岸田秀『性的唯幻論序説』(文春新書,1999)
pp.184-226 第十章「恥の文化と罪の文化」
[要約]
西欧の性文化と、それを受け入れる前の日本の性文化はどのように違っていたのかを考えたい。
何度も繰り返すように、人間の性本能は壊れているのから、本能にもとづく性交への欲望はない。したがって、何らかの文化的方策を用いて、本能以外の何らかの動機付けをつくり、それをよりどころにしなければ、性交したいと思わず、性能力が回復しない。
その文化的方策が西欧と日本ではどのように異なるのかについてである。
R・ベネディクトが『菊と刀』の中で述べた、西欧文化は罪の文化、日本文化は恥の文化であるという理論は、いまやかなり古びた理論で、いろいろ欠陥が指摘されている。(例えば、「罪の文化が恥の文化より優れている」、などなど。)しかしごく大まかに言えば、それほど的外れではない。(それを性的な局面から説明する。)
[・西欧では、罪深いことゆえ性交したがった]
西欧文化においては、キリスト教にもとづいて性交を罪深いこととして禁止することが、人間に性交への欲望を抱かせる基本的方策であったと考えられる。(もちろん、神父たちが意識的にそう考えていたわけはないだろうが、無意識は意識を欺いておのれの意図を貫くのである。)キリスト教においては性的快楽は厳格に禁止され、キリスト教徒はできるだけ性交を避けるべきであり、[要約者注…『新約聖書』「コリント人への第一の手紙」(第七章)参照。「未婚者たちとやもめたちとに言うが、私のようにひとりでおれば、それが一番よい。しかし、もし時勢することができないならば、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方がよいからである。」byパウロ。パウロはセックスを我慢できるなら、それに越したことはないと述べている。]がまんできないときにのみ、結婚することが許され、結婚しても許されるのは子供をつくるためにする性交のみであった。
こうして性交は厳しく禁じられた罪深いこととなったが、それゆえ西欧人にとって性交は極めて魅惑的なことになった。禁止は神、すなわち権威・権力に発しており、禁止に従っている限りは自分は無力な存在であるが、禁止を犯すことは自我の力の表明となり、自尊心を支える。本能の壊れた人間は、本能に変わるものとして自我を行動規範とも価値の根拠として生きてゆく他はないので、したがって、自我を守り、支え、強め、広げることは人間の第一の欲望となっている。西欧文化は、自我の根拠の問題を、性欲なるものにすりかえることにより、性本能の壊れた人間に性交をしたいと思わせた。
簡単に言えば、西欧人は、セックスが禁止されてたからセックスしたかったのである。性交の遂行を力の発揮とみる西欧の思想は既にここに胚胎していると言える。
[・日本では、恥ずかしいがゆえに楽しい]
他方、日本文化は、性交を日常性からはずれたこと、めずらしいこと、恥ずかしいこととすることによって、本能的には何の魅力もない性交を魅力的なものにしようとした。本能が壊れた人間は、本能に頼って生きていけなくなってしまっているので、何らかの人為的規範をつくって生きていくほかないのだが、人為的規範はつくりもので人間の内的生命とつながってないだけに、それにもとづく日常生活はたまらなく退屈であり、したがって、日常生活から逸脱して非日常的世界に遊び、常々はやらない恥ずかしい遊びをすることは、不安であると同時に、心ときめく楽しいことである。日本人は退屈な農作業から逃げ出して、どこか心ときめく楽しい世界に行きたいという気持ちを壊れた性交本能にすりかえた。
このように、「恥ずかしいこと」という定義を性文化の中心に据えた日本では、性文化において西欧と様々な違いが出てくる。
