ好意を示してくれたらしい。実のところ少年とお姫様は今まで学校でほとんど口をきいたことすらなかったというんだが、（少年は極度の恥ずかしがりやだったから、直接的なアプローチはほとんどできずにいたんだな）まあお姫様の方も、何がなんだかわからないうちに突然意味わかんない不治の病なんかに犯されちまって、大分心細くなってたんだろうよ。それに、全くひどい話だが、彼女が病気になって、そりゃあ最初はたくさんの同級生やら学校のお友達やらがお見舞いに来てくれていたんだが、一月、二月とたつごとに、来客の数も減っていって、今では彼女に見舞いに来る奴なんて、家族のほかに、ほとんど誰もいなくなっちまっていたっていうんだ。信じられるかい？突然意味のわからない不治の病なんかに犯されて、それでひとりひとり友達は減っていき、最期にはたったひとりで、誰にも知られずにさびれた病室の片隅でこっそりと死んでいくなんてことが。でも、このなにもしらないかわいいお姫様には、本当にそんなことがおこったって言うのさ！ &lt;br /&gt;それで、この奇妙な来客にも、彼女は替えようもない大きな安心感をもらったんだな。で、なんとも嬉しそうに、その真っ赤な薔薇をグラスに挿したり、それから少年が果物ナイフを取り出して、丁寧に冷蔵庫に転がってた青りんごをむいてあげたりなんてことをしているうちに、ふたりの間には真正なる友情が芽生え始めることができて、やがて仕舞いには、また明日も必ず来るって、固い約束を交わしたくらいだった。かわいらしくゆびきりなんか交わしちゃってな。それも三度もだぞ。 &lt;br /&gt;で、それから毎日のようにお姫様のところに、少年はお見舞いに行くようになったんだ。真っ赤な薔薇は馬鹿みたいだからやめたらしいんだが、それでもメロンを買うような余裕は中学生の彼にはどこにもなかったから、土産には道端に生えていたタンポポをひっこぬいたり、妹の育てていた牡丹を秘密で拝借してきたりしてな。時にはお隣さんの百合を黙って切ってきちゃったりしたこともあったりしたらしいが、そのたびに彼のお姫様は大喜びで、枯れちゃったやつも決して捨てようとはしないで、綺麗にゴムで束ね、病室の窓際の壁に画鋲でとめて次々とドライフラワーにしていったんだという。これがまたとても華やかで、医者や看護婦たちも大変おもしろがり、しばらくの間病院中で、ドライフラワーが大いにはやったという小噺つきさ。 &lt;br /&gt;そんなわけで、毎日毎日違う花を一輪ずつ持ってくる変わった中学生くんは、病院でも今やちょっとした有名人になっていた。初めは彼のことを笑っていた看護婦たちも、次第にこの熱心な中学生に敬意に似た関心を図るようになってきて、時には『これをふたりでお食べなさい』なんて言って、缶コーヒーやらバームクーヘンやら（ナースステーションてのは大概そんなものが有り余ってるんだよ）をよこしてきたりしたんだという。中学生の方も礼儀正しく『ありがとうございます』って馬鹿丁寧にお辞儀するもんだから、あらま、なんていい子なのかしらってなわけで、やがて中学生くんはこの病院の名物見舞い人になっていったのさ。 &lt;br /&gt;ところがある晩、いつものように少年が花を一輪握り締めて病室に行くと、今日はお姫様の様子がおかしい。なんだか白い顔をして、いくらおもしろい話をしてやろうとしても、無理に笑っているように見える。少年は不思議に思ったんだが、まあなんだか長い病院生活の中には、いくらかおもしろくないこともあるに違いあるまいなどと思って、そんなに深く気にもとめなかった。まあ、この少年もなんだか油断してたんだろうな。本当のことを言えば、今だっていつだって彼女はたった一人で不治の病と闘っているんだって言うのに、彼女はそんな様子はおくびにも出そうとしなかったし、いつも高らかなかわいた笑い声を、小さな花だらけの病室にころころ響かせていたって言うんだからね、だからこの少年が、いつ死ぬともしれない重病人を目の前にして、こんな鈍感な反応しか示せなかったというのも、つくづく馬鹿みたいな話なんだけど、それでも決して現実味のない話ってわけでもないんだよ。少年はなんだか、この楽しくて幸せな日々が、わけなくすいすいと、永遠に続くような気がしてたんだな。いや、どう考えたってそんなわけがなくて、こいつは正真正銘の大馬鹿なんだがね。いや龍郎、この少年は本当にどうしようもない、馬鹿も馬鹿の大馬鹿だったんだよ。 &lt;br /&gt;少年は何も考えずに帰ろうとした。じゃあ、といって席をたち、引き戸をあけようとしたときに、お姫様が『あ。』と言った。少年は笑いながら上機嫌な顔で振り返った。するとお姫様が顔をひきつらせながら笑っている。でも少年はどうしようもない馬鹿だからそのことにすら気づかない。不思議そうに『どうした？』と聞くだけだ。少しの沈黙があってから、お姫様は真っ青な顔で、『さみしい。』と言った。少年は少しだけ動揺したが、こんなことは前にも何度かあったので、また来るよ、と言って優しく微笑んだだけだった。そうして、彼女が震えながらこくり、こくりと二度頷いたのを見届けてから、きっと明日ね、といって静かに扉を閉じた。 &lt;br /&gt;結局その晩にお姫様はころっと死んじまった。赤、黄、紫、少年が持ち込んだ、幾百もの色鮮やかな花々に囲まれていた。 &lt;br /&gt;何はともあれ、町にひとつしかない、小さな葬儀場で、式は粛々と行われた。少年には彼女が死んじまったこと自体がまるで理解すらできなくって、雲ひとつない真夏の空の下で、ただぽけーっとして列に並んでいた。セーラー服に黒い腕章を着けた同級生の少女たちが、隣でぺちゃくちゃとおしゃべりを続けていた。やがて悲しくなったのだろうか、おしゃべりはやみ、彼女たちは人目も憚らずに大きな声を出して泣き始めた。途端に少年には、自分がここにいることが、大変場違いなように感じられてきた。そうして、なんだか今すぐにでもここから逃げ出したいというように思った。 &lt;br /&gt;でも、それってなんだかおかしな話じゃないか。それってなんだかおかしな話だよ。だって、どうして少年の方が葬式から逃げ出さなくちゃいけないんだ？毎日彼女のお見舞いに行っていたのは、彼女たちではなく、少年の方なんだぜ。一度もお見舞いにすら来ようともせず、平気な顔をして葬列に並んでるのは連中の方なんじゃないか。なあ、おまえは、そう思わないか。だからやっぱり、これはおかしな話なんじゃないか。 &lt;br /&gt;少年は、なんだか、自分と彼女が、この世界にたったふたりっきりで取り残されてしまったような気がした。世界中の全てのひとたちと、自分たちふたりが、どうやったって永遠に理解しあえないような気がして、そうして、永遠にふたりでおいてけぼりにされてしまったような気持ちがして、とてもとても悲しくなったんだ。 &lt;br /&gt;少年は、この場所にいることが、最早一秒ですら、どうしても耐えられなくなってしまった。それでタイミングを見計らって、こっそりと棺に近づいて、人形みたいになった彼女の顔をのぞきこみ、やさしくその冷たい頬にふれた。それから、ポケットから枯れた薔薇の花びらを何枚か取り出し、静かにそれを差し込んで、彼女に別れをつげたんだ。少年は、式場の外に出て、駅に向かって駆け出した。そうして、たった七百円の持ち金で、電車にとびのったんだ。どこに行くかなんてこれっぽっちも決まっちゃいないが、それでも少年は、なんてったって絶体絶命に、誰も知らないどこか遠くにいかなくちゃあならなかったんだからな。そうさ、それだけは決まってた。夕焼けの赤が、車内を鮮やかに染めていた。ごとごとごとごととゆられながら、少年は腕組みをして、支離滅裂なことばかりを考え続けていた。どうして自分が生きているのか、どうして彼女はいなくなってしまったのか、どうして自分はここにいるのか、どうして自分はこんなにばかなのか。ぐるぐるぐるぐると、いくつもの考えは浮かんではあざ笑い、そうしてまたすぐに消えた。車窓から眺めるビルや家は、赤々とした光にいまにも溶け出してしまいそうで、少年はどうして世界は溶け出さずにいるのだろうと考えた。 &lt;br /&gt;少年は完全に陽が落ちたのを確認すると、その次の駅で、全く無計画に電車をおりた。なあ、東京育ちのおまえにはわからんかもしれんが、さびれた田舎の星ってのはやたらに綺麗だ。明るくって、夜道を煌々と照らすくらいだ。少年はあたりに誰もいないのを確認すると、何食わぬ顔で柵をとびこえ、ひらけた外にでた。少年の耳元を生暖かい潮風が吹いた。海沿いの小さな町であった。道なりの遥か下の方に見える黒々とした海に向かって、少年はてくてくと機械的に歩いていった。海にはつき光が落ち、光の滴が楽しげに踊り続けていた。少年には何のあてもなかったが、少年には自由があった。」 &lt;br /&gt;Ａはつまらなそうな顔をして、静かにタバコを揉み消した。ぼくはあっけにとられて、口をあけたまま彼の話に聞き入っていた。窓の向こうでヤンキーのバイクが、けたたましく彼方へ走り去っていった。 &lt;br /&gt;「まあ、なんだかんだいって所詮中坊の家出だからな。ひとりで子供が夜中にふらふらしてんのを黙ってみてる警察なんていないわけで、あっという間に家に連れ戻されちまったよ。そんなわけで二日家を空けた少年はうまれて始めて親父に本気で殴られたわけだ。けれど少年は思うんだよ。今までの何もなく平和な日々が本当だったのか、今日から生きていく自分が本当のことなのか、生きるっつうのは当たり前だが痛いんだからな。そうだ少年はその日からこの世界相手に、たったひとりで戦争を始めたんだ。世界の終わりさ。最終戦争さ。物語の終わりは、少年の壮絶なる戦死で初めから決まってる。でもねえ、これって変な話だよな。まったく変な話なんだけどさ。でも、やっぱり、彼女が死んだから少年は生きることができたのさ。だって、誰も死ななかったとするならば、やっぱりそれは……みんな死んでるのとまるで同じことじゃないか！ &lt;br /&gt;しばらくして少年は、人からのまた聞きで、生前お姫様が、少年がギター弾いている姿が格好いいとか友達に言っていたらしいということを知る。そう言えば少年は確かに、一度みんなの前で、へたくそな歌とギター演奏を披露したことがあったのだった。果たしてこの話が本当であるかに関しては、まるで確証がなかったのであるが、やがて少年は何かに取り憑かれたように、昼も夜もなく、指先を血豆だらけにしてギターを弾きまくるようになる。彼女に憑かれてたのか、自分に憑かれてたのか、はたまた生きるということに憑かれてたんだか、それはわからないのだがな、しかしな、龍郎よ」 &lt;br /&gt;突然Ａが顔を上げた。「なあに、三文小説さ。だけどな、この小説はこう締めくくられるんだ。『少年は、あのとき、世界中のどんな連中よりも、自分と彼女の方が絶対に正しかったんだってことを証明するためだけに、今もギターを持って歌ってる』ってな。なあ、ろくな小説じゃなかっただろう？」Ａは真っ青な面をして、ぼくの目を真正面から直視した。その目は烈火のごとく燃え上がり、今までぼくが見たどんな眼よりも強く、激しい情念を宿していた。 &lt;br /&gt;この話を聞いて以来、尚更ぼくは彼のことが大の大好きになった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-4584183404282894935?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/4584183404282894935'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/4584183404282894935'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/07/blog-post_29.html' title='友達の話（終わらない話にかえて）'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-6508189699418812874</id><published>2008-07-16T06:10:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:11:24.438+09:00</updated><title type='text'>閑話休題</title><content type='html'>アマゾンからグレーバーのアナーキスト人類学のための断章が届いてハッピーになってます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日は円盤で古本市があったらしい、それから靖国神社で御霊祭があったらしい、どっちも行きたかったなあ…でも今は勉強。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;---&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;毎回長々と日記書く度につくづくなんでこんなもん書いてんのかなあ、と思う。黙ってバンドでもやってた方がクールだしロックっぽいし、何よりモテそうだ。小さい時から小難しいことばかり考え、しかもついそれを喋ってしまうという性格のせいで大分損している気がする。この国では難しいことなど考えない方が得なのだ。東大生や官僚と言うだけで、どこか性格に破綻を来していたり、悪いことをしているに違いないと言われる。一方思いやりのある人間になって欲しいというだけでゆとり教育という名の学力崩壊が簡単に行われる国だ。どうも真面目に物事を考えるという態度に対して、日本人はバカにしてるところがある。難しいことなんて考えない方が絶対に得だ。「ぼくは難しいことなんてわからないけれど…」で始まり、あまり意味はないが一見深そうに見える言葉で締めるのが、一番好印象を与える意見である。それがわかってるんだったら、どうしてそうしないのだろうかとも思う。恐らくプライドがそうさせないのだろう。こちとら真剣に考えてるのに、何も考えてない連中に無理に合わせるのなんて、考えただけでも身の毛がよだつ思いがするからだ。&lt;br /&gt;でも、よく考えたらぼくは、中学の時からずっと、何も考えてないくせに思わせ振りなことばかり言う、そうして、お互いわかりあった気がして安心しきったような表情をしとる連中を何より軽蔑して来たんだった。ロックも文学も、お互い分かったような気になれるツールの最たるものだが、大体ぼくはロックが好きとか、文学が好きとか、そういう連中を何より心から軽蔑しとるんだ。そういうやつは、どうせろくな文学もロックもやらんに決まっとる。せいぜいが文学ファン、ロックファン止まりといったところで、到底自分だけのロックや文学を生み出すには至らぬ。重要なことは、ロックや文学ではなくて、それをやらざるを得なくなるあの鬱屈した血だ。あの凄まじい熱量をもった血こそが、ロックだの文学だのをぶち壊すんじゃあないか。それをパンクと呼ぼうが、無頼派と呼ぼうが、デカダンと呼ぼうが、不良少年と呼ぼうが、鬱屈した熱い血にとっては全く関係のないことだ。ところがお前らと来たら全く、自分という名の存在に耐えられなくなるからと言って飯ばかり喰いやがって。集団で牛丼たべて孤独な思いを消せたような気になるんじゃない。&lt;br /&gt;重要なのは如何にじゃなくて何をだと、そういうスタンスでずっと生きてきた。内容もない癖にとりあえず何か新しいことをしようとか、それはぼくにとっては全く下らんことだ。内容さえ手に入れば、ぼくとって、その形はロックだろうが文学だろうが何だっていいのだ。ぼくにロックだの文学だのにうつつを抜かしている暇はない。それは趣味人のやることだ。それよりも血だ。あの熱く鬱屈した血なのだ。ロックにも興味はない。文学にも興味はない。哲学にも興味はない。