2008年12月10日水曜日

N君との往復書簡

Nくんとの往復書簡がヒートアップしている。
せっかくなので彼の許可をとり、ここに転載することとした。

下は先日の日記に対するNくんの返事である。


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ガンディさん


大学での学問は、学問のひとつのあり方であって、すべてではないのは、承知の通りで、こういう風に違う学問のあり方を実践しないとつまらなくなる。もちろん、こうしたやり方でだけやると、やっぱりつまらなくなると思いますが。
そんなわけで、ぼくにとって得るところは大いにあるので、よろしくどうぞ。

ぼくの指導教官は、二年前に倒れて、まともに研究もできないんですが、彼が教えてくれたことは、学問の本質とは自分の問題発見であり、表現であると。
ぼくも大変個人的な理由で学問をやっているわけですが、その理由がガンディさんとはかなり違います。ぼくはなんというか、偉そうに聞こえるけど、実は恥ずかしいことで、「対象」となる人たちにはかなり申し訳ないんだけれども、ぼくの生き方とか生きていることからどう嫌な要素をなくしていくか、快に生きるかのために、学問をやってます。「対象」から多くのことを学ばせてもらっています。まあ、こんな感じです。

さて、思うところを書きます。ガチでやりましょう。(1)・(2)は、まあ、いつもの話です、(3)がいいたいことです。

(1)「民族や国の態度というのは、必ずその構成員ひとりひとりの性格に強い影響を及ぼす」ということは、ぼくもみとめます。が、ふたつ付け加えたい。
①ひとつめは、何をとおして影響を及ぼすか、です。
民族や国家は、実体がない。したがって、何かを媒介にしなければ影響を及ぼせない。この媒介するものを媒介と感じさせないところが、ナショナリズムのイデオロギー作用ですが、この媒介するものを分析しないかぎり、なぜ影響が及ぼされるかわからないと思います。
②ふたつめは、他にも影響を及ぼすものがないのか、です。
家族、友人、親族、隣人、企業、宗教等も同等にあるいは、それ以上に影響を及ぼすと思いますが、これを無視することはいささか不公平なように思います。
こうした民族や国家を特別視する観念はいうまでもなく、近代以降のイデオロギーです。

(2)「目の青い人や肌の黒い人は、ぼくには宇宙人に見える」
これは、文章の論理上当然の帰結となっており、そういう風に思うこともありうるだろうと思います。ただ、考えて見ると、なぜある種の身体的特徴(それは往々にして人種と呼ばれるものの特徴)のみがピックアップされるのか不自然です。たとえば、眼鏡をかけて目が悪いとか、あるいは目がみえないとか出っ歯とか、あるいはものすごく胸が大きいとか、こうした身体的特徴がなぜとりあげられないのか。
これらの身体的特徴もやはり、さまざまな集団によって影響を及ぼされ、内面化され「個性」として定着しているでしょう。身体的特徴に対する不思議な選好が働いている、そして、通常これは近代以降の大文字の人種概念のイデオロギーと呼ばれます。

(3)目の前にある世界を日本とすること
この日本は、あの「日本」ではなくて、当然、目の前の世界である。これを近代以降のあの「日本」と混同するのは、むしろ、目の前の世界を虚しくさせはしまいか。近代を「超克」するとは、近代によってがちがちに絡めとられた「日本」から離れた、目の前の世界である日本を浮かび上がらせることではないのか。愛すべきは「日本」ではなく、目の前の世界であるはずだ。そうするならば、(1)(2)のような発想はむしろ真逆なのではないか。

返信を心待ちにしております。






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N君へ


はは、参ったなあ、こういうのは、出来たら公開でやりたいんだがねえ。きっと、いろんな人にとってプラスになると思うな。どうかね。公開しちゃ、いやかい?

