2008年10月21日火曜日

右翼思想について コメント

----以下コピペ----



まず、「右翼、または保守派が保守したいものって何なのでしょうか」という問いについてです。

この質問に対してはまず、右翼と保守派とは同じものなのかという問いが発せられなければならないでしょう。

これに関して、評論家の松本健一氏は『思想としての右翼』の中で、「近代日本において、権力を握り続けた」のは、「左右両翼のあいだで、バランスをとることによって権力を維持し続けたリベラル」であり、その「リベラル」は、「わがくにでは保守主義者として立ち現れてきた」のだとし、「右翼」と「保守」を別物として捉えた上でこう論じます。

「極論すれば、近代日本における政治とは、左右両極のあいだでバランスをとることだった。~中略~彼らは左右両翼のはざまで権力を掌握しつづけ、文明開化の論理、いいかえれば近代化(資本主義化・中央集権化・脱亜化・合理主義化)を推し進めたのである。」


即ち、松本の言いによれば、わがくにでは、左翼と右翼という「思想」の間に、リベラル(=保守)という、「思想」をもたない「政治」が、バランスをとって、権力を掌握し、近代化を推し進めたのだということになります。だから、松本の議論によれば、日本の政治は思想的旗色を明らかにしたことはなく、「戦前の日本を支配していたのは右翼だ」という言説は間違いで、リベラル(=保守)が政治に、戦前は右翼を利用し、戦後は左翼を利用したのだ、ということになります。

つまり松本は、「右翼」や「左翼」は思想であり、「保守」あるいは「リベラル」は政治だと言いたいわけです。

こういう議論からすれば、「リベラル(=保守)が守りたいものとは何か」という問いは、単純に「政治家が守りたいものはなにか」という問いに置き換えられるのであり、そういうことであれば、日本の政治家の守りたいものというのは、恐らく「日本の国益(=日本人の生命と財産の保護)」に間違えないでしょうから、、このように単純明快に回答することが出来るわけです。


では一方、右翼が守りたいものとは何でしょうか。


さて、再び松本に戻りますが、松本は先ほどの話の続きで右翼と左翼の源流について、明治維新を「曲がりなりにも近代国家(ネイション・ステイト)の成立を意味するとすれば、」とした上でこう続けています。

「たとえば、明治十年の西南戦争当時は、この左右両翼は、いまだわかれていなかった。先進資本主義列強にならって近代化をおしすすめんとする、大久保利通ら体制派にたいして、反体制派の立場はひとつあるだけだった。いわく、大久保一派が国権を失墜させ、民権を抑圧し、とどのつまり国家を私のものとしている、と。」

つまり松本によれば、西南戦争当時にあったのは、「大久保利通を代表とする体制派」と、「西郷隆盛に象徴される反体制派」だった。反体制派の中では「国権の失墜」も「民権の抑圧」も同時にあったのであり、それは「いまだ相互に転換可能であった」。しかしやがてそれは、頭山満をして国権派ならしめ、中江兆民をして民権派ならしめることで、右翼と左翼の源流をつくるようになる。(ただしこの時もまだ、頭山満と中江兆民の深い親交からも理解されるように、国権派と民権派は密接に関係している。)そうしてこのふたつの政治思想潮流は、頭山の門下である内田良平と、兆民の弟子、幸徳秋水というふたりの人物にいたって、とうとう右左両翼にわかれることになる、というわけです。

そうすると、松本の定義によれば、左翼とはそもそも「民権」を伸張するための思想であり、右翼とはそもそも「国権」を伸張するための思想であるということになります。

ただしこの時「民権」なくして「国権」ありえず、「国権」なくして「民権」なしである以上、両者は相互不可分であることが前提にある。この問題に対して、幸徳秋水に代表される左翼(=民権主導派)は、「国権」をこの世界から全部なくしてしまうことで解決を図った。つまり社会主義です。これ以降、現在に至るまで、左翼思想の基調は、社会主義……と言うと語弊がありますが、まあ平たく言えば「国権の消滅」に拠ることになった。

で、これに対して右翼思想はどうだろうか。




頭山満から内田良平にいたる右翼思想の流れというのはかなり単純で、『玄洋社々史』に明治十九年の清国水兵暴行事件を評して「民権の伸長大いによし。しかれども、いたずらに民権を説いて、国民の消長を顧みる無くんば、もって国辱をいかんせん。よろしく日本帝国の元気を維持せんと欲せば、軍国主義に依らざるべからずとし、国権大いに張らざるべからずとし、遂に先の民権論を捨つる弊履のごとくなりしなり。」とあるように、要は行き過ぎた民権論が国権をの失墜を引き起こすという考えに基づく、「反左翼」、「反民権」の思想です。
実際問題としてこの時期の日本は、差し迫る欧米列強の脅威を前に、いつ植民地化されるかわからない状況であったわけで、まあそういう実際上の必要から、「こんな非常時に不満なんて言っている場合じゃないだろう」と言うのが、この時期の右翼の役割だったわけです。

