惰性で日記を書いてみるから、だるくなったらすぐ飛ばしてくれ。
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筑紫哲也が死んだ。彼の意見や思想の全てに共感できるわけではないが、確かに偉大なジャーナリストであった。ご冥福をお祈りする。
それはとにかく、筑紫が降板して以降、ニュース23のメインキャスターは膳場貴子という女性アナウンサーが勤めておるのだが、こいつが面白い。何しろ、TBSを、いや日本を代表する看板ニュース番組に銀杏ボーイズを地上波として初登場させた女である。生放送で、案の定峯田が膳場のテーブルの上によじ登り絶叫をしている最中に突然番組が終了するという、ハプニングすれすれの放送を通した首謀者は恐らく彼女である。というのも、筑紫が降板して彼女がメインキャスターに以来ニュース23の取り上げる内容が明らかに変化しているのだ。筑紫がメインのころのニュース23といえば、国際・国内政治がメインであったが、彼女がメインになってからは、文化・社会問題の番組中に占める割合が目に見えて大きくなっている。中でも興味深かったのは『鬱の時代』という特集で、ここでは毎回鬱病にかかってしまったごく普通の若者に取材をし、その原因、現状について報告していたが、この他にもフリーターやネット難民の問題、インターネットから引き起こった事件など、従来のテレビニュースではあまり触れられなかった問題について、ニュース23は深くとりくんでいた。ライブドア事件以降、ネットとテレビの融合が叫ばれ、双方向型の番組やHPと連動した番組など様々な実験が行われたが、そんな中でニュース23は筑紫が降板して以降、膳場を中心として、テレビというメディアの「形」ではなく、「内容」において、インターネットに対抗しうる新しい方向軸を作ろうとしていた。この点においてぼくはニュース23を非常に高く評価している。
もちろん、筑紫哲也や、あるいは田原総一郎、日高義樹のような政治をメインとした伝統的なジャーナリストは必要だし、重要である。しかし一方で日本人の若者の興味が政治から社会問題や自分の内面の問題に移行していっているのも事実で、こういう類の問題は今までテレビはあまり取り上げてくれなかった。それも確かにわからないではない。例えば『鬱』の問題を取り上げるとなれば、政治家でもなければ有名人でもない、ごく普通の一般人を一千万人近くが見ているテレビというメディアで取り上げて、視聴率をとらなければならないのだ。これは学問で言うならば歴史学というより民俗学的なアプローチである。少なくとも、大人数が受動的に、同時間に見ているテレビよりも、少人数の関心のある人間が、個別の時間に、能動的に見ているインターネットというメディアのほうが、向いているテーマであるように思われる。しかし、だからといってテレビがこの問題を取り上げなかったら、若者はさらにテレビ離れを進ませ、インターネットの方に流れるだけだろう。膳場は果敢にもこの難しいテーマに挑戦し、きちんとテレビ番組としての数もあげて見せた。彼女がどのような関心からこの問題に取り組んだのかはわからぬが、これは正当に評価されるべき点である。
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年上の世代と話していると、大きな世代間ギャップを感じることがある。特に60代以上の世代というのは、ぼくらとはまるで世界が違っていて、ほとんど話していて宇宙人である(ここでいう「話」というのは、言葉遣いとか、口調だとか、そういう表面的な「話」ではなく、議論したときに関心を持っているテーマ、といった調子の「話」である)。
親父を初めとして(今年御年71歳)、なぜか色々な知り合いがいて、ぼくは周りと比べて、割とこの世代と本気で議論する機会に恵まれている方かと思うのだが、彼らは政治に関心をもっていることが、非常に多い。何かと言うと「日本は」「アメリカは」「中国は」と、国を擬人化して議論を進める傾向が非常に高いのである。そして総合的な印象としてその言説は極めて保守・日本擁護的である(もちろん、極左的なおじいちゃんもいることにはいるのだが、極めて少ないという印象がある)