女は一般に、西欧の性文化においては、聖女(清純な乙女)と、娼婦(淫乱女)に分類されるのに対し、日本においては、地女と遊女に分けられる。[要約者注・地女とは、ひとつの土地にとどまった定着民である、常人的な女のことである。一方遊女とは、ひとつの土地にとどまることなく、様々な土地をふらふらする、非常人的な女のことである。ちなみに「遊ぶ」という言葉は、「遊離」や「遊牧」などといった単語から理解できるように、本来「ふらふらする」「ひとつの場所にとどまらない」などと言った意味を持つ。「遊ぶ」を「セックス」の隠語的意味としてとらえるのは、少し違うと考えられる。]聖女とは、罪深い性交の相手とするにはあまりにも恐れ多い崇高な存在であり、娼婦はもともと穢れている罪深い女であって、したがって罪深い性交によってさらにどれほど穢してもいいのである。他方、地女とは日常的世界で家事をし、子供を産み育てる女であり(西欧の聖女のように崇められてはおらず、)遊女とは非日常的世界で心ときめく色事をともに楽しむ相手であった(そして西欧の娼婦のようにさげすまれてはいなかった)。その証拠に西欧人は、どれだけ親しい仲になっても、娼婦を妻にしようとはしない。日本の歴史においては、遊女が妻になることは大して珍しくもないことである。
(ちなみに、聖女と娼婦という分類も、地女と遊女という分類も、男の勝手な分類法なのであって、女にとってはまるで関係はない。)
[・恥ずかしさを共有せねば性交できない]
例えば、道端であなたがすっころんだとする。もし誰かに見られてたら、あなたは恥ずかしいと思うだろう。ところが誰にも見られてなかったら、恥ずかしいという感情はわいてこない。
では、道端であなたがすっころんだとき、あなたを見ていたその誰かも、たまたま偶然、同時にすっころんだとしよう。今度はそんなに恥ずかしくもないはずだ。
つまり、恥ずかしさというのは、行為そのものなのが恥ずかしいのではなく、人間との関係の中で恥ずかしいと感じるものなのである。
性が恥であるとき、セックスをするためには恥ずかしさを乗り越えなければならないのであって、そのためには、相手との間で恥ずかしさを共有する必要がある。言い換えれば、相手にもセックスに参加してもらわなければならない。相手の参加がなければ、セックスは、無関係な人がじっと見ている前で自分だけオナニーをして興奮しているようなものだからである。そんなの恥ずかしくてやってられんというのが、性が恥の場合のまともな神経である。
相手に自分の恥ずかしい気持ち(セックスしたい気持ち)を伝え、相手の前で恥ずかしいことをすることができるためには、相手とのあいだにある程度友好的な親しい関係がすでになければならないであろう。
[要約者注・岸田は「恥ずかしい気持ち」を、単純に「セックスしたい気持ち」ととるが、そうではなく、「自分の弱さ」こそが「恥ずかしい気持ち」として採用される可能性が高いのではなかろうか。とりあえずセックスしたいだけの男子は覚えとくといいが、「自分の弱い部分」を「君だけに、」といって、深刻そうな顔してこっそり女の子に告白するとやらせてくれるぞ。具体例としては、「おれ、本当は弱い人間なんだよね」「小さい頃両親が離婚して」「実は本当の父親がわからないんだ」などなど。(※1、理論上、通用するのは恥の文化たる日本人オンリーです。外人でないことをお確かめの上、用法用量をよく守り、自己責任の上身長にお使いください。)(※2、この話を聞いて嫌な気持ちになった女の子、ぼくは今まで何ひとつ真剣に考えずにアホ面して生きてきた君のことが誰より一番嫌いだ。)]
つまり、性が恥じである男は、気が許せる親しい関係にある女とでなければ、セックスする気になれないのではないか。
すでに述べたように、江戸時代においては、吉原の客は何日か通って花魁と個人的に親しい間柄になってからでなければ、セックスを求めることはなかったとのことであるが、これは、そういう気になれなかったからであって、「やりたいことはやりたいが、見知らぬ女にいきなりセックスを求めるのはよくない」などと考えて我慢していたのではないと考えられる。
[・女でなくて神を気にする]
他方、西欧のように性が罪となるとどうなるか。恥とことなり、罪においては、人間関係ではなく、神との関係が問題である。人前ですっころんだって恥ずかしくはないが、神様に失礼なことをするわけにはいかない。価値が絶対的なのである。
性が罪であるものは、セックスをするためいは神と神が定める罪に反抗し、神と神が定める罪を乗り越えなければならない。