ところがこれが、日露戦争に勝利し、次第に日本人が「日本は世界の一流国である」という意識を自覚するにしたがって、少しずつ変わってくる。つまり右翼思想の基調が、「どうやって列強から日本を守るのか」から、「世界史において日本民族が果たさねばならない役割とは何か」に変わってくるわけです。アジアで唯一の一流国、という立場が、こういう問いを打ち立たせるわけです。

ここにいたって右翼思想は急激に転回を始めます。なぜなら、「どうやって列強から日本を守るか」という受動的な問題からは、実際的な回答しか現れてこないわけですが、「世界史において日本民族が果たさねばならない役割とは何か」という、主体的な問題は、けだし哲学的な回答を必要とするからです。

あるひとつの回答が亜細亜主義です。亜細亜主義とは、端的に言えば「アジアは日本を盟主として、一致団結して欧米列強の侵略に立ち向かわなければならない」といった思想です。しかしこの立場は、「どうやって列強から日本を守るのか」というかつての問題を、「どうやって列強からアジアを守るのか」という問題にとってかえることにより、延命させているに過ぎません。この問題はやがてアジア諸国が世界の一流諸国になってしまえば自然に解決する問題なのであり、「人間の幸福とは何か」というような、より根源的な問題に比べて、どう考えても低次の問題にならざるを得ないわけです。

思うに右翼思想の限界点はここにあります。即ち、右翼思想が日本の「国権」あるいはアジアの「地域権」とでもいうようなものにこだわり続ける限り、より人間の根源的な問題を考える、左翼「民権」思想に対して、どうしても低次の思想にしかなりえない。右翼思想は、国権にしろ、地域権にしろ、なにか自分以上の大きさのものを重視する思想です。そうして左翼陣営は、右翼のこうした「自分以上」のものを重視するという立場を、「事大主義である」「ファシズムを引き起こす」「自分だけでは何も出来ない臆病な連中のやる思想である」などとして批判し続けてきたわけです。とは言うものの左翼も、「労働者」や「被抑圧民族」「マルチチュード」といった、自分より大きなものを重視せずにはその思想を成り立たせることが出来ずにいるわけですが、左翼の言い分としては、「たとえそうだとしても、生まれついたときに選択する自由もなく、無理やり所属させられている『国家』などというものを重視するよりは、遥かにマシだ」ということになるわけですね。


そうすると、究極的には右翼思想と左翼思想の差はここにあるということになるわけです。つまり、右翼思想というのは「国家」にしろ「地域」にしろ、あるいは「家族」にしろ、生まれついたときに選択する自由もなく、無理やり所属させられているもの(つまり言い換えれば運命です)自らの運命を、まず認める。認めたうえで、悪いところは改造する、と、こういうわけです。北一輝の「日本改造法案大綱」なんていうのも、まず日本という国を認める、認めた上で、改造するという立場にたっているから、こういう題名になるわけです。これに対して左翼思想というのは、国家であれ何であれ、運命というものを認めない立場にたっている。何にせよ生まれつき選択する自由がなく所属させられているものというのは、認めないという立場にたつわけです。これは左翼思想が、国家を認めない社会主義思想から発展してきたことに因ると考えられます。


更にもう一歩話を進めます。それが幸であれ不幸であれ自らの運命を認める、運命を愛すというのは、何か人知を超えたものを認める、人知を超えたものを愛すということです。それに対して運命を認めないというのは、人知の超えたものを認めないということです。ここで我々が思い出すことは、ヨーロッパにおいて右翼思想の最大の担い手は、キリスト教勢力であるということです。つまり右翼思想というのは、(日本においてはキリスト教がないゆえに大変わかりづらいことになっておるが、)本来、「神を認める」に端を発する思想だったということです。(そうして左翼思想というのは「神を認めない」(無神論)に端を発する思想であるということも出来ます──言うまでもなく左翼思想の源流たる無政府主義は、無神論に端を発しているわけです。)