。そうして、この日本擁護論は、総合してファナティックであり、根拠はあまりない。これはぼくの批判ではなく、単純な事実として、そうなのである。学問的に判断した結果としての日本擁護ではなく、キリスト教徒がキリストを信じるように、日本を擁護し、日本を批判する国・人を排斥しているのである。
これが40、50代になると、極めて高い政治に対する関心を示す一方、より文化的な話題が可能になってくる。単純にビートルズがどうだ、みたいな話が可能になるのである。さらに、40、50代はこの上の世代に比べてより政治に対してより学問的なアプローチをとるようにみえる。もしかすると、その結果としてこの世代は左翼的な政治的嗜好を持つことが多いのかもしれない。左翼思想は、政治を理性的・学問的に考えると現れる思想だからである(これに対して右翼思想は、政治を感情的・宗教的に考えると立ち現れてくる)。どうして60代以降に比べて彼らがより理性的にものごとを考えられるようになったかはわからないが、恐らくは高度経済成長と「もの」や「情報」の氾濫が関係しているのかもしれない。人間は「情報」が多いと、より直感でなく、「情報」にしたがった理性で行動をしがちだからである。だから、彼らは60代以降に比べれば、より理性的で、情報にしたがって物事を考えている。思考したり作り出したりするのではなく、専ら「もの」と「情報」の収集・蓄積をその目的とする「おたく」と呼ばれる人種が出てくるのもこの世代である。
20代になると、ほとんど政治に関心がない。20代が関心をもっているのは、文化と、自分(=人間精神)の内面のことである。よく言われることであるが、20代は30、40代以上にさめている。さめているを通り過ぎて無気力だとすら言われる。おそらくは「情報」が多すぎて、ほとんどの人間が処理しきれずに押しつぶされてしまっていることが原因かもしれない。
我々が思う以上に世代間で生活はまるで異なる。例えば今おれは40歳の女性の家でコピー取りやらなにやらの仕事をしている。彼女は資料を調べるとき、必ず自分の足で図書館に行く。これがぼくらの世代だと、アマゾンで買ってしまったり、とりあえずはまずウィキペディアで基本情報を仕入れるということにもなろうが、彼女はそうしない。ネット上では滅多に買い物をしない。接続も未だにダイヤルアップ回線だし、ケータイのメルアドは面倒だという理由で滅多に人に教えない。
あるいは、今のおれの同居人は19歳だが、これがパソコンを全然使わない。使えないわけではない、使わないのである。何か問題があると、すぐにケータイで検索してしまう。blogも全部ケータイで書くし、道を迷えば即EZナビである。飯食ってるときでもセックスしているときでもすぐにケータイを開く。そうして5000文字くらいならさらさらとケータイでメールをつくる。『拝啓○○様』から始まるような年上相手の丁寧なメールもケータイである。彼女の行動をみて、ぼくは慌てて悲鳴のモバイル用ページを作成した。彼女によれば、今の十代はよさげなバンドをケータイランキングから見つけて、ケータイで試聴し、blogでおもしろそうなバンドだと思ったら、コンサートスケジュールをケータイで確認して、それからライブに来るのだそうである(これはバンドマンには貴重な話かもしれない)。
注・本人に言わせれば、「自分はケータイ依存症ではない」とのことだ。その通りだろう。実際、彼女はケータイを奪われたとしても、なければないでケロっとしているに違いない。いかにそれがぼくらの世代から見て、異常な利用量に見えようとも、この世代においては、これがごく一般的なケータイの使用法なのである。
これだけ生活習慣が異なれば、見ている世界も、思想も全く異なってくるというのも自然な話である。確かに60代にメンヘラは見たことがない。今の若者が政治に関心がなく、精神のことにしか関心がない(これを年輩者は「自分のことにしか関心がない」と言いたがるかもしれないが、それもまた一方的な偏見であるように思われる、我々が関心をもっているのは「自分」というよりもむしろ「こころ」=精神の問題である)上の世代からは宇宙人のようにみえるのも、生活環境があまりに違っているからである。それではケータイなど棄ててしまえばいい、パソコンなどいらないというわけにはいかない。それは「自分たちの世代の生活の方が正しいから、貴方たちは態度を改めなさい」という意見であり、その意見が通るためには、「自分たちの世代」が正しかったという根拠を示す必要がある。それは土台無理な話だから、やはりどの生活が正しいなんて到底いえない。我々の世代には我々の世代のリアルがあるし、我々は決してそこから逃げ出すことはできない。