[要約者注・そう言う意味では、西欧のセックスというのは非常にSM的である。セックスとは、自分と神(あるいは父)との権力の関係が問題なのであって、その権力自体を女に附与し、それに敗れることで興奮するのがマゾヒズム、それを破るのがサディズムとなる。余談であるがマルキドサドのプレイの中に大変面白いものがあって、それは敬虔なクリスチャンの十六歳くらいの良家の処女を後ろからアナルを犯しながら、「私はキリストを信じません!」って叫ばせるというプレイなんだが、要はサドはこの良家の処女に「乗り越えなければならない神」という人格を附与しているのであって、サドはこの処女のアナルを犯すことで、神をめっためたにやっつけようとしているわけだ。SMの人って、本当理屈っぽいねえ。]
すなわち、西欧のセックスにおいては、相手は問題ではなく、乗り越えるべきは神である。セックスは神と自分の問題であり、相手とは無関係に行われる。このような性文化においては、往々にして、セックスは自我を確認するための手段、相手の女は、自分が満足するための道具となる。セックスをするとき、男は相手の女ではなく、神を気にしている。[要約者注・人格のある人間としての女ではなく、やっつけるべき神、あるいは権威だから、相手の人格を無視したレイプも可能だし、それから、例えば「警察」「スチュワーデス」「巫女さん」「修道女」「看護婦」なる、それに附与されている権威や意味を犯すための、コスプレという変わったプレイも可能である。「男は神を気にしている」などというと、本当かよ?という感じもするかもしれないが、こう説明すれば、あなたにだっていくらか思い当たる節はあるだろう]
セックスをするとき、相手の女でなくて、神を気にしているというのは、これは西欧人が悪いことをしたとき、それによって傷ついた相手の人間ではなく、それを罰する神を気にするのと一連のことである。
西欧人と日本人では、異なる性文化を持つが、どちらが優れているというわけではない。一応、それぞれ目につく欠点をあげてみると、例えば、かつて新大陸に渡ってきた西欧人たちは、はじめ先住民のアメリカインディアンに食べ物をもらったり、土地での生活の技術を教えられたり、色々親切にしてもらって生き延びることが出来たのだが、彼らはそのことをインディアンに感謝せず、神に感謝したので、そのあとインディアンが邪魔になったときに、インディアンを虐殺することは、大して良心を痛めなかった。他方恥の文化においては、仲間内とか相手のとの関係の中で和気藹々としている感じが大切なので、客観的にはとんでもない方向にハマりこんでいたとしても、内部からはブレーキがかからない。ベトナム戦争では、あやふやな大義のためにアメリカの青年たちが次々と戦場に送り込まれ死んでいくという状況に、かなり大規模な反戦運動がおこり、それが戦争をとめたわけだが、大東亜戦争では、ベトナム戦争のアメリカ兵の何百倍の日本兵があやふやな大義の前に無駄死にしても、国内からはまるで反戦の動きはなく、聞こえてくるのは現実遊離も甚だしい本土決戦、一億玉砕の声ばかりであった。
[・罪の共有はふたりを引き離す]
話をもとに戻す。日本人がセックスの恥ずかしさを相手と共有することによってふたりの間に親しさをはぐくむのと同じように、西欧人は、罪を共有することで相互の愛と尊敬を醸成できないのだろうかという疑問が起こるかもしれないが、結論から言えば、それは不可能である。なぜなら恥の関係は、純粋なふたりの相互の関係であるが、罪の関係は、ふたりそれぞれが神と関係しているという関係なのであって、実はふたりは関係しあっているようで、何の関係もないからである。この二人は、銀行強盗をして、これからふたりで札束を分け合おうとしている二人の犯人のようなものである。お互い相手が消えてなくなることを望んでいる。罪を共有したふたりは、なるべく相手に罪をなすりつけて自分の側の罪を減らそうとする。西欧人の男が、アダムを誘惑したイヴを非難し、性交が好きな女を「淫乱女」の烙印をおしたうえあまつさえ魔女に仕立て上げて火あぶりにし、近代「科学」ができあがると「多淫症」という精神病を発明した上に「あなたは病人です」と太鼓判を押してみせたのは、女に罪を押し付けて、自分は罪はないと、神様に証を立てたがったからである。[要約者注・しばしば峯田の歌詞にはこの症状が見られる。]少なくとも明治以前の二hんにおいては、性交が好きで多くの男と寝る女を非難し、処罰した歴史は、私の知る限り、ない。童貞の筆卸をするなど、村の多くの男と寝る未亡人などは「お助け観音」と呼ばれ、つまり仏扱いをされていたのであるが、明治維新以降になると、西欧の罪の文化が入ってきて、「淫乱女」や「公衆便所」という言葉がつくられるのである。江戸時代における「好色女」というのは魅力的な女という意味なのであって、男たちに人気のある好ましい存在であった。(そこに軽蔑的な意味はない)