政治にも興味はない。芸術にも興味はない。セックスにも興味はない。自分にも興味はない。この世界にも興味はない。ぼくが興味があるのは、血、あの熱くほとばしるような血、ただそれだけだ。多くの人たちが楽しそうにロックを聞いて文学を読むのを尻目に、ぼくはただ一人で、黙々と血だけを探求しよう。大体ロックが好きだとか、ライブが楽しいとか言ってる連中は、徒党を組んで安心しきっとる類の連中なのだ。ロックにすら仲間に入れてもらえないような、ライブに行っても絶望と孤独感が押し寄せるばかりで、まるで楽しめない本当に孤独な人間の気持ちなど、連中には逆立ちしたって永遠にわ&lt;br /&gt;かりゃしないのだ。連中は楽しく幸せそうにロックでも聞いてればいい。ぼくはそれよりも血だ。あの血がこの身を流れるならば……あとは何だってくれてやろう。音楽も、文学も、この命も、好きに持ってけ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-6508189699418812874?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gndh.blogspot.com/feeds/6508189699418812874/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=7498498870623838359&amp;postID=6508189699418812874' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6508189699418812874'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6508189699418812874'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/07/blog-post_1238.html' title='閑話休題'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-3216316029017012467</id><published>2008-07-16T06:09:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:10:32.671+09:00</updated><title type='text'>終わらない話２</title><content type='html'>さて、じゃあ続きを書くとしようか。 &lt;br /&gt;思索なぞ、ひとりでは深まらないものであーると言ったのはソクラテスであーる。そんなわけで、この日記は、いただいたコメントに関して、こちらもコメントを返しながら思索を深めていくものとしようと思っているのであーる。 &lt;br /&gt;早速いくつかコメントをいただいた。 &lt;br /&gt;とくに大さんからのコメントについては、ぜひとも意見を述べておく必要があるように感ぜられた。なぜなら大さんの意見は、科学的な立場で「死」を考えた場合の最終的な結論となりえるように思われるからだ。個体の寿命というのは、生命が進化の過程で手に入れたものであり、生物とは本来不死の存在なのだとする考え方は、実は生物学の世界ではそんなに特殊なものでもない。アメーバには寿命がないという単純な事実から素直に演繹してゆけば、わりとすんなりと結論づけることができる。東京大学名誉教授で理学博士の木下清一郎などはこの問題の日本での旗手である。ただしこの理論に関しては、かつてナチスが障害者虐殺の理論的基礎に利用したという歴史的経緯（つまり劣った遺伝子でしかない身体障害者ないし精神障害者は一向に殺しても問題がないという理論である）から、第二次世界大戦後、とくに文系学問（社会学・歴史学など）からは抹殺され、なかったことにされてしまったという事情がある。もちろん木下清一郎ら生物学者らはこの考えを単純な学問的興味から唱えているだけなのであるが、政治に利用されたら大変危険な理論であると言うことである。 &lt;br /&gt;さてぼくは、この意見を、科学的な立場で「死」を考えたときの最終的な結論になりうると答えた。科学的、というのは、主観をとりのぞいた、客観的な立場での、という話である。しかしこれは、ぼくの話そうとしていることとは少し違う。 &lt;br /&gt;大さんはぼくの、「人間は生きているが、なぜか死なねばならないという点がそもそも不条理の始まりだ」という考えに対し、生物学的に遺伝子は受け継がれるという立場から、人間を個体生物学的にではなく、系統生物学的にとらえ、親が子、子が孫にと、その遺伝子が受け継がれていくという点において人間は「遺伝子」というレベルにおいて、本当は不死なのだとし、だから「優秀な遺伝子」は「永遠の命を手に入れる」のであり、「世代交代」は「劣った血」を自然淘汰するための作業であると結論づけた。これ自体は全く矛盾のない考えであり、なんら問題がないだろう。（問題があるとすれば、その自然淘汰を、誰か、が、人為的に行うということである。自然淘汰はその名の通り自然が行うものである。） &lt;br /&gt;しかしこれでは、どうして「優秀な遺伝子」が「永遠の命」を手に入れる必要があるのかが説明できない。生物の寿命とは何かついて説明をすることはできていても、なぜ人は生きているのかを根源的に説明することにはならないのである。 &lt;br /&gt;生物が本当に「優秀な遺伝子」によって「永遠の命」を手に入れ、完全になることを望んでいるならば、初めから存在しないほうがよっぽど完全だろう。けだし死や無ほど完全なものはないからである。しかしなぜか生物は、無と死を断固拒否して、生なんて皆目中途半端なものを選び出し、生きるなんてことを始めてしまった。これが生物の全く意味不明、理解不可能、奇妙奇天烈摩訶不思議な部分なのであって、科学的思考では到底たどり着けない地点である。小林秀雄はかつて死人の方が生きている人間よりよっぽど人間らしいといったのだが、ぼくに言わせれば人間より動物の方が、動物より石ころの方がよっぽど確かでそれらしく完全だ。全くあきれたことに人間ときたら、毎日無駄に射精したり無駄に殺してみたり無駄に採ってみたり無駄に傷つけてみたり無駄に呪いあったり無駄に愛し合ったり、全くどこをとってもまるで不完全で意味のないことばかりしている。そのくせ、自分が遥か昔に捨ててきたはずの「完全」を、どこかでずっと求め続けてる。あのかつて人間が海で星で砂であったときの完全を、異様な姿をして彷徨い求め続けている。しかし奇形児となり神を棄てたのは他ならぬ人間自身ではなかったか。こんなにも醜い異形の姿に変わり果てたのは、神を棄てた罪深き人間への世界からの罰だろうか。 &lt;br /&gt;なぜ人間の根底は不条理で、理不尽で、狂気なのだろうかという問いには、こう答えよう。死と虚無こそが条理であり、理にかなったことであり、正気であり、完全なのである。しかしその死と完全を棄て生と不完全を選んだところに、人間のデタラメと理不尽さの原点がある。そうして、その理不尽こそが生そのものなのである。またその逆を突けば、科学は、理性と条理、合理主義に基づくという点において、生とは正反対の、謂わば「死の思想」である。科学は全く、あらゆるものを、生きぬ「物」として扱うことにより、コントロールしようとする思想であった。だから、科学に囲まれた我々の生活は、常に「死」に囲まれた生活である。先述の通り、科学は人間の不条理と狂気を、「それをそれとして置いて」おいた。だから、科学が人間と自然を分離したとき、人間の側に残ったのは不条理と狂気、即ち「生」それだけなのであった。かつて人間の中にも自然の中にも死と生は等しく存在したが、科学は人間に生を、そして自然に死を、無理やり押し込めてしまった。神が死んだのではなく、本当は自然が死んだのである。そうして人間は「死んだ」自然を利用しつくし、自らにその全部を課せられた「生」という狂気に、とうとう発狂にまでおいやられる運命となった。死をふくみこんだ生の概念を実存というが、人間は科学によってまことに実存を失ったのである。 &lt;br /&gt;しかしその科学とても、あるひとつの一方的な物事の見方に過ぎないことは最早明白である。我々はほとんど中世の人間が宗教を信じたように科学を妄信しているが、実のところ科学もまた客観性の仮面を被った主観に過ぎないのである。というのも、例えば先述の、大さんが主張した遺伝子不滅説なども、「政治的に利用される恐れがある」などという理由から無視されていたりするのだし、要は人間、自分に都合のいいもの以外信じることの出来ないようにできているのだ。第二次世界大戦前、ヨーロッパの哲学の中心はドイツ観念論だったが、戦争が起こってナチスがフランスに負けた瞬間に、これがフランスの謂わば現代思想と呼ばれる哲学に移行したのは一体どういうことか。本当にドイツ観念論よりもフランス現代思想の方が真理に近いというのだろうか。そんな馬鹿な話もなかろう。ドイツは戦争に負けたから、沈黙しただけである。 &lt;br /&gt;科学だろうが宗教だろうが、それはあくまで人間が世界に「こうであって欲しい」と思う願望を示した、人間の幻想妄想を投影してみたものに過ぎない。政治や芸術やＳＭがそうであるのは非常にわかりやすいことであるが、宗教や科学は客観性を偽装するからその分余計にやっかいだ。時に人は宗教や科学が人間の幻想妄想に過ぎぬということを忘れて、本当にそれが真理であるように思い違いをし、狂気の沙汰においやられてしまうのであるが、それはあくまで妄想に過ぎぬことを理解せねばならない。では、ぼくは妄想を棄て、真理を理解しろというのだろうか。違う。既に何度も繰り返したとおり、人間の所産は全て妄想幻想の類なのである。政治も、思想も、宗教も、哲学も、科学も、芸術も、性すらも、全ては妄想だ。真理なぞというものはどこにもない。真実や真理というものは、「そういうものがあって欲しい」と考えた人間の妄想から生まれたものである。死には何も無いから、人間は生の中で真理と神を妄想した。妄想するということこそ生きるということそのものなのであり、愛の幻想や、宇宙の真理という妄想や、変態性欲や、想像の共同体や、あの、全てが溶け合ってつながったような気がする瞬間を、ただの妄想に過ぎないと切り捨てることは、ただ再び人間が、あの何も無かった、砂であった時に還って死ぬということであり、決してそこから生は立ち現れてこないのだ。 &lt;br /&gt;さあ、生きるということを考えよう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-3216316029017012467?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3216316029017012467'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3216316029017012467'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/07/blog-post_16.html' title='終わらない話２'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-4071387992991779782</id><published>2008-07-11T06:09:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:09:35.774+09:00</updated><title type='text'>終わらない話</title><content type='html'>「ぼくは普通の人と違う、だってぼくはこんなにもどこか変わっているのだから」と言いたいのだが、しかしそう考えることこそは胸がこそばゆいほどに人と変わってないのであり、言葉は喉もとを過ぎかけて、ごきゅりと飲み下さざるを得なくなるのである。しかし飲み下したからと言ってそれが消化されるわけもなく、そもそもが消化不良を引き起こしたからこそ嘔吐に結びついたのに違いないのであった。「ははあしかしなるほど君、しかしなるほどそれはねえ、やっぱりみんな考えていることで、ははあ君だけに限ったことじゃないのだよ」しかしみんな考えているからといって決してそれが解決になるわけでもないのである。「ああ、私もそんなこと考えた時代があったわ、君は若くていいわね」しかし彼女はただそれに負けてしまっただけなのであって、決して彼女がそれを超越したわけでもないのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分が他人に比べて何か変だという違和感に対して、超越的態度をとってみせること、冷笑を浴びせることは、エロスを前にしたひきつった笑いに似ている。彼は恐怖におののいているのだ。彼はその本能的危機回避によってエロスや自意識を即席的に客体化し、自分はまるで関係ない人間、ただの観客ですよと言った体を示してみせ、冷や汗で掌をくちゃくちゃにしながら口笛を吹いてみた。そうして、いまだに「ぼくは普通の人と違う」と言って真剣な人間を、指差して「ほらみろ、あいつ泣きべそかいてやがるぜ、」とやるのである、今にも失神しそうなほどに青い顔をしながら。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分を即席的に観客にして、ステージに上げた人間を笑いものにする。こういった無責任傍観者的態度はいかにも臆病な連中につきものであるが、連中の恐るべき性格は、もしも近くに道化がいないと、無理やりにでも誰かをステージに上げてしまわないことには気がすまないことである。連中は満足だろうが上りたくもないのに上らされた人間はたまったものではない。何もできないのに、何かやれといわれているのだ。そうして連中のかわいそうな犠牲者がとうとう泣き出してしまうと、ほれみろ、あいつとうとう泣きべそかきやがったと言って溜飲を下げるのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは格好が悪くてもスマートなやり方でなくても「やっぱり私は普通の人と違う」と騒ぎ立てている人間の方が好きである。こういう人間は、確かに面倒くさい人間でもあるが、しかしながら確かに愚直で正直でもある。何より、臆病者でない。ぼくは臆病者が一番嫌いだ。自分の弱さを棚に上げて、人にその弱さを押し付けるこのやり方が一番きらいだ。弱くたっていいじゃないか。少なくとも逃げはしなかったのである。だからぼくは意地でも「ぼくはやっぱり普通の人と違う」と言い続ける人間を応援する。だってやっぱり、みんながみんなそうであったとしても、そう思っている限り、ぼくはやっぱり普通の人とは違う、変わった人間なのだから。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間なんて理不尽なものだ。特にエロスなんてデタラメの最たるものだ。本当に生殖が目的なら、穴に棒を入れるだけでよろしいじゃないか。ところがデタラメな人間と来たら、もう違う穴に入れてみたり、偽物の棒を作ってみたり、街中で棒をみせつけて喜んでみたり、棒と棒をぶつけて喜んでみたり、穴と穴をぶつけて喜んでみたり、中には棒も穴も使わずに喜んでいるやつまで現れる始末だ。神様がみたら、今度こそ本当に洪水起こすぞ。ところが人間ときたら、この神様のお怒りまで棒や穴を気持ちよくさせるためのものなどと思いつきかねないのだから、全く食えた代物ではない。こんなデタラメを心底に抱え込んだ人間が、自分自身に恐怖するのもムリがないのであって、だから人間は笑いを作り出した。