ところで、なんだかぼくの文体は、いくらか不真面目で、余裕ぶったように見えるかもしれないが、そうでなくて、これはぼくなりの真剣なのだから、それは許してくれよ。結局これが、一番自分の気持ちが率直に相手に伝わると、最近気づいたのだ。
しかし君が「生きていることからどう嫌な要素をなくしていくか、快に生きるかのために、学問をやってます」というのは、皮肉でもなんでもなく、なんだかおいおい本当かよ、という感じがするね。君はこの世界を本当に生き易い理想の世界に変えられら、学問なんかやめて、田舎にひっこむかい?どうにも本当かよ、という感じがする。人間はね、ほうっといても戦争をするんじゃないかい。人類が平和を希求しているというのは、どうにもぼくには耳に聞こえの良い言葉にしか聞こえない。(それがぼくの、サヨクの一番嫌いなところなんだ。)ぼくは戦いが好きだ。戦いのときこそ、生きている実感が湧く。だから、本当の敵ってなんだろうかともいつも思っている。憎むべき敵は、中国や韓国だろうか。日教組だろうか。共産党だろうか。アメリカだろうか。官僚だろうか。資本家だろうか。<帝国>だろうか。それとも、日本だろうか。全部嘘だね。自分なんだな。本当のところ自分と自分の過去が作り出した他人という幻影の話なのさ。その幻影のことを、ぼくは日本と名づけた。しかし、それは国家や民族ばかりを特別視する近代以降のイデオロギーではなかろうか、というのが、君の率直な感想だ。なるほど、君の言うことは論理として全く正しい。家族や企業はどこいった、日本などという既成の概念を用いるのはやめて、「目の前の世界」という肉体的な言葉を使え、というのは理性的で至極もっともな話である。だけれども、ぼくの言っているのは完全に感覚の話なんだね。ぼくには君のいっていることは、どうしても頭が先行しているように感じてしまう。そりゃそうだ、君の言っていることは要するに、「君が今まで感知してきた言葉や感覚は、近代という概念が生み出した想像上の産物であり、ただの偽物なのだから、それを一旦排除して身体に戻り、真理を把握したまえ」ということなのだから。頭(理性)で、感覚を排除しろというのが、君の意見だし、同時に左翼思想の根本もそこにあると思う。

しかし、それが完全な嘘偽りにすぎなかったとしても、人間から思い出と過去を排除したら、一体何が残るだろう。そこに真理が残るはずというのは、あまりに唯物的な考え方であり、ぼくには到底くみすることができない。ぼくは、人間は過去と思い出の蓄積があるから、人間なのだと思うよ。人間から蓄積を取り去ったら、サルになるだけだ。決して理性なんてのこりゃしない。というのも、理性は感性の上部構造にすぎないからだ。感性を引き起こす過去を捨て去ったら、未来を想像する能力なんて、どこにも残らないだろう。

「近代の超克」というのは、人間の歴史の中から、「近代」の部分を綺麗さっぱり取り去って、新しく別の人類史を構築していく、ということではないと思う。それはサルへの退化だ。本当の超克は、近代を真に理解し、自らの血肉として組み入れることによって行うことが出来る。ぼくは、近代の条件であるところのデモクラシー、資本主義、ナショナリズム、この三点を真に血肉にすることによってのみ、近代を超克していくことができると信ずる。

君は「日本なんて幻だ、君が判断できるのは、目の前にあるこの世界だけなのだ」というかもしれない。しかしそれを言うならば、人間の感じたものは全て幻だよ。人間は、自分の頭の中で妄想をつくりあげ、その妄想のためにのみ生き、死んでいく。人間はそんなに唯物的にできちゃいないんだ。だれもパンのためになんか死にゃしない。人間は、妄想を崇高だと思うからこそそのために生き、死ぬんだね。君は「そんなことはない、目の前に見え、手で触れる人を思い、愛する気持ちは本当だが、日本なんていう抽象的な概念を愛する気持ちはただの妄想だ」というかもしれない。それに関しては断言して言う。目の前に触れられる人を愛する気持ちも、日本に対して思う気持ちも、どっちもただの妄想だ。それとも君は、人が人を愛する気持ちは、生物学的な生殖の必要性から唯物的に説明しようとするかね。ところが男が男を愛したりなんてことも、このめちゃくちゃな世界では、ざらにあることなんだな。