すでに述べたように、日本においては、一般女性と売春婦、素人女と玄人女との境界の壁が低く、たやすく越えることができ、いったん売春婦になった女でも、客に身請けされて妻におさまるのはよくあることで、年季が明けて家に戻れば普通の娘として扱われるが、西欧ではそうはいかない。
[・罪である性は「愛」を必要とする]
前述のとおり、「罪」は男と女を結び付けないので、そこで男と女を結びつける別のものが必要となる。これが「愛」と呼ばれるものである。[要約者注・岸田は「愛」というが、「恋愛」と言ったほうが、理解しやすいので、以後、「恋愛」に直して表記する。][要約者注2・北村透谷などによれば、日本人の愛は、まだ性と身分化である、劣ったものである。だから、西欧流に、愛と性を分けた、進歩した恋愛が必要である、ということである。今考えるとかなり西欧コンプレックスな意見であるが、明治以前の日本の愛の形が、性も愛も混濁した、未分化なものであったという例証にはなる。]
この「恋愛」は罪である「性」を正当化するために発明されたものだったので、いやがうえにも、崇高なものとなった。「恋愛」では、たったひとりの女を死ぬまで、ロマンティックに愛し、そのためには死もいとわないということが謳われた。[要約者注・ロマンティック・ラブ・イデオロギーという。西欧近代文学では、ひとりの女のために男が命をかけて決闘するという話がしばしば見られるが、こういうのは、実は遥か昔からやってたのではなくって、つい最近、せいぜい200年程度の歴史しかないものである。]
細かいことだが、西欧人の男女はよく人前で平気でキスをしたりするが、日本人はあまりそういうことをしない。なぜなら、日本人にとって、性は恥ずかしいことであり、非日常だからである。日常に、それを持ち込んだら、興奮できないタイプなのである。ライヒが唱えた性革命華やかなりしころ、アメリカなどでは盛んに乱交パーティがあちこちで行われたが、日本ではほとんどなかった。これもやはり日本人が人前でセックスすることに抵抗があるからではなかろうか。
同じく細かいことであるが、日本では明治になってもまだ、温泉地だけでなく、町の銭湯でも混浴が一般におこなわれていたし、若い女でも道端で行水していた。このことは、恥の文化だから可能である。罪の文化では、全裸の男たちが全裸の女たちと一緒にいればそれは間違いなく性的場面となるが、恥の文化においては、その場面が性的であるかどうかは人間関係と、それに基づく行動によって決まるので、これは性的場面とはならない。自己中心的で、想像力が乏しかった提督ペリーは、日本で混浴が普通に行われているということを聞いて、まさに下司の勘ぐりそのものをやって、日本人は淫蕩であると断定したが、確かに西欧であればそれは性的場面に他ならなかっただろう。中世の西欧では、男と女が一緒に入る浴場は全て売春宿であった。中世の西欧では、上流階級の婦人たちは、パーティのときなど、乳房を丸出しにした服装をしていたとのことであるが、これはもちろん、男たちを引き寄せるという性的意味をもつ行動である。しかし道端で行水する日本の若い女は道行く男たちに裸を見せて誘っていたわけではない。このように恥の文化では、何が恥であるか、どういう場面が性的場面であるかは、その場の人間関係、そのときの状況で決まるのである。
[・性の「国際文化摩擦」]
レイプは日本にないわけではないが、アメリカなどと比べると、非常に少ない。これも、日本が恥の性文化であるからだろう。レイプとは男が何らかの情緒的な関わりなしに一方的に無断で女の身体を使用することであり、相手の女との間で恥ずかしさを共有するなどの手続きを踏まないと性交する気になれない男にはできないことである。