笑いこそは、自分のことを棚にあげて、他人事に転嫁せしめるという、人間が生み出した思想上の大革命であった。笑いとは哀愁であるといったのはチャールズ・チャップリンであったであろうか（嘘八百であったらごめんなさい）。これは恐るべき真実をついた言葉なのであって、チャップリンは（チャップリンじゃないのかもしれないのだが、）笑いが人間とこの世界の理不尽さに対する諦めからやってきたものだということを知っていたのである。時に笑いが生み出す残酷さも、きっとここからやってきたのに相違あるまい。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本人は古くから「笑い」というやり方を大いに愛してきた民族なのであって、例えば西洋のポートレイト画には、描く人間と描かれる人間の、謂わば一対一の視点しか存在しないのであるが、ところが日本の似顔絵、浮世絵、漫画、絵巻物の類ときたら、描く人間と描かれる人間ではなく、それをみておもしろがる観客という第三者の視点から描かれているものなのである。この視点こそ正に日本人伝統のやり方である「客体視」の原点なのであって、それは現在までの異常なまでに発達した日本のお笑い文化や、アニメ映像にまでつながってしまっていることはいうまでもないだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういった、日本人のすぐに他人をステージに上げて傍観者を決め込むやり方は、恐らくは日本人の現世を仮のものとしかみない宗教観から現れたものである。「露と落ち露に消えにしわが身かな 難波のことも夢のまた夢」と秀吉が歌ったとき、確かにあれほどの巨大な権力と名声を手にしたところにおいても、日本人には現世とは夢のまた夢に他ならないのである。だから、日本人は、根っから諦めきっているのだ。これが西洋人なら、ショウペンハウエルだのニーチェだのドゥルーズだの、顔を真っ赤にして悩みに悩んで最後は自殺してしまうのに相違ないのであるが、日本人はどこかで人が神にはなれぬということを諦めきってしまっているのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういえば、秀吉といえば坂口安吾は、所詮西洋人には、竜安寺や方丈記といった程度にしか日本人の思想を理解しえないが、本当の日本人の思想とは、秀吉の金の茶室だし東照宮であると言った。これはぼくはもう諸手を上げて大賛成といったところで、初めから「庭や建築に『永遠なるもの』を作ることはできない相談だという諦め」が、日本人に「茶室的な不自然なる簡素」、中途半端な永遠を排させて、「人力の限りをつくした豪奢、俗悪なるものの極地において開花を見ようと」させたに違いないのである（日本文化私観）。ぼくは実はディズニーランドなるものが大好きなのであるが、あの楽しそうで悲しい巨大な人工物は一体、人間のなせる所業なのであろうか。あそこには何もない、竜安寺よりも桂離宮よりも何もない。あるのはただただ楽しい楽しいプラスチック製のユートピアである。ぼくはあそこに行くたびに涙が出そうになるのだ。ぼくは夜の闇に青白く浮かび上がるシンデレラ城に、嘘つきねずみの涙をみる。ああ、このあまりに巨大で美しい構築物は、何もない。ないから、こんなに大きく、美しくしたためたに相違ないのだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本人が諦観を究めて笑いにその思想を発展させた一方、西洋哲学はどこまでも神と一対一の関係であろうとし続けた。この考えはやがて科学という形で現世から逆襲を喰らうことになるのだが、正に科学とは、笑いとは異なる、西洋流の、オルターナティブな客体化の方法なのであろう。つまり西洋流に自分のことを棚にあげたのが科学だということである。ただし笑いともっとも異なる点は、諦観がその思想の底流にないというところである。笑いは、どこまでもこの世界の不条理さを根底に据えて作られた思想なのであるが、科学はこの世界の不条理さを、自分から綺麗に切り離して考える思想である。不条理や、理不尽を全部、「それはそれとして」置いておく思想である。もちろん置いておいたのは単純に置いておいただけのことなのであって、不条理さがいつの間にか自然に消えてなくなってしまったりするわけでもないから、科学が進歩すれば進歩するほど人は余計に悩むことになる。（だからといってぼくは笑いを高く評価しているというわけじゃあない、だって笑いという思想もまた、堕落すればすぐに諦観を忘れてしまうものだから。それはもはや思想としては無効化してしまった、ただの機械的顔面のひきつり現象である。狂気とすれすれの境界線にいるから笑いには意味があるのだ。狂気と真剣に向き合わない笑いは救いにもならない。） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;で、西洋が科学を不条理と分離したのはよろしいが、その分離した不条理がどこにいったかというと、これがイデオロギーや、ナショナリズムや、変態性欲や、芸術に行った。これらは本来全てキリスト教が担っていた狂気や不条理なのであるが、ニーチェが「神は死んだ」と絶叫したときに、（別にニーチェが絶叫したからキリスト教が雲散霧消したというわけではないのだが、）キリスト教はヨーロッパ大陸の空に雲散霧消し、行き場を失った不条理と狂気はこれらのこまごまとした近代人の宗教ごっこへと逃げこんだのである。少し考えればだれでも気づくことだが、共産主義だとか、国粋主義だとか、やってることはほとんど宗教に他ならない。彼らはマルクスを崇拝し、日本を崇拝し、女王様を崇拝し、自らの芸術性を崇拝するだけである。これら宗教ごっこは、究極まで行き着くと、次第に具象が消えて観念化してくるのだ。ぼくは常日頃から自分はド右翼であるといって憚らないが（この際だから言っておくが、ぼくは保守主義者や、現実主義者ではない。ラディカルな極右翼である。決して間違えないでほしい。）右翼もとことんまでやると、具体的な領土問題とか、安全保障とかが、本当にどうでもよくなってくるのである。それどころか、天皇という国体の根幹すらが、日本という唯一絶対のものを汚すよろしくないもののように思えてくる。はっきり言えば天皇なんてのは偶像崇拝である。本当の日本は、そんなものではない、唯一絶対なのだから、だいたい「日本」「日本」などと気安く名前を呼ぶこと自体が冒涜である。これはＳＭにおいてもほとんど同じであって、ぼくは普段からドＭだと言って憚らないが、これもまた極限までいくと、どんどん相手が誰だかわからなくなってくるのだ。重要なのは脚だったり、肩だったり、痛みだったり、唾液だったり、匂いだったり、光だったりなのであって、相手を何か具体的な人間としてみること自体が神への冒涜なのである。そうではなく、ぼくが打たれているのは唯一絶対の神なのだから、女王というのはあくまで神と直結するためのよりしろ、いわばキリスト（神の子）のようなものに他ならないのであって、神そのものではない。女王という回路が神とぼくを直結するのであって、それが、どうして侮蔑される、奴隷となるという方法を取らなければならないかと言うと、恐らくこれは無意識に取られた弁証法なのだろう。つまり、死を思うことのみにして生を知ることや、虚無の中からのみ神が生まれることや、呪うことによってのみ愛を知ることと、全く同じやり方で、泥にまみれることでのみ最も崇高なものを知るといったところである。対称物は極点において同化する。だから、本当の死だけが本当の生を生きるように、本物のマゾヒストだけが本物のサディストだし、マゾとサドというやり方は、結局人間は絶対に理解しあえないのだという極地でのみ理解しあえるという思想なのである。人間同士があまりに離れあった存在であり、どこまで行っても理解しあえない、あまりに遠いもの同士であるということを、力関係というベクトルで表現したのがＳＭで、そうして、女王と奴隷は、決して理解しあえないのだという点において初めて愛し合えるのである。それはやはり宗教だ。罪にまみれ、穢れを嘗め尽くしたものだけが神を知ることができるということは。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間が罪にまみれているということと、人間は不条理で存在そのものが狂気であるということは、ほとんど同義である。人間は生きているが、なぜか死なねばならないという点がそもそも不条理の始まりだ。我々はほとんど暴力的にこの世界に生まれ、ほとんど暴力的に死なねばならないと言う点において、とっくに神に翻弄されているである。けだしそれが怖いから他人事にして笑ってみたり、死後や未来の完璧な世界のことを想像して見たり、死ななければならないのは誰か他人のせいだとして敵を作って憎んでみたりするわけだ。で、マゾヒズムにおいては、翻弄されていること自体が気持ちよくなっているという点において、これはほとんど究極の思想とすら言えるかもしれない。性的なものでないマゾヒズムというのは、非常に長い歴史があるのであって、特にキリストの受難なんか繰り返し繰り返し描かれてきたわけだけれども、これはなぜかと言うと、この世界の全ての罪を背負うことによってのみ、神と直結することができるということを人々は知っているからである。これはマゾヒズムの思想そのものだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは右翼だのマゾ奴隷だの芸術だのやってるうちに、結局宗教まで行き着いてしまった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この話は終わりが無いから、毎日少しずつ書いていくことにしよう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-4071387992991779782?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://gndh.blogspot.com/feeds/4071387992991779782/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=7498498870623838359&amp;postID=4071387992991779782' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/4071387992991779782'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/4071387992991779782'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/07/blog-post_11.html' title='終わらない話'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-2546505389617028376</id><published>2008-07-04T06:07:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:08:37.610+09:00</updated><title type='text'>流れ出す血液</title><content type='html'>「目に見える世界の直下で得体の知れないものの巨大な動きがはじまった。それは、予想もつかぬ圧力と緊張のエネルギーをみなぎらせ、満ち干を繰り返す、灼熱した液体をなみなみとたたえた海であった。」（W.Erbt） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「打ちつける怒涛のように煙が噴出してきた。真っ黒い泥濘と泡と飛び散る土くれ、石や氷の塊からなる涙。うなりをあげて跳ぶ飛沫と、轟々たる爆発物のガスからなる竜巻と共に五重の死がやってくる。彼の目は大きく見開かれ、心臓は一斉に広がり、再び燃えながらはじけて縮み上がる。……神代、大地は融けてはじける泡の立つ粥かぬかるみに姿を変えてしまったのだろうか。爆発したガスと圧力と内部の溶岩流によって垂直に宙へと吹き上げられているのだろうか。それは汚物と吐瀉物からなる大洪水なのだろうか。」 &lt;br /&gt;(F.Schauwecker) &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは放出を必要とした。流れるもの、私の中に流れる熱を帯びたどろどろの粥状の血液が沸騰し、射出する先を求めて体内を循環した。身体から流れ出るとは、一体何が流れ出るのだろう。我々の身体には、一体何が流れているというのだろう。涎、涙、血液、精液、吐瀉物、糞便、これらを沸騰させ、流れ出すことを必要とする火鍋とは一体何なのだろうか。確かに、精液は射出されるべき粥状の血液そのものであった。ペニスというリボルバーから撃ちだされた沸騰する血液は、必ずや敵を見つけ出し殺戮することで満足する必要があった。どうしても敵がなければ自らを殺戮する。こうしてオナニズム（ナルシズム）とマゾヒズムの連帯が、自明のものとしてしてそこに生まれる。 &lt;br /&gt;人間の身体に、ナイフを突き刺す時に得られる興奮と、同じくペニスを突き刺す時に得られる興奮は、言うまでもなく同様のものである。拷問や剣闘士の闘いは、常に上流貴族にとって最上級のポルノグラフィであった。そうして、恐らく他の生物種に見られぬ人という種のだけの異常な偏執狂的な行動の本源は全てこれだ。流れ出し、溶解させ、破滅する。（させる。）敵が、敵が必要だ。敵だけが私たちの血液を受け入れてくれるからだ。戦争と革命、これらは全て射精のためのものだ。流出する血液をこぼす受け皿だ。それらは全て、平和だの正義だのというよくわからぬ大義名分のために行われたのであるが、本当のところは射精がしたかっただけのことであった。平和だの正義だのというのは堂々たる射精の大義名分に過ぎぬ。平和な世界に住む私たちには射精の大義がない。敵を見つけることすらできなかった私たちは、オナニズムそしてマゾヒズムにだけ逃げ場を求めた。繰り返し行われる自らの手による血液の流出。行き場をなくして沸騰したそれは、自らに銃口を向けてまでも流出を求めたのだ。性器的な快楽と性的な快楽は異なるが、性的な快楽におけるオナニズム・マゾヒズムは、恐らく本来的なオナニズム・マゾヒズムのひとつの（最も手軽な）回路に過ぎない。オナニズム・マゾヒズムの本性は、性的な回路という目に見える氷山の下に、巨大な抑圧回路を持って潜んでいる。自らのオナニズムを笑うな。私たちの中に流れるどろどろの血液は、外から強くぎゅうとおされることで、圧力鍋の中の粥のように沸騰し、煮えたぎり、やがて爆発と放出を求めていた。貴方はそれを直視することを恐れた。直視すればすなわち、たちまちにして貴方の血液は身体中の穴と言う穴からあふれ流れ出し、貴方は溶解し、世界と同じになり、消えてなくなってしまうに違いないからだ。あなたはそれを恐れるがゆえに笑った。青ざめたまま、笑ってそれに蓋をした。 &lt;br /&gt;かつて性が性器的なものにすぎなかった時代、性はタブーではなかったのだが、しかしやがて性が私たちの身体の中に流れる血液と結びつき始めたとき、性は恐るべき人間世界の自滅と崩壊への可能性として忌避されるに至ったのだ。しかしながらそれは、決してなくなったわけがないのであって、実際に沸騰し、流出する先を求めて荒れ狂うように体内を循環し始めた血液は誰にも止めることはできないのだ。そうして、二十世紀は戦争と革命の世紀であった。人々は流れ出すために、戦争し、革命したのだった。 &lt;br /&gt;私の血液は、私の外に出ることを求める。私の魂は、私の外に出ることを求める。私は、私の外に出ることを求める。それは死ぬということだろうか。それとも、人ならぬ神類の誕生だろうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-2546505389617028376?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/2546505389617028376'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/2546505389617028376'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/07/blog-post.html' title='流れ出す血液'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-9087297461064403837</id><published>2008-06-15T06:05:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:06:35.363+09:00</updated><title type='text'>Ｙ嬢に告ぐ</title><content type='html'>久々に大学を歩いていたら、教室に一冊、ノートが落ちていた。ぺらぺらと開いてみると、丁寧な字で日記らしきものが記してある。悪いかとは思ったのだが、読んで見ればあまりに滑稽で、阿呆らしく、抱腹絶倒、腹がよじれて涙もとまらないといった調子であった。あまりにおもしろいのでここに転載する。読む阿呆に書く阿呆。諸君らも、大笑いすること請け合い。暇つぶしくらいにゃなるだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;----------- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくは嘘ばかりついてきた。父さんにも母さんにも、友達にも、最愛の人にすらも。怖かったのだ。本当のことを言えば、誰もぼくのことなど許してくれるわけがないと思っていたのだ。ぼくは大げさな人間だ。大げさにしなきゃ、誰もぼくのことなど見てくれないと思っているのだ。人よりずっとすごくなくちゃ、誰ひとりふりむいてくれるわけがないと思っているのだ。だから嘘をついてでも、人の気をひくのだ。みんな簡単にだまされた。ぼくが愛しているというと、みんなぼくが愛しているのだと思った。ぼくが苦しいというと、みんなぼくが苦しいのだと思った。ぼくが笑顔でいると、みんな安心してよりそってきた。人をだますのなんて簡単なのだ。真面目な顔つきで真剣に話せば、どんな嘘でも本当に聞こえる。ぼくは人間なんて、なんて簡単なんだと思った。人間なんて、その程度の、くだらないものなのだと思った。小さい頃から、ぼくには、自分以外の全ての人間をくだらないものと見下すくせがついていた。どうしてこんなに簡単に、みんなぼくの思い通りになるのだろう。ぼくはそのうち思うようになった。ぼくは神様にえらばれた人間で、神様になんらかの理由でこの地球に送り込まれたのに違いない。そうして、このえらく愚鈍な、羊の群れたちを導くことがきっとぼくの使命なのだと。ぼくは神様のことばかり考えるようになった。そうして、どうしたらこの世界を救えるかばかりを考えていた。 &lt;br /&gt;大学生になって、女がぼくに言い寄ってきた。大して美人というわけでもなければ、何か取り柄があるというわけでもない。地味で、何も知らない、やたら髪の長い、あどけない顔をした女だった。色は白く、笑うと頬はリンゴのように赤くなった。女はぼくについてまわった。どうやら、ぼくのことをいい人だと思い込んだらしい。そう、この女もほかのみなと同じだった。ぼくの嘘に簡単にだまされたくだらない人間だった。話にもならない。ぼくは鼻でわらった。ぼくはどうせ女と付き合うなら、ものすごい美人とつきあおうと思っていた。それも、ただ単純に、悪魔のようなセックスをする、ただそれだけのために。こんな女、神様に選ばれた自分とまるでつりあうわけもなかった。 &lt;br /&gt;ただ、ふと思いついた。こんな女でも、もしかしたら、ぼくが未来にぼくとつりあうくらいの美人を口説き落とすときのための、嘘を磨くための練習台としてはいくらばかりか役に立つかもしれない。ぼくは女をからかうつもりすらなかった。ただ、練習台にちょうどいいと思った。それに、女も神様に選ばれた人間と付き合えるなら、練習台にされたって幸せだろうと思ったのだ。 &lt;br /&gt;すぐさま彼女の目を真剣にみつめながら、君の目は素敵だから、好きになってしまったと伝えた。女は狂喜して喜んだ。まるで子供のようにその赤い頬をなおさら赤くさせてきゃっきゃきゃっきゃと跳ねていた。ぼくは思わず笑みがこぼれてしまった。かわいいと思ったからではない。本当にばかすぎて笑ってしまったのだ。なるほどやっぱり世界なんてこの程度のものらしい。全てはぼくの思い通りで、どうにでもなるんだから。 &lt;br /&gt;せっかく女とつきあったのだし、性欲もたまっていたから、女とセックスでもしようかと思った。ぼくは世界の救世主なのだから、もうしばらくしたらすごく有名になるに決まっているのだし、そうしたらこの女をすてて、毎日とっかえひっかえ色んな美人とセックスでもしよう、それまではとりあえずこの練習台で我慢しとこうと考えた。女は簡単にぼくと寝た。結ばれるときには女の名前と、優しい言葉をたくさん耳元で言ってあげた。それから終わったあとは、やさしく頭をなぜながら、腕枕をして一緒に眠ってあげた。練習台にしちゃかわいがるじゃないかというかもしれないが、終わった後に急に態度を変えるなんていうのは、ぼくから言わせれば嘘の二流か三流もいいところで、そういうところがぼく以外の人間の愚鈍も愚鈍たる由縁である。次から練習台が練習台として使えなくなってしまうではないか。練習台にもケアが必要である。もちろん棄てるときも美しい言葉をふんだんにちりばめて、後の自分の輝かしい名誉を汚さぬように気をつけるべきだ。一日に一度は「愛してる」といって安心させてやるべきだろう。二週間に一度は花をプレゼントしてやった。五百円のやつでも、道端で拾ったタンポポでも、なんでもいいのだ。たったそれだけの努力で女はまた頬をリンゴのように赤らめて、練習台としての役割をちゃんと果たしてくれる。 &lt;br /&gt;女はいつでもにこにこしていた。こっちが嘘をついているとも知らずに、あんまりにこにこしているから、ばかなのじゃないかと思った。女はまるでぼくを疑わなかった。確かにぼくの嘘は完璧だったから、普通の人間には見抜けるはずもなかったが、それにしたって女があんまりぼくを疑わないで、いつもきゃっきゃと歓び、鳥のようにぱたぱたしているものだから、ぼくは更に実験をしてみることにした。どれだけひどいことをしてやればこの女は傷つくのかということである。ぼくはベッドの上で女の頬をひっぱたいたり、けっとばしてやったり、最中にひどいことをささやいてやったりしてやった。女はとうとう泣きそうな顔をした。ぼくはしてやったりと思った。ただ、それでも女は言うのだ。あなたにはどうしても嫌われたくないのだ。あなたがこんなことをするのは、私が至らないからだ。ぼくは、なんだかわけのわからない顔をして、歯を食いしばりながら、ほかの男としてこいといった。女はどんな命令にもしたがったが、これだけはしたがわなかった。 &lt;br /&gt;ぼくは次第に胸が苦しくなった。ぼくはふさぎこむようになってしまった。もしかしてこの女は、ぼくに何の取り柄がなかったとしても、ぼくのことを愛すのではないのかと思った。すごくならなければ誰もふりむいてくれない、愛してくれないと思って、たくさんのとても難しい本を読み、かっこいいバンドを作って狂人を装い（それが計算づくであったにせよのことである）、人には気を使い優しく（それが嘘であったにしろのことである）、人前ではいつでも機嫌よくさわやかに挨拶をして社交的で快活な人間を装い、（たとえ舞台裏で舌をだしていたにしろのことである）、そうして練習台の女にはたくさん花をくれてやった。ぼくにはもう、自分が、人にふりむいてもらいたくて嘘をついているのか、それとも人をばかにして嘘をついているのか、わからなくなってしまった。ぼくにはわからない、ぼくから大量の思想の知識や、かっこいいバンドや、人に気を使うことや、社交的な性格や、女にくれてやる花をのぞいたら、一体このぼくに何が残るというのだろう。神にえらばれなかったぼくなんて、本当にだれも相手にしてくれなくなるだろう。そうしてぼくはまたひとりぼっちだ。またぼくはひとりで、トイレの個室でお弁当を食べたり、名前にマジックでばってんをつけられた上履きを母さんにみつからないように、隠さなければならなくなることだろう。ぼくには何もない。びっくりするくらいに何もない。あるのは星の数ほどもある、無数の嘘だけ。この嘘で、ぼくは人をばかにし、人をふりむかせようとして、人がふりむいたら、またばかにするのだ。「今までたった一度ですら、ぼくの方をふりむこうとすらしなかったくせに、」そうして復讐しようとして、いっそこの世界をほろぼしてしまおうと、ギターをふりまわして大暴れするのだ。そうして、その大暴れすら、全部うそなのだ。ぼくが大暴れするさまを見て、涙を流したり、手を叩いてよかったといってくるやつがいたら、ばかなやつだと笑ってやろうと、いつでも待ち構えていたのだ。ぼくはいつだって神に手をかざしつけながら、殺してやる、殺してやるとうわごとのようにつぶやいていた。でも、それなら、世界を救うはずのぼくは一体何のために生きているのだろう。ぼくは神に選ばれたから、かろうじて人と対等につきあうことができるのだ。そうじゃなかったら、人とまともに目を合わせることすらできやしない。ぼくはみんなの前で土下座しなければならない、そうして、どうか仲間にいれてくださいと絶叫しなければならない。それでも相手にするものなんているものか。ツバをはきかけ、みなぼくのもとから去っていくことだろう。ぼくのことなんてしらないっていうだろう。 &lt;br /&gt;ぼくは女をほうって、違う女のところへ行った。（女のことが、なんだか怖かったのだ。）そうして違う女に、頭をふんづけ、「許してもらいたかったら土下座しろ」と言ってくれるように言った。違う女はその通りにした。色々な違う女のところで頭をふんづけてもらった。色々な違う女の前で、色々なばかな歌を歌った。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;唾液をください &lt;br /&gt;それからぼくを踏んで &lt;br /&gt;もしも許されるならば &lt;br /&gt;その手で首をしめて &lt;br /&gt;息がしなくなるまで &lt;br /&gt;太陽が見えなくなったら &lt;br /&gt;ぼくもみんなのところへ &lt;br /&gt;行ける &lt;br /&gt;だろう &lt;br /&gt;か？ &lt;br /&gt;明日が見えなくなったなら &lt;br /&gt;もうみんなは笑わないだろうか？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;違う女はみな大笑いしてぼくを鞭打った。ぼくは涙ながらに許しをこうた。ぼくがばたばたするのがおもしろいらしく、違う女はなおさらぼくを打って踊らせた。実にぼくは何度も何度も悪魔と踊ったのだ。 &lt;br /&gt;ぼくは酒におぼれることが多くなった。毎日のように朝から浴びるように飲み、気づくと路上で寝ていた。吐いても吐いても飲むことをやめることができないのだ。断言して言うが、酒なんてこれっぽっちものみたくなかったのだ。けれども浴びるように飲むと、一瞬だけ、本当の心を出せる瞬間があるような気がするのだ。そんなときは路上でもなんでもおかまいなしだった。ぼくはその瞬間に、息も絶え絶えにして止め様のない涙をこぼし、月に祈りながら道路にひざまずき、この世界を許しをこうて大地にキスをした。女がやってきて、酔い倒れていたぼくの肩を抱き上げた。その顔は実に優しい、本物の天使のようであった！ぼくはぼくの神をみつけたのかもしれなかった。もうこれ以上戦わなくても、愛してくれる人をみつけたのかもしれなかった。女は涙と鼻水と吐瀉物でぐしゃぐしゃのぼくの顔を、不思議そうに笑いながらハンカチでふいてくれた。 &lt;br /&gt;しかしぼくは怖かったのだ。もしかして、ぼくは神様に見放されたのではないかと思ったのだ。群れる羊を神は愛さない。神が愛するのは孤高の人だけである。女なしでは生きられなくなってしまったぼくを、神は堕落したとして見切り普通の人間に落としたのではないかと考えた。ぼくはそれが怖かった。神に見捨てられ全てを失ったぼくを、女が愛してくれないかもしれないと思った。 &lt;br /&gt;そうして、それよりもっと恐ろしかったのは、ぼくがこの女を不幸にしてしまうかもしれないということだった。ぼくはこの女が大切になってしまった。ぼくは生まれてはじめて人の幸福を願った。嘘も打算も全部さしひいて、蚤ほどの大きさもないぼくのちっぽけな精神が、はじめて裸で、神様に人の幸福を願った。力強い自分は、そんな自分をせせら笑った。しかしそれでもまるでかまわなかった。この女は、ぼくのような人間ではなく、本当にこの女を心から愛してくれる人と幸せになるべきだと考えた。そうしてぼくは女に別れを切り出した。 &lt;br /&gt;女はばかのように泣いた。路上でも人前でもおかまいなしだった。絶対に嫌だ、そんなことするなら死んでやるといった。そうしてしまいには、どれだけ私が悩んだと思っているのだ、どうしてこんな人を好きになってしまったのだろうと、どれだけ苦しんだと思っているのだ、心から愛してくれる人と幸せになれなんて、そんなこと言うなんて失礼だ、などと言ってぼくをののしりだした。ぼくの胸もはりさけんばかりであったが、ニ、三時間かけて再三決意は変わらぬことを伝えると、涙ながらに了解した。 &lt;br /&gt;そうして、女を駅のプラットホームまで送っていった。そうすると、健気にもぼくの手をぎゅうと握るのである。ぼくは何度神様を裏切ろうと思ったかしれぬ。けれどぼくでは彼女を幸せにできぬのだ。ぼくは唇を噛んで電車をまった。 &lt;br /&gt;窓の向こうから、涙をこぼしながらこっちの方をみている女をみていると、胸がじりじりと痛んだ。そうして、やけっぱちになって町をうろつき、ビールを飲むと、たまらなく涙がこぼれでてきてもう前も見えないのだった。何杯も何杯ものんで泥酔したが、ぼくにはやはりわからなかった。これほどまでに神と真理を渇望して、一体その先に何があるというのだろう。いいや、ぼくは君の説教など聴きたくはない。「目の前の女を泣かして、何が神だ真理だ」などという説教は、絶対に聴きたくない。そういう人間は、はじめから幸せなのだ。自分が目の前にぽんと投げ出された幸せを、当然のように受け入れる権利があると考える、とてつもなく能天気な人種なのだ。ぼくはひょっとすると、君の方がぼくよりよっぽど傲慢なのではないのかと思うくらいだ。自分には幸福になる権利がある、だって自分は何も悪いことしてないもの。ああ、鳥肌が立つ！君はぼくよりずっと嘘つきか、よっぽどの愚鈍に違いないのだ！ &lt;br /&gt;ああ、それでもぼくは、五杯目のビールを飲み干したときに、とうとう神様を裏切ってしまった！ぼくは駆け出し、終電にとびのって彼女の家まで電車で二時間、ごとごとごとごとと揺られていったのである。