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それにしてもやはり、若者たちの関心が、政治から文化に、社会から自分に、「世界」から「私」に移行しているのは事実である。総理大臣が誰になったって、あまり世の中が変わるとも思えない、というのが我々の若者たちの本音である(本音じゃないかとぼくは思っている)。そんなことよりアニメや漫画や音楽にこそ自分たちのリアルがあると、若者たちは信じている(のじゃなかろうかとぼくは思っている)。今まで「文化」のことなぞ女・子供のやることと完全に無視し続けていた「政治」と上の世代の人間も、若者世代を中心に着々と支配権を広げ続ける「文化」を相手に、最近ではとうとう耳を傾けざるを得なくなった。今や「アキバ」や「オタク」、「マンガ」「アニメーション」「J-POP」抜きにして日本の外交はなり行ゆかないし、どんどん利用すべきだという声が「政治」側の人間から聞こえてくる。「政治」というハードパワーを、「文化」というソフトパワーが凌駕し始めたのである。
ところでなぜ若者たちは政治より文化に関心をもつようになったのだろうか。
そもそも近代的な「政治」の起源の話を始めると、ヨーロッパにはもともと、宗教政治上のトップである「ローマ教皇」というのと、実務政治上の権力者である「王」というのがいて、どちらが偉いんだかよくわからないままで政治をやっていたんだが、それが「宗教改革」という事件を境として、「ローマ教皇」率いる宗教政治は排斥され、政治は、それぞれの国の「国王」あるいは「皇帝」が、宗教は一切関係なしに、実務的な部分のみで行われるようになったという歴史があるわけだ。
つまり現代の「政治」は、「宗教」色が一切ない、「実務」だけの政治だけであるということである。政教分離が憲法で定められてたり、よく創価学会をその政党母体とする公明党が憲法違反だとか言われるのはそのせいですね。これは逆をいうと、政治はもともと、宗教と実務、両方あわせて政治だったということである。「まつりごと」という言葉は、「まつり」、即ち「祭祀」なのであり、政治が古代、宗教事に他ならなかったということを示している。つまり現代政治は宗教をその範疇ふくまないことを共通理解としている。当たり前といっちゃ当たり前のことなんだけど、本当のことをいって、宗教的要素をふくまない政治なんてのは、絶対に存在しえない。政治が、人間が人間を率いるという職業である以上どうしても政治家には官僚的実務能力以上のものが求められてくる。カリスマ性や、人間力といった、無形の能力である。この無形の能力がなくては、人が人を魅了したり、従わせることというのはどう逆立ちしたって絶対にできない。実際、ヨーロッパの絶対王政から始まりファシズム、共産主義の個人神格化に至るまで、これらは全て政治家(あるいは王)の神格化・宗教化によって行われたことであるし、国家の「歴史」というのが、宗教化された国家の「神話」として作られるものであるというのは、現代の思想家たちによって散々指摘されたとおりのものである。特に内容があるわけではないが(あるのかもしれないが)、小泉が「構造改革!」だとか、オバマが「CHANGE!」だとか、とにかく叫ぶと、実質能力ぬきに、やっぱりなんとなくかっこよく聞こえるのである。これを「衆愚」といって一笑に付してしまう評論家がいるが、それは政治のもつ宗教性を認識していないという点において「構造改革!」と叫んでいるのをみて「かっこいいなあ」と思っている選挙民とあまり変わりはない。やはり、政治には宗教が関わってくるのである。
