2008年12月19日金曜日

眠れぬ朝のために2

昼ごろに起き出して、blogを見てみると書いた記憶のない日記に人様からコメントがついている。夜は恐ろしい。無意識が勝手に思想を描く。

それにしてもやはり、政治の話よりもセクシュアリティの話の方が、人の食いつきがよいようだ。時代の興味が、社会から個人へと移っているのかもしれない。よく言われる「大いなる物語の終焉」も、その要因のひとつだ。「大いなる物語」とは、国家という架空の共同体の物語のことであり、その終焉とは、つまりその幻想が崩れたという意味である。国家が人間の生み出す妄想の産物であり、歴史は事実ではなく神話に過ぎないというのは、現代ではほぼ常識となりつつある。

明治維新からちょうど百年の象徴的1868年をターニングポイントに、日本という超高度発展資本主義社会は恐らく世界で初めて大衆消費社会へと到達した。この社会の中で人は、政治より個人のことに目を向けた。というのも、革命運動より豊かな生活の方が、より魅力的に映ったからである。かくして人は、神よりもパンを選ぶ。こうして来る80年代においては、日本人は果てることのない物欲に酔いしれた。知識人は言った、あらゆる物語は無化された。ポストモダンの到来だと。

だがしかし、人は本当にパンのみに生きることができるのであろうか。無論、人はパンぬきに生きていくことなどできない。しかし我々ゼロ世代の人間にとって、パンはもはや空気と同様に当然のことである。大枚をはたいて高級な珍味にうつつをぬかすなんて贅沢の仕方には、とっくに飽き飽きしているのだ。山盛りになった山海の珍味よりも、身の丈にあった、人間が本来必要としていた生活を、必要な分だけとることが出来れば十分である。我々はそんなものより、心の満足を必要としている。物質より、精神の安定を必要としている。パンよりも、神を必要としている。

大量消費社会は、我々人間同士の、互いの心を遠ざけたのだ。世界で最も高度にシステム化された都市、東京で暮らす我々には、最早他人との接触がない。人と話さないでも困ることなく生活することができる。道に迷ったら携帯でネットに接続すればよいし、小腹が減ったらコンビニがどこにでもあるからである。高度にシステム化されるということは、人から乱調を奪う。しかし乱調からしか、精神の接触は生まれない。ただ延々と繰り返される日常と労働と、それに対応する大量のパンと金。ポストモダン思想は、ただ現状を肯定するばかりで、我々の世代の問題にまるで見当違いな回答ばかりをしている。既存の思想の閉塞はすでに限界まで来ている。

恐らく、これほどまでに人と人の心が離れた時代というのは、日本史上初めてのことだろう。みな、ひとりぼっちである。ひとりぼっちになったとき、人は初めて神をみる。多神教の言う精霊ではなく、一神教の神である。キリスト教の言う父、子、精霊とはすなわち、神、自我、多神教のカミガミに対応している。砂漠で生まれたユダヤ教には神と自我しかなかったが、森の中ではぐくまれた中世キリスト教には精霊がいる。精霊は森の中にいるものだ。だから森が失われると、精霊はなくなり、神と人の対峙となる。そうして日本は、超高度資本主義社会を経て、森を失った。一神教到来の時である。

日本人は恐らく今こそ、一神教に覚醒しようとしている。それは良いこと悪いことではなく、否応なしにそうなのである。なぜなら、ひとりぼっちの我々は、一人で神と対峙せざるを得ないからだ。神と物語の再評価の時である。ポストモダンは我々に、全ての物語は人の妄想によって構築されたものにすぎないということを教えたが、人から妄想をはぎとったら何も残らないのだ。だから、脱構築ではなく汎構築なのである。あらゆる物語を信じないのではなく、あらゆる物語を信じるのだ。妄想だから信じないのではなく、妄想だからこそ、信じるのだ。それは、やがて科学が全てを明らかにするとか、合理的な考えではないとか、そういう問題では全然ないのだ。我々は、信じなければならないのだ。どれだけ科学が進歩しても、人は信じずには原罪の問題を乗り越えることができないからである。ぼくらが牛を殺し豚を殺し、人を殺して今ここにのうのうと生きていること肯定するためには、信じる他にないのである。





ひたすら書きまくりたいのだが、打ち合わせがあるのでここまで。