そうして、彼女の家の住所もよくわからぬのに、海の近くにあったはずだという記憶だけをたよりに、ひたすらにただただ駆け回り、とうとう一度だけ行った記憶がある家を見つけ出して、深夜に彼女をたたき起こした。彼女はあわてて飛び出してきて、大粒の涙をぼたぼたとこぼしながら、ぼくのことをぎゅうと抱きしめ、もう二度とあんなこと行ったら許さないといって、すぐさま許してくれた。ぼくはもう二度とこの女を離すまいと誓った。ぼくが悪かったのだ。ああ、ぼくは彼女に幾たびも幾たびもひどいことをした。許されるわけもない。神様は許してくれない。ああ、もう神様なんて知るものか。ぼくの罪も知るものか。許してもらう気などさらさらない、ぼくが嘘をつき、だまくらした人たちも、ぼくが傷つけ、いまだに苦しむ人たちも、ぼくが殺し、食べてしまった牛も豚も鶏も、みんな知らない！彼女とふたりならば、地獄におちたってかまわない！彼女が許してくれるなら、神様なんていなくてかまわない！とうとうぼくは彼女のおかげで、ぼくの中に、もうひとりのぼくを見つけたのだった。それは、ぼくが今まで野鼠のように嫌い、けなし、ばかにして、さげすんでいた、力もなく能力もないぼくである。そのぼくは神ではなく愚鈍な人だった。しかしながらぼくはこの愚鈍な人となり、再び一から神へと向かうのだ。この世界の全てが、どれだけ穢れて愚鈍でありながらも神をたたえ、許しあい、真理を愛すれば、きっと最後の日には神が全てを許されるに違いなかった。だから、ぼくはもう一度信じてみようと思った。全てをだ。全てを許さないのではなく、全てを信じるのだ。信じられない、信じられるではなく、信じるのだ。これはもう、神がいるかいないかなんてわかりっこないとか、科学がそのうち全部教えてくれるとか、そう言う問題では全くないのだ。信じるのだ。ただ愚鈍に信じるのだ。ぼくが殺した山のような屍の上に、ぼくらが抱きしめあう以上、きっとそうしなきゃいけないに決まってる！ぼくは有頂天になった。二十年以上も考えてずっとわからなかったことが、彼女のおかげで、やっとわかったのだ。都心から一時間もはなれた、海辺の彼女が住んでいた町は、空気が綺麗で、満天の星空が夜空にきらきらと輝いていた。いつしか、彼女と付き合いはじめて、五年もの月日がたっていた。 &lt;br /&gt;そうしてしばらくのこと、幸せな日々が続いた。今までできなかったことを、取り戻すかのようであった。ふたりでディズニーランドに行ったり、ごはんを食べたりした。ぼくは間違いなく、彼女を愛していた。嬉しくて嬉しくて、夜ひとりで寝ていると、いつの間にか枕に嬉し涙がこぼれた。 &lt;br /&gt;しかし、やがて彼女は引っ越しをせねばならなくなった。遠い町に、働き口をみつけたのだ。ぼくは、三十になったら、君もこっちに帰ってこれるし、ぼくも必ず君を食わせられるようになるから、そうしたら結婚しようといった。彼女はあのリンゴのような頬を赤らめて、満面の笑みで頷いた。そうしてきゃっきゃと、ウサギのように飛び跳ねた。五年前と何も変わらなかった。 &lt;br /&gt;彼女は、ぼくの知らない町に引っ越していった。 &lt;br /&gt;さらにしばらくがたち、彼女から電話で、突然別れたいと告げられた。ぼくは初め呆然とした。そうして、誰かそっちで好きなひとができたのだろうか、とたずねた。すると彼女は、今はわからないと答えた。今はわからないということは、いるということだろう。ぼくは打ちのめされたようだった。ぐうの音もでないとはこのことだった。でも、ぼくはなんだか、わかっていたのだ。昔のぼくだったら、彼女のことを、決して許さなかっただろう。やっぱりみな、ぼくのことを裏切るのだと思って、世界を恨み、悪魔になることを誓っただろう。いつしかナイフでももって街中にあらわれたかもしれない。許さない、ぼくを裏切ったことを許さない。けれども、ぼくは全然そう思わなかったのだ。愛してくれたからだ。彼女が一点の曇りもなく、ぼくのことを愛してくれたということを知っていたからだ。そこには何の疑いを挟む余地がないのだ。だからぼくはどうしても、彼女を許してやらなくちゃならなかった。それは決して、今までぼくが彼女に対して犯してきた罪にかんがみて、というわけじゃない。そうではなくて、全ての人間は罪人なのだ。あの、天使のような笑顔がにじむ、あの彼女ですらそうなのだから！人間はもろく、弱く、永遠もない。生きる場所も変われば、心だって変わってしまう。けれど、絶対に、その全ては許されるべきなのだ。だって、彼女はこんなにもぼくを愛してくれたのだから。そう、ぼくは知っていた。かつてあのお方が言われたことだ。「私は貴方が知らないと言うことをしっていた」。それは全く、恨みでも憎悪でも諦めでも、全くないのだ。そうして、それでも許すのだ。ぼくのことを誰もみてくれなかった、ぼくのことを馬鹿にした、ぼくのことを侮辱した、ぼくのことをじゃけんにした。画鋲が入った弁当をたべなければならなかった。ジャージがびりびりに破られていた。教科書に落書きがされていた。父さんのことを侮辱された。愛してないといわれた。ぼくの気持ちを裏切った。 &lt;br /&gt;しかし全てが、きっと許されるのだ。だってこんなにも彼女はぼくを愛したのだし、ぼくは彼女を愛したのだから！ &lt;br /&gt;ぼくは彼女に、最後のお願いとして、必ず、本当に君のことを愛してくれる人と、必ず幸せになりなさいと告げた。そうして、君のおかげでぼくは人間になれたんだと告げた。 &lt;br /&gt;「ありがとう。本当にありがとう。」 &lt;br /&gt;ぼくも泣いていた。彼女も泣いていた。でもそれは決して不幸と憎悪の涙ではない。 &lt;br /&gt;それは神の祝福と、愛の賛歌に違いないのだった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-9087297461064403837?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/9087297461064403837'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/9087297461064403837'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/06/blog-post_15.html' title='Ｙ嬢に告ぐ'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-6609699084335495636</id><published>2008-06-10T06:03:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:04:52.878+09:00</updated><title type='text'>ゾロアスターはかく語りき</title><content type='html'>ゾロアスターはこう尋ねた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『人間という生き物のは楽に生きようと思えばどこまでも気楽に生きられるものだ。けれど思いつめようと思えばまた同様に、どこにでも不幸は見つけることが出来る。つまるところ宗教は、どこまで思いつめられるかに違いない。神を殺した人間が産み出した三つの宗教ごっこ、これらも皆同じである。即ち、芸術、イデオロギー、ＳＭをもってこれを言う。神を信じる命は、これが受け入れられなければ、死ぬ。と、こう、ここまで思い詰められるか、どうかにかかっている。だが花子、お前は、果たしてそれを叶えているだろうか。神を目指している限りにおいて怖くて堪らないということがなかったら、絶対に嘘だ。もしこの作品が認められなかったら、自分は今すぐピストルで頭を撃ちぬかなきゃあならない。なぜって、もし、このたった一作品が認められなかったら、花子よ、おまえはまたこの世界に永遠にひとりぼっちだからだ。金輪際、永遠に誰も相手にしてくれないということを、明言されたようなものであるからだ。花子よ、おまえはかつて自ら友の交わりを断って、この荘厳な岩の内へと籠った。それでも、おまえに力があれば人は集まるに違いない。そう、100&lt;br /&gt;対１とも、1000対１とも、決して敗れさることのない圧倒的な力である。そうしておまえはまた、集まってきた新しき友を全て拒み、再びこの世界を拒否しつづけるのだ。&lt;br /&gt;だが花子よ、おまえは一体何のためにそれをやるのだ。おまえはいつも世界平和のためだとか、本当の自分を求めてだとか、にやにやとバツの悪い顔をみせてははぐらかしてすますばかりである。だが花子よ、果たして本当におまえの先に世界平和はあるのか。本当の自分などいったものがあるのか。おまえは、神の国を探すといって、かつて地上の国を旅立った。しかしおまえと言ったらここでもないそこでもないと拒み続けるばかりで、延々と安息する気配はない。しかし地上の、かつての友を見よ。おまえよりずっと豊かな心の安息を得て、幸せそうではないか。おまえは果てるかな本当に、約束の地を探しているのか。&lt;br /&gt;だが花子よ、地上の国のかつての友が、なおさらおまえの旅を続けさせる。今さら辞めたら面目も立たないし、こんなに苦しんだにも関わらず、結局地上の国と同じ程度の祝福しか得られなかったことがおまえにはどうしてもわからない。高貴な生き方をしたはずが、低劣な人間と同じしか得ないのだ。おまえにはこれが不公平に見える。もう少しだけいけば、もしかしてユートピアが見えるはずだ。そうやっておまえは旅をやめることが出来ない。&lt;br /&gt;そして花子よ、やがておまえの周りからは誰もいなくなることだろう。ここは宇宙である。おまえは遥かなる高みに達したのだ。ここには、誰の声も届かないし、おまえは誰に煩わされることもない。ここはおまえ一人だ。もちろんおまえは、自力で上ったのであるから、いつでも望むときに地上の国に帰ることが出来る。けれどもおまえはそれをしないだろう。地の汚れに穢れることを恐れるためだ。&lt;br /&gt;しかしながら花子よ、おまえは決して神ではないのだ。人の子として生まれたのだ。だから花子よ、やがておまえの足は腐りはじめ、ぼろぼろと崩れおちていくことだろう。その時に死にたくないと叫んでも、全ては後の祭りである。神は挑戦するものに、慈悲深き死をお与えになる。&lt;br /&gt;しかし花子よ。地の国にはかつて、おまえを深く愛した女がいた。おまえは地の国を離れ女からも逃れようとした。おまえは女のことなど少しも愛していなかったのだ。しかし女は、それでもおまえを許した。おまえは宇宙へと至る道であの恐るべき悪魔と次々と淫らな情交を重ねたが、それすら女は許した。おまえは知っていた、女が許すということを。しかし女は、更にそれすらも許したのだ！&lt;br /&gt;女は知っていた、おまえが悪魔にすら何も感じないということを。それどころかおまえは、神のことすらどうとも思ってはいないのだ。おまえは、神を殺してその玉座を奪うつもりであった。おまえは愛するということを知らない。しかし女は愛し続けた。おまえが宇宙に上る間、千年もの間である。&lt;br /&gt;やがておまえは砕けちった。宇宙の果てで、ひとりぼっちだった。地の国のものはおまえのことなどとうに忘れていた。ただ、女だけが、後を追うようにひっそりと入水した。そうしておまえは、今度こそ永遠のひとりぼっちである。&lt;br /&gt;おまえは確かに誰より高くのぼった。遥か宇宙まで飛び跳ねた。だが花子よ、神の前ではおまえは敗者である。おまえは負け犬だ。負け犬だから宇宙まで逃げたのだ。宇宙は、怖いか。寂しいか。だが花子よ、誰もおまえのことなど愛さないし気にもとめない。なぜならおまえが誰も愛さなかったからだ。おまえは悪魔すら愛さなかった。それどころか無償の愛すらも否定した。それはおまえにとって、真実のユートピアではなかったのだ。&lt;br /&gt;おまえは恐ろしかった。戦うことを止めたら自分に何ができるのかわからなかったのだ。だからおまえは、目の前の神の国を台無しにした。おまえは確かに強い。今のおまえには1000人の屈強な戦士もまるで相手にならないだろう。だがおまえは臆病者だ。武器ひとつもたない少女たった一つの無償の愛にすら、尻尾を巻き、恐れをなして逃げ出したのだから。&lt;br /&gt;花子よ、好きにするがいいさ。土台無理な話なのだから。そうして、どっちにしたって、女はおまえを許すだろう。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういってゾロアスターは、ひとりひっそりと太陽の影へ消えた。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-6609699084335495636?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6609699084335495636'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/6609699084335495636'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/06/blog-post_10.html' title='ゾロアスターはかく語りき'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-4780794486792214374</id><published>2008-06-05T06:02:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:03:19.107+09:00</updated><title type='text'>ツァラトストラはこう言った</title><content type='html'>最高の賢者たちよ、よくわたしの言うことを聞きなさい！ &lt;br /&gt;わたしが生そのものの心臓まで、いや心臓の奥底まで究めているかどうか、真剣に吟味するがいい！ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしがせいあるものを見出した限り、そこにはかならず力への意思があった。そして服従して仕えるものの意志のなかにさえ、支配者となろうとする意志があった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;弱者が強者に仕えるのは、より弱いものに対して支配者になろうとする弱者の意志が、彼を説き伏せるのだ。このよろこびだけは、かれは捨てようと思わない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、小さなものが、自分よりもっと小さなものに対して支配のよろこびと力を味わう為に、自分より大きなものに身をささげるのと同じように、最も大いなるものも、さらに身をささげるのであり、それは力のよろこびを味わうために──生を賭けるということになる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最も大いなるものが身をささげるときには、それは冒険となり、危険となり、死を賭けての賭博となる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして犠牲と、奉仕と、愛のまなざしのあるところ、そこにもまた支配者になろうとする意志がある。つまり、そのとき、弱者は、隠れた道を通って、強者の城内へ忍び込み、さらには主人の心臓のなかにまでもぐりこみ──力を盗むのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生はわたしに、みずからつぎのような秘密を語ってくれた。