2009年2月3日火曜日

魂の鎧

無様にはなりたくない。どんなときでも、高貴さを失いたくないのだ。たとえ一銭ももたなくても、人に笑われても、人を殺したとしたって、高貴な心だけは失わずにいたい。殺し合いにも作法がある。いや、人生は殺し合いなのだ。上手に隠されているだけで、本当は殺し合いなのだ。それを、殺しはいけないという方がおかしいのだ。殺すも殺さぬも縁起次第であり、運命次第である。殺さねばならないか、殺さなくてもよいかなど神が決めるだけで、自分に人生の何を決められるというのだろう。誰にでも殺し合いはやってくるものだからこそ、殺し合いにも作法がある。どんなときでも作法を失ってはだめだ。美しく生きなくてはだめだ。

乱交パーティに行くたびにいつもこんな風に思う。新宿も東のずっと外れにある雑居ビルの一室は、金をあしらった豪華絢爛な内装に山ほどのご馳走やフルーツが並び、みな裸でそれをつまむ。そうして戯れる。きっとローマ人はこんな感じだったのだろう。あるいは時計仕掛けのオレンジでもいい。

裸になるということは、鎧を外すことだ。身体の?心の?それでも無様にならないということはどういうことだろう。あるがままの心は無様なものか。つくろわない心というのは。

少し酔ってソファにもたれると、やわらかな絨毯の上に果物を口にした男女が裸でだきしめあっていて、ここは楽園かと見間違える。罪の果実。夜が明ければ今に神さまにおいだされる。それがわかっていてもこの人たちは抱き合っている。

自分が一番わかっていることだが、ぼくは誰より臆病な人間だから、だから一所懸命に勉強した。膨大な知識が一枚一枚鎧を羽織って、ぼくの心が誰にも攻め込めないようにしたのだ。ぼくの心はラビュリントスで、ケンタウロスを決して外に出そうとしない。ただ怖がりなだけなのだ。あるがままでいるのが怖いから、人は学問をする。

ぼくの心は奇形だ。醜いケンタウロスを人に見せたくない。迷宮の奥深くに迷い込ませて、そのまま消えて、なくなってしまいたい。そう思うのは勇気がないからだ。愚者のように正しく、裸でいられない。だから学問に逃げる。力に頼る。神を殺そうとする。


親鸞、という男は、延暦寺という、当時の最高学府で学を窮めながら、その生き方を自ら否定した。知、というのはすべて自力で神に到達しようとする力だと信じたからだ。鋼のような鎧を何重にも纏った末に、重みで心をつぶしてしまう。どんな敵も容易に打ち倒す力を持ち、やがてその力に溺れる。そもそも力を持とうとすることが、弱く臆病な人間の証左なのだ。親鸞はたったひとつのその真実に気がついたのだ。だから知を棄てる。究極まで極めた知識を、平気な顔で棄てる。


イチゴをつまみ、嬌声を上げる裸の女たちをながめながらバタイユの云いを思い出す。エロチシズムとは、生死の彼岸を飛び越えることだ。人間は個体だが、服を脱ぎリズムを合わせつながれば、やがて死の境界を飛び越える一瞬がある。その一瞬とは、「知」と全く逆の態度である。知は鎧をまとうことだから。けれど死を飛び越える一瞬は、服を脱いだところにある。だからどれだけ奇形だろうとも、ぼくはケンタウロスを解放してやろうと思う。命の極地は強さにあるのではない。絶対他力。パブロピカソというひとりの天才が、「ぼくは生涯一度たりとも子供のようには描けなかった」といったように、ぼくもまた愚者を目指そうと思う。それで救われるかなんぞわからない。全ては御仏の計らいなのだから。ぼくにどうにかできることではないのだ。ただ運命と縁起だけが、ぼくに殺しもさせるし救いもさせる。たった一瞬だけでいい。善悪の彼岸を飛び越える瞬間があれば。明日はいらぬ。未来はいらぬ。人はただ過去に突き動かされて生きている。おれがいなくったって明日は存在してるよ。だからおれは今この一瞬のためだけに書くし歌わなければならないのだ。勇気をもって鎧を脱げ。この広大な黒い海に身一つ裸で飛び込むのだ。やがて夜に溺れ死のうとも、悪を掬って魂にこぼす。冷たい海の自由!


無力即無善也。愚禿龍郎