2008年10月31日金曜日

死の衝動と性衝動 夢想と現実

今日は自殺志願者の友人と話してきた。

自殺志願者というと、どうも偏見が付きまとう。例えば、blogで自殺をほめのかしてみる割には本当には自殺しなかったり、他人になんとも返答しがたい人生相談を持ちかけたりと、そういった「困った」行動が偏見の根になっているのかもしれない。
(誤解を避けるために言っておくが、ぼくはそういうタイプの人たちを嫌いではない。ぼくは彼らのことを、引っ込み思案だが話すといい奴らだくらいに認識している。もしかすると、ぼくは人が死のうが死ぬまいがどうでもいいと考えているのかもしれない。まあ、そりゃ生きてる以上自殺したいことだってあるかもしれんし、その中の何人かは、まあ死ぬだろうなあくらいに思っておるのである。)

つまり我々の共通認識として、自殺志願者とは、「自殺したいことを人に言う、なかなか自殺しない人」のことなのかもしれない。しかしぼくの友人の自殺志願者は少し話が違う。死にたい様子などおくびにも見せないのであるが、ある日突然誰にも相談せずに青木ヶ原に行ってしまったという経験の持ち主なのである。
彼は非常に頭の良い人間で、自分の衝動と自殺(正確には未遂であるが)に至った経緯を客観的に説明してくれた。これが非常に面白かったのであるが、彼は必ず死ねる場所を探そうと思い、冷静な頭で樹海へ向かったのだそうである。錯乱などはなかったという。山梨行きの電車の中で、車窓を眺めながらぼうっと考えていたことは、「自分は受験戦争を生き残って一流大学に入ったが、この先例え生きていたとしても、一流企業に入って年収千万程度、毎日同じ生活を繰り返し、70程度で死ぬだけであろう。自分の叔父も父も祖父も、みな自分と同じような人生を歩んだが、最後まで生ききったとしてもその人生が別段素晴らしいものだとも思えぬ」という、中学のころからずっと考えてきたことのごく自然な焼き増しに過ぎなかったという。
バスを乗り継いで青木ヶ原につくと、青々と生え伸びる自然の力の凄まじさに、まず畏れを抱いたという。天まで届かぬばかりの緑のベールが、遥か頭上を車道まで覆い被さっている。散策路を奥に入っていくと道端には「命を大切に」と記された看板がたっていて、「ははあなるほど、ここらへんから外れれば死ねるな」などと思いつつ、慎重を期してもう少し奥に入ってから散策路を外れたのだそうだ。
首を吊った後は尿や目玉の悲惨になることを思って、それはなんだか嫌だなあと思い、用を足して目隠しを用意した。そうして雑木の山の、いくらか奥まったところに手頃な形をした枝をみつけ、縄を巻き付け、首にひっかけてみた。しかしどうもためらう。いっそ一思いにとは思うが、人間土壇場となるとなかなかそうも行かぬ。そうこうしてる内に寒くなってきた。今から自殺しようという人間が寒いというのもバカらしい、さっさと死のうと思う。死ぬ、死ぬ、死んだらこの世界ともとうとうおさらばだ。この世界には二度とやってこないのだと考えると、つまらない世界にも一つや二つやり残したことがあるように思う。今何か一つだけやり残したことがあるとすれば?おれは風呂に入りたい。ここはあまりに寒すぎる。自殺するには寒すぎるのだ。
彼は自殺する前に風呂に入りたいと考える自分のバカらしさにほとほと呆れはてたという。そうして、二三時間も樹の周りをうろうろしていたが、とうとう諦めて、高尾まで戻り健康ランドで風呂につかったのだそうだ。


「で、今でも君は、自殺したいと考えることがあるのかい?」
思わず目を丸くして尋ねるおれに、彼はアハハと笑いながら答えた。
「そりゃまあ死にたいことは死にたいですけどね、死ねないことがわかってますから…。」

ぼくはこの自殺志願者の腹の決まりっぷりに尚更目を丸くした。本物の自殺志願者とは、このようなものである。ぼくは鬱と自殺衝動は、なんら関係のないものなのだということを今日初めて知った。彼は語っている間ずっと冷静であった。鬱だろうが躁だろうが、死にたいときゃ、死にたくなるのである。