君はかつて、「日本人、日本人っていうけど、その君が言うところの「日本人」にあてはまらない日本人なんて、いくらでもいるに違いないじゃないか。」と言った。そうして「日本人という発想は、妄想だ。信じることができるのは、目の前で触れる一対一の関係における人だけだ」とも。しかしこれに対してはぼくはこういいきることができる、「君の目の前で触れる相手は、本当に君の想像したとおりの人なのだろうか」と。君が目の前の人をいい人だとか、悪い人だとか判断するのは、日本人がいい人だ、悪い人たちだと判断するのと、大して変わらないのじゃないか?信じられないことに、人の心というのは、ついさっきまでいい人だった人が、大悪人になったりするものなのだし、どんな悪人の心の中にも、花を愛で、ひとを信ずる心を見つけ出すこともできる。ぼくにとって日本人というのは、その意味のわからず、あやふやで、やたらと人をイライラとさせるあの人たちの代名詞なんだよ。

ただ、君はそれを「なんで日本人という言葉を使うのだ、」と言うのだ。どうして眼鏡をかけて目が悪いとか、あるいは目がみえないとか出っ歯とか、あるいはものすごく胸が大きいとか、そういうことに目が行かないのだ。それこそ国家という近代のイデオロギーにとらわれている証拠じゃないかと。

なあ、人はそんなに頭だけで動いているわけじゃないんだと思うよ。いくら君に「それは頭で操作された近代イデオロギーだ」と言われても、ぼくにとって「日本人」という概念は「自然な」感性の発露であるし、そうとしか言えない代物である。別に頭で操作したわけじゃない。「他の枠組みも平等にあつかえ!」なんて言われても、やっぱりぼくにとっては「日本人」という枠組みが一番の重大事なんだ。それでももし君が「日本人なんて枠組みを使うのは近代イデオロギーによる洗脳の結果だ!」というならば、それに対しては先述の通り、「近代の超克は、近代イデオロギーを血肉とすることでしかなしえない」というしかないだろう。

ものすごく乱暴な言い方をすれば、ぼくは「日本」という言葉を、詩的な言葉でのみ使っている。そうして、詩的でない言葉なんて存在するのか、というのがぼくの意見である。目の前に映っているこの愛憎入り混じる世界というのは、ぼくにとっちゃ幻だ。自分の作り出した夢である。そうして、人はみな、自分の夢想の中でだけ生きている。お互い、決して理解しあうことはない。でも、ほんの少しだけ、何かを媒体にして、わかりあった気になれるようになる瞬間があるのだ。それは銃弾の飛び交う中で見た、隣で弾を込める仲間の姿だったり、ギターを床に叩きつけ、雄たけびを上げたときに目があった最前列の観客だったり、狂ったように噛み付き合い、しゃくり声をあげて愛を囁いた瞬間だったり、、、それが愛と宗教の起源だ。神が一瞬だけ降りてくる。君は本当に自分が生きやすくなるために学んでおるのか。本当は、戦いの中でしか生きている意味を、神をみられないからじゃないのか?


山田


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ガンディさんへ


公開でいいですよ、全然問題ないです。一応、ぼくの本名は伏せて、公開するところはガンディさんにお任せします。ただ議論が散ると面倒になるので、原則、往復書簡でお願いします。

こうしてお互いに書いたのを読むと、これはこれでおもしろいですね。面と向かって話すと何か共通するものが先に出ちゃって、やっぱり同じこと考えてる、で終わっちゃうけど、相違点が明確になっていい感じです。
あと、文体について。ぼくのほうは、完全にガンディさんのことを信頼して読んでるし書いているので気にしないというか、ぼくのほうも失礼になっちゃうかもしれないし、そこは許してください。はたから見たらケンカに見えるかもしれないけど、お互いずかずか土足で入っていってガチでやりあうことができる相手は限られていて、こういうことのできる相手同士だと勝手に思っています。このことは共通理解があるとぼくのほうが一方的に感じていますが、大丈夫ですよね?