戦前の日本においては(他の多くの帝国主義国家と同じく)、宗教と政治は分裂していなかった。現人神はその名の通り神であったのだし、国土は「神州」という言葉で呼ばれ、神話は歴史と一体化し、そこに学問の理性的な目の入り込む余地はなかった。ヨーロッパにはキリスト教という素地があったから、国家の神格化もそこまで徹底的には行われなかったのだけれど、もともと一神教的素地がなくて、物語を一から作り上げることができた日本は、明治維新のときそれを徹底的にやった(いくらナチスでも、ヒトラーが神の子であるとは誰も言わなかったし、ソヴィエトでスターリンがキリストの再来だなんてのは噂すら立たなかった。キリスト教という一神教的素地があったからである)。
で、徹底的にやった当然の結果として、戦後になって戦前の価値を全否定したとき、日本のどこにも宗教的なものというのは残らなくなってしまった。ヨーロッパでは、帝国主義をやめたとき、もとのキリスト教にもどればよかったんだけれど、徹底的に国家の物語に神話を吸収させちゃった日本ではそれができなかったんです。たとえば「神武天皇」というとどうしても戦前と侵略のにおいがする、これは日本が、戦前に神話を政治に徹底的に吸収させちゃったせいです。日本は戦前のものを全否定したために、宗教的なものも全否定することになってしまった。
アメリカでは大統領就任の際、聖書の上に手をおいて式を行うことについて誰も批判しないけれど、日本では愛媛県知事が戦没者の供養のため玉串料を払っただけで最高裁から違憲判決が出る騒ぎになる(愛媛県玉串料訴訟)。そのくらい宗教は全否定されている。あるいはアメリカ人の約半数は「人間や生命はダーヴィンの言うような進化論ではなく、何かしらの知的設計者によって創造された」と考えているが、日本人の多くはアメリカ人の半数がこのように考えているという事実すら信じないだろう(もし信じたとしても、「ジョージ・ブッシュを大統領に選んだアメリカ人はやっぱり狂っている」と考える根拠を補強するに過ぎないだろう)。しかし、そのようにアメリカ人を馬鹿にする日本人も、「じゃあ生命がどうやって作られたのか、君は説明できるのかい」とアメリカ人に聞かれたら、口をもごもごさせて、閉口するぐらいしかないのである。とにかく日本人は科学で説明できないことに弱い。魔法や超能力は(少なくとも日本では、)公式には存在しないことになっているが、現実にそう言う能力をもっている人は、存在する。で、そういう人を見たときに日本人は、相も変わらず必死で科学的説明をしようとするか、沈黙するほかないのである。
科学でわからないことはなかったことになってしまうというのは、日本が戦後に宗教を廃したことの他にも、民族性が大きく関わっているのかもしれない。例えば、日本人は人前で自分の意見や考えを披露することを極度に恥ずかしがる。私事は私事として、自分の考えを、人前に出さない。結果としてその人の見た目からは想像もつかないようなことを、blogなんかで書き散らかしていたりする。blogはひとりごとなんだから、別にいいでしょ、というわけだ。そのくせ本当は、人に自分の思ってることをみてほしくて、ノートではなく、インターネット上に公開してひとりごとをつづるということになる。日本人はいつの間にか「科学的ではないこと」は言ってはならない、「自分の感情や考え」は表に出してはならない、という空気に、抑圧されているのである。
精神分析をかじればすぐにわかることであるが、人間の心のしくみは、実はあまり合理的、科学的ではない。それは、「人間の心は科学なんかではとらえられない!」というような感情的な議論ではなくて、ただ単に現代人の生活習慣が子供に及ぼす影響が、(人間が他の動物よりはるかに複雑な生活体系をとるという理由から、)あまり単純ではないからだ。どういう理由でそうなってしまったのかはわからないが、人間の心の仕組みというのは外界(自分の外の世界、言い換えれば客観的に外の世界はこうなっているだろうという考え)と自我(ego)と、内界(膨大な記憶の海や太古の意識から作り出された自分の中の宇宙=id,es)の三つからできていて、脆弱な自我はこの外界と内海の狭間でいつもひょろひょろしているのである。外界は、自分の外の世界のことであり、「恐らく現実はこうなっているだろうな」という世界である。