「ごらんなさい」、生は言った、「つねに自分で自分を克服しなければならないもの」わたしはそれなのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なるほど、あなたがたはそうしたものを、生産への意志、あるいは目的への衝動、より高いもの、より遠いもの、より複雑なものへの衝動などと呼んでいる。しかしそうしたものはみなひとつことであり、ひとつの秘密に過ぎない。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このひとつのものを断念するくらいなら、わたしはむしろ没落したほうがいい。そしてまことに、没落があり、秋の落葉があるところ、ごらんなさい、そこでは生が自信を犠牲にしてささげている、──力のために &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしが闘争であり、生成であり、目的であり、もろもろの目的のあいだの矛盾であらざるをえないということ。ああ、わたしのこの意志を推察できる者は、また、その意志がどんなに曲がった道をも歩まなければ成らないかを推察するだろう！ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしが何をつくりだそうと、またそれをどんなに愛しようと、──すぐにわたしはその敵対者となり、みずからの愛を敵にまわす者とならなければならない。わたしの意志はこのことを欲するのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最高の賢者たちよ、われわれはこのことを語ろう。困ったことには相違ないが。しかし沈黙しているのは、もっと困ったことだ。すべての語られない真理は有毒になる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしたちの真理に触れてこわれ──うるものは、すべてこわれるがいい！建てるべき家はまだ多くある！── &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ツァラトゥストラはこういった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-4780794486792214374?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/4780794486792214374'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/4780794486792214374'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/06/blog-post_05.html' title='ツァラトストラはこう言った'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' 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/&gt;ぼくは常々国家というのは人間と同じで原罪を背負っているものだと思っていて、例えばそれが日本であったら出雲の祟りであるし、アメリカならインディアン虐殺によってかけられた呪いだろう。日本人はずっと敗者の祟りというものを恐れ続け、それを鎮めることにとにかくものすごい労力を割いてきたし、アメリカはあの虐殺しまくったインディアンの亡霊から逃れることができずに、怖くて、未だにマシンガンをぶっ放すことをやめられない。そう、正に国家ってのは悪そのもので、人を殺して、そのことによってのみ生き延びられるという点において、全く人間と同じなんだな。国家も人間もその疚しさに耐えられないから戦争をしたり、宗教をはじめたりする。そして、罪も苦しみもない神の国を求めて、キリストを拝んだり、バンドをやったり、ソヴィエトを造ったりするわけだ。アメリカが戦争をするのは人の痛みがわからないからではない、痛みがわかりすぎるほどにわかっている人間ほど人を傷つけざるを得なくて、その痛みでなおさら人を傷つけざるをえなくなる。そうしてやがて世界中の嫌われ者になるのだ。このような症状はどこか人間のうつ病に似てる。アメリカはインディアンを殺したから日本に原爆を落すという体験を追体験して自己正当化せざるを得なかったのであるし、原爆を投下したからヴェトナムに枯葉剤を撒き、枯葉剤を撒いたからイラクを空爆せざるを得ない。そうしてどんどん嫌われていく。嫌われるからなおさらやめることができない。そんなひどくて汚れてて最低な自分なんだけど、それでもずっと一緒にいてくれてる日本やイギリスが彼のもとから去ったとき、アメリカはとうとう本当に自壊を始めるかもしれない。アメリカが「ぼくのことを裏切ったな、ぼくの気持ちを裏切ったんだ！」ってなったら、マジで怖いよ。本当に核スイッチおして「みんな死んじゃえ」ってなるからね。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このような国家の罪に瞠目したとき、人間は国家に対してただ二つだけの態度をとることができる。ひとつは国家の悪を自覚しながら、それでもそれを必要悪として受け止め、だからこそ最悪の事態だけは絶対に食い止めるという態度、もうひとつは絶対に国家の存在を認めないという態度である。前者を保守主義、後者を無政府主義という。同様に人間も自らの原罪に対してこのふたつの姿勢を示しうる。前者のやり方はニーチェ思想に結びつく。すなわちすべての罪を超越する、超人となるやり方である。後者は、、、残念ながら後者に思想は存在し得ない。自らの存在を絶対に認めない、認めないがゆえに、太宰治は死んでしまった。思想を認める前に自死に至るのが人間における無政府主義である。志したものなら少なくないが（多くのロッカーや文学者はそうだろう）徹底すれば必ず死ぬ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ニーチェ思想にも結びつかず、無政府主義のまま死ななかった人物には、例えばドストエフスキーと北一輝がいる。ドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟の中でゾシマ長老の兄にこう語らせている。即ち、私たちは全ての人間に罪を背負っているが、けれども全ては神によって許されていると。ぼくらは人を傷つけ、肉を食べ、息をすっているだけでも空気を汚してしまっていて本当に申し訳ないことこの上ないのだが、しかしながらそれすら神はお許しになるのだと。ここで全知全能の、唯一絶対の人知を超えた一神教の概念を持ってくることによって、我々はその罪をようやく超越できるというのだ。この考えは、北一輝にも共通していて、初期の北一輝というのはダーヴィンとニーチェの思想に大きく影響を受けてむしろ超人を目指していたといえるのだけれども、2.26事件のあたりになると北はひたすら仏に向かって念仏を唱えつづけ、青年将校たちに呆けたとすら言われるようになる。しかしこれは北が唯一者を目指し神と原罪を見すえつづけたがゆえに到達してしまった境地なのだろう。自分は神だと思っていた。しかしそんな自分にもどうにもならないことがあるとうことを、日本と支那における両革命の失敗で彼は知ってしまった。彼は気づいてしまったのだ、このどうしても勝てない歴史の大きなうねりに傷をつけるには、全知全能の神を味方とするしかないと。彼は唯一神（御仏）をもって、天皇を倒そうとしたのである。であるがゆえに、睡眠もとらず、飯も食わず、革命のためにただひたすら仏の御名を唱えつづけるのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ、人間が罪を、国家が悪を越える瞬間がひとつだけある。ファシズムである。ファシズムにおいては全てが熱狂の中にあり、全ては許され、神の手の中にある。人間の内部が全て溶け合い流れ出す。そこでは労働者も資本家も、プロテスタントもカソリックも、貴族も乞食も、誰もが手をとりあい、認め合って、涙を流して感動のうちに抱擁しあうのである。貴族はすぐさま全財産をなげうって、パンを浮浪者に与えた。労働者も資本家も、なにか自分がみなのためにできることはないかと、自らの生に感動し涙ながらに訴えた。そこには確かに神の国が存在したのであり、全ては神によって許されていた。しかし福音が終末の日の後にやってくるというのは、信者獲得のための都合のいい話である。福音は本当は終末と共にやってくるのだということを、ファシズムははっきりと証明してしまった。この感動の瞬間は、明日自分が死ぬということがわかっているときだけやってくるものだ。人間は死ぬ、この厳然たる事実に直面されて始めて、貴族は全財産を浮浪者になげうつことができた。人間は弱いから、福音を永遠とすることはできない。永遠にしようとしたところで、即座に死ぬのではなく、ゆっくりと腐っていくだけである。これを亀山と佐藤は、ソヴィエトの甘い腐臭と言った。共産主義は結局ユートピア福音思想だ。ソヴィエトという楽園はファシズムに比べて、ゆっくりと腐っていっただけである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結局原罪に瞠目しながらも、人間が生きていくためには信仰に帰依するしかないのかもしれない。しかしながらそれが本当に「よい生き方」なのかはよくわからない。神なんて人間の発明品に他ならないものを、人間は本当に信じきることができるのか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ぼくの愛国心は、むしろパトリ（郷土）といった具体的なものではない。ぼくにとって「日本」は、実際には存在し得ない。ぼくにとって「日本」は唯一絶対なのだから、郷土や天皇のような偶像を置くこと自体が許されないことだと感じる。ぼくにとって「日本」とは、唯一絶対の信仰の対象である。「日本」があるから全てが許される。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;要は一神教の概念なのだ。ぼくにとっての「日本」は、「神」にそのまま代替可能である。だからどうもぼくは領土問題とかあんまり興味もてないし、中国韓国をバカにして溜飲を下げとるやつらにはただ嫌悪感しか感じない。日本は領土のような偶像に変換できるものではありえないからだ。同様に日本の歴史は神話そのものだと考える。当然中国にも韓国にも同じように国家と言う近代人の神に対する神話があっていいと思う。ぼくはいつも日本の歴史を知るたびに涙が出そうになるが、同様に韓国や中国、アメリカ、インド、あらゆる国の歴史を知るたびに涙がでそうになる。歴史を科学と捉えていたら涙は出ないだろう。もちろんいい悪いではなく、そういう考え方である。そうして、他国の歴史に敬意を払っている。ガンジーやべぇなあ、とか、安重根熱いなあとか、思う。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしこれらの感動はみな、国家（神）と言う、人間の発明品を信じているからやってくることである。それが「想像の共同体」に過ぎないと言われてしまっては、全くその通りなのである。ポストモダンは国家を否定することで再び「神は死んだ」と宣言したのだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしポストモダンはニーチェとは違い、その言葉になんの覚悟もなかった。国家（神）なぞなしでも人間は生きていけると余裕綽々でうそぶいたのだ。そうして、ポストモダンはやがて異形の発展を遂げた末に、マルチチュードなどという新しい想像の共同体を言い出した。つまり彼らのやりたいことは次から次へと新しい神様を作り出し、消費していこうってアイディアだったのかね？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;確かにそのアイディアは浅田彰が言ったことである。記号の洪水から逃走しまくれってね。あらゆる記号から逃走しすぎた末がこのざまだ。我々は最早何も語ることは出来なくなった。我々は好きなものを好きだと言うことすらできないのだ。ぼくは悲鳴をやっているときに、ある人にずっと「私は悲鳴まともに見れないの。だって恥ずかしいじゃん」といわれつづけてきた。「そういうのは八十年代にやりつくされたことだから」というのが彼女の言い分だった。けれども、八十年代にやりつくされた、やりつくすってなんだろう。我々の心性は遠藤ミチロウや町田町蔵のころとなんら変わらないのに、浅田は、それはすでに記号化されたものだから今すぐ逃走しなければならないなどと傲慢にも断言したのだ！浅田は、ギターは八十年代にハナタラシがさんざんぶっ壊したから、もう壊しちゃいけないというのだ。ギターを壊すことを禁じられたぼくらが逃走する先は、なにもない心の廃墟である。パフュームや中田ヤスタカの無機質で人間性のどこにもない音楽を、我々はマゾヒスティックに受け止める。感情を発露することを禁じられた機械（もちろんドゥルーズ／ガタリが言う意味ではなく）に過ぎない私たちには、何も言わないこんな電子音の方がむしろ心に響くってね。だけどやがてそれも消費されたら、我々はどこに行けるだろう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ロックは、怒りと憎悪、原罪への瞠目を封じられて、まだ誰も聞いたことがないような音楽を、っていう進歩史観にむりやり閉じ込められた。脅迫的にポストポストポストポスポスロックだのわけのわからん進化に目をやることで、人間の原罪に目をふさいでいるのだ。変拍子にしたからといってエフェクターをつないだからといって人間の心が動くわけじゃなかろう。けれどそれは言ってはならないことだ。言うのは恥ずかしいことだ。我々は心の叫びを封じられている。悲鳴をあげることは許されない。叫んだ瞬間に、その言葉は記号化される。ああ、うつ病系のひとね。そもそも悲鳴を上げることすらできないからうつ病になるのに、そのうつ病すらが禁止された瞬間、我々は完全に逃げ場を失った。あとは無意識に抑圧され、運がよければ異常性欲、そうでなければ神経症や発狂の瞬間を待つばかりである。（話はずれるが、男のマスターベーションと女のリストカットって同じものじゃないのか？オナニーは小さな自殺であると言ったのはバタイユだったか？他人と心を解け合わせるのではなく、ひとりで神になるのがオナニーである。自らの体液が体外に流出し、流れとなり、世界と自分の区別がつかなくなる様はファシズムの擬似行為である。本当の世界は他人とのあいだに目に見えず、決して越えることはできない大きく恐ろしい壁があるが、オナニーやリストカットにおいては、たったひとりで世界に自分を流出させることができる。全能状態、福音、流れ、身体、血液と精液。） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;原罪と進歩史観は表裏一体で、原罪への瞠目を捨て去ったとき人間は進歩史観に走る。しかし科学は進歩しても心は進歩しない。ロックや文学や宗教は進歩しようがない。亀山が興味深いことを言ったのは、スターリンはソヴィエトが共産主義への過渡国家に過ぎない、つまり原罪進歩中だ、という点において原罪への免罪符をもっていたのに対し、プーチンはロシアが通常の国家だという点において、自分の罪を自覚していることが最大の違いであると言った。左翼思想の真髄は進歩主義であり、即ち進歩主義というのは、自分は今は確かに穢れているが、人を殺しているが、やがて罪も苦しみもない神の世界に到達するという考え方である。