①「君はこの世界を本当に生き易い理想の世界に変えられると思っているのかい?」
根本的にいわゆるサヨク(実はよく知らないんだけど)とは違うと言っておきたい。ぼくは、あんまり世界を変えようとは考えていないですね。むしろ、ある種の理想というのは、まさに現にあるんだと。理想の瞬間というか、日常に理想というのは感覚で感じられる時があって、この感覚をどう言葉にしていくか、ぼくの学問はこういうことです。じゃあ、哲学じゃないかというかもしれないけれど、哲学はあまりに偏りすぎているし、実際の問題に弱い。社会学は西洋近代の自意識の塊みたいな感じで近代の話ばっかりしている。じゃあ、人類史のレヴェルで考えられる人類学だというわけです。後の議論とつながりますが、ぼくは、感覚のほうが、思考よりも優先権をおくべきだと考える。感覚を思考にしていくこと。一般に流通しているあのいやらしい思考にクズだといって距離をとること。あの汚らしい思考が、ぼくの生き方についていろいろ勝手にいちゃもんつけてくるのが気に食わない。だから、そこらじゅうを漂っているこの気に食わない思考を変えようと思ってる。これが、ぼくの快にいきるということです。

②「頭(理性)で、感覚を排除しろというのが、君の意見だし、同時に左翼思想の根本もそこにあると思う」
「左翼思想」を一括してそういえるかどうかは、わからないけれども、ぼくの意見については、①でいったように感覚をむしろ重要視する。これは、ごくごく単純な話です。ぼくのいう「目の前の世界」とは文字通り「目の前の世界」です。これは感覚によるもので、パソコンがあり、ドアがあり、窓があり、本棚があり…、外に行けば、コンクリートの道、密集するマンション、電柱等々(「目の前の世界」の描写が下手糞ですね、全然駄目だ)、これを<むしろ思考が「日本」として再構成するのではないか>ということです。だから、具体的に「目の前の世界」があって、これをそこらじゅうに蔓延している(本来的な意味でのあらゆるメディア=媒介物を通じてひろがっている)思考がむしろ「日本」とか「日本人」に染め上げていくのではないか、ということです。これはごくごく素朴な議論です。

③「人間から思い出と過去を排除したら、一体何が残るだろう。そこに真理が残るはずというのは、あまりに唯物的な考え方であり、ぼくには到底くみすることができない」
①②で述べたように、ぼくは感覚を排除しない。むしろ、ある種の感覚は、まだまだそこらへんの思考に犯されてないと思う。だから、ぼくは思い出も過去も排除しない。素朴にいえば、ぼくの思い出や過去を真理とかなんとかに染め上げないでくれ!ということです。真理というのは、基本的に信頼関係という名の下の権力関係によって規定されると考えている。だから、つねにぼく自身の思い出でさえ、よくわからない。だけれども、ぼくの思い出というのは基本的にぼく以外のひとやものが必ず登場するもので、その当事者たちじゃない連中になぜぼくの思い出を染め上げられなきゃいけないのか。

④「「近代の超克」というのは、人間の歴史の中から、「近代」の部分を綺麗さっぱり取り去って、新しく別の人類史を構築していく、ということではないと思う。それはサルへの退化だ」
この思い出というのは、歴史意識であって、「客観的な」過去の出来事の集積の叙述としての歴史叙述ではない。歴史叙述だって、内的な論理性を担保するという点においてのみ、「客観的」でありうる。したがって、人類史とは、歴史叙述であって、歴史意識ではない。だから、思い出を肯定することと人類史を構築することはそもそも別次元の問題だ。もうひとつ、ぼくはむしろ歴史意識や歴史叙述を精査すべきだと主張している。
ぼくはじいちゃんの記憶はないので、感覚の部分では、頑張ってもじいちゃんのころの歴史意識はない。これは感覚としては、むしろ、ない。このじいちゃんの生きた時代を、ほかの奴らが「日本」の「思い出」として語ろうとするのは、はっきりいってよくわからない。全然、感覚のうえで肯定できない。これを肯定させようとするのが、イデオロギーとしてぼくが批判したものです。
で、こういう歴史意識と歴史叙述をごっちゃにしてようなイデオロギーにあんまり加担したくはない。だから、人間の歴史をもっとよく精査すべきだと思う。ぼくがイデオロギーとして批判できるのも、(まだまだ未完とはいえ)この近代の歴史の精査のおかげだと思います。だから、近代を綺麗さっぱりとりさるなんてことは主張していない。

⑤「人が人を愛する気持ちは、生物学的な生殖の必要性から唯物的に説明しようとするかね」
人が人を愛する、男が男を愛する、この感覚をもって、思考を鍛えなおしたい。男が男を愛するのが、おかしいといい始めたのが、それこそ近代ではなかったのか。おかしいと思わせようとする近代のそこらじゅうにあふれかえっているあの「思考」の産物ではなかったか。感覚の肯定とは、この「思考」を撃つのではないのか。