-----------


ところで彼との話の中でもっとも面白かったのは、もしかすると変態は自殺したくならないのではないのではないかという話だ。彼はあの自殺未遂を経て「自分はやりたいことなんてないし、人に従属しているのが一番向いているのではないか。結局のところ、敷かれたレールの中で奴隷のようになり、大学も会社も淡々とこなしていくのがおれには向いている」と考えるようになったとのことであるが、「でも、二人ともこの世界について感じていることはほとんど同じなのに、ぼくは自殺したいと考え、ガンディさんは世界を壊したいと考えるようになったんでしょうかね」と言われ、ふと感づいた。ぼくは超がつくほどのドMの性癖を持っているが、人に従属してしまいたいという衝動は、その衝動でバランスをとっているのだ。ふと思いついたこの考えを彼に伝えてみると、少し考えてから、「なるほど、そう言われれば確かに、ぼくはあっちの方はかなり淡白なんですよねえ…」と答えた。
そう言えば精神分析において、死の衝動とは性衝動の裏返しに他ならない。ぼくの友人でも筋金入りのド変態が死にたいと言っているところはあまり聞かない(註記・これが適用されるのは男の変態だけかもしれない)。そうして、少なくともぼくの知ってる範囲においては、変態にはそれこそ神を殺さんがばかりの、異常なほどの上昇志向を持っている人がかなりいるのである。そこまで行かなくても、ぼくは前々から性的に大分おかしくなってる人に医者や社長など、社会的地位や収入の非常に大きく、しかも紳士的な人が多いのはなぜかと考えていて、彼らはどうやら性衝動で死の衝動を帳消しにしているらしいのである。というのも、彼らは深い教養を持ち、哲学や芸術に対して極めて理解のある人たちであるが、やっぱり自殺しようとは夢にも思わないみたいなのである。ちょうどいい例が(先ほど書いたが)三島と太宰かもしれない。太宰は弱さを見つめて「死にたい」となるが、三島は「強さ」を志向するために変態になってしまうのである。ジョン・K・ノイズはSM愛好者が好んでナチの衣装を身に纏うのを見て「マゾヒズムは現実のパロディで
ある」と指摘したが、事実性衝動の世界は現実を転覆するためのパロディなのである。なぜ、そうなっているのかはわからないが、性の監獄とでも言うべきパラレルワールドでは、現実世界で強さを信奉する人間が(ちなみに三島は強さを信奉するがゆえに右翼なのであるが)、パラレルワールドではナルシスティックな悲劇の英雄をマゾヒズム的に演ずることでしか感じることのできなかったりする。そうすると、三島はマゾ・ナルチズムのパラレルワールドと現実の世界を融合させようとしてあのような最期を遂げたのかもしれない。そこにはもはや現実も夢想もなく、嘘も本当もない。『仮面の告白』とは、真実を語るべき肉体が何も語らず、つけられた仮面の側が告白するという逆説であるが、三島は仮面に告白させることで、現実を夢想のパラレルワールドに引き込んだのだった。(ここは現実だから、現実を夢想に引き込むことはできても、夢想を現実に引き込むことはできないのだ。『本当の自分』が告白しても、夢と現実を混乱させることはできないのである。)道化気質の人間にはしばしばみられることであるが、例えばマリリン・マンソンなんかは
、インタビューで自分のことを「確かに自分を演出していると言われればそれに間違いはないのだが、結婚相手から友達まで全員自分の設定にあわせて選んでるから、もう一体どこまでが本当の自分なんだか、まるでわからなくなっている」という。薬なんて使わなくても、夢想の世界に迷いこむことなんて簡単なのだ。宇宙への鍵は性衝動である。普通の人間は、行為が終わったらあっちの世界から帰ってきて、入り口の扉に鍵をきちんとかけて、普段は絶対にそれを人に見せないのであるが、何らかのきっかけで(例えばマンソンや三島のようにロックスターや芸術家の過剰になった自己顕示欲がそうさせるのであるが)扉に鍵をかけるのをやめてしまうと、夢想の宇宙が現実を侵食しはじめて、何が現実で何が幻だか、まるでわからなくなってくる。こうなったら最早手遅れで、現実と夢想の区別をつけることはもう二度と出来なくなる。それは、他人の前の偽りの自分と、部屋で一人の時だけに現れる本当の自分の区別がつけられなくなるということであり、区別をつける前の状態すなわち赤ちゃんの状態まで退行することである。それは現実と幻がまだ分かれる前の世界
である。それは嘘のなく、しかし本当も存在しない世界である。それは絶対的自由を手にするということだが同時に夢想の囚われ人になり、二度と帰ってこないということでもある。だから、現実の世界を大事にしている人は、宇宙が現実に溢れこまないように、扉にしっかりと鍵をかけておくがよい。けれども、現実なんてどうでも良くなって、死んでしまおうと思うくらいならば、扉を壊すがのがいいだろう。夢想の渦は現実の世界を粉々にして飲み込んで、あなたを天国へと連れ去ってくれるだろう。