これに対して右翼思想の真髄は保守主義にあり、政治家は自らの罪に瞠目しながら、そうであるがゆえに最悪の事態だけは絶対に食い止めるという思想である。左翼は進歩によって原罪に対する免罪符を持っている。右翼は原罪を見続けなければならない。よっぽど力がないと耐えられない思想なのだ。それゆえ右翼は大別して二種類に分かれる。悪人であることを自覚し、原罪に瞠目して国家という神話をつくりあげる側と、その神話を素直に信じ込んで「天皇は万世一系！」「神国日本万歳 &lt;br /&gt;！」と叫ぶ側である。左翼のほとんどがインテリなのに対して、右翼がほとんどの狂信的な国家神話の信者と、１％のニーチェ主義者に分かれるのはこれが由縁である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;飽きた。日記終わり。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-8320281139200170164?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/8320281139200170164'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/8320281139200170164'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/06/blog-post.html' title='原罪'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' src='http://3.bp.blogspot.com/_9BH73B9A9Sc/S-ksJxfAPwI/AAAAAAAAAB4/2whMff-Rbcg/S220/7.jpg'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7498498870623838359.post-3666883534202112561</id><published>2008-05-17T05:59:00.000+09:00</published><updated>2009-10-31T06:00:26.743+09:00</updated><title type='text'>一神教の誕生</title><content type='html'>ジークムント・フロイト著／渡辺哲夫訳『モーセと一神教』（ちくま学芸文庫,2003） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;フロイト最後の大論文である。精神分析という自らが作り出した最大の武器を手に、一神教の誕生という壮大なテーマに取り掛かる。「トーテムとタブー」を下敷きにして記されたフロイトの遺言とも言うべき…なんだかロキノン系評論家くさくなってきたからやめた。とにかくすごいんだこの論文は。フロイトは、最後の最後に自分の作り上げた理論を全部ぶっ壊しちゃった。だからこの論文はフロイトの弟子たちには受け継がれない、それから歴史学には当然受け継がれない（精神分析を歴史学に応用するなんてやり方を歴史学者は認めない）、結果として完全に孤立した論文だ。だからこそおもしろい。一神教はいかにして誕生したか。これは疑いなく人類最大のテーマのひとつである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;[要約] &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;モーセはエジプト人かもしれない。名前から考えればそう考えるのが普通である。モーセというのはいかにもエジプト人らしい名前である。しかしながら（私が知る限り）今まで誰一人としてその可能性を疑わなかったのは、ひとえに思い込みによるものである。モーセという偉大な人物が、ユダヤ人でなくエジプト人であることは、聖書に対する畏敬の念を打ち砕くことになる。しかしながら現在に比べて当時の方が名前のもつ民族的帰属性は遥かに高かったのに違いないし、我々は現代人の─例えばナポレオン・ボナパルトがイタリア系でありベンジャミン・ディズレーリはユダヤ系であるといった─事実を、簡単に認めることができる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、この論文はモーセがひとりのエジプト人であったならば、という仮定にたった上での推論にすぎないということをよく理解してほしい。ところですぐさまひとつの疑問が浮かんでくる─ひとりの高貴なエジプト人（恐らくは王子、聖職者、政府高官）をエジプトに移民としてやってきた文化的におくれた異邦人の群れの頂点にたたせ、この群れとともに祖国を去らせた要因は一体何であったのか─という問いである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところでもしもモーセがエジプト人だったとするならば、彼がユダヤ人たちに与えた宗教も、恐らくはエジプト起源のものかもしれない。なぜならたったひとりの人間が、あれほどの立法や教育、理念をすべて自分で考え出したとは到底考えにくいからである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら古代エジプトの宗教は、ユダヤ人たちに与えられたこの新たな宗教とは到底似ても似つかないものである。ユダヤの神は比類がなく、全能で、近寄りがたく、正視に耐えることなどできず、決してその像を作ってはならず、神の名を口に出すことも決して許されない。これに対しエジプトの神々は千差万別の品位と来歴を持つほとんど見渡しがたいほどの夥しい数によったものたちである。しかもこれらの神々をたたえる歌はそれぞれ同じようなもので、人々は何のためらいもなく神々を同一視してしまうから（要約者注・例えばインドでは仏陀はヴィシュヌの顕現とされるように）我々は絶望的なまでに混乱をさせられるのである。典型的な一神教と、典型的な多神教。さて我々の推測は、双方の宗教の間の大変な対立を見るに当たって早速破綻してしまった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら、のちになって初めて知られるようになったのであるが、実はエジプトの宗教史には非常に奇妙な事実があり、それが我々になおもうひとつの展望を開いてくれるかもしれない。 &lt;br /&gt;エジプトがはじめて世界帝国となった輝かしい栄光に満ちた第十八王朝において、おおよそ紀元前一三七五年ごろ、ひとりの若いファラオが即位した。この若いファラオははじめ父親と同じくアメンホーテプ（四世）を名乗っていたが、のちにその名前を変えた。しかも彼が変えたのは名前だけではなかった。この王は、彼の支配のもとにあるエジプト人に彼らの数千年来の伝統や彼らが親しみ信じてきた生活習慣のすべてを峻拒するような新たな宗教を無理強いしようとした。この宗教はアートン一神教と呼ばれる厳格な一神教であって、我々が知りうる限り、このような試みとしては世界史上最初のものであった。 &lt;br /&gt;ところがアメンホーテプの知性はわずか十七年しか続かなかった。紀元前一三五八年に彼が死んだ後、ただちにこの新たな宗教は一掃され、異端の王への追走は捨て去られた。王とその宗教は抹殺されたのである。 &lt;br /&gt;もちろん、この厳格な宗教改革がアモンの祭司たちの強力な反対運動にあったことは間違いがない。王は、自分の名から自らの嫌悪するアモンの名を消し去り、イクナートンと名乗るようになった。それに加えて、この王はあらゆる碑銘から父親のアメンホーテプ三世の名前からすらもアモンを抹消した。名前を変更して間もなくイクナートンは、アモンの勢力に支配されたテーベを去って、川の流れを下って新しい王宮をたて、これをアケタートン（アートンの地平）と名づけた。その地は、今ではテル・エル・アマルナと称されている。 &lt;br /&gt;王の迫害はアモンに対してもっとも過酷であったが、それだけにとどまらず王国全域で神殿寺院が閉鎖され、礼拝は厳禁され、その財産や所有地は没収された。そればかりかこの王の熱情は実に激しいものであって、古い記念碑を調査させ、「神」という言葉が複数形で使われるのを発見するとそれを削除させたほどであった。イクナートンのこのような措置は彼の死後、聖職者層や不満を抱いた人民のあいだに狂信的な復讐の気分を引き起こした。結果としてイクナートンの最期は謎につつまれたものである。アートン教は廃棄され、この王の記憶は古代エジプトの歴史から抹消された。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、ここまでくれば我々は思い切ってひとつの決断を下すことができる。すなわち、もしもモーセがひとりのエジプト人であったとするならば、そしてもし彼がユダヤ人に彼自身の宗教を伝えたとするならば、それはイクナートンの宗教、すなわちアートン教であった。 &lt;br /&gt;さてこの推論を、伝説が語るとおりモーセが高貴な身分の政府高官であり、ひょっとすると実際に、伝説が語るとおり、王家の一員であったかもしれないという前提から出発してみよう。彼はイクナートンのもとで、この新たな宗教を完璧に理解しその根本思想を完全に受け継いでいた。ところが夢想家イクナートンの死は反動勢力の復活をもたらし、それと同時に彼は彼の希望と将来への展望がことごとく崩れるのを目の当たりにすることになった。しかもイクナートンの死と共に、エジプトは数十年間の無政府状態に陥る。自らの帝国すらが崩壊してしまったのである！この危機的状況の中で、彼は途方も無い打開策を見出した。当時モーセは、もしかするとセム人の諸部族が定住していた国境地帯（ゴセン）の代官であったかもしれない。モーセは新たな民族とするためにこの人々を選んだ。モーセは彼らと協定を結び、彼らの先頭に立ち、強力なバックアップで、彼らの安全な旅立ちを後ろ盾し、見送った。これは聖書の伝承とことなるところであるが、実際にはこの脱出の旅は平和のうちに追撃されることなく行われたと考えるべきである。モーセの権威がこれを可能にしたのだし、無政府状態のエジプトにこの動きを妨害できるような中央権力はなかった。 &lt;br /&gt;脱出行の目的地はカナン（パレスティナ南部）の地以外ありえなかった。この地はエジプトの統治が崩れた後アラメア人の侵入を受け略奪されるがままになっており、それゆえ力の強い民族ならば新しい領土を獲得できることがわかっていた。アラメア人に関しては、一八八七年に、廃墟と化したテル・エル・アマルナの街の書庫で発掘された書簡にいくらか書き記されている。その中で、アラメア人の戦士たちはハビルHabiruとしるされているが、この名前はどうしてかわからぬが後年になってやってきたユダヤ人侵入者ヘブライHebraerと変化してしまったらしい。 &lt;br /&gt;それに、カナンにはエジプトから脱出してきたユダヤ人と大変近しいつながりを持つ民族も居住していた。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところでこのもともとカナンにいた民族とエジプトから脱出してきた民族は、この地で一体化することとなった。この一体化の表現こそすべての部族に共有されたひとつお新しい宗教すなわちヤハウェの宗教の受容だったと我々は考える。 &lt;br /&gt;このふたつの民族は、短い期間の後すぐに二つの政治単位へと、再び分裂した。すなわちイスラエル王国とユダヤ王国である。歴史はこのような復元過程を好むのであって、この家庭の中で、後年になって生じた融合は基の状態に推し戻され、かつての分裂状態が再び出現する。このような例のなかでもっとも印象深いのは周知のごとく（要約者注・ルターの）宗教改革がもたらした事態である。宗教改革はかつてローマ領に属したゲルマニアと独立し続けていたゲルマニアのあいだの境界線を千年以上の時の流れの後に再び出現させてしまった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、ユダヤの太鼓の最大の謎の中にレビ族の来歴というのがある。レビ族はイスラエル十二部族のひとつであり、ユダヤ教においてもっとも重要な祭司の地位をしめているが、いかなる伝承もこの部族がかつてどこに住んでいたのか明らかにしない。私の推測では、レビ人はモーセの従者である。そもそもエジプト人モーセのような身分の高い人物が部下を伴わず単身で異民族のところへ赴いたなどという話は信じられない。彼は間違いなく、自分の従者や書記を伴い、カナンに向かったはずである。そしてこの者たちこそ元来レビ人だったのである。この解答は、唯一レビ人の中においてのみ、後年なおエジプト語の名前が現れるという事実においても支持される。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、ユダヤの儀式書が神の名前を用いるに当たって、一定の制限をしていることについてはすでに述べたが、あるときにはヤハウェではなくアドナイ（要約者注・アートンの変化形である）といわねばならない。これは、一見不思議な点である。なぜなら、神の名前をみだりに口にすることへの禁止は周知のように太古のタブーである。一体なぜこれが突然復活されたか。 &lt;br /&gt;神の名前にちなむ人名の形成にあたってヤハウェ神の名前は自由に用いられている（ヨカナン、イェーフ、ヨシュア。）批判的な聖書研究はモーセ六書に二つの原点を想定しているのはよくしられていて、この二つの原典はそれぞれJ、Eと呼ばれている。これは、Jがヤハウェという神の名前を、Eがエロヒムという神の名前を使用して記録していることによる。なるほど、エロヒムは確かにアドナイではないけれども、これは様々な神の名前が存在していたという根拠になり、そうして、グレスマンの言葉を借用するならば「様々な異なる名前は、根源的に異なっている神々が存在していたということを明瞭に示すしるしである」。（要約者注・すなわちフロイトは、ヤハウェはもともといくつもあった多神教の神々のひとつに過ぎなかったと言いたいようである。そうして、これにモーセが持ってきた厳格な一神教の性格が付与され、現在のユダヤ教が完成した。それもそうだ、蛙を降らしたり、エジプトの男の子供を全員殺すなんてことは、まるで一神教の神のやることではない。少なくとも、もうひとつの厳格なる一神教・イスラーム教においては、全く考えられない。そんなことは多神教の神がやることである。） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、様々な伝承がつたえるところであるが、モーセはユダヤ人に殺されたといわれる。想像に難くないことであるが、モーセは激烈な性格をもった、怒りっぽい人間だったと伝えられており、また、イクナートンの学校をでたモーセは王のごとく振る舞う以外のすべをしらなかった。モーセの教義はもしかしてイクナートンのそれよりも峻拒だったかもしれない。どちらにせよ、ユダヤ民族も、かくも高度に精神化された宗教にたえることはできず、このような宗教の中におのれの欲求の満足を見出す力を持っていなかった。モーセはイクナートンと同じ運命をたどった。監督支配され、不当に遇された民衆が蜂起し、この峻拒なる新しい宗教を打ち棄てたのだ。結果としてモーセはユダヤ人自身によって、その存在が抹殺─とまではいかなくても、隠蔽されることとなった。（要約者注・民族の「無意識」に「抑圧」されている。） &lt;br /&gt;旧約六書の最古の原典はJ、すなわちヤハウェの祭司の意味である。