眠れないからもう少し別の話を続けよう。
いわゆるマゾを自称する女性というのは珍しくないのだが、ぼくはその大半が特殊性癖というわけではないと思っている。女性というのは身体と精神にぽっかり穴があいているものなので、その穴を埋めるために攻め入る性を待っているものなのだ。このときに言う攻め入る性とは当然ペニスのことだけではない。男が女の身体を視ること、男が女に能動的に行動をしかけること、これら総て攻め入る側の性行動である。もちろん女が男の身体を見たり、女が男に能動的に行動をしかければ逆の事態がおこる。攻め入る性とは男性生殖器のことだけを指しているのではない。
何はともあれ、「攻め入る性」を「受け入れる性」である女性性は、行き過ぎれば当然の結果としてマゾヒズムに似た行動に行きつく。「受け入れる性」は、いつでも「攻め入る性」を受け入れつづけていたいのである。男性の視線を、言動を。
そもそも人間は本来、男も女も「受け入れる性」ではなく、「攻め入る性」である。幼児は男も女もむしろサディズムに近い徴候をしめす。ところが二次性徴に至って、女の子は自分の身体が、何か男にとって、価値のあるものらしいということに気付く。彼女らの意志に関わらず、「攻め入る性」は、例えペニスを突き立てなくとも、視線や言動で自分の身体へと、無遠慮に攻め込んでくる。この中で彼女たちは自分の意志に関係なく、男達の欲望に降参して、屈辱的に自分の「攻め入る性」を、「受け入れる性」に転化させなくてはならない※。ここにマゾヒズムが生じてくる。
(※圧倒的多数の無条件降伏にも関わらず、この中には、いつまでも白旗を挙げずに大人になった者もいるかもしれないし、あくまで戦略的にそれを利用しようと考えた者もいるかもしれない。)
だから、女性は女性の身体をもっている以上、多少マゾヒズムの癖は持っていて当然なのである。
何はともあれ、こういった理由で女性は身体と同様精神にも穴が空いており、それを埋めることができれば、大体精神上の問題は収まる。これに対し男性は身体からはみ出た部分(ペニス)が満足すれば大体問題なしである。この時女性性は受け入れる側であるゆえに性の問題を精神身体を含めた全人格上の問題と考えるが、男性性にとっては身体からはみ出たペニスだけが問題であるので、性の問題は即ちペニスの問題である。だから男性は性行動にペニスの満足を求め、女性は精神を含めた全人格上の満足を求めるのである。
さて、ぼくが明朝から長々と日記を書いておるのは、こんな単純な精神分析理論の受け売りを披露したいためではない。そうではなくて、話したいのは男性のマゾヒズムと女性のマゾヒズムの違いに関する考察である。
一般に女性のマゾヒズムが、二次性徴に伴う「受け入れる性」の正常な精神的反応だとしたら、男性のマゾヒズムはどのように説明できるだろう。男性は女性のように身体と精神のどこにも受け入れるべき穴が空いているわけでもなし、二次性徴で欲望の視線を引き受けなければならないわけでもない。つまり、男性のマゾヒズムにはそれを引き起こしうる、身体上の要因が存在しない。
実にその通りであって、男性のマゾヒズムは社会的な要因からしか生まれ得ないのである。世界で最も有名な(偉大な)男性マゾヒストと言えば恐らくイエスに他ならないが、原始キリスト教の受けた猛烈な迫害が彼の物語の下地としてある。つまり、イエス…というより彼が象徴しているところの原始キリスト教は社会的に「受け入れる性」として、迫害者の「攻め入る性」を不可避的に受け入れ続けていた、ということである。そういった意味で原始キリスト教の立場は、二次性徴を経た直後の女性性の立場に近い。嫌気が差すほど繰り返される聖書の迫害者に対する憎悪と諦めに近い慈悲の感情は、女性が男性にたいして常に持っている分裂的な「口惜しさ」の感情と同種のものであろう。「私はあなたが知らないということを知っていた」というイエスのあまりに寂しい言葉は、自分が不完全であって、最終的に男性にとって必要のない人間であるということをどこかで知っている女性性の憎悪にも似た呻きである。
ただ、イエスと女の違うのは、男であるイエスの身体には不完全な部分などどこにもないことだ。男という完全な身体をもったイエスにとって、不完全さとは最早、神と比較した時の実存の不完全さでしかありえない。女のマゾヒズムはペニスという鍵を経て完全な身体に到達すること(子供という女性にとって初めての射精=攻め込む性)で収まるのだが、イエスのマゾヒズムは最早処刑され死に至る(=神になる)ことでしか解消され得ないのである。三島由紀夫なんかもその心理作用だろう。無論女性でも、このようなマゾヒズムに迷いこむことはあり得る。
三島が熱心にボディービルをしていたこともまた正にその論証となるが、イエス的なマゾヒズムは「攻め入る性」ではなく、欲望の視線を「受け入れる性」になることを欲する。そうして、この世界中の人間全ての視線、即ち欲望の「罪」であり絶望を、彼ひとりの肩に背負いながら、破滅へと突き進むことを望むのである。