そうすると、再び思い浮かぶことがあります。明治維新の際に、日本はヨーロッパの社会システムを真似て、まずキリスト教の代替品を作る必要があった。つまり国家神道を浸透させ、天皇をキリストの代替品として、まさに現人「神」として、国家の頂点に据え置いたわけです。キリストをもたない日本の右翼が皇室制度(俗に言う天皇制)の存続を最大の重要事とするのは、恐らくこれが原因となっていると考えられます。つまり右翼は、天皇という理不尽極まりない合理もへったくれもあったもんじゃない制度を受け入れることによって、我々人間は運命(という理不尽きわまりない合理もへったくれもあったもんじゃないもの)を認め、受け入れるぞ、という意思を表明すべきだ、と主張しているわけです。


さて、長くなりましたが私の結論はこうなります。


・保守(=リベラル)が守ろうとしているものは、国益(国民の生命と財産)である。

・一方、右翼が守ろうとしているものは天皇である。天皇とは、神や人知を超えたものや、人間の動かしがたい運命を象徴している。



で、ここから先は私見になりますが、「あらゆるものを信じるな」と言ったポストモダンは、果たして人間を幸福にする思想だったのでしょうか。「あらゆる物語を信じるな」「自分以外誰も信じるな」という思想は、安易に「自分すら信じるな」という思想に結びつきます。自分を好きじゃない、そう言う風に思う人が、増えてきたように思います。誰も信じられない、人のことが怖い、みんな嫌い、でも自分が一番きらい。たとえ科学が全てを証明しても、人は神なしには生きられないのではないか。何かひとつでも信じるものなしには、生きられないのではないだろうか。全てを信じないのではなく、全てを信じることから始めることが我々には必要なのではないでしょうか。



----以上コピペ----






昔、とある左翼運動家と一緒に酒を飲んでいたときに、「君みたいによく物を考える人間がどうして右翼なんぞやっておるのだ、時代錯誤も甚だしいじゃないか、どうだ、左翼に転向しないか、君ならすぐ幹部になれる」とよくわからん勧誘を受けたことがある。時代錯誤も甚だしいのは絶対に幹部とか細胞とか言ってる君の方だとは思ったのだけど、「ぼくにとって右翼は信仰の問題だ、放って置いてもらいたいね」と不機嫌に答えた。右翼というのは要は神を信じるか信じないかという類の問題で、右翼に左翼転向を薦めるのは、キリスト教徒に棄教して社会改革者になることを薦めているのと同じで、極めてチンプンカンプンな議論である。

社会改革は大事である。福祉の問題や、権力の監視、誰かがやらねばならぬ。左翼のやっていることはそういうことだから、ぼくは左翼は社会に必要だと思っている。ただし、社会改革では人間は救えない。


なぜなら、社会改革は社会を救うだけで、人間を救うものではないからだ。社会がよくなれば、やがて人間はみな幸せになれるという考えは間違いである。なぜなら人間は、どんなところにも不幸せの理由をみつけてしまうものだからである。


左翼思想は、行き過ぎると「全て社会が悪い」思想へと傾いていく。「全て資本家が悪い」だったり、「全て国家が悪い」だったり、「全て<帝国>が悪い」だったり、とにかく全ては他人のせいとなる。そこには自分を省みる余地がない。


運命を引き受け、自我を超越していくためには、神と宗教が必要になる。なぜなら、神こそは際限のない他者だからだ。他者が「資本家」だったり「国家」や「<帝国>」であったりすれば、自分のことは棚にあげて、これらに悪を一方的になすりつけることができる。本当は自分のことである悪も、全部これらのせいにしてしまうことができるのだ。しかし神は違う。神は他者は他者でも無限の他者であるがゆえに、自己と分裂させることができない。神は全知全能で全てであるがゆえに、神が悪い、としてしまうことはできないのだ。よって全ての善も、全ての悪も、この世界の全ての出来事は、全部自分のもの(或いは全部神のもの)として受け入れざるを得なくなる。

無神論と、キリスト者は全く同じ思想である。ニーチェが神を否定しとか、ドストエフスキーが信仰に目覚めたとか、そんなことは表面上の話だ。全てを自分に還元することと、全てを神に還元することは、物事を善いものと悪いもの分類しないという点で、全く同じことである。問題は、物事を善いものと悪いものに分類したときに生ずる。善いものと悪いものに分類されていれば、人間は必ず自分は善いものに属する、としたがるからだ。「資本家が悪い」とか、「国家が悪い」とか(そして自分は悪くない)はこの典型である。

ところが神は全てだから、分類することが不可能なのである。後はそれを自分に還元しても、神に還元しても、原理的には同じことなのである。


全ての責任を自分で背負いこむという考え方は、一方で極めて自分本位的な考え方でもある。だから、マゾヒズムは常にナルシズムと手を結んでいる。自分だけが生贄になって怪物の餌食にされるというヒロイックな願望は、「自分だけが」という条件抜きには語りえない。