これに対し後になって、E、すなわちエロヒムの祭司のものが現れる。これは北の王国（要約者注・北がもともとパレスティナに住んでた人たち、すなわちイスラエル王国。これに対し南がエジプトを脱出したもの、すなわちユダヤ王国である。）に属するものである。紀元前七二二年にアッシリアの侵略者によって北の王国が没落した後、ひとりの祭司がJとEの各部分を相互に取りまとめ統一し、自分の記述もこれに書き入れた。この人物が編纂したものはJEと表記される。これを注意深く観察していくと、ふたつの互いに反立しあう要素を取り扱って整合性のある文章にするため、神話のさまざまな改竄、削除、拡大解釈が露骨になされ、あるときは意味が逆になってしまったり、意味の成さない文章になってしまっている。さて、ヤハウェをこの宗教の中心にすえることとなったとき、モーセはヤハウェの一祭司とされ、彼のアートン一神教をふくむ、あらゆるほかの神の痕跡が消された。こうして彼らはモーセとその教えを隠蔽した。（要約者注・隠蔽したものはただ隠蔽したに過ぎず、神経症や分裂症といった形で必ず影響を及ぼすということを言下に言いたいのだろう。）こうしてカナンの土着神ヤハウェが彼らの神として承認されることとなり、自分たちの先祖が昔所有していたものをヤハウェ神に返してもらった、という形でエジプトの征服者への憎悪の念も（要約者注・隠蔽することによって）鎮められたわけである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろんひとつの挿話であるが、民衆の心がこの新しい宗教から乖離していったことは、聖書にもしるされている。それは黄金の子牛にまつわる物語であるけれども（要約者注・聖書にはこうある。すなわち、モーセがシナイ山の山頂で、ヤハウェから十戒を授かっているあいだ、ふもとのイスラエルでは、民衆が相談して、「なんか像があったほうが分かり易いから」という理由で、黄金の雄牛を造り、これを祭った。で、モーセが帰ってきたとき、この恐るべき光景をみて激怒、自らヤハウェから賜った十戒の石版を叩き割り、金の雄牛を火中に投げ捨て、「剣を取れ。牛を拝んだものは皆殺しだ。兄は弟を、弟は兄を、友は友を、隣人は隣人を容赦なく殺せ」と言い放ち、三千人を処刑した。モーセパパおっかねえ）これは実に巧妙な言い回しで、象徴的に理解されるべきおきての石版の粉砕（「彼は起きてを破った」）がモーセの所業とされた。 &lt;br /&gt;そして人々がモーセ殺害についてのブ婚のねんを満たされ、この反抗を忘れようと努めるときがやってきた。この時期が諸部族の合体のころであったのは間違いない。ともかくもエジプト脱出を宗教創設に近づけ、ほかならぬモーセその人を宗教創設に関与させるしょりによって、モーセに付き従った民の神話への満足を満たすばかりではなく、モーセを暴力でもって片付けてしまったという不快で苦々しい事実もまたきちんと否認された。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで宗教創設当時の多神教におけるヤハウェ神が、他の神々に比べて圧倒的に強かったかといわれれば怪しいものである。多神教の性質のヤハウェ神は、いかなる視点からみても飛びぬけて偉大とはいいがたく、粗野で傲慢、嫉妬深く、暴力と血を好むといった性質のものである。この神が信者たちに「乳と蜜であふれ流れる」地を与えると約束し、その地に前から住んでいた人々を「鋭利な刃で」皆殺しにしてしまえと命じるわけである。で、初め宗教創設時においてこのような多神教のヤハウェ神はモーセをただの一神官として完全に影へと隠し、隠蔽しきってしまった。ところがモーセとその神は、民族の一部の人々に、高度に精神化された神の観念を与えたということ、そうして一切の儀式や魔術を排し、真理と正義をその価値観とするというやり方を教え込んでしまった。この隠蔽された無意識は、長い年月をへてユダヤ人の精神の中で顕在化され（要約者注・抑圧された無意識がやがて神経症や分裂症をもたらすように）、いつの間にかとうとう影が神そのものを駆逐するまでに至ってしまったのである。すなわちこれがユダヤ教の誕生である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここまできて私は私の研究の結論にいたったとしてよいだろう。我々が得た成果をごく手短にまとめておく。ユダヤの歴史を貫く周知の二重性─二つの民族集団、これらは国家の形成のために合体した。二つの王国、この状況の中でこの国家は崩壊した。聖書原典に見られる二つの神の名前。以上のような二重性に我々は新たに二つの二重性を加えておく。二つの宗教創設、最初の宗教は別の宗教によって抑圧されながらも、のちになって別の宗教の背後に建ち現れ勝利をおさめるに至った。ふたりの宗教創設者、両者ともにモーセという名前でよばれているが（つまり出エジプトを指揮したイクナートンの継承者モーセと、多神教の神ヤハウェの一神官としてのモーセ。）これらは区別されるべきである。そしてこれらの二重性のすべては第一に挙げた二つの民族集団という二重性に淵源するのであり、民族内の一群の人々が心的外傷と言っていいほどの経験をしてしまい、残りの人々がこれと宴がなかったという事実からの必然的帰結なのである。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;---- &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;フロイト晩年の大論文である。橋本治の言葉を借りるならこの論文においてフロイトはとうとうエディプスコンプレックスという魔法を使わないで（エディプスコンプレックス自体がなぜおこるかについてフロイトは一切説明していない。）父親殺しのテーマに踏み込むことになる。なぜ、男はその矛持って父親殺しをしなければならないのか。これはフロイト生涯のテーマであった。（ちなみに、フロイトでは女は父親殺しをする必要がないとされる。なぜなら女は矛自体はじめから持ってないからである─たとえ矛を受け入れる鞘はもっていたとしても。フロイトによれば、これゆえ女の性は屈折した状態からスタートせざるを得ず、マゾヒズムにつながり易い）矛を持ったもの同士は、殺しあうのである。論文「トーテムとタブー」においてフロイトは、原人の世界において、ハーレムのすべてのメスと財産を所有する、原父の存在を仮定した。（確かに野生のサルの生態においては、ボスザルが全てのメスを所有している。）この状態において、いかなるオスも彼のハーレムに入ることは許されないが、例外がある。彼の息子たちである。息子たちは、全てのメス（自分の母親や姉たち）を父親に奪われている─即ち、擬似的に去勢されている。息子たちはあるとき一計を案じて、自分の父親を殺した。そうして、その力を自らにとりこむために、父親を食べた。こうして全てのメスを禁止する暴君はいなくなったが、彼らは再び自分たちの誰かひとりだけしか父親になれず、また殺し合いをしなければならないということを恐れ、協定を結んだ。一人が一人のメスを所有するということ、即ちこれが一夫一婦制の誕生である。 &lt;br /&gt;このかつて自分たちが殺した原父の存在が、我々の無意識の中に抑圧されており、それが原罪の源泉となる。我々は、原父は自分たちの罪の全てを背負って死んだ（殺された）のだと理解する。これがキリストであるが、また、それはユダヤ人そのものでもある。即ち、ユダヤ人はキリスト教徒にとってそれこそが原父であるという理由で、ユダヤ教（人）は自分の息子であるキリスト教によって全ての罪を背負って殺されねばならないのである。また、同様にキリスト教はイスラム教によって葬られなければならないかもしれない。（これは言いすぎか。）どちらにせよ、ハーレムの息子たちがもっとも恐れていたものが原父であったのと同じく、ユダヤ人のもっとも恐れるものはモーセであり、キリスト教徒のもっともおそれるものはユダヤ人・そしてキリストそのものである。それゆえに彼らは殺さねばならないのである。これが父親殺しと一神教のシステムであり、晩年のドストエフスキーがカラマーゾフの兄弟の中で展開した恐るべきテーマである。&lt;br /&gt;コメント&lt;br /&gt;ガンディ2008年05月17日 22:01&lt;br /&gt;もしもモーセが一エジプト人であるとするならば──もしかすると、モーセはエジプト人のことを愛していなかったかもしれない。どこかで軽蔑していたかもしれない。文明度の遅れた、野蛮な民族である。そんな民族のところへ、（たとえ「真理」や「正義」といった観念を有する「本物」の宗教を伝播するという立派な理念はあったとしても）エジプトの王族が行って、本当に本心から彼らを愛することができるだろうか。本来が傲慢で激烈な性格であったモーセ、しかしながら、間違えなく自分たちを導いてくれた父であるモーセ。これに対してユダヤ人はどうしたか。モーセの恐るべき抑圧のもとで、自らを生かすために仕方なく彼を殺さざるをえないという選択をしながらも、同時に彼を尊敬し、そして殺してもなお彼の幻影におびえつづけなければならない。ユダヤ人は強迫観念に襲われている、我々は幸福にならなければならない、どれだけ得ても満足することができない、なぜ？何度殺してもなお、あの圧倒的な原父の幻影を越えつづけなければならないから。我々の父はこの程度だったか？全然たりない、こんなものではない、全知全能の、神そのものであらせられた。こんなものではない。まだだ、もっとだ、あの父を越えるためには。こうしてユダヤ人は、自らが神になるまで得続けなければ、満足することができない。父親が全能であったのだから、自らも全能の神にならなければ、永遠に何も得られないし、幸福になれるわけがないと思っている。結果としてユダヤ人はこの世界すべての罪を、強迫観念的に自ら背負いこむにまで至る。そうしてこれらすべてを打ち砕かなくては、自らの幸福、約束の地、神の国は得られないと考える。当然人間は神にいたることなど到底不可能なのであるが、彼らは自らの持てる力のすべてをもって神に近づくことを欲する。当然の帰結としてユダヤ人が世界人口の0.2％を占めるに過ぎないにもかかわらず、ノーベル賞の受賞者比率が医学生理学賞で26％、物理学賞で25％、化学賞で18％なんてことになる。フロイトは当然のこと、マルクスもフッサールもレヴィナスもレヴィ＝ストロースもデリダも、すべてユダヤ人だということも以前日記で紹介した。しかしながら、これだけ人類的な所業をなしながらも、彼らは絶対に幸福になれない。なぜなら彼らは自分が神になるまでどうしても満足することができないからである。周りから見ればどれだけ凄いことを言っていても、天才的な所業をなしているように見えても、彼らにとってそれは全く意味をなさない、ごみくず同然のことである。なぜなら、彼の比較対象は神だから。神に比べたら資本論も脱構築も構造主義も　ク　ズ　同　然　である、彼らはそう考える。そうであるがゆえに彼らは資本論も脱構築も構造主義も構築しえたのだが、どれだけ拍手されても彼らはまるでうれしくないのである。「神になりたい。」「父を越えたい。」「女たちに、自分を見て欲しい。」「愛して欲しい。」「もっと愛して欲しい。」「こんなものは神の愛ではない。もっとよこせ。」「もっと」「もっと」彼らは決して相対主義ではない。周りと比較してこちらがよいから満足なのではない。そういった多神教的価値観こそが、彼らの最も忌むべきものである。流行や人の意見を望まない。無政府主義的、絶対的自由。彼らは足るをしらない。やがて彼らは気づかぬうちに、自らがあの、憎むべき原父となることだろう。周囲を抑圧し、新たなson（子供たち）を生み出すことだろう。しかし彼らにはやめることができない。全部手にいれなければ気がすまない。そうして、自らにかけられた憎悪と復讐の呪縛から抜け出せずに、悲鳴がこだまするパレスティナの地で自らに代わる新たな神の子たちへむけて、今日もマシンガンをぶっぱなすのである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7498498870623838359-3666883534202112561?l=gndh.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3666883534202112561'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7498498870623838359/posts/default/3666883534202112561'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://gndh.blogspot.com/2008/05/blog-post_1187.html' title='一神教の誕生'/><author><name>gandi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11848386888847215002</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='24' height='32' 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/&gt;さて、記紀にはこうある。（※分かり易いように、かなり噛み砕いてあるから、そのせいで表現が適切でないところもあるかもしれない。）昔々この世界、即ち葦原中国（※あしはらのなかつくに。現代語風に言えば地上界と言ったところか。）の王は大国主命（おおくにぬしのみこと）であった。しかしある時、高天原（※たかあまはら。即ち天上界のことである）の女王、天照大神（あまてらすおおみかみ）が地上界の支配権を握ろうとした。（※どうして天照がそんなことを急に思い立ったのかは、記紀には記されていない。）そこで天照は地上界に使いをやって、大国主と交渉しようとした。ところが使いは、天照の命令を聞かずに、いつの間にか大国主の家来になってしまったのだろうか、いつまでも返事をよこさないまま、音信不通になってしまった。天照は困って、また別の使者を送った。ところがそれもまた連絡をよこさなくなってしまった。こんなことが何人も続いたので、天照は最後に建御雷之男神（たけみかづちのをのかみ）を送った。（※この建御雷というのはかつてイザナミが火の神を生んで死んでしまったときに、イザナギが怒ってその生まれたばかりの火の神の首を剣で切り落としたが、そのときに生まれた剣の神である。非常に怪力であり、剣の神であること、雷という名前などからも想像がつくように激烈な性格をもった人間がモデルになっていると考えられる。）建御雷らの交渉によって、大国主は国を譲ることを承服した。こうして、地上界は天上界の神々が支配するようになった。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ご存知の通り、天照の末裔がそのまま天皇となる。天皇が現人神であるとされる所以である。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて一方、大国主命である。大国主は天照たちに国を譲る際に、このような注文をつけたという。即ち、隠居する代わりに、私のために天上界に届くような巨大な宮殿を造っていただきたい。そうしたら私は、あなた方に顕の世界の支配権を譲り、自らは幽の世界の支配者になろう。（※ものすごく乱暴な言い方をすれば、顕とは目に見えることであり、幽とは目に見えないことである。世俗権力と宗教権威、生の世界と死の世界ととるのは明らかな行き過ぎであるが、よくわからなかったらそれっぽいことと理解してもい
