2008年10月24日金曜日

愛と勇気と絶望をこの両手いっぱいに

忙しい日々が続き、力が出なくなっておる。日記を書こうにも、書く力がでないのである。書く力がないとは、面倒だとか、おっくうだとか、そういうことではなくて、事実として文章が書けなくなっておるのである。無理に書いてみようとしても、中途半端になったり、おもしろくなかったり、昔書いたものの繰り返しだったりする。前回の日記なんて典型的だが、それでも敢えて消さないのは、自分を戒めるためである。そもそもぼくは文を書くことくらいにしか才能のない男で、悲鳴をやっていくにも、音楽的な素養はまるでなく、歌詞や言葉や奇妙な動きで人を面白がらせるくらいしかできないものである。であるからにして、ぼくにととて文章を書けなくなるというのは、最早致命傷としか言い様のないものだ。

ぼくは今、少しずつだが文章を書くことを生業とし始めている。自分の書いた文で、僅かながらもお金を貰えるというのはなんだか奇妙なものである。それこそ好きでやってきたことが、突然金になるというのだから。
飯を食うためであるから、外貨為替の取引からAV女優のインタビューまでそれこそなんでもありである。そこに違和感はまるでない。ありがたいことだ。文章を書くことでお金がもらえるならおれはなんでも書く。好きなことで金をもらえてるの時というのは、どこにも文句の出る余地などないのである。何より好きなときに好きなだけ働けばよいというのがよい。この仕事には出社というものも退社というものもない。寝たいときは寝たいだけ寝て、働きたいときに好きなだけ働けばいいのである。おれは子供のころから、自由が何よりも好きだった。おれの今までの人生は、金持ちになるためでも、いい企業に就職するためでもまるでなく、自由になるため、ただそれだけのために歩んできたものと言える。

しかし自由には、必ずそれなりの代償がつくものである。好きにやるのは自分の自由だが、力がなくて死ぬのも自分の自由である。もしかしたら突然今日から仕事をもらえなくなるかもしれないし、そうしたら飯を食えなくなって死ぬしかない、この仕事はそういう仕事である。明日の保証がどこにもない中で、「まあ、それでもなんとかなるだろう、例えなんとかならなかったとしても、まあ死ぬくらいのもんだろう」という発想が、すべての基調である。明日死ぬかもしれないし、でも死にたくないし、でもまあ死んだら死んだだし、でもまだやりたいことあるので、とりあえず働くのだ。

しかし自由というものはやはり断トツに面白い。学生までというのは、今日も明日も明後日も、何の変哲もなく代わり映えのしない日常というものをただ漫然と繰り返す他のないもので、これほど生きているか生きていないのか眠っているのか起きておるのか、はたまた自分なんてはじめからあったのかなかったのか、とかくいくらか人より敏感な者にとってはやたらと死にたくなって仕方のないものである。

いいや、死にたいというのはいくらか語弊のあるかもしれない。死ぬこと以上にこの不自由を自分の力でぶち壊そうとしているやつもいた。力があれば、それも可能である。

動物というのはそもそも、強いものだけが生き残って弱いものは死んでしまうわけである。で、このような非人間的な世界を克服するために、人は隣人と手を結び、国家や社会を形成していったに違いない。どんな国家も、元は都市国家から形成される。その時都市は自然という広大な海に漂う小さな孤島であり、人間はこの中で肩を寄せ合いひっそりと暮らしている。このような状況だからこそ、追放刑というものが作られる。昔の人にとっては、この孤島を追い出されたら、人間界を追放されたも同然であり、それは人でなくなる、場合によっては死ぬことを意味するのだ。

社会、国家、会社、すべて人間の生命を保証するためのものである。これらはみな、我々の未来を保証するという思想から作られている。未来を保証するということは、明日がどうなるかすでに決められているということである。こうして我々はもはや明日に対して絶望する必要がないわけだが、しかし絶望がないということは、当然それ以上の希望もないということである。決められた分より悪くなることも、良くなることもないわけだ。これが保証というものの本質である。


キリン、という動物がいる。サバンナとかにいる、首の長い、角とも耳ともアンテナともつかぬものをつけた、黄色い豹柄のあれである。ぼくはあの動物の外見に勝てるとも劣らぬ不可思議さを、つい最近友との酒の席で知ったものだが、彼の話によれば、あいつは首が長すぎて、どれだけ血圧をあげても血が脳まで届かぬゆえ、いつ寝てるのか起きてのるか、自分ですらよくわからないのだという。おかげでキリンの世界とは、夢とも現実ともつかぬ、空想と幻の入り混じった、なんとも奇妙な世界の中で、いつ母親の腹から生まれ、いつライオンに食われたのか、自分でもよくわからぬままに、生まれ死に、死んでは生まれていくのが、その一生なのだという。おれは「あのころ」を思った。おれは血圧が低くて、なかなか朝が起きれない。そうして起きてる時も、なんとなく頭が重くてぼーっとしている。学校に行くと、なんら変わりばえのしない講義をしている。今週もこんな風に、先週と同じように過ぎていくし、来週もそうだろう。そうしてよくはわからぬが、いつの間にやらどこかに就職して、こんな風にくらすだろう。正直なところ、おれはふてくされていた。なんてつまらないのだ!生きるということはこんなにもつまらないことであろうか。おれは全くキリンであったのだ。そうしていつの間にか社会や国家というこの巨大な化け物に吸い尽くされて食べられてしまっても、そのことにすら気付かずに死んでいったのに違いがないのだ!