例えば、「恐らくこの井ノ頭線にのれば、30分後に吉祥寺につくだろうな」というのは、いつもそうしているという過去の記憶の集積から理性的にはじき出された予想であり、外界というのは理性と予想の集積からできている。これを我々は「現実」と呼ぶ。では、この「過去の記憶の集積」とやらはどこから来ているかというと、idとかesとか呼ばれる、自分の内界からきているのである。この記憶の集積は理性によって取捨選択され、整理される前の状態であり、場合によっては生まれる前の太古の記憶とかまで混ざっていたりして、傍から見ればぐっちゃぐちゃである。これを我々は「夢」、あるいは「妄想」と呼ぶ。言い換えれば、内界は記憶の集積という意味で「過去」、外界は未来予想の結果という意味で「未来」、それにはさまれる「どこにもいない本当の私」こそ現在と言えるかもしれない。
内界と外界は、本来両方そろって初めてバランスの取れるものであるが、「科学」(外界)しか認められない現代社会では、片手落ちになってしまった内界の安定のために、何かしらの道具が必要になってくる。本来ならば「宗教」がその分野を担っていたのであるが、様々な政治的事情から、宗教の消滅してしまった現代日本では、アニメやマンガが新しい神話として内界の安定のために次々と生まれたのである。言うまでもなく『新世紀エヴァンゲリオン』は聖書とを下書きに作られたいわゆる母親と父殺しがテーマの作品であるし、次々とエピソードストーリーが作られ、作者もかわっていく『機動戦士ガンダム』という作品の作成経緯は、『旧約聖書』や『ラーマーヤナ』といった宗教聖典の作成経緯に非常に近い。人間には夢(=妄想)が必要だ。
全ての宗教と、芸術作品は妄想である。その妄想の形が、わりと普遍的なものなのかもしれないということを発見したのはフロイトである。フロイトはこれをエディプスコンプレックスと名づけた。『聖書』『リア王』『ファウスト』『ツァラトゥストラ』『カラマーゾフ』という系譜が扱うテーマである。ちなみに先述の通り、庵野の『新世紀エヴァンゲリオン』が扱ったのもこのテーマである。テーマの面から考えても、世界の文学に与えた影響の面から考えても、エヴァはこの系譜の末席に位置する資格があるかもしれない。新世紀エヴァンゲリオンという作品は、やがてシェイクスピア、ゲーテ、ニーチェ、ドストエフスキーといった作家たちと並べて評される日がくる可能性がある。
もちろん妄想であるから、様々な形が起こりうる。フロイトは人間の内界の中から、特にその原動力となっている衝動に注目し「性衝動(リビドー)」あるいはその裏返しである「死の衝動(タナトス)」と名づけた(死の衝動と性衝動についてはhttp://mixi.jp/view_diary.pl?id=979539431&owner_id=889993)現代人は片手落ちになった内界の安定のために、腕を切ったり(死の衝動による安定)、変態行為に走ったりする(性衝動による安定)。そこまでいかなくても、例えば『バトルロワイヤル』や『リアル鬼ごっこ』みたいな作品は、立派な「死の衝動」による精神安定剤である。現代人は、残虐シーンや死体、殺し合いをしているのをみると、科学文明でつくられた現実世界では滅多に使うことのできない自分の内界の部分が刺激されて、なんだか興奮したり、安定したりするのである。
ぼくは死の衝動に走るよりは性衝動に走るほうがよっぽどマシだと思っているので、腕を切るくらいならばセックスをおすすめしているのだが、どうも人前で自分の感情を露にすることを控えてきた人たちに、急激にそれをせまっても、難しいかもしれない。なんだかヴィルヘルム・ライヒに言ってることが近くなってきてしまったが、実際のところ、片手落ちになったおまえの「夢」の部分を救ってやるといって忍び寄ってくる、国家や会社、新興宗教のような「巨大なシステム」に利用されるだけ利用されて使い捨てにされたり、その結果としてどこにも夢も現実も居場所をなくして、自分で自分を殺してしまうよりは変態セックスに走った方がずっとよいように、ぼくには思われるのである。