他方、痴漢はアメリカにはほとんど存在しないが、日本には非常に多い。こそこそわからないように触るなんて、いかにも性が恥である男のやりそうなことである。
また、西欧では同性愛が厳しく禁じられるが、これは性が神に対する罪だからだ。日本では恥なので、ま、ふたりがそれで幸せなら、ちょっと変わっているとは思うが、とやかく言わないのである。
[・富国強兵のための性文化改革]
明治政府は、富国強兵と文明開化を国是とし、あらゆる面で西欧化、近代化を推進した。性文化の西欧化もそうした西欧化の一環にすぎず、合理的根拠もないのに西欧崇拝の傾向に引きずられるようにやみくもに行われたとみる向きもあるかもしれないが(西欧人にみっともないから混浴や夜這いのような蛮風はやめようというような)私はそうは思わない。明治政府は銭湯での混浴や、農村での夜這いを繰り替え日強行に禁止しているし、家父長制と一夫一婦制を根幹とする新しい家族制度を大急ぎで整えているし、成文化の西欧化に関してかなり意図的計画的だったのではないかと思われる。富国強兵のためというか、日本の工業化と資本主義の発展のために、性文化がこのままではいけないことを、明治政府は正しく理解していたのではなかろうか。
日本の性文化は性に関して概しておおらかで、男と女のことをひとつの粋な遊びにまで仕立てていて、人々がセックスを大いに楽しむという点では西欧の性文化より好都合だったし、西欧の性文化のように女性差別的な面も少なかった。しかし、資本主義には不適合だったので、改革が行われたのである。すなわち、資本主義社会というのは、恋愛と性の分離・強い性的禁止・無料セックスの排除などによって、ご褒美としてのセックスをするためだけに一所懸命に勉強し、学歴をあげ、稼ぐ、労働マシーンを作りあげ、それらに支えられて成立するものだからである。[要約者注・だから資本主義社会では、男たちは勉強して、学歴を得て、高収入な大企業に就職すれば無条件でセックスが出来ると言う風に思い込みがちである。(女の子は全然別のことを考えているにも関わらず。)しかしそう言う風に頭に叩き込まれている。誰によって?ドラマや漫画を駆使した資本主義の宣伝塔や、学校の先生や親たちによって。この傾向はむしろ親や先生の言うことをしっかり聞いてきた優等生にこそ顕著である。いつしか女の子に自分でふれて、今まで信じてきたそれらが全部嘘だったのだと気づいた時には、あまりのショックで全部何もしたくなくなるし、女の子は愚か、この世界の全部がまるで信じられず、全てのことに何の興味もわかなくなってしまうのである。彼らは自我を保つために、必死で言い訳を考える、例えば「おれオタクだしモテないし」「おれホモだから」「おれ女怖い」など。(峯田が、よい例である。女なんてきらいだ、と、なんであんなに一所懸命叫ばなければならないのだろうか。)こういう世の中は、あまり健全ではない。経済力があり、教養もあり、優しい男であればあるほど女のことを信用してないというのでは、これは恐らく女のみならず人類にとっても不都合であるし、ぼくの予想ではやがてそのうち男たちは女嫌いが長じてゲイになり、そうしてセックスが行われなくなって、人類は死滅するのではないだろうか。][要約者注2・で、資本主義の中で、男がこんな風にセックスというご褒美をゲットするための兵士としての役割を押し付けられている一方で、当然女の子の方も、兵士に与えられるご褒美としての商品価値の役割を、無理やり押し付けられているわけで、女の子もこれに対抗して色々と戦略をねってみたりしている。例えば一人称を「ぼく」にして、自分に女性性としての商品価値をつけられるのを拒否してみたりするなんてのもその一例である。「ぼく」を勝手に、商品として、欲望を持ってみるのはお断り、というわけである。そんなわけでぼくは、「ぼく」女は、世の中につっぱっている、高貴な精神をもった不良なのだという風に理解している。しかしそういう、高貴で、優しく感受性の高い女の子であればあるほど、(そういう男が女を信用しなくなるのと同様、)男のことを信用しなくなるというのだから、やっぱりこれはめちゃくちゃな世界だとは思わないか。]