⑥「近代の超克は、近代イデオロギーを血肉とすることでしかなしえない」
しかし、これまで見てきたように、近代イデオロギーを血肉化すると、感覚を虚しくしてしまう。これは「超克」とはいえないんじゃないか。血肉化したら、愛することを肯定できなくなってしまうのではないか。

⑥「でも、ほんの少しだけ、何かを媒体にして、わかりあった気になれるようになる瞬間があるのだ。それは銃弾の飛び交う中で見た、隣で弾を込める仲間の姿だったり、ギターを床に叩きつけ、雄たけびを上げたときに目があった最前列の観客だったり、狂ったように噛み付き合い、しゃくり声をあげて愛を囁いた瞬間だったり、、、それが愛と宗教の起源だ」
そうこれこそが、ぼくの立脚する感覚であって、この瞬間を思考へと(ぼくの場合は人類史へと)練り上げていくことで、近代の「思考」を超克できるのではないか。





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N君へ





返事遅くなってしまってすまない。君のことだから、きっと、パソコンの前でガンディさんの返信は今か今かと待ちわびていたんじゃないかと思うよ。はは、いやでもぼくは君のそういうところが好きだ。君は、真面目なやつだなあ。

君と話して、大体合意できるところと、合意できないところが、まとまってきたと思う。ひとつに、名前が先か内容が先かという問題だ。これはどうやら、N君が「目の前にあるこの世界」と呼んでいるものを、あまりにそれじゃあ風情がなく、詩的にもならんもんだから、ぼくは色んな気持ちと感情をこめて「日本」と呼んでいる、ただそれだけのことらしい。どうやら互いに見ているものは同じことのようである。で、そのことに関して評させていただくと、互いにメリット・デメリットがあるように思う。N君の言い方のデメリットは、単純明快に「風情がない」、要するに詩的じゃないことに尽きる。これに対してぼくのデメリットは、あまりに人に誤解させるという点だろう。

これに対して、ぼくの君の、互いにどうしても同意できぬ点というのは、恐らく君の「当事者たちじゃない連中になぜぼくの思い出を染め上げられなきゃいけないのか。」という叫びに全て凝縮されているように思う。きっと、Nくんが「目の前にあるこの世界」と呼び、ぼくが「日本」と呼ぶ、この差もここから来ているのではないか。というのも、ぼくがわざわざ「日本」だとか「右翼」だとか、あるいは「マゾ」だとか、誤解を生じ易い言葉を使うのは、あえて摩擦係数の高そうな言葉をつかうことで、相手の価値観を覆すことに価値と快感を見出すからだ。そうして、N君はそれに対し「なぜぼくの思い出を染め上げられなければならないのか」と怒りをこめて叫ぶ。

ではなぜぼくは相手の価値観を覆すことを好むか。ひとつに、ぼくの支配欲求の表れではないかと思う。相手の価値観を転覆し、「改宗」させたとき、ぼくは彼女の全部を支配したような気持ちになり、心底興奮する(これは恐らくSMのシステムに非常に近い)。そうしてもうひとつ、詩人とはそういう生来気質なのだ。芸術家の仕事は、人の価値観をゆさぶり、和の中に乱調を作り出すことにある。

そうしてこれらふたつの根拠はまた、恐らく同根である。芸術家は自分の思い通りな世界を、キャンパスや原稿の中に閉じ込める。芸術家の中には自分しかない。そうして、他人をみな、自分の世界に引き込もうとする。そうしてこの世界を思い通りにしようとするのだ。

ぼくは無色透明な世界を好まない。ぼくは右翼だが、なんの色ももたぬ教科書よりは、マルクス主義の絵の具にべたべたにぬりたくられた毒々しい教科書の方を好む。ぼくがこういうように思うようになった原因は、恐らく親父だろう。親父は強烈な個性の持ち主だった。建築家という、三次元を舞台にした芸術家で、挙句が耳も聞こえないものだから、自分の世界に閉じこもって、ぼくの話なんて聞こうとすらしなかった。ぼくの精神はものごころもつかない内から毎日毎日、親父の色に染め上げられた。なにしろ我が家の晩飯といったら、テレビは一切見ずに3歳の餓鬼に一時間の大演説をぶつのだ。その効果として当然のように、ぼくは幼稚園でも小学校でも、友達と話があわせることができなかった。おかげさまでぼくはいつも孤立していた。