別に性行為でなくても、音楽でも文学でも映画でも構わないように思えるかもしれないが、どうして性行為を推奨するかと言うと、あくまで音楽や文学や映画が、作品の中に出てくる誰かに自己を投影して成り立ついわば「偽物」の妄想であり、作品が終われば妄想も終わってしまうのに対して、性行為というのは、自分が主人公になる「本物」である。性行為には、文学や音楽といった、芸術にはできない妄想と現実との交差がある。逆を言えば、だからこそ危険すぎて、性行為は秘匿されるのだ。人に見せることを共通理解とする音楽や文学とは違って、性行為は秘密にしなかったら、現実と妄想の判別がつかなくなってしまう。内界と外界をつなげていた、小さな扉であった自我はあっという間に消滅し、内界と外界が融合を始めて、二度と元には戻らなくなってしまうのである。自分がどこにもなく、あるのは無限の記憶の集積と、それが溢れ出た世界だけ。理性が感性に食われた世界であり、ここでは現実と妄想の区別がない。人はそれを狂人と呼ぶのかもしれないが、狂人には分裂した現代人のほうがよっぽど狂っているように見える。
フランスのミシェル・フーコーという哲学者は、自分がゲイでSM愛好者だということをカミングアウトしたいがために『狂気の歴史』だとか『性の歴史』だとか大量に言い訳の本を書いて、いつの間にか現代を代表する思想家になってしまった人物なのだが、そのフーコーは、『狂気の歴史』の中で、こんな話を紹介する。
コメント
ガンディ2008年11月09日 22:52
フランスには、狂人を監禁施設から解放した人物、近代精神医学の父としてピネルという名高い人物がいるのだが、このピネルという医者は、「精神錯乱者は、空気と自由を奪われているから治癒しづらいのだ」として、精神病者を鎖から解放した。ピネルが最初に解放したのは、給仕人を殴り殺したことのある「凶暴な」イギリス人中尉であったが、ピネルはこの中尉に、理性的にふるまうことを約束するなら、鎖をとき、中庭を歩く自由を与えると申し出る。中尉は条件をのみ、中庭を走ったり、階段を上り下りしながら、絶えず「なんと美しい!」と叫んで、もう二度と発作的に暴力を振るうことはなかった。彼は施設の中で、狂人たちに一種の権威をふるうようになり、自分なりに狂人たちを支配して、いわば番人になった。
フーコーはこのエピソードを紹介し、その上で、患者は理性を取り戻したのではないと指摘する。彼の意見では、患者が取りもどしたのは理性ではなく、「すっかり組み立てられた社会的なさまざまな類型」である。解放された狂人は、理性的な人間としてではなく、番人という役割を演ずる演者として安定し、社会的なパターンにしたがって行動できるようになるのである。フーコーによれば、狂人はそれまで鎖で身体を縛られているだけであり、心は野生のままに猛り狂っているのだが、しかし身体の鎖を解かれた患者は、それからはピネルのまなざしに身体を貫かれながら、心を鎖で縛るようになる。狂人は、自己の身体の奥深く、行動と思考の源泉となる場所まで他者のまなざしによってつらぬかれることで「解放」されるのである。
フーコーはこのエピソードを紹介することで精神医学の欺瞞を指摘しようとしたようだ。だが、逆説もありうる。もしも狂人が、「自分自身の片隅に押し込んだまま、狂気を武装解除」するのではなく、自己を解放させ、社会の中に狂気を浸透させるために「自分の狂気を全部告白してしまう」という戦略をとったとしたらどうだろう?フーコーはこの発想の転換を思い浮かばなかった。あるいは勇気がなかっただけかもしれない。結果として、死ぬまで自分の狂気の言い訳をし続ける羽目になったのである。
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とにかくめちゃくちゃに話がずれた。もう三時間ぐらいだらだらと書き続けている気がする。そろそろ終わりにしよう。
それにしても、気が狂うのなんて、実はちっとも難しくないのかもしれない。しかし正気のままでその狂気をコントロールして、狂人とも常人ともつかぬ人間になるのは、ちと力がいる。何せあのフーコーすらもなしえなかった業だ。三島とニーチェはやってみせたが、なるほどやはりすぐに死んでしまった。これは狂人ではない。超人だ。超人としてはイエスも有名人だが、やっぱり死んでしまったこともあまりに有名だ。