しかしキリンの不幸を取り除くためには、圧倒的な力が必要である。力がなければ、大海に漕ぎ出しても、すぐさま野垂れ死ぬに違いあるまい。力がなく、しかし社会にも適応できないものは不幸だ。それこそ死にたいと思うに違いがあるまい。死にたくないから外に出ようにも、力のない彼女に外はあまりにも危険である。

かつてキリンであったぼくも、外にでることには非常な恐怖を抱いていた。そうしてこれから外に出るのか、それともこのまま中に残るのか、なんとも踏ん切りのつかないままでいたのである。大学に入りたてのころのぼくとは実に子供だったのであり、ぼくは将来に対してなんとなくバンドをやって有名になり、なんとなく自分が世界を変えるのだと思っていた。しかもその一方で、ただなんとなく自分は外務省か大学院にいくのだと思い、ただなんとなく将来は官僚か大学教授で、社会的にも安定し年収は一千万前後と、ただただなんとなく思っていたのである。この二つの「なんとなく」は、理性的に考えれば決して両立しえないものに違いないのであるが、あの時のぼくの頭の中ではこの二つの考えが矛盾なく居場所を作っていた。つまりどちらも本気でやるつもりなんかなかったのである。

ところが大学も四年生になり、卒業が目の前に迫って、現実に自分の人生を決めていかなければならなくなると、にわかにぼくはあわてた。ようやくこのキリンは目を覚まして、自分がライオンに食べられる寸前だったということに気づいたのである。
ぼくは人と話さなくなって、悲鳴もやめてしまった。朝から酒におぼれ、家にこもって本ばかり読む日々が続いた。ぼくは悩んでいた。現実問題として、ロックスターと外務官僚は両立しえないなどということに、今更になって気づいたのだ。秋には大学院の受験もあったが、こんな状態で受かるはずもない。分かり切っていることは、大学院も、ロックスターも、どうしてもなりたいと思ったやつだけがなれるのだということだけである。

ぼくは昼も夜もなく真剣に考え続けた。しかし結局のところ、はじめから答えは出ておるのだ。定められた未来にむけて、安心して死ぬまで生きるよりは、ワンチャンスで神になるか死ぬかの方がやりたいのである。それに加えて、指導教官に出ていけと言われたことも良い後押しとなった。あの教授は嫌いだが、そういう意味で感謝はしておる。

そうと決まると、こちとら命を賭けておるのだから、なりふり構っていられなくなる。自然に覚悟が定まって、いちいちすべてが真剣勝負になってくるのだ。そうして不思議なことに、これが今までの人生より遥かに面白い。死ぬか生きるか分からん方が、よっぽどおもしろい。

最近大変に感慨深かったのが、フライングイズナドロップの町田君の言葉で、彼のバンドは今まで何回も活動停止の危機にさらされてきたのだけれども、その度に彼はこう思ったというのだ。「このバンドは誰が何と言おうがおれのバンドだ、メンバーがなんと言おうがおれは絶対このバンドを止めねえ、理不尽も筋も知らねえ、これはおれのバンドだ。」この言葉は彼自身が言う通り、まさに筋も論理もあったもんじゃないのだが、彼は確かにこのバンドは自分のバンドだと思っているのである。

バンドというのは、メンバー全員が平等だから、筋からいえば誰が誰をクビにするとか出ていけというとか、やりたいようにやらせてもらうとか、そういうわけにはいかないはずである。当り前のことだが、人が二人以上集まったら、お互いがお互いの意見を認めあい、その中で妥協点を見出していかなければならない。それが社会であり、人間関係というものだ。しかし町田はそんなもの全部知らんというのだ。それが筋であることも、論理であることも百も承知だが、そんなもの全部クソくらえだ、このバンドはおれのバンドであるというのである。

覚悟もなくただ漫然と日々を過ごしていたあのころでは決してできなかったことに違いないが、おれは先日生まれて初めてバンドのメンバーをクビにした。おれがリーダーでもないのにである。おれが彼より偉いわけでも決してないのにである。

でも、おれはもはやなりふり構っちゃいられないのである。目の前に立つ者は筋が通ってなかろうが、論理に応じてなかろうが、切り殺さなければこの広大な海で、こっちが野垂れ死ぬのである。船をおりろ、さもなくば切る、おれははっきり彼にそういった。

そうすると、全く不思議なことだ。いや、全く自然なことなのかもしれない。彼は全く素直にそれを受け入れたのである。
吉田という男は、普段はこれほどふざけたやつも珍しいのであるが、こちらが本当に真剣になったときだけは、絶対に真剣に返してくる。全く鏡みたいな男で、彼の子供らしさは、ひとが少しでも甘えたり、ふざけたりしているのをみるとそれを無意識に察知して、無意識のうちにあっちもふざけているだけなのである。だから同様に、こちらがなりふり構わない真剣勝負の時だけは、あちらもそれを本気で引き受けるのである。
おれは彼のこういうところを、心底信用していた。むしろこの点のみで彼とバンドを続けていられたとすら言える。ただふざけているだけの男と思ったら大間違いだから、それだけは知っておいてもよい。


さて、こうしておれはあのイライラしてくる街を飛び出して、誰も知らない海沿いの街を目指すというわけだ。ただわかっていることは国を追放されてさまよい、自分の王国を作るにはただただ力が必要だということである。王国を作るに至らぬときは月下の荒野で野垂れ死に、とこういうわけである。人生は本当にゲームみたいなものだ。最後は大軍を率いて、遥か昔に追放された、父が国王として治める王国に攻め込むのである。そうして、一度は奪われた国王の座を、復讐のうたと共に奪い返すのだ。途中で力尽きたらゲームオーバーだが、まあそれもそれでいいじゃないか。できるだけ死にたくはないけれど、生きてるか死んでるかわからんよりはマシ


さてまだレベルは1なんだが、勇者であることには間違いないぜ
どうだおれ今最強にかっこいいだろ ヒモだけど