しかしながらぼくは親父のやったことを、けして悪いとは思わぬ。小さい頃はどんなに理不尽でも親父に反論など全くできなかったが、これは自分の言葉が足りなかったがゆえである。全く、言葉は力である。ぼくは親父の言葉を日々聞かされたせいで言葉という力を身につけ、やがて親父の力を自分の力でねじ伏せることができるまでに至った。

そうして、そこまでやって、言葉は人を殺すことも、笑わせることも、感動させることも、つまりは人が人を染め上げることなど自由自在なのだと知った。そうして、それは人を幸せにもすれば不幸せにもする。宗教というのはこうして出来る。

君は人が人の心を染め上げることを、まるでレイプのようだと思うのだろう。しかし、愛であることもありえるのではないか。心と心が出会えば、必ず傷つけあうこともあるし、騙し、時には壊してしまうことすらありえる。しかしそれが愛であることもありえるし、心というのはそんなに単純なものでもない。それに、どれだけ誰かが禁止をしても、人は人と出会うことをやめないだろう。人には悲しい心があるから、弱い人間は自分より下の人間を必死に見つけては、「あいつはおれより劣っている」と言って、自分の存在価値を確認したりする。それは悲しいことだ。在日、部落、セクシュアルマイノリティ、障害者、しかし、これらについて語ることを全方位において禁止しても、人は必死に次をみつけるんだな。そうして、どうしても人は力において、人との関係を作り出そうとする。自分は尊敬されたいと、そうして卑下されたくないのだと。部落、というレッテルをはられて下に見られたくないがゆえに、自らに日本人というレッテルをはる。残念ながら、この心理的作用が人間からなくなることは、どんなに社会が進歩したとしてもありえないとおもう。
コメント
ガンディ2008年12月10日 00:34
力のゲームがなくならないのならば、ゲームにのる以外彼のの救われる道はない。ぼくは「右翼」というひどくマイナスなレッテルを、自分の力で価値ある最上のレッテルに変えることができると、信ずる。価値観を転覆することこそが、詩人の存在意義である。在日は在日であることを隠さず、在日に誇りをもち、力で国境の壁なんか全部ぶち壊してしまえばよい。そうして、日本人を、全員馬鹿にしてやれば良いのである。ぼくは在日ではないから、そのゲームにはいつでも受けてたとうとおもう。そうして、この力の闘争ゲームが働く磁場こそが、人間の生きている瞬間であると思う。要するにぼくは、なんでもレッテルをつけるべきだという考えである。人はどんなに禁止しようとしても必ず物語をつくるのだから、いっそのことどこにでも物語をつくりだし、どこでもゲームを行うべきだと考える。だいたい、物語がない世界なんてちっともおもしろくないではないか。全てのものが「目の前に存在するもの」に過ぎず、それ以外のいかなる意味も持たないのであったら、当然詩の生まれる余地はなく、人はこの世界をおもしろいとも、つまらないとも思わないだろう。理不尽のない世の中かもしれないが、それほどいとおしいとも思えぬ世界である。そんな世界で人は生きていたいと思うものか。死にたいと思うのじゃないか。

ぼくは思うのだ、結局のところ、人間は物語ぬきにしては生きられないのではないのかと。人間の心はいつもぽっかり穴があいていて、その穴が神を生み出すし、愛もひきよせる。物語なき世界は傷つかない世界だが、同時に愛なき世界である。国家という物語がなくったって、きっとまた、みんなどこかで物語を探すよ。そうしてそこでまた、自らの無力さゆえに傷つくんだ。人間には物語をなくす力は授けられていない。人間にできるのは、言葉で鼓舞し、挑発し、力を与えることだけだ。その言葉こそは宗教であり、芸術であり、国家であり、歴史であり、科学であり、愛であり、嘘であり、真であり、ぼくであり、君であり、幻であると、そう考えている。



山田